ブラームスの勇気 最終回

杉本 圭司

十五

ナホトカへ向けて出航する直前、中村光夫、福田恆存と行った鼎談の中で、小林秀雄は次のように語っていた。

 

僕はこのごろ人間というものは天分だと思っている。天分がわかるのは中年すぎだからね。そうするとやはりある切実なものがある。肉体はもうわかりきっているが、心の世界だね。僕らの心はとらえがたいんだ。とらえるというのはおかしいけれど、大体納得いくのが遅いんだよ。どうしても希望があるからね。そうするといわゆる天分はわからないんだ。天分というものはある。心にもちゃんとある。肉体のごとく、生まれつきのある態勢があるよ。そういう理解はやはり遅れるんだ。しかしその感触が大体わからないとなかなか本当のことはできないんじゃないかなあ。(「文学と人生」)

 

彼が言った「希望」については、もはや説明の要はないだろう。この旅行に出る二年前、還暦を迎えた年に発表した一文で、小林秀雄は、「これを機会に、自分の青春は完全に失われたぐらいの事は、とくと合点したいものだと思う」とも書いていたが(「還暦」)、その「青春」とは、嘗て作家を志し、さらには「批評的創作」を目論んだ小林秀雄の、文学的「希望」の異名でもあったはずである。「私は、幾つかの青春的希望が失われたが、その代り幾つかの青春的幻想も失われた事を思う」と書いた、その失われた「希望」と「幻想」への最終的な「納得」こそ、彼が「神々の黄昏」第三幕で真に得たものであったのだ。

そのジークフリートの葬送場面に続けて、小林秀雄に自身の「天分」を思い知らせ、「本当のこと」に思い至らせたもう一つの場面があった。それは、「ニーベルングの指環」の大詰め、ライン河畔に積まれた薪の山の上に置かれたジークフリートの遺体に火を投じたブリュンヒルデが、愛馬グラーネに跨り、燃え上がる火の中へ飛び込むシーンであった。

 

ブリューンヒルデが燃える火の中に飛び込むでしょう、あそこでパッと鳴るでしょう。あれでたくさんです。あれでワーグナーは終ったんです。ブリューンヒルデのあのときの絶叫というものは、あれは女の絶叫でも、人間の絶叫でもない、松の木が女になったような絶叫です。僕は慄然としました。(「音楽談義」)

 

雑誌に掲載された対談録は、ここで終わっている。だがこの対談には、まだ続きがある。小林秀雄は、このブリュンヒルデの最期の「絶叫」にただ感動したというだけではなかった。この後、彼はそれまでの絶賛の口振りから急に声の調子を変え、「だけどあの人は、僕は尊敬しますけど、愛しませんね」と吐き捨てるように言った上で、次のように呟くのである。

―僕はあんな風に人生を生きたくないからね。生きたくないし、僕は日本人だし、日本人というものは、ゲルマン人とは違いますからね。僕はそうではない、無論僕はそうではないです。僕はもう本居宣長ですからね。あんなゲルマンの天才なんか、どこかにいたかもしれないが、そんなことはどうでもいいことですからな。……

「ゲルマンの天才」とは、ひとりワーグナーだけに向けて言われた言葉ではなかっただろう。この旅行から帰国した翌年、岡潔を相手に行った対談(「人間の建設」)で、小林秀雄は、自分にはピカソの中に流れるスペインの凶暴な血なまぐさいような血筋も、(ドストエフスキーにおける)キリスト教も、結局はわからないと言い、「自分にわかるものは、実に少ないものではないかと思っています」と告白した。そして岡潔に、「小林さんがおわかりになるのは、日本的なものだと思います」と言われると、「この頃そう感じてきました」と即座に答えている。

冒頭に引いた鼎談でも、彼は嘗て夢中になったランボーについて、今振り返ってみると、自分が感動したのはフランス文学というものとは全然違う、むしろ日本の歌や俳句にあるイメージに近いもので、当時ははっきり意識しなかった自分の中に潜む「日本人としての民族的な意識」だと言う。それは、一言で言えば「自然」であり、ランボーにはあるその「自然」が、しかしボードレールにはないと言って、「あれはほんとうに西洋的なものだ」と断じるのである。

彼はまた、それを「リアルなものに対する感覚」だとも言っている。一方、それに対立する「西洋的なもの」については言及していない。だが、「自然」とは訣別し、人間の意志と自意識との裡に「人工楽園」を築こうとするもの、「リアルなものに対する感覚」から離脱して「旅への誘い」の歌を歌おうとするもの、それはすなわち、浪漫主義というものではなかったか。しかも小林秀雄にとって、浪漫主義とは、ヨーロッパ近代の一時期を画した文芸思潮に止まるものではなかった。彼自身もまた、この大いなる運動の子供だったのであり、彼の「希望」も「幻想」も、すべてそこから生まれた思想とともにあった、少なくとも、彼にはそういう自覚があったのである。昭和二十五年、四十八歳の年に、小林秀雄は青山二郎に向かって次のように語ったことがあった。

 

作家というものは、それ(引用者注:生活の喜びや悲しみ)では足りないんだよ。何かとんでもないあこがれを持っているのだね。何もかも自分で新しくやり直したい、やり直して、すっかり自分の手で作ったもののなかに、ある世界を発見したいのだね。そういう何かまったく実生活的じゃないものがある。

まあこれも疑えば疑うことはできる。つまりそういうふうな芸術のなかに命を見出したいという傾向は、僕はいわゆる浪漫主義の運動から始まった一つの思想だと思う。芸術なんていうものは何んでもなかった、ただ生活というもの、人生というものをどんどんよくして、喜びを増すその手段に過ぎなかった。芸術なんてものは昔そういうものだったんだよ。ところがだんだん浪漫派からそうじゃなくなって、今度は芸術のために生活を犠牲にしようという思想が生じたんだ……。僕らはそういう思想からまだ脱けずにいるんだ。だから浪漫派芸術の運動というものは非常に大きな運動で、リアリズムの運動でも、象徴派、表現派、何んでもいい、あらゆるものが浪漫主義の運動の子供なのだ。そういうものが生んだ子供で、僕らはまだそういうものから脱けていない。まあ僕はこういう大問題を解決する力はない。ただそういうようなものを受継いで、僕らはつまり、文学にいそしんでいるということは確かだね。(「『形』を見る眼」)

 

「僕らはそういう思想からまだ脱けずにいる」と繰り返したこの対談が、「ゴッホの手紙」の連載がいったん途絶えていた時期になされたものであったこと、すなわち「ゴッホ」を描き出すことを企図した小林秀雄が、「キリストという芸術家にあこがれた人」としてのゴッホ論を語った対談であったことを思い出そう。ここで言われた「何かまったく実生活的じゃないもの」への熱烈な志向と憧れこそ、彼が言った「西洋的なもの」の根底にあるものなのであり、それがまた、戦前、彼が「作家の顔」と呼び、「第二の自我」と名指したところのものでもあった。

次の一節は、トルストイの晩年の日記をきっかけに起こった正宗白鳥との所謂「思想と実生活」論争の口火を切ったものであるが、重要なのは、この論争が、彼の最初の「批評的創作」の連載中に行われたという事実なのである。

 

あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。(「作家の顔」)

 

「ドストエフスキイの生活」を執筆していた小林秀雄が、当時、この「思想と実生活」問題の秘密を、十九世紀ロシアの大作家に見ていたというだけではない。「現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生する」ことを願ったのは、他ならぬ彼自身であったということなのである。

先の青山二郎との対談と同じ月に発表された「表現について」というエッセイは、小林秀雄の浪漫主義論である。その冒頭で、彼は、浪漫派の時代は「表現の時代」であり、表現(expression)とは、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作るように、己れを圧し潰して中味を出すこと、己れの脳漿を搾ることだと言っている。それは、「自明な客観的形式を破って、動揺する主観を圧し出そうという時代」であり、同時に、「何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難しい時代」であった。ゲーテはこの時代傾向を、「弱々しく病的なるもの」と言い、「主観主義という現代病」と呼んだ(「エッカーマン「ゲーテとの対話」)。だが小林秀雄は、ゲーテが言ったこの「浪漫主義という病気」に、芸術家達は、「進んで、良心をもって、かかったのである」と書く。彼もまた、この或る種の病いに、「進んで、良心をもって、かかった」文学者の一人であったからである。小林秀雄は、ゲーテのような浪漫主義批判者ではなかった。あるいは彼は、ゲーテを単なる浪漫主義批判者とはみなしていなかった。それは、「モオツァルト」の冒頭章を読めば明らかであろう。

「表現について」という浪漫主義論が、そのまま、彼のベートーヴェン論であり、ワーグナー論であり、そしてボードレール論であったことに注意しよう。青年時代、虫の様に閉じ込められていたという「悪の華」のあの「比類なく精巧に仕上げられた球体」(「ランボオ Ⅲ」)とは、小林秀雄を俘囚にした、「浪漫主義」という呪われた思想の化身であり、彼が夢見た「第二の自我」の究極の文学形象であった。その入口も出口もない「球体」を砕いたのは、二十三歳の時に出会ったランボーであったと彼は書いたが、この「不思議な球体」は、その後も繰り返し姿を変えては現れ、彼を閉じ込めたのであり、その都度、彼はこれを砕いて新たに「出発」し続けたのであった。

この「球体」が本当に砕け散り、彼が最後の「出発」を果たしたのは、四夜続いた「ニーベルングの指環」の解決音が鳴り終わり、バイロイトの「巨大な喇叭」から彼が抜け出た時であっただろう。ジークフリートの棺とともに、自らの「青春的希望」を葬送し、ブリュンヒルデの投身によって、その真紅の炎が神々の住むヴァルハラ城を覆い尽くした時、小林秀雄は、長らく彼を俘囚にしてきた西を見たはずである。ブリュンヒルデの絶叫とともに彼が慄然としたものとは、「浪漫主義」という生き方の、終止形カデンツのない無限旋律であった。と同時に、彼は、その無限旋律に抗う自身の「生まれつきのある態勢」を、「その感触」を、すなわち彼の「天分」を思い知ったに違いない。小林秀雄が「浪漫主義」とは袂を分かち、ブラームスというもう一つの生き方に最終的な思いを定めたのは、おそらくその時である。

「音楽談義」では、このあと、「僕はもう本居宣長ですからね」と言ったその「本居宣長」を、ブラームスで書いていることの真意が語られる。それは既に書いた。だが、ブラームスについて語られた、小林秀雄のこの最後の独語は、ここにもう一度書き写しておきたい。前後五時間に及んだこの対談は、後半に進むにしたがって酒も進み、彼は五味康祐の話にはほとんど耳を貸さずに、文字通りの独壇場で話し続けたが、この最後のくだりに至って、不意に、「あの、五味さんね……」と口調を和らげ、次のように語り出したのである。

―僕はできるかどうか知らないが、一生懸命書いているんだよ。もう僕は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いなとかいうものは書けないと思ってきたのだ。書けないね、もう、恥ずかしくてね。僕がブラームスみたいに書きたいなあとこの頃思っているのは、そういうことなんだよ。ブラームスって、あんた、聴くか? ブラームスってのはいいですね。僕は段々ブラームスを好きになりましてね。あんなものは誤解のかたまりだと僕は思っています。誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君。……

帰国して間もなく、小林秀雄は、「ネヴァ河」と「ソヴェトの旅」に続いて、「批評」という短い一文を『読売新聞』に寄せた。その中で、彼は、「批評とは人をほめる特殊の技術だ」と述べ、批評精神を次のように定義する。おそらく、ここで言われた「果敢な精神」こそ、バイロイトから帰った小林秀雄がブラームスに見出した「勇気」であり、その「勇気」によって「断念」したものこそ、彼の「浪漫主義」そのものであっただろう。

 

論戦に誘いこまれる批評家は、非難は非生産的な働きだろうが、主張する事は生産する事だという独断に知らず識らずのうちに誘われているものだ。しかし、もし批評精神を、純粋な形で考えるなら、それは、自己主張はおろか、どんな立場からの主張も、極度に抑制する精神であるはずである。そこに、批評的作品が現れ、批評的生産が行われるのは、主張の断念という果敢な精神の活動によるのである。

 

「本居宣長」の連載が開始されたのは、この一文が書かれた一年半後のことであった。それから十一年半、全六十四回の連載と、さらに十ヶ月間の推敲期間を経て、この「果敢な精神の活動」の結実としての大著が脱稿した。その書き下ろしの最終章には、「『天地の初発ハジメ』、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた」という一行がある。これは、「表現について」の終わり近くに書かれていた、「生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる」という信条なしには生まれ得なかった言葉である。小林秀雄は、「浪漫主義」とは訣別したが、彼の「思想と実生活」問題は、あるいは彼のexpressionの問題は、一九六三年のバイロイト体験とともに霧散し、解消したわけでは決してなかった。彼は「思想」を犠牲にして「実生活」に沈んだのでも、「自己」を捨てて「自然」へ帰ったのでもない。彼が、浪漫派文学に氾濫した自己告白の不毛を説いたことは何度もあったが、浪漫主義思想が芸術家達にもたらした、「自己とは何か」という自問の不毛を説いたことは一度もなかったのである。そしてこの「自己とは何か」という問いこそが、小林秀雄がボードレールから受け継いだ最大のものだったのであり、生涯を通じて、彼自身、それを不問に付したことはなかった。ただしこの問いが、嘗ての、「何もかも自分で新しくやり直したい、やり直して、すっかり自分の手で作ったもののなかに、ある世界を発見したい」という形式の情熱として発露することは二度となかったであろう。むしろ、と自覚したところに、その後の彼の批評があったのである。

その「本居宣長」の出版記念講演で、小林秀雄は、自分には宣長についての新しい説や解釈は一つもない、ただ宣長をよく読んだだけだと語っている。三十余年前、「コメディ・リテレール」座談会で言われた「古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評の方法」を、彼はここまで磨いて来たのである。そしてその「原文尊重主義」は、彼の生涯最後の連載となった「正宗白鳥の作について」が絶筆として途絶える時まで続いた道であった。その連載第一回冒頭に、彼は次のように書いている。

 

批評とは原文を熟読し、沈黙するに極まる。

 

嘗て四十代の小林秀雄は、「沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする」と書いた(「モオツァルト」)。だが喜寿を過ぎ、批評家としての生涯を終えようとしていた小林秀雄は、もはや「沈黙を創り出す」とは言わない、ただ「原文を熟読し、沈黙する」ことを覚悟する。そしてその彼の「沈黙」の裡で、「作品に対する痛切な愛情」は、いよいよ切に深まったのであった。

本居宣長は、「古事記」という大いなる古典への「痛切な愛情」を、三十五年かけて育み、「古事記伝」を完成させることによって「沈黙」した。小林秀雄は十二年余り、さらにはその着想から亡くなる前年に刊行した「本居宣長補記」までを含めれば、実に四十年以上の歳月をかけて、宣長の「果敢な精神」に応えようとした。そしてその同じ批評精神を、彼は、ベートーヴェンという偉大な古典に対し、二十年の時を経て最初のシンフォニーとカルテットを世に送り出したブラームスにも見たのである。

しかしまた、そのような精神から生まれた批評作品が、常に目新しい解釈や奇抜な個性の発揮を求める現代の読者に読んでもらえるのかという懸念は、彼の裡にも少なからずあったであろう。「本居宣長」は、単行本として刊行された時には大変な反響を呼び、発売日には直接版元の新潮社まで本を求めにやって来た読者が長い列をなしたほど、出版社も本人も驚く売れ行きを示した。だがその連載は、極めて孤独な、そして地道な仕事の連続でもあったのである。後に本人が講演で語ったことだが、「本居宣長」を連載していた十一年半、この作品について何か言ってくれた人は一人もなかったという。その孤独の中で、彼は、たとえば荻生徂徠の難解な漢文を、諸橋轍次の漢和辞典を頼りに毎日少しずつ読み進めて行った。それは、徂徠を解釈し、新説を主張しようがための労苦ではなかった。彼の言葉を借りれば、徂徠を模傚もこうし、この先人への信を新たにしようとする行為であった、「無私を得んとする努力」(「本居宣長(九)」)であった。そういう仕事をひとり続けていたとき、彼がこよなく愛した音楽の世界にもまた、ブラームスという人が存在したということが、どれほど彼の心の支えになったか。

五味康祐との対談で、小林秀雄は、ブラームスのことを「あいつ」と呼んでいた。モーツァルトやベートーヴェンを、彼が「あいつ」と呼ぶことはおそらくなかったであろう。何故か。それは、彼が、ブラームスを自分の同士だと思っていたからではあるまいか。その同士に対し、「あいつの忍耐と意思と勇気は全部あの中に入っている」と言ったとき、それはそのまま、小林秀雄自身の忍耐と意思と勇気であったのであり、「本居宣長」を執筆する傍ら、ブラームスのレコードを繰り返し聴いたというのも、この孤独な仕事を続けるために、彼がその都度、ブラームスから「勇気」をもらい続けたということであったに違いない。そしてまた、それはあくまで彼の晩年の書斎の中だけで生起した、この作曲家との内奥の交感の軌跡であり、他人に明かすようなことではないとも彼は考えたはずである。それが、おそらく、彼がブラームスについての発言を全て削除し、ついに一行も書き残さなかった所以ではあるまいか。

 

 

晩年の小林秀雄のブラームスに対する共感と共鳴は、活字の上にではなく、死後発表された「音楽談義」の肉声に、「山の上の家」に残された彼のレコードラックに、中でも、盤面が白くなった第一シンフォニーのLPレコードに深く刻まれて残された。その、おそらく最後の痕跡を紹介して終わりにしよう。

小林秀雄が亡くなる二ヶ月前の昭和五十七年十二月二十八日の夜、ユーディ・メニューインの演奏会がテレビで放送された。小林秀雄が聴いた、それが、おそらく最後の音楽であった。その夜、放送された曲目は、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、そしてフランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタであった。他ならぬこの三曲が、この順序で、しかもあのメニューインのストラディヴァリウスによって病床の小林秀雄に届けられたということは、ほとんど奇蹟のような話であり、それがどのような意味で奇蹟であったのかについて、先年発表した「契りのストラディヴァリウス」という一文に書いた。だが、この小林秀雄の「最後の音楽会」について書いていた七年間、ずっと気になりながら、保留にし続けた事実があった。それは、どの新聞のテレビ欄を見ても、「ベートーヴェン……バルトーク……フランク……」と書いてあったことであった。おそらく、メニューインはアンコールを演奏したのであろう。だとすれば、そのアンコール曲こそが、小林秀雄が生涯最後に聴いた音楽だったということになる。

あるいはNHKにでも問い合わせれば、明らかになったのかもしれない。しかしその後、原稿を書き進めていくにしたがい、このアンコール曲は知らないでおく方がよいと思うようになった。文章が、自ずとそういう軌跡を辿ったのである。したがって、その最後のくだりでは、「おそらく、メニューインはアンコールをしたであろう。それが、誰の、何という曲だったのかはわからない」と書いておくことにした。ところが、そのアンコール曲が何であったのかが、ある偶然から判ってしまったのである。入稿の直前であった。

掲載誌には、当初、小林秀雄が日比谷公会堂で聴いた昭和二十六年のメニューイン初来日時のパンフレットを載せる予定であった。所有していたものは破損が激しかったから、状態の良いものをあらためて探すことにした。すると、初来日時のパンフレットと一緒に、昭和五十七年の三度目の来日時のパンフレットが見つかったのである。テレビで放送されたのは、その十一月十七日に昭和女子大学人見記念講堂で行われたコンサートであった。脱稿の記念にと思い、取り寄せた。そして手元に届いたそのパンフレットを開いた瞬間、愕然とした。テレビで放送された十一月十七日のプログラムの頁に、鉛筆で、次のようなメモが記されてあったのである。

 

アンコール ブラームス Vnソナタ3番 2楽章 3楽章

 

それは三十一年前、このコンサートに行かれた方が、人見記念講堂の会場で書き入れたものに違いなかった。無論、新聞のテレビ欄には、ただ「ほか」と書いてあっただけであるから、この二曲が実際に放送されたのかどうかはわからない。しかし少なくとも、小林秀雄が生涯最後に聴いた音楽会の、アンコールとして弾かれた曲は、ブラームスだったのである。これ以上、この批評家の最期にふさわしい音楽があるだろうか。

だがその事実を伝えるためには、本稿に書いたような長い一章を新たに書き加えなければならなかった。そのための時間はなかった。したがって、雑誌掲載時には、「アンコールはわからない」と記したまま、文章を結ぶことにしたのである。

今、ここにその事実を訂正し、筆を擱くこととする。

(完)