ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その十六 パガニニの亡霊

 

夕飯を済ませて勉強部屋に撤退したら、何はさておきトランジスタラジオのスイッチを入れる。周波数は810、すなわち、FarEastNetwork―そう宣言する「ネイティヴ」の声がなんとも心地いい。そして、その声にいかにもぴったりの「洋楽」を、極東の、情緒不安定の受験生は、夜通し聴いていたわけだ。ブラック・アンド・ブルー、サム・ガールズ、エモーショナル・レスキュー……たとえばローリング・ストーンズの新譜などは、友人の誰よりも早く、このFENで知った。もっとも、そんな情報は自分から誰かに伝えるというものでもなかった。FENで洋楽を聴いているヤツなんて他にいくらでもいただろう。だが、学校で話題になった記憶がない。音楽はひとりで聴くものだった。

ある晩、いつものようにラジオをつけたら、何かぎくしゃくしたピアノが聞こえてきた。クラシックだ。局が違う。姉が聞いたのか。まあいい。直ちにダイヤルを回していつもの810キロヘルツに戻すところだが、ピアノの調子がどうも怪しい……で、ちょっと聴いてみる気になった。単調に繰り返されるリズムが、折れたり曲がったりしながら、不器用に進行していく。それに合わせてひとつの旋律がためらいながら流れてゆく。

ショパンであった。マズルカだと紹介していた。マズルカ、ポーランドの民族舞踊、なるほどとは思うものの、そこには、はじめて聴くような屈折があった。むろんショパンのマズルカというものを聴くのがはじめてだったというわけではなさそうだが、その演奏は、私の、それまでのショパンのイメージとは、よほど異なっていた。そして魅惑的だった。要するに、それまで私は、ショパンなど、ちゃんと聴かずにきたということらしかった。ロマン、情熱、繊細、詩人……ショパンにまつわる観念的な言葉が、私の耳を邪魔していたというわけである。私は、しばらく呆然としていた。

もっとも、米軍極東放送網を離れたのはこの一瞬だけで、私の夜の日常はすぐにまた810キロヘルツに戻ったのだが、あのピアノの、旋律に還元されない身体感覚的な音は、その後も耳の底に鳴り続けているようであった。クラシックなんかどうでもいいが、ショパンは別かもしれない。ショパンという人は、クラシックというよりブルースかなんかにその根源が近いんじゃないか。ボブ・ディランとかロバート・ジョンソンとか……時折そんな空想にとらわれたりした。

 

頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。(小林秀雄「美を求める心」)

 

難かしい、努力を要する仕事——たしかにそうだ。「仕事」である。気合や注意でどうにかなるものではない。小林秀雄は、絵でも音楽でもたくさん見たり聴いたりするのが何よりだと言っているが、それは、そういう手間と時間をかけなければ獲得できない一種の技術、いわく言い難いコツのようなものが、絵を見たり音楽を聴いたりすることのなかにはあるということでもあるだろう。そして、そのことに気がついている人は、あまり多くないかも知れない。音楽なんて、そう簡単に聴こえるもんじゃない。

二十歳でパリにやって来たショパン、その演奏に接したシューマンは、「諸君、脱帽したまえ、天才だ」といい、「花束に埋もれた大砲」と評したというが、さすがだなと思う。シューマンという人は並外れた批評家だったんじゃないか。パガニーニの演奏を聴いて、それで音楽に志を立てることになったらしいが、魂はむしろ文学にあるような気がする。「花束に埋もれた大砲」……うまいことをおっしゃる。たしかに、ショパンは美しい花の束だ。それを聴きとるのに何の努力も要らない。だが、たとえば、その音楽を旋律に「回収」した途端、そこに潜んでいた「大砲」はどこかに行ってしまうだろう。梶井基次郎は、「器楽的幻覚」のなかで、音楽会の休憩時間のロビーで、直前に演奏された作品の旋律を口笛にする軽率について書いているが、それもたぶん同じことだ。そういえば梶井は「桜の下には死体が埋まっている」とも書いていた。生のきらめきを支えているのは、暗鬱で醜い死だ。美というものは、美だけでは成立しない。その底に、なにかそれとは相容れないもの―破壊や醜悪や死や混沌―を潜ませていればこそ、夜光のような輝きが生まれるので、それを欠いた美なるものは、錯誤か、さもなければ滑稽である。口笛に回収されないショパンの「大砲」なる真実に気づくためには、それなりの手間と努力が必要なのだ。その手間を欠いて記憶されるショパンなどは、その「方言」的な、非共約的な本質を漂白された、毒にも薬にもならない、ショパンみたいなものに過ぎない。

だとすれば、受験生の私がラジオで聴いたのは、あの「違和感」は、ひょっとしたら、正銘のショパン、その肉体的な何かに出くわした衝撃だったのではないか。

 

それから十年の後、私はジネット・ヌヴーが演奏するラヴェルの小品に都会の道端でぶつかって、思いがけず蓄音機でクラシックを聴くというような生活に入ったのだったが、ヌヴーによるあの一撃は、音楽演奏の無常、その一回性という事件への覚醒みたいなものだった。言うまでもないが、レコードを聴く行為が一回的だというのではない。レコードに記録されているのが、あの時代あの瞬間の、あの奏者によるたった一度の身体的実存に他ならないということだ。それゆえに、今日、われわれが蓄音機でレコードを聴くときには、いわば、失われたはずの過去に邂逅してしまうのである。そのせつないような感動があるために、私は演奏の一回性という幻想を追うように、古いレコードを漁って来たというわけなのだ。ヌヴー、エルマン、ハシッド、ヴォルフスタール、オイストラフ……みな、その肉体と風土とを、音楽の底に潜ませてそこに立っていた。彼らの向こうには、聴く機会などありそうにない巨匠たちの気配があった。が、そのうちの何人かには、稀少なレコードを通じて、幸運にも触れることができた。カール・フレッシュやアンリ・マルトー、それにヨーゼフ・ヨアヒムにさえ! しかし、そのことがかえって、アンリ・ヴュータンやハインリヒ・エルンストといったレコード以前の巨匠への、どうにもならない渇望を昂進させたのであった。そして、ヴュータンやエルンストのそのすぐ向こうには、あのパガニーニがいる。

ニコロ・パガニーニこそは、ヴァイオリンとクラシックの高次の統合を図った、まさしく原点である。パガニーニは、たとえば民謡の一旋律をヴァイオリンの上に載せて小さな太陽系を提示し、それを、演奏会の度ごとに、無数の星々が渦巻く巨大な星雲へと生成してみせていたにちがいない。宇宙創成のめくるめく奇跡。そうでなければ、あの伝説のように語られてきた聴衆の熱狂など、説明がつかないように思う。

その奇跡をわずかでも知りたい。その手がかりを探してさまよううちに、たとえば「ネル・コル・ピウ変奏曲」という作品に行き着くのである。パイジェッロ作曲のアリアによる変奏曲ト短調作品38。もっとも、作品番号なんかに意味はない。その都度の即興的変奏は、そもそも楽譜にのこるようなものではなかっただろう。エルンストは、この曲を習得するのに、幾度もパガニーニの演奏会に出かけ、その舞台袖に隠れてひそかに学ばなければならなかったのである。そしてその約百年後、チェコのヴァーサ・プシホダが、おそらくは歴史上はじめて、この曲の録音に挑んだのである。

それはプシホダ二十代半ばのことだ。このドイツ録音を一度聴いてみたい、なんとか手に入れたいと思って、当地のコレクターに探してもらったりしたが、なかなか手に入らない。ヨーロッパでも稀少だということであった。個体数が少ないというより、コレクターが手放さないのだろう。よくあることだ。こういうレコードは、金を積めば買えるというものではないのである。何かのきっかけでふと表に出てくるのを待つしかない。そう覚悟を決めつつあった頃、私はその二枚組に、思いがけず、神田神保町のレコード店でばったり出合ったのであった。なんと日本盤があるのである。戦前の日本にはドイツ録音の日本プレスがけっこうある。その中には、コレクター垂涎の驚愕すべき盤も含まれている。若きプシホダのもそうだし、ヴォルフスタールのベートーヴェンのコンチェルトやロマンスなんかもそうだ。ヌヴーのデビュー盤なんていうのもある。それはさておき、問題の「ネル・コル・ピウ」、日本盤としては高額だったが、プシホダの他の録音、タルティーニやサラサーテの名演を既に知っていた私に、迷いはなかった。正解であった。その場でカートリッジでかけてもらったが、そこには予期した通りの至芸があった。「うつろな心」と訳されるこの抒情的な歌曲の変奏に、人事を超越した非情の小宇宙の出現を見た。はやく我が家の蓄音機で、サウンドボックスで聴きたいと思った。そしてオリジナル盤を手に入れたいとも。欲深い話である。

まさしく贅沢な欲求であった。神保町の店主によれば、オリジナルのドイツ盤など出てこないし、出たら出たで、十万円以上もしかねないという。でもプシホダ二回目の録音なら、少しは手に入りやすいよ。え? 二回目? 二度目の録音があるの?……あるのである。まったく不覚という他はない。しかもこちらのほうがよく知られているのだそうだ。それもまもなく入手できた。私の師匠筋に話したら、黒光りの眩いようなのが一枚差し出されたのであった。聴けば星雲の渦に巻き込まれ、立ちどころに俗世から断たれるという鮮烈さである。一回目の録音から十数年。プシホダは、スラヴのヴァイオリニストたるの本領を保ったまま、確かに肉薄していた。どこに?むろんパガニーニに、である。

ヴァイオリニストが同じ作品を二回録音することなど、別段珍しいことではない。が、二回目の方が優れているというケースはあまりないように思う。なるほど、技術は進捗するだろうが、一回目にはあった野心の底光りが希薄になり、そのかわりに、饒舌になる感じなのだ。プシホダのこの録音も、ある面ではそうである。野心において一回目に勝るわけではない。が、さらにそぎ落とし、さらに磨きぬいた緊張は、他に例がないように思われる。いずれにせよ、ヴァーサ・プシホダの二回目の「ネル・コル・ピウ」は、ヴァイオリニストが、あのパガニーニに、最も近づいた瞬間だというのが、私の感想なのである。

私はまったく満足だった。到達すべきところに達した感があった。ヴァイオリニストも、グァルネリウスも、私自身も。もっともこの時プシホダはまだ四十前である。ヴァイオリンが、神童の大成ということの成立する例外的な芸術領域であるとしても、それでもやはり結論を急ぎ過ぎてはいないか。しかしながらその後のプシホダに、バッハの無伴奏ソナタにある長いフーガの異様な演奏を除いて、これといった録音がないのも事実なのである。プシホダは、やはり、この二回目の「ネル・コル・ピウ」で、パガニーニの後継としての位置を極めたのだ。私はそう思い込んでいた。

しかしそんなはずはなかったのである。そもそもパガニーニは、不完全な楽譜の彼方に存在する陽炎のような理想だ。ならばその真理の追究は、あたかも逃げ水を追うように、どれほど肉薄しても、到達し得ない努力であると思われるからである。そこで、パガニーニを自分流に解釈してしまえば、そこにもひとつの栄光はあり得るだろう。しかしその道をとらず、あくまで常なるものに向けた無限の更新を図るなら……。むろん私のこんな思考は観念論に過ぎないが、プシホダという非凡なヴァイオリニストは、戦中のバッハや戦後のモーツァルトの録音を通して、なにか不可能の中の可能性のようなものを、さらに探り続けていたのではないか。そんな気がするのである。そして、その最後の到達点が、それは、プシホダにとっては、依然として、パガニーニの位置に関する微分係数に過ぎなかったかも知れないが、最晩年の、ほとんど世に知られていない、「ネル・コル・ピウ変奏曲」三回目の録音、それもそこに至る孤独を物語るような、無伴奏によるレコーディングだったのではないだろうか。

プシホダは戦時中もドイツにとどまり旺盛な活動を継続した。そのために、戦後は不遇だったようなところがある。そのような選択の是非は措き、彼が、有限の人間存在として、常なるものを求め、状況に翻弄されず、人間らしい意識をもって生きた証しとしての「ネル・コル・ピウ」であるなら、その真実を聴きとるためには、私も、習慣化され馴致された感受性から、自らを解放しなければならない。

 

それしてもあのマズルカは誰のピアノだったのだろう。あれが作品7の1だということは間もなくわかった。そしていろんなピアニストでことある毎に聴いてきたのだが、あの晩のあの演奏に近づく気配もない。いや、いいな、と思う演奏はあったが、そこまでだ。私の「渉猟」もまだまだ終わりそうにない。

(了)