古代人の「科学的態度」

村上 哲

こんな表題を掲げられて、何の事かと首を傾げた人も多いだろう。

なるほど、古代人は「科学的観念」など、持ち合わせていたはずがない。だが、古代人に、即ち、人間本来に「科学的態度」という土壌が備わっていなければ、どうして「科学」が芽吹き、「科学的観念」を実らせる事が出来ただろうか。

とはいえ、この言い方から道を伸ばせば、額縁の裏側を覗き込むような事になるだろう。

ここではまず、小林秀雄という鋭い眼が「信ずることと知ること」の中に描き出した、柳田國男の「遠野物語」に残された情景を通して、「古代人」へ通じる姿へと、目を向けてみたい。

 

―こういう話がある。或る猟人が白い鹿に逢った。「白鹿は神なりと云ふ言伝へあれば、若し傷けて殺すこと能はずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまりに怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ」(遠野物語、六一)(「信ずることと知ること」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)

 

実のところ、十分に育った「科学」に実った「科学的観念」と、「科学」が芽吹いてきた「科学的態度」との間にわきまえがある事を知った上で、「信ずることと知ること」を読んでもらえば、それで十分なのだが、この点に関しては、しっかりと噛み砕く必要があるだろう。それにあたり、「信ずることと知ること」の中から、先の文に加え、もう一つ、文章を眺めさせてもらいたい。

 

―ここには、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度が現れている。自分の経験した異常な直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です。(同)

 

これは、柳田國男の体験が綴られた文章を受けて書かれた文だが、この柳田國男の態度と、先の猟人のような「山びと」の態度が、「信ずることと知ること」の中で、魅力的に響き合っている。

ここで私が「科学的態度」と呼びたいのは、まさにこの態度の事だ。とは言ってみても、これでは、まだまだ先回りした言い方になってしまうだろう。

ここからは、この猟人の眼付きと、柳田國男さんの態度を覚えたまま、「科学」というモノが、元来、どこに根を下ろしているのかを追って行きたい。

 

「科学」は、悟性的判断によって世界をどこまでも理解したいという志向性を持っている。それゆえ、「科学の成果」は世に不思議はないと豪語しているように見えるし、それを受け取る人々は、往々にして、「科学の成果」たる「科学的観念」の中で安心しきっている。

このような人々には、「科学」に説明できない不思議と言っても、「現状の科学」の未熟に過ぎず、それは、いずれ解き明かされる事を期待した不思議としか見えないだろう。実際、「科学」の持つ志向性から見ればそう言わざるを得ないし、この志がないところに、科学者はいないとも言える。

だが、この志を抱いて、一たび「科学」の姿へ眼を向けて見ると、非常に困った事態が巻き起こる。と言うのも、「科学」がある風景、私達が「科学」を考えられる世界には、どうにも、「科学の成果」だけでは説明が付きそうもないモノが潜んでいるらしいのだ。

例えば、ニュートン力学の「万有引力の法則」や、アインシュタインの相対性理論の「光速度不変の原理」、量子力学の「不確定性原理」などは、どこかで聞いた事があるだろう。今ではもう少し精しくなっているが、いずれも、現代の物理法則を構築する上で、必須の前提だ。他にも、各種「自然定数」など、前提として用意する必要があるモノは数多くある。これを出来るだけ少なくする事が物理学の持つ目標の一つだが、この前提条件を少なくする事はできても、実のところ、決してなくす事はできないという点は、見落とされがちだろう。

これらの前提は、実験から確認されたモノが殆どで、理論は、精々それを具体的に記述する手助けをしたに過ぎない。一応、純粋に理論の中から生まれた定数もあるのだが、その手の定数は、いまいち「定まり」がなく、本当に物理の前提条件なのかも疑わしい、むしろ人間の側の思考法の要請に思われるモノばかりだ。しかもそれすら、つまるところ数学の記述法の要請であり、人間が現に一二三と数えられる不思議に帰着せざるを得ない。

そして、ニュートン力学にせよ、相対性理論にせよ、量子力学にせよ、これらの理論は、その前提を説明するというより、この、説明しようがない前提を元にして構築された理論であり、その上で初めて、悟性的な弁別が入る事になる。即ち、これ以上は理解できないという線を引いたところから理論が始まるのだ。これが、計量的な、つまり、用意された方眼紙の上に数値として書き写された物事の比率を見定める、近現代の「科学」というモノだ。

実際、ニュートンであったり、アインシュタインであったり、或いは量子力学を生み出した科学者達の発想を辿ってみると、何度も確かめられた不思議な実験結果や、目の当たりにした現象と目を逸らさず向かい合ううち、やがて、悟性的判断など遥かに超えるような驚くべき着想が芽生え、むしろ、この着想を揺るぎなくしたところで、ようやく悟性的判断が働くようになって行く趣が見えてくる。

この、科学者の志からすれば逆転現象と言いたくなる傾向自体は、生物学や医学系などの、複雑さを保たざるを得ない分野の方が顕著ではあるが、逆に言えば、物理学のような、最も単純さと悟性的判断を尊ぶ分野においてすら、この傾向は免れない、いや、だからこそ、より先鋭的に現れてくると言えるだろう。

もう一度、「信ずることと知ること」の中に描かれた情景を、眺めてみよう。

 

―この名誉ある猟人は、眼前の事物を合理的に実際的に処理することにかけては、衆に優れていた筈だが、そういう能力は、基本的には、「数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず」とあるところに働いている感覚と結んだ知性の眼を出ない。と言うのは、この眼がいよいよ明らかになっても、これは、人生の意味や価値を生み出す力を持っていない。そういう事を、猟人は確かめたという事になろう。(同)

 

勿論、物理学を完成させる事は、物理学者の自負の内にある話であり、人生の意味や価値を生み出す事とイコールではないだろう。だが、この、物理学の完成を目指すという点においてすら、物理学を学習し、物理現象を分析する能力だけをどれだけ高めても、それは、理想の物理学を生み出す力にはならない。悟性的判断の徹底は、なるほど物理学の成長を急速に促したが、それだけで新たな物理学を芽生えさせる事は、決してできない。

この事は、物理学者にとって、皮肉としか言いようがないだろう。しかし、この皮肉になずみ続ける事なく、しっかりとその事を確かめ、言うなれば、科学的分析能力の限界をはっきり予感しながら、それでも物理学の完成を志し続ける人々の、その限界の上で人間の理解が及ぶ範囲を模索する独り独りの力こそが、物理学を、そして「科学」を、何度も産みなおしてきた。

だから、進歩主義的「科学」という概念は、あくまで技術継承の面に限った話であり、「科学」史に見られる理論という奴は、よくよく眺めてみると、存外、個性的な顔をしている。勿論、ならば別な形の「科学」が有り得たかといえば、恐らく有り得なかっただろう。だがそこには、間違いなく、理論を生み出した科学者の顔が、即ち、実験と思索、自然と自分の、その境界すら消えるほど往復を繰り返した身からすれば、最早こう考えるしかない、そう言っている科学者の顔が刻まれている。

 

―遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕えたのは、その生活の中心部が、万人の如く考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つというところにあった、その事だったと言ってもいい事になりましょう。(同)

 

これは、「科学の成果」である「科学的観念」の中で安心し、およそ「科学」の惰性の中で生活している人々の態度とは、まったく別のモノだ。もっとも、一度はこの態度を固めたと見えた科学者も、この態度を保ち続ける事は難しい。実際、先ほど例に挙げた科学者達にも、一たび実を結んだ「科学的観念」が出来てしまうと、その中で安住しようとしてしまう傾向は、少なからず見られる。

だがそれでも、この、遠野の伝説劇に登場する人々の態度は、人間が本来持っている態度なのだ。難しいのは、この態度を鈍らせる諸々の「観念」を拭い去り、この態度を固め続ける事であり、それは決して、人間が持っていない能力を獲得しようという話ではない。

最後にもう一つ、例を上げておこう。「科学的観念」が見せる世界において、お化けは単なる錯覚に過ぎないだろう。だがその世界は、全く同じ論法で、私達の意識や、私達の命すらも、錯覚と断ずる。ここに疑問を持たないような、この、「科学的観念」の方眼の升目に残らないモノへ眼が向かないような者は、本来、「科学者」ではない。

 

さて、そろそろ、こう言ってもいいだろう。今見てきた態度こそ、私が「科学的態度」と呼ぼうとしている、その態度なのだ。だから本当は、「科学」の計量的な枠に納まるはずのないこの態度を、「科学的」態度などと呼ぶべきではないとも思う。だが、数学を好み、物理学に親しみを覚える私が、あえてその名を呼ぼうとするなら、それは、「科学的態度」と言うほかない。

だから、むしろ今、私は、こう聞いてみたい。

この「態度」を、あなたは、なんと呼ぶだろうか。

(了)