ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その二 運命愛のひと~ダヴィッド・オイストラフをめぐる系譜

 

1945年1月23日ベルリンのブラームス……人間が人間として生きることさえままならぬとき、なんとか自らを人間に繋ぎとめようという、その切実な思いが、一瞬の芸術として結晶する。ゆえにその演奏が録音に遺された「幸運」を言ってみたりもするわけだ。言ってみたりはするものの、では現代の我々に、その録音から何が聴こえてくるというのか。フルトヴェングラーの指揮によるあの演奏には、どこか狂気じみた、いわばディオニュソス的なものが溢れ出している。もとより演出ではない。眼下に奈落が見えていればこそだ。その人生の一瞬が感動の要件なのだ。すなわちそこで実現されていた音楽は、きわめて特殊な、一回性の、「彼等」だけのものであって、芸術的普遍性をもって今日の私どもにそのまま連なってくるというような、美学的なものではない。

作家の五味康祐は、「その場に居合わせたかった演奏会」としてこのコンサートを挙げている。それを揶揄して「つまり、いつ殺されるかわからないような、そんな運命の最中にいたかったのか」と嘲笑した人があった。そんなのは五味ナントカの安っぽい感傷だ、というわけだ。しかし私は、五味は「本気」だったのだと思う。いずれ妄想にすぎないにせよ、思いは命と引き換えだったのだと思う。音楽を「聴く」ということについての彼の執念には、凄まじいものがあると思われるからだ。つまり、そうでもしなければあの演奏は本当にはわからないという、痛切な思いがあったのではないか。

といって、ではその、薄っぺらなコピーに過ぎざるところのレコードを黙殺できるかというと、どうもそれも難しい。ときにふと棚から取り出してターンテーブルに載せてしまう。そして感傷の誹りを承知のうえで、ちょっと涙ぐんだりもしてしまいかねないというわけなのだ。

これはどういうことだろうか。音楽に感動しているというより、音楽のもたらす感動に感動しているだけではないのか。

 

予備校で現代国語など教えていると、時々不遜なヤツがやって来て、「先生、文学なんか読んで何か意味があるんですか」などとおっしゃる。形式上は質問だが、これは「文学になど意味はない」という反語であり、一種の抗議である。わざわざ言いに来るヤツは僅かだが、そう思っている諸君は少なくないだろう。なるほど君には意味がないのだろう。それは君が人生の危機を知らない幸福者だからだ。奈落の淵に置かれた人間は、文学とか芸術とかを求めるものらしいぜ? 生きるに必要なものを求め尊重するのは当然だ。それは生物として生きる人間にとって必然的なことだ。ということは、ひょっとしたら、生きるに必要のないものこそが、生物としての人間ではなく、それを超えて、人間としての人間を成り立たせているのかも知れないじゃないか。君は、物事を合理的に考えようとしているのだろうが、どうせならそれを合理主義として徹底してみたらいい。純粋に必要ということだけを価値として考えるなら、自分が、この宇宙にたった一回存在するということ自体、無意味だということになるんじゃないか? そのような虚無に陥らぬために、文学の切実な意味を知ってそれに賭けた人間の感動をわかっておくというような、そんな経験もまた必要なものかも知れないよ?

 

「幸福」な時代を生きる我々の想像力などの手には負えないのだろうが、それでも、あの時代あの瞬間のベルリン市民が、音楽を切実に「必要」としたということ、これは考えておかねばならないことのように思われる。フルトヴェングラーが、ナチスとの緊迫した関係におかれながら、あえてぎりぎりまでベルリンに留まり続けた理由もそこにあるのではないか。亡命すれば、それは単に保身というだけでなく、ナチス政権に対する抗議の表明にもなる。しかしながら、では祖国に残る人々はどうなるのか? 彼等は、時の政権の性格などとは関係なしに、自らの国で、これからも人間として生きていかねばならないのである。フルトヴェングラーは自らに義務と責任を課し、命懸けでそれを全うしようとしたのではないか。暗闇の中で再開された演奏には、芸術に託して追求された、運命に拮抗する人間の勝利が賭けられていた、そう考えることはできないか……もとより、実証に基づいて言うのではない。ひとつの可能性として言うのである。希望である。

 

「人間に何かが足りないから悲劇は起るのではない、何かが在り過ぎるから悲劇が起るのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何も彼も進んで引受ける生活が悲劇的なのである」(小林秀雄「悲劇について」)

 

ダヴィッド・オイストラフの音は、真っ直ぐに「来る」。躊躇いがない。ひじょうに率直な、大きな演奏だ。今、私はそう思うようになった。手許にある幾つかのオイストラフ評を引いてみても同じである。「深く、バランスの取れた、音楽家としての技倆のともなった、気高さ、誠実さ、そして、飾り気のなさ」「その音の大きさ、幅、よく伝わる響き、またアーティキュレーションの朗々たる豊かさとビロードのように温かい肌ざわり」「その演奏の説得力と音楽的な純粋さ」「すべすべと肌理こまかく、硬質な力強さ」「ロシアの自然を感じさせる瑞々しい抒情性」……聴けばわかる、とでも言いたくなるようなその感触を、なんとか表現しようと言葉を探し重ねている、その評者の気持がうかがえる。私もまったく同感である。

だが、はじめは別段いいとも思っていなかった。技術的な問題などは私にはわからない。ただ、こっちに「来る」何かがなかったのである。

ところが、である。吉田秀和が、オイストラフのレコードを聴いて愉悦に浸る小林秀雄を描いているのだ。

「数年前、大磯の大岡昇平さんのお宅で、小林さんにお目にかかった。少しお酒が入ると、小林さんが、レコードをききたがり、『名人をきかせろ、名人をきかせろ』と言った。大岡さんが、『そう、何があるかな』といって、探したが、なかなかうまいのが出てこない。失礼だと思ったが、私が立って、大岡さんのコレクションをひっかきまわしてみると、いろいろモオツァルトの珍しい曲とか何とかはあっても、名人の名演と呼べるほどのレコードはほとんどない。やっと、オイストラフの独奏したシベリウスのヴァイオリン協奏曲がみつかったので、それをかけると、小林さんはとても陽気になり、一段と早口になって、『こうこなくっちゃ、いけません』とか何とか言いながら、真似をしたり、陶然とききほれたり、それを見ているのは、本当に楽しかった」(『ソロモンの歌』)

……これは困った。小林秀雄がオイストラフをいいと言ったらしい。となれば、オイストラフが悪いとは、すなわち私が悪いということだ……まさかそんなふうに従順に考えたわけでもないが、オイストラフを聴き直さねばならない仕儀になったとは、これは直ちに思ったことだ。ソヴィエト連邦の巨匠オイストラフなど、東西冷戦の心理的緩和剤として捏造された希望としか、それまでの私には見えていなかったのである。鉄のカーテンの彼方にも存在した尊敬すべき人格者、それはそうかも知れぬが、そもそも生産性至上主義の偏狭な合理主義的空間に芸術など育つはずもないのだから、巨匠オイストラフとはいえ、どうせ大したヴァイオリニストではない、というわけなのだった。事実、いまひとつ覇気に欠けるような、そんな演奏も彼にはある。だから、小林秀雄の称賛も、ひょっとしたら大岡昇平ならびに吉田秀和の親切に報いた挨拶にすぎないのではないか……。

まもなく、私は自らの偏見を糺されることになる。件のシベリウス、ヴァイオリン協奏曲。オイストラフはそれを幾たびも録音している。民族的な香りといい全三楽章の見事な構成といい、多くのヴァイオリニストを誘惑してきた名曲であるから、既に少なからぬ録音があるわけで、そこにさらに一枚を加えるとなれば、さすがに生半可なことはできないに違いない。それを、四回だか五回だか、とにかく呆れるほど繰り返し吹き込んでいる。もとより各地のオーケストラの要請に応えたにすぎないのかもしれないが、やはりオイストラフ自身にも並々ならぬ思いがあったのではないか。私の手許には三種あるが、みなそれぞれに違ってそれぞれにいい。北欧の風と大地の香気が立ち上るストックホルムのもの、いかにもロシアンとでも称すべき怒涛のモスクワのもの、そして美学的な構築が図られたフィラデルフィアのもの。

小林秀雄の聴いたのはどれだろう。それはともかく、「少し」、かどうかは疑わしいが、とにかく「酒が入って」、小林秀雄が「名人をきかせろ」と、おそらくは上機嫌に繰り返した、そのまことに率直な要求は、他でもない、ヴァイオリンが聴きたいということであったろう。音楽で「名人」といえば、少なくとも小林秀雄にとってはヴァイオリニストだし、「私はヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と書いてもいる。そこで大岡昇平と吉田秀和という弟子筋の二人があれでもないこれでもないと棚をひっかきまわした挙句、ようやく鳴り始めたのがたまたまオイストラフだった。シベリウスのコンチェルト第一楽章冒頭である。まずは静謐、北欧の黎明の大気に乗って、一頭の猛禽類が悠然と線を引いて舞う。その切れ目のない一筆書きの旋律を、オイストラフという正真正銘のヴァイオリニストが、そのストラディヴァリウスが、渾身の演奏で描ききるのだ。「こうこなくっちゃ、いけません」……。さてどんなものだろう。もとより私の空想にすぎないが、しかしいずれにせよ、この夜のオイストラフは、師匠の意に見事にはまったようである。

 

1908年、オデッサに生まれたダヴィッド・オイストラフが、当地の音楽院に入学したのは15歳、1923年である。それは、十月革命後の内戦に赤軍が勝利しソヴィエト連邦が成立した、その翌年だ。そして1924年にはレーニンが没し、ほどなくスターリンが権力を掌握することになる。オイストラフの音楽家としての始動は、かかる転換期に重なっている。しかもその当時、あの、綺羅星の如く居並んでいた国内の「先輩たち」は一人も残っていなかった。エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ヤッシャ・ハイフェッツ、そして彼等の師であるレオポルト・アウアーも、皆アメリカに渡ってしまった後だった。サンクトペテルブルクのアウアー一門は去ってしまったが、幸いなことに、アウアーの系譜を継ぐ名教師ピョートル・ストリャルスキーはオデッサに健在だった。オイストラフは五歳でその門下となり、そのままオデッサ音楽院、ストリャルスキーのマスタークラスに入ったのである。

ベルギーのアンリ・ヴュータン、ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキの後継として、1868年サンクトペテルブルクの音楽院にやって来たハンガリーのレオポルト・アウアー、このマジャールのユダヤ人教師によって確立されたヴァイオリン演奏の頂点ともいうべきロシア派は、上に述べたように一門を挙げて亡命、アメリカ合衆国にその拠点を移したが、ストリャルスキーによって本国にもその系譜は遺されていたのである。そこでオイストラフは、よほど大切に育てられた。エルマンやハイフェッツや、さらには後のメニューヒンが、セーラー服に半ズボン姿で活躍したその歳頃に、オイストラフは国家のヴァイオリン部門を担うべく将来を嘱望され、その才能の「時熟」のために第一級の教育を受け続けていたのである。彼が本格的な演奏活動に移行するのは、その教育課程をすべて終えた十八歳になってからだ。

ピョートル・ストリャルスキーが偉大な教師であったことは疑いない。オイストラフ以前にも、ナタン・ミルシテインという俊才を世に出している。となれば、その演奏を聴いてみたくもなるのだが、録音は存在しないようだ。これはよくあることで、殊にかつてのロシアや東欧では、その部門の第一位は教育に専心し、したがって録音活動等はしない傾向とみえる。晩年になって、自分の演奏がままならなくなる頃に、ようやく後継者のために僅かに録音するくらいのものなのだ。アウアーにも公式の録音はない。現代の我々にとっての録音活動が、専ら同時代平面上での、水平軸での普及を眼目とした商行為であるのに対し、二十世紀初頭のそれは、ときに後世への保存と継承を本質とする、縦軸の教育的行為であったことがわかる。ミルシテインは亡命してしまったが、オイストラフはロシアに留まり、師を立派に継承した。だとすれば、ストリャルスキー先生は、もはやご自身の録音のことなどお考えにならなかったであろう。音楽家の最大の仕事は教育だ、自分の名はどうでもよろしい、優れたものが受け継がれ育まれさえすれば……ひたすら個の達成を価値として生きねばならない現代人は、ただ嘆息し、仰ぎ見るばかりである。

ロシア派のロシアでの系譜はダヴィッド・オイストラフに託された。そして彼はモスクワ音楽院教授としてそれに応えた。息子のイゴール・オイストラフの他、ヴィクトル・トレチャコフ、ヴァレリー・クリモフ、マルク・ルボツキー・ヴィクトル・ピカイゼン、オレグ・カガン、ギドン・クレーメル……門下には錚々たるヴァイオリニストの名が並ぶ。が、他方、オイストラフには膨大なディスコグラフィーもあるのである。それは、言ってみれば、ソヴィエト連邦はその文化的内実によっても西側世界を圧倒せねばならない、という国家の方針の表れだ。それに応えたオイストラフはどこまでもロシアの人なのである。すべては、自分を育ててくれた国家のためだと言っている。ソ連を出て西側で暮らすつもりはないか、とメニューヒンに尋ねられて、何から何まで国家の世話になり、国家のお陰でヴァイオリニストになれたのに、その国家を捨てることなどできない旨を答えてもいる。その国家がソヴィエト連邦のことかどうか、それはわからない。しかし、政治体制の如何にかかわらず、祖国はあり、祖国の人々はいる。オデッサに生まれたロシア系ユダヤ人として、彼は祖国のために忠実であったのだ。彼は宿命に抗わず、それをすべてとして受け容れていた。

さて、1954年ロンドン・アルバートホール、翌年ニューヨーク・カーネギーホール。この二つのコンサートの成功で、オイストラフは世界が注目するヴァイオリニストになった。ロンドンでは、ハイフェッツと比較して称賛する批評も現れた。カーネギーホールのコンサートは、これはオイストラフにとっても記念すべき音楽会であったろう。この日のホールのスケジュールは、二時半からミッシャ・エルマン、五時半からがオイストラフで、八時半からはストリャルスキー門下の先輩ナタン・ミルシテインというプログラムであった。三人ともウクライナの出身のロシア系ユダヤ人である。さらに客席にはポーランド系ユダヤ人のフリッツ・クライスラーの姿もあった。「彼が深く物思いに沈んでわたしの演奏に聞き入っており、それから立ち上がって拍手してくれたのを見ると、私は感激のあまり、夢を見ているような気分になった」(マーガレット・キャンベル『名ヴァイオリニストたち』阿部宏之訳)

この頃、オイストラフはヴァイオリニストとしての人生の頂点にいた。そしてこの後、さらに高まる国家の要求に、演奏会とレコーディングの、息つく暇もない苛酷なスケジュールに、ただただ翻弄されていったのである。しかもそれに何の不満も抱かず、いつも上機嫌で、ときにはヴィオラを構えたりタクトを振ったりしながら、演奏家として、プロフェッサーとして、故郷と故郷の人々のために、幸福に生き抜いて、そして疲れ切ってしまったオイストラフ。その晩年の人生は悲劇的である。遺された音源に、その本領とは隔たるものがあるのもやむを得ない。しかしながら注意深くその演奏に耳を傾ければ、やはりオイストラフという人の人となりが見えてくるのである。

 

ソヴィエトでの録音に、ヴィターリのシャコンヌがある。聴けば一瞬で救済されるような、どんな人生も肯定されるような、そういう健全な音楽である。その感触は生涯を通じて変わらない。

 

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注)

ダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)……ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市オデッサに生まれる。ユダヤ系。父はアマチュアのヴァイオリニスト、母は合唱団の歌手。家は貧しくストリャルスキーはレッスン料を免除した。

1934年モスクワ音楽院助手、1935年国内コンクールで優勝し、そのまま必勝を期して、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場するが、カール・フレッシュ門下のジネット・ヌヴーの熱演に一位を譲った。しかし、1937年のブリュッセルの第一回イザイ・コンクールでは優勝してその地位を確乎たるものにし、1938年にはモスクワ音楽院教授に就任、続く戦時中には多くの慰問演奏会を行い、1941年スターリン国家賞を受賞した。戦後1946年のプラハの春音楽祭での成功で世界の注目を浴びるが、まもなく東西冷戦構造のなかで国際的なキャリアは中断、1951年のフィレンツェの音楽祭で西側の舞台に復帰した。1958年には国連総会で演奏、1960年レーニン賞、1961年カザルスのプラド音楽祭に招待。ショスタコーヴィチの二つのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフのヴァイオリンとピアノのためのソナタ等、オイストラフに献呈された作品の多さが、彼の国家における地位を示唆している。また、ソロ活動の他、第一回ショパンコンクールの覇者レフ・オボーリンとのデュオや、それに同年で同僚のチェロ奏者スビャトスラフ・クヌシェヴィツキ―を加えたトリオでも活躍した。

1974年、コンセルト・ヘボウの指揮者を務めるべく訪れていたアムステルダムで、一日がかりのリハーサルの後急死した。享年六十六。

 

シベリウスのヴァイオリン協奏曲……ニ短調、作品47。1903年発表、1905年改訂。オイストラフのものとして紹介した三種はそれぞれ、シクステン・エールリンク指揮ストックホルム祝祭管弦楽団(1954年)、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団(1970年?)、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1959年)。

 

エフレム・ジンバリスト(1889-1985)……ロシア・ロストフ州出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。

 

ミッシャ・エルマン(1891-1967)……ウクライナ・キエフ近郊出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。

 

ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)……現リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1917年にアメリカ合衆国に移った。

 

レオポルト・アウアー(1845-1930)……ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1868年よりサンクトペテルブルク音楽院のヴァイオリン科教授となり、ロシア派を確立する。1918年にアメリカ合衆国に移った。

 

ナタン・ミルシテイン(1903-1992)……オデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ピョートル・ストリャルスキー門下、のちレオポルト・アウアーに師事。1925年にアメリカ合衆国に移った。

 

イエフディ・メニューヒン(1916-1999)……ニューヨーク出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ルイス・パーシンガー門下。のちジョルジュ・エネスコ、アドルフ・ブッシュに師事。

 

フリッツ・クライスラー(1875-1962)……ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父はポーランド・クラカウ出身である。ウィーン音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガーⅡ世に師事、のちパリ音楽院でランベール・マサール門下。

(了)