小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十五 遺言書を読む(上)

 

1

 

―話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部たちばなもりべの「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……

ここは、すでに一度、この連載の第四回で精しく読んだところだが、「本居宣長」は、こういう回顧談から始まり、これを受けて、次のように言われる。

―今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。……

宣長という謎めいた人……。今回は、ここで言われている「謎めいた」に留意することから始めようと思う。小林氏は、この「謎めいた」を、「謎のような」、あるいは「得体の知れない」などとすぐ言い換えられるような、比喩や外見の印象で言っているのではない。先回りして言えば、「ほとんど謎そのものと言いたいような」、そういう意味合で言っている。折口信夫を訪ねて「古事記伝」に関わる見解を聞くうち、氏が氏自身のなかの「殆ど無定形な動揺する感情」に気づき、さらに折口から、「本居さんはね、やはり源氏ですよ」と言われてこのかた、四半世紀にもわたって氏の心中で「分析しにくい感情」を動揺させ続けている宣長、そういう宣長を、氏は「謎めいた人」と言ったのだ。ということは、宣長によって動揺させられ、形を見定めることも分析することもできないまま動揺し続けている氏自身の感情、その感情もまた「謎」なのである。氏が「謎」という言葉を口にするときは、常に我が事なのである。

 

一般に、「謎」は、解けるもの、解くべきものと思われている。解けるから楽しい、面白いと思われている。卑近なところでは「なぞなぞ」である。探偵小説や推理小説の謎もそうである。これらの「謎」は、初めから解けるように出来ている。だが、小林氏は、「モオツァルト」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)で言っている。

―彼(モーツァルト)は、時間というものの謎の中心で身体の平均を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。……

「モオツァルト」は、昭和二十一年(一九四六)十二月、四十四歳で発表した作品だが、二十七年六月、五十歳で出した「ゴッホの手紙」(同第20集所収)では、氏が批評の精神と手法を学んだサント・ブーヴの次の言葉をエピグラムとして巻頭に置いた。

―人生の謎とは一体何んであろうか。それは次第に難かしいものとなる。齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る。そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る。……

このサント・ブーヴの言葉については、すでに昭和十四年十月、三十七歳の秋に「人生の謎」と題して書いていた(同第12集所収)。

―人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何んと真実な思想であろうか。僕は、人生をあれこれと思案するについて、人一倍の努力をして来たとは思っていないが、思案を中断した事もなかったと思っている。そして、今僕はどんな動かせぬ真実を摑んでいるだろうか。すると僕の心の奥の方で「人生の謎は、齢をとればとる程深まる」とささやく者がいる。やがて、これは、例えばバッハの或るパッセージの様な、簡潔な目方のかかった感じの強い音になって鳴る。僕はドキンとする。……

人生の謎は、年齢とともに深まる一方だという。だとすれば、これは、解ける解けないとはまったく異なる次元の何かである。氏は続けて言っている。

―主題は既に現れた。僕はその展開部を待てばよい。それは次の様に鳴る。「謎はいよいよ裸な生き生きとしたものになって来る」。僕は、そうして来た。これからもそうして行くだろう。人生の謎は深まるばかりだ。併し謎は解けないままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来るならば、僕に他の何が要ろう。要らないものは、だんだんはっきりして来る。……

「謎」は、解こうとしても解けない。解けないままでいよいよ生き生きと感じられてくる、それが「謎」というものであるらしい。

そして、昭和十六年六月、三十九歳で発表した「伝統」(同第14集所収)では、こう言っている。

―僕は、かつてドストエフスキイの文学を綿密に読んだ事があります。彼の生活や時代に関する文献を漁っていると、初めのうちは、いかにも彼の様な文学が出来上った、あるいは出来上らざるを得なかったと覚しい歴史条件がいくらでも見付かる。処が、渉猟をする文献の範囲がいよいよ拡るにまかせて、徹底して仕事を進めて行くと、なかなかそう巧くは行かなくなる。どう取捨したらよいか、どう理解したらよいか、殆ど途方に暮れる様な、おかしな矛盾した諸事実が次から次へと現れて来るのである。どうも其処まで行ってみなければいけない様です。中途で止って了うから謎は解けたと安心して了うのである。実は自分に理解し易い諸要素だけを、歴史事実のうちから搔き集めたに過ぎないのです。そればかりではない、この安心が陥るもっと困った錯誤は、作品が成立した歴史条件が明瞭になったと信じた時、分析によって得たこれらの諸要素を、逆に組合せればまさに作品の魅力が出来るとまで信じ込んで了う処にあるのです。最初作品に接した時の漠然とした不安定な驚嘆の念から出発して、もっと確実な精緻な理解を得たと言う。確かに何かを得たかも知れぬ。だが、その為に何を失ったかは知らぬ。……

―仕事は徹底してやった方がいいのです。多過ぎる文献の混乱に苦しみ、歴史事実の雑然たる無秩序に途方にくれる、そういう経験を痛切に味うのはよい事だ、途方にくれぬと本当には解らぬ事がある。一方には、歴史の驚くべき無秩序が見えて来て、一方には作品の驚くべき調和なり秩序なりが見えている。どうしてこの様な現実の無秩序から、この様な作品の秩序が生れたか、僕等はこの二つの世界を結び付ける連絡の糸を見失ってただ茫然とする。だが、茫然とする事は無駄ではないのです。僕等は再び作品に立ち還る他はないと悟るからです。僕等は又、出発点に戻って来ます。全く無駄骨を折ったという感じがするのであるが、この感じもまた決して無駄ではないのだ。出発点に手ぶらで戻って来て、はじめて僕等は、はっきりと会得するのである、僕等が手が付かぬままに残して来た作品成立の諸条件の混乱した姿、作品成立の為に必然なものと考えた部分も偶然としか考えられなかった部分も、悉くが、其処に吸収されて、動かせぬ調和を現じている不思議な生き物である事を合点するのであります。謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……

小林氏は、「本居宣長」でもこの姿勢を貫いた。最終章の第五十章を、次のように言って締めくくる。

―もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。……

「本居宣長」第五十章のこの結語は、先に引いた「伝統」の結語と重なりあう。

―謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……

「謎から出て」は、「本居宣長」では「宣長の遺言書から出て」となる。「謎のあげる光は増し美しさは増」すとは、「人生の謎」で言われていた、「謎は解けないままに、いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」ということだろう。だとすれば、小林氏の希いに従って宣長の遺言書に立ち返れば、「宣長という謎めいた人」、そして宣長によって動揺させられ続けた氏の感情は、「いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」はずである。だからこそ小林氏は、「もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、読んで欲しい」と言ったのである。

小林氏は、宣長の遺言書から出発して、宣長の生涯を一と廻りしてきた、しかし「宣長という謎めいた人」の「謎」は、解けぬままである。いや、そうではない、氏はあえて解かずに筆を擱いたのだ。「謎は解いてはいけない」からである。解けたと思えた宣長は、もう宣長ではないからである。「本居宣長」を第五十章まで通読し、氏に言われて第一章まで引き返せば、宣長という「謎めいた人」とともに、「宣長の遺言書という謎」も光を増し、美しさを増して私たちの前に現れるだろう。

 

2

 

「本居宣長」は、執筆開始を前に松阪に赴いて宣長の墓に詣でたことを記し、その宣長の墓は、宣長自身の遺言によったと述べて、宣長の遺言書を丹念に読むことから始められている。

昭和五十二年十月、「本居宣長」が世に出て以来、この宣長の遺言書については様々に取り沙汰されてきた。まずは、宣長の遺言書の異様さである。なぜ宣長は、これほどまでに常軌を逸したとすら言えるばかりの遺言書を書かねばならなかったのか。次いでは、「本居宣長」という著作を、なぜ小林氏は遺言書を読むことから始めたのか、氏は宣長の遺言書に、宣長のどんな心残りを読み取ろうとしたのか……。さらには、「古事記伝」を書いてあれほど強く「随神かんながらの道」、すなわち神道を説いた宣長が、どうして最期は仏式の葬儀を指示したのか、その矛盾について小林氏は、なんら言及していない、これはどうしたわけだ……とかと、喧しく言われてきたのだが、なぜ小林氏は「本居宣長」の劈頭に遺言書をもってきたか、これについては、第一章、第二章と、読者の目の前で遺言書を読み上げた後、第二章の閉じめで小林氏自身がはっきり言っている。

―要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……

だが、読者の多くは、これではまだ腑に落ちないようなのだ。小林氏にこう言われてみても、宣長はなぜこのような、異様というより怪異とさえ言いたい遺言書を書いたのかの不可解は不可解のままである、また小林氏は、氏が辿ろうとしたのは宣長の演じた思想劇であり、その思想劇の幕切れをまず眺めたと言うのだが、なぜわざわざ幕切れからなのか、「本居宣長」の執筆に際して、他の何を措いてもまずそうしようとした小林氏の真意はなお解せない……、そういう不完全燃焼感が燻っているらしいのである。

思うにこの不完全燃焼感は、ひとえに「遺言」という言葉が帯びている特殊な語感からきているようだ。何はともあれこの言葉は、人の死にかかわる言葉である。辞書にあたってみると、『広辞苑』は「死後のために物事を言い遺すこと。またその言葉」と言い、『日本国語大辞典』は「死後のために生前に言いのこすことば」と言い、『大辞林』は「自分の死んだあとの事について言い残すこと、またその言葉」と言っている。そういう辞書的語義から言えば、宣長の遺言書もまさに「死後のために」書かれていると言えるのだが、小林氏は、宣長の遺言を、そうは読んでいないのである。「死後のために」ではなく、むしろ「生前のために」書かれたと読んでいるのである。そのことは、第一章で遺言書をひととおり読み、第二章に入ってすぐに言われる。

―さて、宣長の長い遺言は、次のような簡単な文句で終る。「家相続跡々惣体の事は、一々申し置くに及ばず候、親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門絶断これ無き様、永く相続の所肝要にて候、御先祖父母への孝行、これに過ぎず候、以上」……

―明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。……

―彼は、遺言書を書いた翌年、風邪をこじらせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長の遺言書は、宣長の現実の死とは繋がっていない。宣長は、わが身の死に備えてこの遺言書を書いたのではない。人生いかに生きるべきかを生涯最大の主題とした思想家宣長にしてみれば、生の最果てに来る死もまた生涯最大の主題であった。生を考えるために死を見据える、死を会得するために生を顧みる、この往還は、宣長においてはきわめて自然な道であったが、その途上にある日、ある着想が飛来した。それが、「自分で自分の葬式を、文章の上で出してみよう」という試みであり、その試みとして書かれた遺言書は、永い年月をかけて宣長が思い描いてきた死というものについての独白であり、信念の披瀝だった、そこには不吉の影も感傷の湿りもなく、「遺言書」を書くことは思想家宣長の健全な行動だったと小林氏は言うのである。

第二章の初めで、この小林氏の言葉をしっかり受け止めていれば、同じ章の終りで「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」という氏の言葉は無理なくうべなわれるはずなのである。つまり、宣長の遺言書は、宣長が宣長自身を素材にして書き上げた「人の死」という主題の思想劇なのであり、それはすなわち「人の生」という思想劇の最終幕なのである。しかもこの劇は、作者の現実の死とは繋がっていない、したがって虚構である。だが、この「虚構」は、作り事とか偽り言とか言われる類の虚構ではない、「本居宣長」第十三章で言及される「源氏物語」の物語論の、「『空言ながら空言にあらず』という『物語』に固有な『まこと』」、それと軌を一にした虚構である、宣長の遺言書は、そういう虚構の独白劇なのである。

しかし、そうは言っても、それがそう順当に諾えないのは、やはり現代語として私たちの耳目にある「遺言」という言葉の語感、すなわち、死別・永別の哀傷感や、相続、遺産といった世俗的実務、そういう語感や意味合から私たちはなかなか自由になれないからだろう。だから宣長の「遺言」にも、そういう面での意味内容をまず聞き取って安心したいと気が逸るのだが、そこをいっこう小林氏は明らかにしてくれない、その行き違いの焦燥感がつのって混迷に陥り、不完全燃焼感に襲われるのだろう。

いま私たちが心がけるべきことは、「遺言」という言葉の語感とは別に、「遺言」という言葉に貼りついた先入観、その先入観の速やかな払拭である。小林氏が第五十章で、宣長の遺言書を「彼の最後の自問自答」と言ったことを思い出そう。一般に遺言書といえば、この世を去ろうとする者が、この世に残る者に対して、ということは、自分ではない他人に対して、一方的に発する言葉である。だが宣長の遺言は、一見そう見えてそうではない。宣長が、「死というもの」に対して微に入り細にわたって問いを発明し、その問いに自力で答えようとした言葉の鎖、それが宣長の遺言書であり、したがって宣長の遺言書の言葉は、すべてがいま生きている宣長自身に向けて発せられていると小林氏は言っているのである。

 

話が言葉の語感に及んだところで、やや回り道になるが言い足しておきたいことがある。小林氏は、「この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが……」と言っているが、ここで言われている「私の単なる気まぐれで」は、言葉の綾である。冒頭で書いた折口信夫を訪ねた経緯についても、「今、こうして自ずから浮び上がる思い出を書いているのだが」と、たまたま思い出したというような口ぶりで言っていたが、それが決してそうではなく、折口の一言は「本居宣長」の全篇を左右したとさえ言っていい重みをもっていた、それが後に氏の行文から明らかになった。「宣長という謎めいた人」という言い回しにしてもそうである。氏は最初から「宣長という謎」と言ってしまってもよかったはずなのだが、そこをそうとは言いきらず、一般世間のゆるやかな物の言い方で話を始めた。

このゆるやかな物の言い方は、小文の第四回「折口信夫の示唆」では小林氏が「本居宣長」という一大シンフォニーのために設定した文体の調性だと言ったが、これをより具体的に言えば、氏が、宣長の文章を、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読んだその読み方に倣って「やすらかに見」ようとしたからだと言ってもよいだろう。第六章に、宣長は契沖から何を学んだかについて、こう言っている。

―「萬葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

―歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……

したがって、「本居宣長」においてのこの小林氏の「やすらかに見る」態度は、氏が、世の研究者たちが当然のように振り回している宣長説の分析や評価といった議論によってではなく、ごくふつうの人間同士のつきあいによって、ということは、研究ではなく親炙によって宣長の著作を、ひいては宣長という人を納得しようとしたところからきたと言っていいのだが、いずれにしてもそういう次第で、「本居宣長」を遺言書から始めたのは「単なる気まぐれ」ではないのである。「古事記伝」を初めて読んでからおよそ二十五年、ずっと心の中に謎として住み続けている宣長と本気になってつきあうとなればどうするか、遺言書は、そこを周到に思い窮めて見出した搦手からめてだったはずなのである。昭和四年九月、文壇に打って出た批評家宣言「様々なる意匠」(同第1集所収)ではこう言っていた。

―私には常に舞台より楽屋の方が面白い。この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手から」、これが私には最も人性論的法則に適った軍略に見えるのだ。……

 

小林氏は、これだけの心づもりをして「本居宣長」の筆を執った。氏が言っている、「私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」の、「眺める」という言葉にも注意を払っておきたい。小林氏の言う「眺める」は、単に視野に入れるということではないのである。

昭和十八年に書いた「実朝」(同第14集所収)で、

―文章というものは、妙な言い方だが、読もうとばかりしないで眺めていると、いろいろな事を気付かせるものである。書いた人の意図なぞとは、全く関係ない意味合いを沢山持って生き死にしている事がわかる。……

と言って以来、常に氏は文章も読もうとせず、画家が風景や人物や静物を眺めるように、眺めることを第一とした。この信条に立って、「私は、彼の遺言書を判読したというより彼の思想劇の幕切れを眺めた」と言っているのである。

そうであるなら私たちも、いたずらに脳を労して宣長と小林氏の思惑を探ったり解釈したりするのではなく、全身を目にして小林氏とともに宣長の思想劇の幕切れを眺めるのが至当だろう。そして小林氏は、この劇の幕切れをどう眺めたか、そのつど聞こえてくる氏の声に耳を澄ませることが大事だろう。

次回は、小林氏とともにその幕切れを眺め、氏の声を逐一聴き取って行こうと思う。

(第十五回 了)