ある少年事件の思い出

本田 正男

弁護士は、人生の幸いと災いの交差点で佇む人に付き添うことを生業としているせいか、誰にも、忘れられぬ事件との出会いがあります。

自分の登録番号の刻まれた徽章きしょうが未だ金色に光っていた二十年近く昔、ある少年事件、といっても、保護の対象は中学二年生の少女でしたが、の付添人になったことがありました。

少女は、彼女が幼少の頃に夫の暴力に耐えかね離婚した母親と二人暮らしでした。事件といっても、自分の通う学校の校庭にバイクで乗りつけたとか、もうよく憶えていないほどの虞犯ぐはんだったのですが、この事件は、駆け出しのぼくに様々なことを教えてくれました。

暴力が身体だけでなく、心にも癒えることのない傷を残すこと、女性が幼子を抱え生計を立てていくことの難しさ、つまり、世の中には、個人の力だけでは乗り越えることの難しい構造的な壁、社会問題と言ってもいいかも知れませんね、のあること、そして、表面上別々に立ち現れる事象にも相互に関連や連続性のあること、ぼくは、この事件の前から、夫に暴力を振るわれていた女性の離婚事件を何度か受任したことがありましたが、鑑別所で最初に少女に会ったとき、以前の離婚事件で母親の陰に隠れ震えていた小さな女の子の十年後を見たような錯覚を覚えました。離婚事件と少年事件というまったく別の事件から、暴力によって破壊された家庭という共通の因果の流れが浮かび上がってくるように感じました。暴力という嵐が吹き荒れている間、大抵の子どもはやけに良い子でいるものですが、それが止むと、今度は、あれほど嫌いだった筈の暴力の芽が子自身の中に生まれ、母親と対峙するようになったりすることはむしろ普通に起こる事でした。

少女の母親は、中学生の子がいるとは思えぬ年齢で、当時のぼくよりも若かったと思いますが、すでに人生に疲れ、無気力が母として子を育てるという自覚や責任感を上まわっていました。そして、何より、このとき母親には自然に沸き上がってくる、子に対する愛情が枯渇していました。少女が事件を起こしたのも、母親を求め会いに行った際、母親が少女を拒絶し、玄関のドアを閉め切って、叩いても開けなかった出来事が引き金になっていました。少年事件は、最後に審判廷で裁判官による審問が行われるまでの間に、少年が立ち直れるよう様々に環境整備を行うのですが、母親は、ぼくが何度連絡を試みても、いずれの方法にも応答せず、結局審判廷にも姿を見せてはくれませんでした。

ただ、あれこれ手を尽くしている中で、おじさん夫妻が少女のこれからのために手を差しのべてくれることになり、審判廷にも夫婦で出向いてくれました。事件の具体的内容はもう何も覚えていないぼくが今でもはっきり記憶しているのは、審判廷でおじさんを見つけたとき少女の口を衝いて出た言葉です。彼女は、おじさん夫妻の姿、おじさんたちがそこにいることに驚きつつ、おじさんに向かって、「なんだ、来たのかよ」と言いました。その悪態と言ってもよいような言い回しとは裏腹に、母親に捨てられたと思っていた少女の心を知っていたぼくには、少女の言葉は、「来てくれて、ありがとう」と聞こえました。それは、人生の幸いと災いの交差点で、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられた忘れられぬ経験でした。

 

小林先生は、その著書「本居宣長」の中で、「宣長の学問の方法の、具体的な『ふり』の適例として」、「古事記」二十七之巻から倭建やまとたけるのみことの物語を引いています(第30章、『小林秀雄全作品』第27集345頁以下)。「西征を終え、京に還ってきた倭建命は、又、上命により、休む暇なく東伐に立たねばならぬ。伊勢神宮に参り、倭比売やまとひめのみことに会って、心中を打明ける話で、宣長が所懐を述べているこの有名な箇所」について、小林先生は、「安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の『心ばへ』であると言っていい古語の『ふり』がある、文句の附けようのなく明白な、生きた『言霊』の働きという実体が在る」、宣長の場合「訓は、倭建命の心中を思いハカるところから、定まって来る」とされ、「既所以思吾死乎は、」、すなわち、「天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ」と、「所思看は、淤母オモ祁理ケリ」、すなわち、「此れに因りて思惟おもへば、猶吾れはやく死ねと思ほし看すなりけりとまをして、患ひ泣きて」と訓み、「祁理ケリと云ことを添フるは、思ヒ決めていさゝか嘆き賜える辞なり」との宣長の所懐について、「『いといと悲哀しとも悲哀き』と思っていると、『なりけり』と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい」と敷衍しています。

 

倭建命の心中と少女の心の間には千年の隔たりがあるかも知れませんが、「本居宣長」の該当箇所を味わったとき、思いもかけず、ふと浮かんできたのは、何年経ってもぼくの脳裏に焼き付いて離れない、「眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえ」たあの日の少女の姿と言葉でした。

 

小林先生は、「古事記」について、「人のココロで充たされた中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の『言問ひ』は、宣長のココロに迎えられて、『如比申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける』という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである」と言い切っています(第30章、同351頁)。

 

そして、小林先生は、倭建命の「言問い」の例を引く同じ頁の中で、「歴史を知るとは、己れを知ることだ」と、「本居宣長」のここまでを総括され、その意味合いについて、「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねていくやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい」と迄踏み込んでいます(第30章、同350頁)。

 

現在CDで発売されている「宣長の源氏観」と題するご講演の中で、小林先生は、冒頭、本居宣長の(時代の)学問について、「あれ道ですよ。人の道を研究したんです。だから、人間いかに生きるべきか、そういう問いに答えられないような者は学者ではなかった」。今の学問は、「一番人間の肝心なことには触れないですねぇ。ぼくらの一番肝心なことって何ですか。ぼくらの幸不幸じゃありませんか。ぼくらは死ぬまでにたった何十年かの間この世の中に生きてて幸福でなかったらどうしますか。この生きてるって意味が分からなかったらどうしますか、そんなことを教えてくれないような学問は学問ではないね」と切り出しています。人生の幸不幸の問題から決して眼を逸らすことのなかった先生は、「本居宣長」を通じ、人間経験の多様性を己れの内部に再生できるかどうかが分水嶺だと語ってはいないでしょうか。

 

これは最近のことですが、ぼくの法律事務所がある川崎では、ここ数年来在日コリアンをターゲットにしたいわゆるヘイトスピーチが横行し、休日に公道などで聞くに耐えない言葉や怒号が飛び交う事態が繰り返し発生しています。ぼくは必死になってヘイトしている人たちを見かけると、なぜこの人たちは、こんなことをするのだろう、何が彼らを突き動かしているのだろうといつも要らぬ深読みをしてしまうのですが、いわゆる排外主義や反知性主義などと呼ばれているものの中には、楽しく、素敵に生きて行ける本来の幸せな生活や日常とは真逆な生き方が蔓延しているように思われてなりません。

 

倭建命の「事問い」が、宣長のココロに迎えられ、千年の隔たりを超え、息を吹き返したように、想像する力の訓練とその積み重ねにより、人間経験の多様性を己れの内部に再生することができれば、その批判的な体験は、自己を反省させ、自己主張の自負は育ちようがなくなり、他人と自分とを同じ様に慈しみ合うことができ、詰まる所自分自身の人生にも自ずから真に平和で幸せな時をもたらすことができるのではないでしょうか。

たとえ、14歳の少女の聴いていたR&Bリズムアンドブルースと、ぼくの聴いていたR&Bがまったく違う音楽であったとしても、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられたぼくもまた、その時たしかに幸せでした。

(了)