死んだはずの彼に呼びかける

木村 龍之介

僕のそばには、死者がいる。死んだはずの彼に何度も呼びかける。

「シェイクスピア、」

返事はまだない。日本語だって通じるかわからない。そんな外国の彼に、僕は呼びかける。

彼が残したのは、文字の羅列だ。しかしそれは、彼が心の目で見た風景すべてを詰め込んだ、あの美しく、激しく、人をぎょっとさせる、まるで必殺技のような、詩だ。

「シェイクスピア、僕は、冬物語を上演したよ。」

一つの公演が終って、また呼びかける。

「君の風景と、僕は交わった。僕の風景には真実があったかな?」

返事はない。

演劇作品は、一瞬にしてその姿を消す。シェイクスピアが晩年に書いた『冬物語』の上演を終えて、現実世界で世界が一瞬で消えた場所について、僕はいつの間にか考えていた。

 

そして、数時間後に、僕は広島にいた。何故、身体が動いたのか。僕には、わからない。あまりにも熱く、眩しい、八月の光を感じながら、『冬物語』という、帰らぬ人が蘇る作品を演出し、脳内が痙攣気味だったから、或いは、虚構と現実の区別がつかなくなっていたから、かもしれない。

兎にも角にも、僕は、広島にいた。そして、原爆ドームと平和記念館を訪れた。虚構の悲劇と現実の悲劇を、ごちゃごちゃにするなんて不謹慎かもしれない。しかし、僕は、行かざるを得なかったのだ。シェイクスピアという死者としか向き合えない人間として。

時間をかけて、その土地をくまなく歩いた。そして館内をじっくりと巡った。多くの人がそうであるように、僕の矮小な精神と思考は、呆然として、せいぜい感じられることから感じて、せいぜい考えられることから考えるよりほかなかった。

僕は、僕の近くの死者と対話することからしか、次の思考を始められなかった。二十世紀に起こった現実の悲劇と、十六世紀に書かれた虚構の悲劇が、本質的に違うことはわかっている。当たり前だ。しかし、やはり僕には、僕のやり方で扱えるものから、扱うより他なかった。

 

僕は、呼びかける。

「シェイクスピア、君は多くの死を描いた。繰り返される報復を描き、その先にある、滅びと喪失を描いた。ありとあらゆる無念の死を幾度となく克明に描いた。君の心の目は、一体何を見ていたんだ?」

シェイクスピアは、異議申し立てをしない。誰に弄ばれても黙っている。だから、生かすも、殺すも、僕らの手の内にある。あらすじや、誰かがすでに書いた評論を読めば、彼の作品の表面上の意味を汲み取ることはできる。でも、それよりも僕が大事に思うのは、シェイクスピアが目の当たりにした現実と、彼の幻想とが激しくぶつかる瞬間、火花とともに、高密度に圧縮された、彼の言葉が獲得した、夢の質量だ。つまり、詩だ。

彼は、たしかに死んだ。しかし、彼の詩は、生きている。

僕はここで、小林秀雄の『様々なる意匠』(新潮社刊、『小林秀雄全作品』第1集所収)を思い出す。そして、以下のように言葉を続ける。

シェイクスピアの詩とは、彼がロンドンの街なかで演劇に託した幾重にも重なった夢の形だ。演劇で実現しようとした魂の戯れだ。多くの人を巻き込み、魅了し、時に大きな反発を買い、それでもなお手放さなかった真実への跳躍の覚悟と情熱だ。そこから立ち上る透明な一筋の叙情だ。『様々なる意匠』の言葉を借りれば、シェイクスピアの詩は、「無双の情熱の形式をとった彼の夢」なのだ。

僕は間違っているか? そうなのかもしれない。しかし、小林秀雄の言葉にすがって僕の考えを進めたいと思う。何故なら、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事」だからだ。原爆が落とされた広島と、シェイクスピア、おかしな取り合わせだ。しかしながら、僕の夢の中では繋がる。僕は、懐疑的か? 十分に懐疑的か? 広島からもシェイクスピアからも遠ざかるために、両者をつなげたのか。断じてそうではない。むしろそれは、僕がかろうじて引き受けようとして行う、かろうじての試みだ。表層的ではない、真っ向から「かむかふ」ことだ。真剣に、考えることだ。

シェイクスピアと出会う。僕らは夢を見る。戦争の夢を。嫉妬の夢を。恋に溺れて死ぬ二人の幼き男女の夢を。不安で心がサソリ一杯になる程の悪夢を。娘を手篭めにされ、復讐に燃える男の狂気の夢を。その夢の先には、必ず、死と消滅がある。シェイクスピアの夢想に死はつきものだ。

 

僕の呼びかけは続く。懐疑的に。

「シェイクスピア、君が生み出した登場人物たちの呼吸を、僕は信じきれているか?」「僕の舞台上の人物たちの身振り手振りには、リアリティがあるか?」「思想と哲学は躍動しているか? 思考回路はブレていないか?」「瞬きの回数は足りているか? それとも目は閉じたままか?」「彼らの生のエネルギーが、僕らに過不足なく満ちているか?」さらに、呼びかけは進んで、「シェイクスピア、君が見た、現実の滅びと喪失を、ほんの一瞬でも僕らは救済することができているか?」その呼びかけは、ブーメランのように舞い戻って、「広島で現実に起こった滅びと喪失を、僕はほんの一瞬でも感じ取れているか?」何度も、何度も、呼びかける。

返事はない。僕は立ち止まる。しかし、それは思考を停止するためではない。死者が、死とともに解き放った、生者への呼びかけに、よく耳を澄ますためだ。

「シェイクスピア、僕は、君の夢を、僕の夢として生きようとあがく。懐疑的に。それはきっと君にとっては悪くない出来事だろ?」

死者は答えない。それが死者のルールだ。生きている者を沈黙で包み込むのが、死者の大切な美徳だ。

一人の死者と出会うためには、いくらでも向き合わなくてはならない。シェイクスピアが演劇で差し出した問題は、人類の歴史において、未だ解決されていない重要な問題ばかりだ。人が憎み合うのはなぜか? 嫉妬に駆られた人間は、なぜ破滅するのか? 権力やシステムが人をどれほど残酷にするのか? 逆もまた然り。人は愛し合う時、どれだけ強くなるのか。個人の信念が社会システムをどれほど改善するのか。前向きなユーモアがどれだけ生きる上で必要か。そして、言葉が持つエネルギーの強さが、どれほど人間を突き動かすのか。

そして、まだ答えのない問いが、僕の目の前にある。

どうしてこんなにも多くの人間が一瞬にして消えなければならないのか?

一人の死者と向き合えば向き合うほど、その死者と続ける対話の旅は、人間存在全体へと広がって行く。

「シェイクスピア、」と問いかけて、僕はまた立ち止まる。彼と僕の間にある沈黙の中を、手探りするように、僕の夢は懐疑的に進む。

? それは、今を生きる僕らの背後にある、数限りない死者たちの言葉に、言葉すら与えられなかった死者たちの沈黙の言葉に、丹念に耳を傾けることの一つの文学的な喩えにすぎないのではないか? 死者に耳を傾けること。死者と対話すること。生き残った者は、死者に呼びかけ、その声に耳を傾ける他ない。たとえ、なんの返事がなくとも。

 

ここまで考えて、ようやく、原爆ドームを見る。焼け野原を見る。僕は目を閉じて、心の目をふと開く。そこで起こった出来事の細部を見て、人々の身振り手振りを見る。呼吸を見る。声を見る。眼差しを見る。彼らの夢を見る。彼らのあり得たかもしれない人生を見て、現実に彼らに降りかかった出来事を、僕のあり得たかもしれない人生の中に見ようと努力する。もちろんそんなことは不可能だ。僕は懐疑的か? この光景は懐疑的か? 僕はためらう。しかし、そのように試みる以外に演出家としての僕にはこの事実と向き合う方法がない。演出とは、夢を見ること、懐疑的であること、その二つを引き受ける「無双の情熱の形式をとった」だ。

そして、僕が生まれる前にできた焼け野原と、そのあとに積み上がったものと、今、大切にされているものと、おろそかにされているものと、それらを等しく並べて、死者の言葉に耳を傾ける。

「・・・・・・。」

まだ何も聞こえない。当たり前だ。死者は沈黙するのがルールだ。呼びかけない者は、黙殺される。

僕は、シェイクスピアという死者との対話について書いている。それはとても特殊なケースだ。しかし、これまで地球上で死んでいった人間たちの誰であれ、誰か一人とシェイクスピアとを入れ替えたとしても、この言説の持つ意味は全くもって変わらないと、僕は信じる。とすれば、僕はシェイクスピアという死者と対話しながら、何を考えているのだろうか。

死者が残した言葉に込められたあらゆる身振り手振り、眼差し、希求する心の声、身体の力を僕は信じる。そして、それらを詩と呼び、その詩と、演出家として向き合いたいと思う。それが演出家である僕にできる「呼びかけ」だ。八月の光を見上げる。そこで爆発したもの。そこに立ち上るキノコ雲。そこで亡くなった全ての人間たち。それらにまつわる一篇の叙事詩があると僕は信じる。その刹那の、身振り手振り、眼差し、呼吸、痛み、無念、喪失の嘆きについての詩。そこにあった優しさと、希望と、未来と、夢と、穏やかな生活を支えていたお互いの信頼についての詩。それらを信じる。

僕のそばには、死者たちがいる。

僕は、呼びかけながら、ゆっくりとその地を歩いた。僕が人類にとって致命的な過ちを犯さないことを願いながら。懐疑的であることを忘れずに。

(了)