宣長さんの思想の緒

溝口 朋芽

二年前の春、本居宣長の奥津おくつを訪れる機会があった。三重県松阪市山室山の妙楽寺にあるこの墓所をかつて訪れた小林秀雄氏は、その様子を『本居宣長』の中で次のように記している。……山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……この文章に誘われ私の期待は膨らんでいた。奥津紀へ向かう道中、ご案内くださった本居宣長記念館の吉田悦之館長が仰った「奥津紀の桜はあまり元気がないんです」という一言が耳に残っていた。私たちは山道を上り、奥津紀を目指した。

 

小林氏は、『本居宣長』全五十章の冒頭で、宣長自身がしたためた「遺言書」を紹介している。七十二歳で没する一年ほど前に書かれたその遺言書について、……書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている……と言い、……これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考える……とも書いている。その遺言書には、自身の死骸の始末の方法、菩提寺である樹敬寺までの葬送の仕方、実際のお棺は山室山妙楽寺に埋葬してほしい旨、その墓の図解などが淡々と綴られている。私にとってもこの遺言書は、『本居宣長』を読めば読むほど、興味の尽きない大きな存在となっている。小林氏の言う「遺言書が宣長の思想の結実である」とは一体どういうことなのであろうか。

 

その遺言書にはいくつかの宣長直筆の挿絵が入っていて、その中の一つに、妙楽寺の奥津紀の絵がある。私はそれを時々じっと眺めている。実物のお墓を訪ねる前からずっと眺めていた挿絵の、あのお墓が目の前にあらわれたとき、感激からなのか、とまどったからなのか、私はしばらく言葉が出なかった。墓石の奥に目をやると、桜の木が一本確かにそこにあった。が、私が心の中で想像していた桜の木とは違っていた。がっしりと根を張った枝ぶりのよい幹がすくすくと墓石のうしろで成長しているのを勝手に想像していたのだが、実物のそれは、右後方の木々の間から差す陽射しの方向にひょろひょろと斜めに伸びる細みの木であり、たった一本、奥津紀のために存在している桜にしては、やや頼りなげな印象であった。

 

宣長の桜に対する強い思いを、小林氏はたとえば次のように書いている。……宣長ほど 、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい 。宝暦九年正月 (三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよわがおいらくの春迄もわかぎの桜うへし契を」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……私が実際に見た奥津紀の桜は、道中で吉田館長が話されていたとおり、「あまり元気がない」といった様子だった。はたして、これが遺言書で宣長さんが望んでいた桜の木の姿なのだろうか……そう感じて以来ずっと、心寂しい、宣長さんに申し訳ないような気持ちが私の中にあって、宣長さんと桜の契りについて深く知りたいと思うようになった。

 

その遺言書からは桜に対する宣長の並々ならぬ思いが読み取れる。……墓地七尺四方計、真中少後へ寄せ、塚を築候而、其上へ櫻之木を植可申候、さて、塚之前に石碑を建可…とあるように、まず墓地に塚を築き、そこに桜の木を植えることから先に書いている。石碑のことは後回し、といった印象さえ受ける。続けて、……塚高三四尺計、惣體芝を伏せ、随分堅く致し……と書かれており、その通りに奥津紀はつくられているのであるが、水平に根をはる桜の木にとってみたら少々根っこが「高三四尺計」の塚の中で窮屈そうではある。しかし、宣長さんにあっては、どうしても塚を築かなければならない理由があったに違いない。

そして、遺言書には続きがある。……勿論後々もし枯候はば、植替可申候……とあり、桜の木が枯れてしまったならば植替えてほしい、との指示まで書かれている。歌人の岡野弘彦氏は「山室山の桜」という文章の中で宣長さんの奥津紀のことを書いている。……皇学館の学生時代、毎年の秋の宣長さんの命日に大八車に山桜の苗を積んで、伊勢市から松阪まで運び、お墓のまわりに植える行事があった……と。宣長さんが亡くなったのは、享和元年九月二十九日である。岡野氏の記述を読んで、はたと気が付いた。九月二十九日とは現代の暦では十一月五日である。そして十一月から十二月にかけては桜の苗木を植えるのにちょうど適した時期にあたるのである。宣長さんはつくづく桜との縁が深いようである。それにしても不思議なのは、せっかくのお墓の桜を、満開の時期に訪れてほしいということは遺言書に書かれておらず、奥津紀へのお参りは年に一度の祥月のみでよいとしていることである。

 

亡くなる二年前の春、宣長さんは吉野水分みくまり神社へ参拝している。宣長の父が、かつて子供を授かる祈願に参詣して宣長を授かったとされている神社である。多忙な仕事の合間に行ったのであろう、そして生涯最後となったその吉野行きでは、満開の桜には少しばかり時期が早かったようで、見ることは叶わなかった。期待していた吉野の桜を眺めることができなかった無念の思いがその際に詠んだ、いくつもの歌から強く伝わってくる。

 

この頃は はや咲く年も あるものを など花遅き み吉野の山

なかなかに 見捨てや過ぎむ 吉野山 咲かぬ桜を 見れば恨めし

(吉野百首詠より)

 

遺言書には、祥月に生前愛用していた桜の木のしゃくを霊牌として用い、細かな部屋の設えまでも含めた法事を行うようにという記述がある。その桜の木の霊牌には「秋津あきつ彦美ひこみさくらねの大人うし」というのちのなを書くよう定めた。新潮日本古典集成「古事記」によると、“秋津彦”は「水戸みなと、河口」の神の名、“”は「水」の意味とされている。また、吉野水分神社の「水分みくまり」とは文字通り、水を分ける、配る、という意味がある。吉野の桜の命の源ともいえる、水をたたえたこの神社の申し子である宣長さんは、奥津紀において自身が桜根となり、愛して止まない桜の木の下に眠り、桜の根に豊かな水の恵みをもたらし、見事な山桜を毎年咲かせることができるように、と願ったのではないかと思わせるような真直ぐな表現ののちのなであると思う。

のちのなに託した宣長さんの思いは、私などには計り知れないものがあるが、自身の墓に桜の木を植えてほしいと書き残す宣長さんのこころは、愛して止まない桜とともに此の世に在りたい、との切なる願いのように思わずにはいられない。そして、毎年祥月には、宣長さんがずっとそうしてきたように、いつもの場所で歌会をしてほしい、と書いている。その際は、桜の木のしゃくに書かれた後諡とともに像掛物の中の宣長さんが確かにそこにいて、歌会に参加しているはずである。

 

二年前に奥津紀を訪れ、「あまり元気がない」桜の木を見た際に感じた、心寂しい、申し訳ないような感じは、宣長さんの桜への愛情が私に乗り移ったせいかもしれない。その得も言われぬ感情のおかげで、私は宣長さんと桜の深い契りの一端に思いを馳せる機会を持てたのではないだろうか。宣長さんの思想とは……、小林氏の言う「思想の結実」とは何か……。次は開花の時期に奥津紀を訪れ、桜を眺めながら宣長さんの声をききたいと思う。

(了)