小林秀雄先生お気に入りの宿として知られる下諏訪「みなとや旅館」に宿泊した。いつか必ず行こうと決めていたがなかなかその機会がなかった。本誌2018年6月号、8・9月号で國學院大學の石川則夫先生が宿泊した時のことを寄稿されていたのを読み、とても羨ましく思っていたところ、再訪への同行にお声かけいただき、この日がただただ待ち遠しかった。
JR中央本線上諏訪駅で下車して、レンタカーでそれぞれ離れた場所に鎮座する諏訪大社四社を参拝する計画だ。1社目は下社秋宮へ。神楽殿にて正式参拝。御神木を御神体としてお祀りしており、御神木を中心に四隅に御柱とよばれる大木を立てる。御神木は外からは見えない。この大木を曳き立てる奇祭として知られる御柱祭について、場所を移してDVDを観る。天にも届くような甲高い声の木遣り歌が私の心を大きく揺さぶり、そしてひどく高揚させる。多くの男たちが命の危険を冒してまで大木に乗って急坂を滑り落ちたいと思うのも無理はないと思った。その大木は上社では八ヶ岳中腹横川国有林から25キロの距離を曳く。下社では八島高原東俣国有林から10キロを里曳きする。御柱祭の曳行・建立は氏子の神社への奉仕によって行われる。大祭の年は婚礼や葬儀は控えめになり、家屋新築も見送られるなど、諏訪地方では最も重要な祭事として位置づけられるのだ。
2社目、下社春宮に向う。春宮は秋宮から北西に1.2キロ離れた地にあり、毎年2月から7月まで祭神が祀られる。秋宮よりこぢんまりとした感じだが、近くには砥川が流れていてせせらぎが気持ちのよい空間をつくり出している。
そして木落し坂へ。傾斜は35度、100メートルの長さがある。上から覗くととても乗れそうにない傾斜だ。落ちたらすぐに車道で、川が車道に沿って流れている。ここで記念撮影する宿主と小林先生ご夫妻の写真、そして秋宮で宿主と撮影した小林先生の写真が写真集『みなとやつれづれ』に収載されているが、雑誌の特集などで見る緊張感のある鋭い眼差しの先生とはちがってとても柔らかい温和な表情をなさっている。
「みなとや旅館」に着く。荷物を上げて順々に入浴する。外湯で湯船からうまい具合に月が見える。諏訪大社の御神湯として千年の歴史を持つ名湯「綿の湯」が引かれている。湯船には白い玉砂利が敷かれまわりは手入れの行き届いた庭だ。「ほんとうに温泉が好きなら、この風呂で体を洗うことはコケなことだ」と小林先生がおっしゃったのもうなずける。
いよいよ夕食だ。テーブルには大皿に馬刺、諏訪湖のワカサギ、小エビ、フナ、ザザムシ、イナゴ、蜂の子、コゴミ、ヨシナのコブ、アザミ、ジゴボウなどが素材の特長を生かして調理されている。小林先生ともご一緒にいただきたいということで、席をもうけて写真を立てかけ徳利と盃を用意する。お酒がすすんでくると女将の小口芳子さんがご自分用の小椅子をもってきて小林先生のことを話して下さる。
小林先生はこの宿での白洲正子さんとの会話の中で「諏訪には京都以上の文化がある」といわれ、求めに応じて、それを書き留められた。今回実物を拝見できなかったが、先生のおっしゃる「京都以上の文化」とは何を指すのか自分で確かめてみたいという気持ちが今回の旅にはあった。小林先生は具体的に何をさしておっしゃったのだろうか。
食事の席に話を戻す。熱燗がすすむ。小林先生も一緒に召し上がっている気配を感じる。かつて私はこの諏訪の「ぬのはん」という宿で中沢新一氏の対談の収録をした。小林秀雄賞を受賞されて間もない頃ということもあってか、終った後の食事の席で小林先生のことを中沢氏が口にした。こうした席での小林先生はたいへん厳しかった、余計なことを話す編集者はひどく怒られたと聞く。それはその時の我々の不用意な言葉に対する戒めであったのだが。小林先生の著作のように文学史に残る本を出版することは、担当する編集者はいかに大変だっただろうかとその後想像をめぐらせたことを覚えている。今回偶然にも小林先生の担当をされていた池田塾頭とご一緒させていただいている。不思議な巡りあわせだ。
翌朝5時45分に宿を出発して春宮の朝御鐉祭へ。御祭神に朝の食事を捧げる神事である。四社ともに朝六時に行われるが、「川のせせらぎが聞こえて私は一番好き」という若女将のことばが決め手となり春宮へ。まだ薄暗く静寂につつまれた境内。見物する人は我々だけで、川の流れる音に心が洗われるような時間であった。
宿に戻って朝食となる。キジのガラだしによるそば雑炊だ。小林先生もたいへんお好きだったとのこと。そう聞くとさらにおいしく感じられる。これを目当てに来る人もいるとのことだ。昨晩からここでしかなかなか味わえない品々に驚きの連続だ。ここで塾頭は突然気付いたようにおっしゃった。「『諏訪には京都以上の文化がある』の『諏訪』って、この『みなとや』を指して言われたのではないかな。『京都』というのは小林先生の定宿だった『佐々木』でしょう。つまり、諏訪の『みなとや』は京都の『佐々木』に勝るとも劣らない、それほど気に入った、という気持ちで言われたのではないかな」
「佐々木」は京都清水五條坂にあった料理旅館だ。祇園の一流の芸妓であったお春さんがはじめ、その姪の佐々木達子さんがその後を継いだ。近衛文麿、吉田茂、志賀直哉、里見淳、河上徹太郎、吉田健一等々が贔屓にしていた隠れ宿だ。
白洲正子さんの随筆集『夕顔』収録の「京の宿 佐々木達子」によると、小林先生は「この宿屋は国宝だよ」といって愛していたとある。続いて以下のように書かれている。
名妓であったおばさんには、多分にお譲ちゃん的なわがままなところがあり、それが魅力でもあったが、長年下積みで苦労した達子さんは我慢強かった。私たち一家はどんなに彼女のお世話になったかわからない。祖父、――つまりおばさんの父親が気難しい板前であったので、彼女は小さい時から料理が上手で、味にはうるさかった。京都の料理屋は隅から隅まで知りつくし、料理ばかりでなく、それは日常の生活万端に及んでおり、これはと思う老舗では「佐々木」といえばどこでも一目置かれていた。すべてそうしたことは先代のおばさんから受け継がれた訓練によるが、彼女はそれに応え、たださえうるさい客たちに至れりつくせりの接待をした。そういうものこそ私は、千年の歴史を誇る京都の「伝統」と呼びたいのだ。
小林先生は何でもご自分の体験によってでしか語られない。諏訪の「みなとや旅館」での滞在が先生にとってはたいへん満足のいくものだったのだろう。
2日目は最初に神長官守矢資料館へ。諏訪大社の祭祀を司った守矢家の屋敷にある。この建物を設計したのは藤森照信氏だが、そのいきさつについては中沢新一対談集『惑星の風景』で藤森氏との会話の中で詳しくふれられている。照信という名は第77代神長官守矢真幸氏が付けた。第78代の守矢早苗氏も藤森氏と幼なじみというご縁があり、茅野市役所から設計を依頼された。自然の素材である石とか土とか木をかなり荒々しく使って建てられている。1991年開館で藤森氏にとってはデビュー作だ。この神長官守矢資料館には、神様と一緒に「生肉食う」とか、「血の滴る首を捧げる」とか、「脳味噌をまぜた肉」を捧げるという、当時の諏訪信仰の一番原始的な部分を再現してある。御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復元している。御頭祭では鹿の生肉や脳味噌あえや焼き皮を夜を徹して神人とともに食した。屋敷内の小高くなった場所にはミシャグチを神社として祀る。諏訪社の神事ではこのミシャグチ神は非常に重要な役割を果たしていたという。
3つ目の上社前宮へ。ここは健御名方神が出雲から諏訪に入った時、最初に鎮座した地とされ、諏訪大社四社の中で最も古い由緒をもち、かつては祭事の中心であった。祭神は、中世まではミシャグチ神、現在は八坂刀売神で、諏訪信仰の発祥の地と伝えられる。諏訪市立博物館。4つめの上社本宮で正式参拝を終えて、最後に地元の銘酒「真澄」をおみやげに購入するため「セラ真澄」に立ち寄る。諏訪大社の宝物「真澄の鏡」にあやかって命名されたという。「みなとや旅館」でいただいた熱燗も「真澄」だ。あまりにおいしかったので買って帰ろうとするが、「真澄」にもいろいろあってどれかわからない。連れの一人、坂口慶樹さんはお酒に詳しいので「坂口さん」と呼ぶと、そばにいた塾頭は「サケグチですよ」とおっしゃる。きのうに引き続き2度目だ。1回目は単なる冗談かと思ったが、ひょっとして深い意味があるのではと思い、調べてみた。
柳田國男の『石神問答』という本によってシャグジと関係のあると思われる地名として指摘されている中に坂口山(さくちやま)とある。また『精霊の王』の中で中沢氏は批判的ながらも次のように民俗学者中山太郎氏の推論をとりあげている。
御左口神〔ミシャクジ〕を、中山太郎は酒の神であると考えている。古い時代は酒は女性が噛んでつくるものだった。今では酒造りを技とする職人を「杜氏」と言っているが……御左口神とは酒殿の御祭神であると考えたわけである。
お酒を買う。昨日「みなとや旅館」で出たお酒の銘柄もわかった。だれかがショップの人に聞いたが、サケグチさんの舌はあたっていた。帰りの電車の中でおいしくいただきながら、新宿駅に着く。別れ際に塾頭は、今回のことを原稿にまとめるようにと再度おっしゃった。行きよりもやや重くなった荷物を背負って帰路についた。
(了)