問い続けることをめぐって考えること

鈴木 美紀

小林秀雄の「本居宣長」を繰り返し読んでいる。通読するのはせいぜい一年に一回あるかないか。あとは付かず離れずで、その時々で数章くらいを眺めながらあれこれと考える。なぜなら、この本を味読するために、私たちは年に一つ、質問することを課せられているからだ。毎年質問は作ってはいるものの、いつまでたっても質問作りは難しい。ちっとも上達しないのはなぜだというのが実は一番の質問なのだけれど、と思いながら読んでいたら、今回は、第三十二章にある「思い描かれるところは、理屈にはならないが、文章にはなる。文章は、ただ読者の表面的な理解に応ずるものではない、経験の深所に達して、相手を納得させるものだ。この働きを、孔子は深切著明と言った」とある文が、なぜか輝いて見えた。

 

だいぶ読み慣れてきたものの、この「本居宣長」という本はなかなかに厄介な本で、ぼんやり眺めている時にはフムフムと感ずることが多々あるのだが、いざ質問をこしらえようと思って前のめりに読み出したとたん、なんだかわけがわからなくなってくることがよくある。無私にならないと読めないようにできているのであろうか。

 

この本を読むときのスタンスはいつも、小林先生の声が聞きたいということにつきる。というのも、初めてこの本を読んだ時の印象が忘れられないからだ。入塾したことをきっかけに、読まねばならない本としてこの本に出会った。一回目の通読は散々なもので、一章から読み出し、二章に入ったあたりからすでに字面や意味をつまみ食いするだけで、声が聞こえなくなっていった。そして最終章でもう終わりにしたいという小林先生の声が急にはっきり聞こえて終わってしまった。後にも先にもない、何とも言葉にし難い余韻だけが残る読書体験であった。小林先生は、私たちに宣長の肉声を届けたかったと分かってはいるものの、まずはその前にしっかりはっきり余すことなく小林先生の声をいつも聞きとれる人になりたいものだ。

 

そんな私でも、慣れというものはありがたいもので、今では読めばひとまずは小林先生の声は聞こえてくるようになってきた。そして、引用部分も以前ほど苦にならず自然と読めるようになっている。今回気になった三十二章は、主に徂徠のことが書かれている。繰り返し繰り返し反復して眺めているうちに、孔子のことを語る徂徠の声、徂徠のことを語る小林先生の声が少しずつ聞こえてきて、増幅され、響き合い重なり合い、なんだか男性コーラスを聴いているかのような錯覚に陥った。実のところは、読んでいて誰が言っているのか分からなくなってしまっただけなのかもしれないのだけれど。

 

第二章で、宣長の演じた思想劇を辿ろうとしていると小林先生は言っている。そうは言われても、私にとってはなんとも照明の暗い一人芝居を遠くから見ているかのように始まったこの劇は、ひたすら観劇の回を重ねてみれば男性コーラスも付いて賑やかになってきたようだ。この感覚は自分の錯覚だとしても面白いなぁと思っていたら、池田塾頭が、本誌『好・信・楽』の連載「小林秀雄『本居宣長』全景」の第十四回にこう書いていた。「『本居宣長』の行間から、ベルグソンとも話しこむ氏の声がしばしば聞こえてくる」、と。なんと、この本を読み続けていると、いずれベルグソンまで出てきて小林先生との対話を繰り広げてくれるのか。ということで、これから先もまだまだお楽しみがたくさん、大団円になって行きそうだ。

 

問いを立てることは手間がかかるが、ひとたび考えることは思索の足がかりとなり次の一歩への推進力になることを実感している。「本居宣長」を読み始めて二年目の時に、第十章に出てくる「精神は、卓然と緊張していた」という言葉の使い方が気になって質問を考えたことがあった。これをきっかけに緊張という言葉の裏表を感じ、とくにいい意味合いの部分が自分の中で大きくなり、私にとって緊張という言葉がとても豊かなものになった。緊張という言葉は、他の章にも何度か出てくる言葉で、最終章である五十章の最後にも、「思惟の緊張」という言葉が出てくる。質問作りのおかげで、緊張という言葉が私にとって考えるひとつの足跡になり、その周囲を何度も廻るうちに、ふと視界が開けるかのような、見えなかったものが見えるような、すっとお気に入りとなる文章に出会えるようになってくるから不思議である。池田塾頭から提示された「言葉」「歴史」「道」も同じように思索の足がかりとなる言葉で、これらを廻りいずれ上手く自分なりの問いを立てていけるようになりたいものである。

 

―文章は、ただ読者の表面的な理解に応ずるものではない、経験の深所に達して、相手を納得させるものだ

 

私たちは「本居宣長」を味読するという共通のテーマを掲げ、それぞれに苦労しながら自問自答する試みを続けている。『好・信・楽』にある仲間の自問自答を読む私は、経験の深所に達せられ、相手から納得させられている感があるからこそ、この一文が気になったのだろう。こんな風に、前は素通りした文で、立ち止まる自分を発見するのは面白い。自分の問いという目印に従って「本居宣長」への好、信、楽を新たにする読書旅をこれからものんびり続けていきたい。

(了)