「味」を見る眼

酒井 重光

「池田君、この店はだめだよ」

「甘味が一貫していないんだ。いいかい、最初に刺身が出ただろう。あの刺身の甘味に、後の料理の甘味が合っていない。どんな魚にも自然の甘味というものがあるよな。この、自然そのままの魚の甘味の系統に、煮物であれ吸物であれ、人間が施す甘味はすべて揃える、これができなければ職人ではない……」。

 

これは「小林秀雄を学ぶ塾」の池田雅延塾頭が「webでも考える人」(新潮社)で連載されている「随筆 小林秀雄」(十二)の「『うまい店』はどううまいのか」に出てくる小林秀雄の言葉です。

一読、私は不思議な違和感と妙な納得感を覚えました。二読、三読しても、その印象は変わりません。

その後、大阪で開催されている「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」に参加させていただける機会があり、その際に池田塾頭に連載の感想をお伝えすることができました。

言葉も足らず、うわすべりした感想だったにもかかわらず、池田塾頭はその感想を文章にしてみるよう言ってくださいました。

その時のことを思い出しつつ、補足しながら書かせていただこうと思います。

 

私は京都で日本料理の板前をしています。

調理師学校を卒業後、最初の修行先は大阪の老舗の料亭でした。そのお店は調理場の人数がとても多く、年齢も上は70代、下は10代と幅広いものでした。

しかも大部分の人間が、店と同じ敷地内にある寮で共同生活をしていましたので、同僚と接する機会も多く、話題も料理のことが中心でした。

先輩がどういう料理書や、料理雑誌を読んでいるかなども、よく分かりましたし、日本料理の格言のようなものも、なんとなしに耳で覚えてしまいます。

調理場内の会話でかわされる気の利いたフレーズや表現、隠語などは自分が使いたいのもあり、皆こぞって覚えていました。

北大路魯山人や湯木貞一、魚谷常吉、辻嘉一など小林秀雄と同時代に生きた料理人(魯山人は芸術家なのでしょうが)の本は一種の古典のような感じで、読む人もここに何か大事なものがある、という気持ちで読んでいたように思います。

 

そういう経験があった私にも「自然そのままの魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉は新鮮に思えました。

そして、そういう料理界の偉人のような人たちの思想と小林秀雄の思想は職人的な部分で共通点があると感じたのです。

「素材の持ち味を生かす」「原料の原味を殺すな」「自然味に優る人工味なし」など多くの料理書に書かれている言葉は日本料理全体もしくは一品、一品の料理の本質に当てはまるものです。

そして小林秀雄の「甘味を一貫させる」「自然そのままの魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉は、それらの言葉よりも流れ、景色を感じることができます。

 

「日本料理は椀刺わんさしできまる」といわれます。

私も調理師学校時代に先生が黒板に大きな字で「椀・刺」と書いたのをよく覚えています。お椀と刺身が日本料理の華であると教わりました。

献立を考える際も、まず刺身、そのあとお椀がきまって、前菜、焼きもの、焚き合わせ、ご飯……と考えていきます。間になにかをはさむこともありますし、順序を変えることもあります。器選びも重要ですし、部屋のしつらいもあるでしょう。

その全体の中心が刺身とお椀なのです。

もちろん日本料理には精進料理もありますし、魚を使わない料理もたくさんあります。

しかし、この「椀刺」というものを考えながら、最初の小林秀雄の言葉を読んでいくと日本料理の姿がよく感じられるのです。

 

そもそも、なぜ「魚の甘味」なのでしょう。

「素材の甘味」では範囲が広すぎるかもしれません。

「野菜の甘味」ならどうでしょう。日本料理は旬を重んじますので、その時期の野菜の甘味を基準にしてしまうと、少し甘すぎるかもしれませんね。

「酒の甘味」に合わすというのも考えられますが、どうでしょうか。

「肉の甘味」「乾物の甘味」……色々あります。

では、「魚の甘味」ならどうでしょう。私は他の素材の甘味に比べて明らかにうすいと思います。

刺身は生で食べます。その甘味に沿わせようとすると、お椀の味は淡くせざるをえません。

順序としてもお椀の後で刺身が出ることが多いので、次の刺身の味を邪魔するような味つけはできないのです。

なので、お椀の味つけに料理人は、一番気をつかいます。

日本料理の華である「椀刺」はどちらも淡味。

できるだけ淡味で、しかも美味しくなければいけない。難しいなと思います。

この「椀刺」の流れに沿って、他の献立の味つけも構成されていきます。

こういう事を踏まえれば「魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉は至言だと思わざるを得ません。

なぜ日本料理は淡味なのか、それがいかに大切か。

淡味にすると何を感じることができるのか、見えるのか。

「味見」という言葉の不思議さも、そういうところにあるのかもしれません。「味」は「見」えるんでしょうか。

もちろん「見る」という言葉には視覚以外にも確認や判断、評価という意味もあるでしょう。

それでも私は眼にうつると言うのでしょうか、味が見えたり、味見をすると見えるものがあるように感じるのです。

 

「人間の味覚をごまかすには、甘味調味料ほど便利なものはない」といわれます。甘味が何か根源的な欲求につながっているからでしょうか。

実際、照り焼きや煮物の甘辛い味は万人に好まれます。私も好きです。

 

日本料理も淡味ばかりではありません。甘辛い照り焼きはもちろん、味噌漬けもありますし、グッと出汁をきかせたうま味の強い料理もあります。酒の肴に出される珍味類は塩辛いものが多いでしょう。

こういう料理も「椀刺」の味を基準に、量や順序を調整しますと全体に一体感が生まれ、味覚だけでなく、五感に感じられてきます。

微妙な加減が全体を左右するのです。

秋の献立なら秋が大きく、うつってきます。

そういうところからも最初の「甘味が一貫していない」という言葉につながったのかもしれません。

甘いのが駄目なのではなく、前後の料理と合っていない、色あいが違うということなのでしょう。

 

私が働いていた調理場でも、よく景色、景色と言われました。

盛りつけもそうですが、献立など料理全体に対しても「景色が見えない」とか「景色がもう一つだ」と言われるのです。

今、思えば視覚、味覚だけでなく五感で感じなければならなかったのでしょう。

そういう経験からすると「魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉に、私はトーン(色調・音調)を感じます。視覚だけでなく音のイメージも浮かんでくるのです。この言葉も本当は五感で感じられるべき言葉なのかもしれません。

 

そして最後の「これができなければ職人ではない……」という言葉は料理人の仕事とは何かというところまで踏みこんでいます。

作業のように料理しているだけでは駄目だということでしょう。

自分の仕事を省みても、反省しかありません。

例えば鯛だけでも今まで何百匹、何千匹とさばき、調理してきました。

しかし鯛という、モノに反応していただけで、そのひとつひとつに沿って料理をしてきたか、というと全くの不十分でした。

小林秀雄の「美を求める心」にある菫の花を漫然と見ている人と同じ状態です。眼を閉じてしまっていたように思います。

「自然そのままの魚の甘味の系統に人間が施す甘味はすべて揃える」ような料理をするには、頭だけで理解しているようではいけないのでしょう。

五感を研ぎ澄まし、素材を自分に通しつつも素材自身が現れてくるように料理をしなければならない。

 

私の好きな料理人の言葉に「味は舌でみるのではなくて、ハラでつける」というものがあります。

いかにも五感で料理をしてきた、臨場感のある言葉です。

もう亡くなっているので、その人の料理を味わうことはできないのが残念です。

温かい料理が、冷めてしまうだけで、全く違うものになってしまうのですから、料理は作品として後には残りません。一瞬で消えてしまう儚いものです。

味わった人の記憶の中に、わずかに残るだけでしょう。

そして、残された献立やレシピだけでは料理を再現することはできません。

その人を通さないとその人の料理にならないのですから。

しかし、私も先人の「何か」を受け継いでいるのはたしかなのです。

その「何か」が何かわからない。分かるようになるのでしょうか……。

今はそれを考えながら料理をしていくだけです。

 

以上が池田塾頭へ伝えた感想をまとめたものです。大幅に補足することになってしまいました。

五感という言葉が出てくるのは、初めて参加させていただいた勉強会の題材が「美を求める心」であり、その講義の中で池田塾頭が頭だけでなく五感で理解することの大切さをおっしゃっていたからです。

私は、池田塾頭の講義を聴いている時も、小林秀雄の作品を読む時も、料理とからめて考えています。

「美を求める心」も「美味を求める心」にしてしまっています。

あまり良い読みかたではないと思います。

しかしそうすると、自分が今まで修行先で言われたり、料理書で読んできたことの意味が、静かに腑に落ちる瞬間があります。

同じことを違う表現で言われているだけで、求めているものは同じだと、はっきりと感じます。

「美味」「美食」と言われるように、絵画や音楽に「美しい姿」があるのなら、味にも「美しい姿」があるのでしょう。

それを、はっきりと五感で感じることができれば……、そしてそれを料理で現すことができれば……と、私はそう考えています。

(了)