小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十七 気質の力(上)

 

1

 

第一章、第二章と、宣長の思想劇の幕切れを眺めた小林氏は、第三章に入って一気にその幕開きへ飛ぶ。第三章は、次のように書き起される。

―宣長は松坂の商家小津家の出である。……

「本居宣長」は、ここから本論が始まる。氏は第三章でまず宣長の出自を辿っていくのだが、本論最初のこの一行は、宣長伝の単なる書き出しではない。宣長の学問は、公家や武士の学問とはまったく異なる「町人の学問」だった、それを強く言いたい氏の結論のひとつである。

日本における学問は、久しく儒学が中心であり、それも江戸時代に入るまでは公家と僧侶の専有、僧侶も主には禅僧の専有だった。慶長八年(一六〇三)、徳川家康が江戸に幕府をひらき、後に近世儒学の祖とされた藤原惺窩の周旋によって惺窩の弟子、林羅山を識り、以後、家康が羅山を重用したことで武家にも朱子学が浸透した。「町人の学問」は、この「武家の学問」から四十年ないし五十年を経た頃に芽をふいた。

その「町人の学問」の先駆けは、伊藤仁斎だった。仁斎は羅山に後れること四十年余りの寛永四年(一六二七)、京都の商家に生れ、寛文二年(一六六二)、自宅に私塾を開いて「論語」を講じ、公卿、富商から農民まで、あらゆる階層にわたって弟子を擁した。が、こうして仁斎が始めた「町人の学問」も、普及という面では未だしだった。宝永二年(一七〇五)、仁斎は七十八歳で世を去ったが、その仁斎の晩年と相前後して日本の学問に「町人の時代」が来たのである。

小林氏の文章を読んでいこう。

―宣長は、享保の生れであるから、西鶴が「永代蔵」で、「世に銭程面白き物はなし」と言った町人時代の立っている組織が、いよいよ動かぬものとなった頃、当時の江戸市民に、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた、その伊勢屋の蔵の中で生れ、言わば、世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

本居宣長は、享保十五年(一七三〇)五月七日に生れた。徳川時代の中期で、八代将軍吉宗の治世が十年になろうとする頃である。「西鶴」とあるのは井原西鶴で、「永代蔵」は西鶴の浮世草子「日本永代蔵」であるが、早期資本主義時代の経済生活をリアルに描いた(「新潮日本文学辞典」)と言われるこの作品が刊行されたのは貞享五年(一六八八)だから、宣長が生れた年はそれから約四〇年が経っていた。

士、農、工、商と、徳川時代の身分制度では最下位に置かれた商人であったが、慶長五年の関ヶ原の戦いを最後に合戦はなくなって泰平の世となり、武士の存在意義はゆらいで経済的にも逼迫、寛文元年には旗本・御家人を救済するため最初の相対済令あいたいすましれいが発令されるまでになった。西鶴の「永代蔵」はそれからさらに約三〇年後のことで、商人は明らかに活力で武士をしのぐようになっていた。

小林氏の文中にある「伊勢屋」は、伊勢の国(現在の三重県)から江戸に進出し、驚くほどの財を成した商人たちのことである。彼らの多くは松坂の出で、次々と革命的な流通手法を繰出して日本橋に大店の軒を連ね、そこから「江戸に多きものは伊勢屋、稲荷に、犬の糞」、すなわち、「伊勢屋」は掃いて捨てるほどに何軒もあると言われるまでの繁盛ぶりだったのだが、ここでまずよく読み取っておくべきは、これに続けて言われている小林氏の言葉である。宣長は、そういう松坂商人の家系に連なる生れであった、しかし、彼は、

―世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

小林氏は、第三章、第四章と、宣長の出自・来歴を辿りながら、後々、前人未到の学問を大成するに至る宣長の気質を見ていくのである。その「気質」という言葉を、氏が「本居宣長」で最初に口にするのは第四章だが、そこでは次のように言われている。

―宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた。「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに(以下略)」……

大平おおひら」は、宣長の家学も継いだ養子である。ここから照らしてみれば、第三章で言われている「初心」は宣長生来の気質に発した初心と解してよいであろう。すなわち宣長は、何を措いても学問をする気質をもって生まれていた、宣長の向学心は、宣長の先天的な気質そのものであったということである。

だが、宣長が長ずる道で、この生来の気質を「町人の血」が染めた。

小林氏は、宣長の出自を五世の祖まで遡り、「すると、彼は、百五十年も続いた新興の商家の出ということになる」と言って、そうであるなら、

―彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい。……

と言う。「町人」とは、士、農、工、商の、工と商をまとめて呼んだ言葉であるが、氏は続けて、「養子の大平も、松坂の豆腐屋の倅である」と、念を押すように言っている。

 

さてそこで、小林氏が取り上げた「町人心」である。氏の文脈に沿って言えば、この「町人心」こそは「向学心」という宣長の先天的気質を染めた後天的な気質であるが、氏がそれを言うために「町人」と対置した「武士」を、わざわざ「主人持ちの」とことわって言っていることに心を留めておきたい。「主人持ち」の武士が、小林氏の言う「町人心」のありようをまざまざと見せてくれるからである。

小林氏は、暗に、こう言っているのである。宣長が家系から承けついだ精神、それが「主人持ち」の武士のものであったなら、恐らく私たちの前にはいま私たちが目にしているような宣長の「源氏物語」研究も、「古事記伝」も、残ってはいなかったであろう……と。「主人持ち」は、何事につけても主人の顔色を読み、主人に服従しようとする。そういう気質で学問をすれば、師の説になずみ、師の説に追従するだけの学者となるほかない。

だが、宣長は、そうではなかった。京都遊学から帰った年の六年後、宝暦十三年(一七六三)に三十四歳で書き上げた「源氏物語」の注釈書「紫文要領」の「後記」でこう言った。

―右「紫文要領」上下二巻は、としごろ(年来)丸が心に(私の心に)思ひよりて、此の物語をくりかへし、心をひそめてよみつゝかむがへいだせる所にして、全く師伝のおもむきにあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也、見む人あやしむ事なかれ、よくよく心をつけて物語の本意をあぢはひ、此の草子とひき合せかむがへて、丸がいふ所の是非をさだむべし、必ず人をもて言をすつる事なかれ、かつ文章かきざまはなはだみだり也、草稿なる故にかへりみざる故也、かさねて繕写ぜんしゃするをまつべし、是又言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ。……

この「紫文要領」の「後記」については、小林氏は第四十章で言及する。そこではもっと深い含みが指し示されるのだが、今ここでは宣長が言っている三つのこと、「紫文要領」は「全く師伝のおもむきにあらず」(師匠から教えられたり伝えられたりしたものではない)、「必ず人をもて言をすつる事なかれ」(無名の人間が書いたものだからと言って私の言うところを無視したり破棄したりはしないでほしい)、「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」(発言の当否を性急に論い、それを言った人間を短兵急に切り捨てるなどということのないようお願いする)をしっかり聞き取っておきたい。これらこそは「町人心」の意気であり、「主人持ちの武士」にはとうてい言えない言葉だからである。

宣長の「町人心」については、いっそう現実的に、具体的に、第四章で語られる。後述する。

 

 

宣長は、一五〇年続いた商家の出であった。だが十一歳の年、父定利が江戸の店で死んだ。宣長は、弟一人、妹二人とともに母お勝の手で育てられ、十九歳で紙商、今井田家に養子に出されて紙商人となる。しかし二十一歳の時、今井田家を去って母の許に戻った。小林氏は書いている、

―「家のむかし物語」には、「ねがふ心に、かなはぬ事有しによりて」とある。ねがう心とは、学問をねがう心であったろう。……

「家のむかし物語」は、宣長晩年の手記で、小林氏は宣長の出自をこの「家のむかし物語」に拠って書いているのだが、今井田家離縁に際して言われた「ねがう心」は、「学問をねがう心」だっただろうと小林氏は言っている。その「学問をねがう心」は宣長生来の気質、先天的な気質だった、そこをお勝は鋭く見ぬいた。以下、「此のぬし」とあるのは父定利の家業を継いだ宣長の義兄定治、「恵勝大姉」は母お勝、「弥四郎」は宣長であるが、この定治も江戸で病死し、店は倒産した。

―此のぬしなくなり給ひては、恵勝大姉、みづから家の事をはからひ給ふに、跡つぐ弥四郎、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ、書をよむことをのみこのめば、今より後、商人となるとも、事ゆかじ、又家の資も、隠居家の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし、もしかの店、事あらんには、われら何を以てか世をわたらん、かねて、その心づかひせではあるべからず、れば、弥四郎は、京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよからめ、とぞおぼしおきて給へりける、すべて此の恵勝大姉は、女ながら、男にはまさりて、こゝろはかばかしくさとくて、かゝるすぢの事も、いとかしこくぞおはしける……

宣長は、商いの方面にはうとく、書を読むことだけを好んだ……。ここでも宣長の先天的気質が窺われている。お勝は家産の危機をも見据え、宣長を医者にした。宣長が医者になっていたことが功を奏し、一家は実際に離散の憂き目を免れることができた、宣長の母に対する敬意と謝意はこれによっていっそう募ったのだが、宣長の本心からすれば釈然としないものがあった。医はあくまでも生活の手段に過ぎなかったのだが、

―医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこゝろ也……

「ほい」は「本意」。医者を生業とすることは見苦しくあさましく、いっぱしの男子が本来の志とするところではないが、自分ひとり潔くあろうとして先祖代々の家を衰えさせるのはますます道にそむく、力の及ぶかぎり生業に励み、家を荒さず、傾けさせないように図るべきである、これが宣長の心である……。

宣長は、母の機転と才覚には敬意と謝意を抱きつつも、心の底では医者を生業とすることを恥じている。当時、医者や僧侶や儒者は、農民のように物を作りだすことをしない者であり、そういう意味では商人と同じで、そのため世間からは下に見られていたのである。

だが宣長が、「医のわざをもて産とすることは、ますらをのほいにもあらねども」という心底を表に見せることはなかった。なぜか。ここにも宣長の気質がはたらいていたのだが、それを言うために小林氏はすこし遠回りする。

―常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

とまず言い、

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……

逸話はみな、彼の心のうちに姿を消す……、これもよく念頭に留めておこう。一般に逸話は、語られる当人の目に見える行為や行動に関わるもので、武勇伝などはその代表だが、宣長には、彼の行為・行動が衆人の興味をそそるような逸話はほとんどない。わずかに表に現れ、目にとまった逸話も宣長の心の動きを垣間見させるだけのものであり、その出所も結末も杳としてつかみどころがない。鈴屋の書斎へ上がる階段も、上がりきるあたりで宣長の心のうちに姿を消すのである。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

宣長の日常生活の場と学問のための書斎とをつなぐ階段を、小林氏は宣長の実生活と思想との間の通路と見た。そして、言う。

―実際、前にあげた「これのりなががこゝろ也」の文章にしても、その姿は、この階段にそっくりなのであって、その姿を感じないで、この反語的表現を分析的に判読しようとしてみても、かえって意味が不明になるだろう。……

小林氏は、終生通じて「文の姿」に最大の関心を寄せ、文意をとろうとするより文の姿を「眺める」ことに時間をかけた。ここで言われている「その姿は、この階段にそっくりなのであって」に、「文の姿を眺める」小林氏がありありと見てとれる。

―宣長は、医というものを、どう考えていたか。「医は仁術也」という通念は、勿論、彼にあっただろうし、一方、当時、「長袖ちょうしゅう」或は「方外ほうがい」と言われていた、この生業なりわいの実態もよく見えていただろう。すると、彼が「ますらをのほい」と言う観念は、どうも不明瞭なものになる、と言ったような次第だ。……

「長袖」は、当時、公家、医師、学者、神主、僧侶などをさして言われた。彼らが常に袖の長い着物を着ていたからだが、この呼び方には嘲りの響きがあった。また「方外」は、世俗を超えた世界に属する者の意で、やはり嘲りの語感があった。宣長が、医を生業とすることは「ますらをのほい」ではない、すなわちいっぱしの男として不本意だと言っているのは、そうした身分社会の通弊があってのことである。だが……、

―彼の肉声は、そんな風には聞えて来ない。言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった。彼は十六歳から、一年程、家業を見習いの為に、江戸の伯父の店に滞在した事もあるし、既記の如く、紙商人になった事もあるし、倒産の整理に当ったのも彼だった。……

氏が「これのりなががこゝろ也」の文章を反語的表現と言っているのは、医を生業とすることは気がひける、しかしだからと言って我意を通し、先祖代々の家名を損うとなればそれ以上に罪が重い、ゆえにまず家名の存続に努力する、という宣長の決心が、無理して自分を偽っていると読めるにもかかわらず、宣長は「これのりなががこころなり」と断言しているからである。

そして氏が、この反語的表現の文章を、書斎に上がる階段にそっくりだと言うのは、宣長が実生活で医を生業とすることに後ろめたさを覚えながらもこれを回避せず、思想面で宣長生来の希みである学問も断念せず、両者をともに立ててしかも両者の摩擦や衝突を避けるための工夫も怠らなかった、そういう宣長の心持ちが、この文章によく現れていると言いたいためである。その心持ちを感じとろうとせず、宣長の本意は結局どこにあったのかと、文意を分析的に解読しようとしたのでは宣長の「ほい」が不明瞭になる、ということは、宣長の学問に向かう心の糸筋が辿れなくなる、ひいては宣長の学問の姿が見てとれなくなる、と小林氏は言いたいのである。矛盾は矛盾として、軋轢は軋轢として抱えたまま、強いてそこに整合や調和を求めず、とりあえずできることをする、言えることを言う、それが宣長であった、ここにも宣長の気質が窺えるのである。

 

―佐佐木信綱氏の「松阪の追懐」という文章を読んでいたら、こんな文があった。「場所は魚町、一包代金五十銅として『胎毒丸』や『むしおさへ』などが『本居氏製』として売り出された。しかし、初めは患者も少なく、外診をよそおって薬箱を提げ、四五百よいほの森で時間を消された。『舜庵先生の四五百の森ゆき』の伝説が、近辺の人の口の端にのぼったこともあったという」。出所は知らぬが、信用していい伝説と思われる。いずれ、言及しなければならぬ事だが、開業当時の宣長の心に、既に、学問上の独自な考えが萌していた事は、種々の理由から推察される。彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである。恐らく、「四五百の森ゆき」は、その頃は、未だ出来なかった書斎へ昇る階段を、外す事だったであろう。……

彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである……、先に書かれていた、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」がここにつながる。「魚町」は宣長が起居した町、「舜庵」は宣長の号、「四五百の森」は現在の「本居宣長記念館」の一帯にあった森である。

ついでに、彼が、階段を下りて書いた薬の広告文をあげて置く。まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる。……

そう言って、小林氏は、宣長の広告文を引く。

―六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々コヽニ挙ルニ及バズ、シカル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、コレマタ世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而已サノミ其吟味ニも及バズ、レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユエニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品をエラミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しもリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、カツ又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」……

第二章に、宣長の「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものであった」と言われていた。いまここで言われる「まぎれもない宣長の文体」は、まさに「生活感情に染められた文体」そのものである。ただしこれを、薬の広告文だ、生活感情が出るのは当然だろう、などと受け流しては誤る。後年の「本の広告」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、小林氏はやはり宣長のこの広告文を引き、「注意すべきは、こういう文にも、宣長という人の気質に即した文体は歴然としているという事」であり、「彼の文体の味わいを離れて、彼が遺した学問上の成果をいくら分析してみても駄目な事」であると言っている。氏が「感じて貰えれば足りる」と言っている文体に現れた宣長の気質、そしてその気質がかきたてる生活感情が、やがて宣長の眼に、「源氏物語」や「古事記」の読み筋を映し出すのである。

そして、この広告文を引いてすぐ、間髪を容れずに小林氏は言う。

―宣長の晩年の詠に、門人「村上円方まどかたによみてあたふ、家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」というのがある。宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。……

「家のなり」は暮しを立てるための仕事、家業、「なおこたりそね」は怠るでないぞ、「みやびを」は風雅を愛する者、である。ここにも実生活と思想との「階段」がある。

小林氏は、「本居宣長」連載中の昭和五十一年新春、「新潮社八十年に寄せて」(同第26集所収)を書いてこう言っている。

―若い頃からの、長い売文生活を顧みて、はっきり言える事だが、私はプロとしての文士の苦楽の外へ出ようとしたことはない。生計を離れて文学的理想など、一っぺんも抱いた事はない。……(同第二十六集所収)。

「先ず生計が立たねば、何事も始らぬ」は、批評家であるより先に生活人であること、これを人生の根本とした小林氏の信念でもあった。

宣長は、宝暦七年、二十八歳の十月、五年余りにわたった京都遊学から松坂へ帰り、ただちに医業を始めたが、翌年の夏、「源氏物語」の講義を自宅で始め、以後「伊勢物語」「土佐日記」「萬葉集」「源氏物語」「萬葉集」また「源氏物語」……と死の直前まで続けた。しかし、

―講義中、外診の為に、屡々中座したという話も伝えられている。……

家人の耳打ちを受けて聴講者にことわりを言い、薬箱を提げて出ていく宣長の背が見えるようである。

この一行には、小林氏の思いも託されている。若い頃から曲りなりにも批評文を生活の資にできた小林氏と、学問は生活の資にならなかった宣長とでは一概に言うことはできないが、小林氏も筆一本で生活できるまでには長い道のりがあった。昭和七年、三十歳の四月から立ち、四十四歳の八月まで務めた明治大学の教壇は、講義とはいえ小林氏にとっては宣長の外診にあたるものであった。

 

3

 

こうして見てくると、宣長の気質とその力は、思想と実生活がせめぎあう人生の局面、そこに最も如実に現れていたようだ。「思想と実生活」という言葉が、「本居宣長」で最初に用いられるのは第三章、書斎への階段を見せるくだりである。そこをもう一度引こう。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。

この書斎への階段を見る小林氏の眼は、氏の早くからの文学観、思想観に基づいている。その文学観、思想観はとても一言で言うことはできないし、一言で言えないからこそ氏は六十年にもわたって文章を書き続けたのだと言えるのだが、氏にまだなじみのない読者のためには、なぜ氏が「思想と実生活」と両者を並べていきなり言い、その両者は、直結しながらも摩擦や衝突を起こす関係にあったと言っているのはどういうことか、そこにはふれておこうと思う。「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏が言っていることもしっかり思い起しておこう。

 

昭和十一年、三十四歳の年の年頭から初夏にかけてのことである、小林氏はロシアの文豪トルストイの家出と死をめぐり、作家の正宗白鳥と論争した。その経緯についてはすでにこの小文の第十一回に書いたのでここには繰り返さないが、論争の発端となった「作家の顔」(同第7集所収)で小林氏はこう言った、

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。……

さらに、昭和二十六年、四十六歳での「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言っている、

―思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の眼ざめた表現である。……

この小林氏の言う「思想」と「現実」に即していえば、トルストイは、現実にあっては野垂死のたれじにという悲惨な死を遂げた、だがその死に至るまでの間に現実とはまったく別途に仮構されていた作品、「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」や「復活」といった小説家としての思想において彼は生き続けた、実生活者トルストイと小説家トルストイとはひとりの人間である、したがって両者を切り離すことはできないが、両者は共存もできない、なぜなら思想は現実すなわち実生活を超えようとする精神の眼ざめた表現であり、いつまでも個人の実生活をひきずっていたのでは万人に通底する思想に行き着けないからである。これが、小林氏の言う「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」の意味するところである。

これを、宣長に即して言えば、こうなる。先に引いた、門人村上円方に与えた歌、「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の後に、小林氏は、

―宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。彼は、病家の軒数、調剤の服数、謝礼の額を、毎日、丹念に手記し、この帳簿を「済世録さいせいろく」と名附けた。彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい。……

と言っている。宣長は、「学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった」というのである、これこそは、「宣長の思想は、宣長の実生活に訣別していた」ということである。

したがって、小林氏が、宣長にとって思想と実生活の「両者は直結していた」が、「両者の摩擦や衝突を避ける」ための工夫が要った、それが書斎への階段だったと言っているのは、昭和十一年以来の氏の思想観、実生活観からなのである。トルストイと同じく本居宣長も、彼の実生活とは別途に構築された学問の思想において生き続けた、それは宣長自身がそうありたいと希い、心してそうしたからである。

小林氏は、他人のであれ自分のであれ、まず実生活を熟視した、その実生活からどう生きるか、なぜ生きるかの思想を紡ぎ、生涯かけて思想を実生活の上に位置づけようとした、そうでなければ人間は生きていけないと見てとっていた。いまここ第三章で、そういう小林氏の思想観をあえて知っておかねばならぬということはない、しかし氏が終始立っていたこういう思索の足場を頭にいれておくことは有用だ。これから徐々に小林氏が踏みこんでいく「源氏物語」の物語論、「古事記」の古伝説論が読みとりやすくなるからである。このことも、この小文の第十一回でひととおりは述べた。

 

だが、それにしても、なぜ人間は実生活を超えて思想というものを欲するのか、実生活をふりきってまで思想の独立を必要とするのか。「本居宣長」の最終、第五十章で小林氏は言っている、

―端的に言って了えば、「天地の初発の時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

ここで言われている「実際生活」は、それまでの文脈から、死の悲しみ、である。人間は、この世に生れ出た瞬間から死の予感を抱き、その死にどう向きあうかを模索しつづける、それが生きるということだとさえ言える、実生活と思想とはそういう位置関係にある。「本居宣長」第三章の段階から小林氏はそこまで見通していたと言うのではない。しかし、氏に直観はあったであろう、その直観が、「本居宣長」を宣長の遺言書から始めさせたとも言えるのである。

(第十七回 了)