考え続けること

亀井 善太郎

文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだけで、支障なくつづけられていたのは何故か。言葉と言えば、話し言葉があれば足りたからだ、意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感が、世人めいめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆することができた。「書契以来、不好談古」と言った斎部宿禰の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要がある事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。

(『本居宣長』第48章、新潮社刊『小林秀雄全作品』28、P171)

 

小林秀雄『本居宣長』の一節だ。音楽が好きで、仕事においても人と人のコミュニケーションが多い僕は、「意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感」という言葉に瞬殺されてしまった。さて、自分は、肉声の充実感を持って人と話しているだろうか、そして、そういうことを感じながら、人の声に耳を傾けているだろうか、と。

小林秀雄の文章はこういうのが多い。胸に突き刺さるのだ。言葉にも質量があると思うが、彼の言葉は圧倒的に重い。ぎゅっと詰まっている。ずしんと身体に響く。

それは、小林秀雄が「詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符に、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである」(『表現について』、全作品18)という思いで、文章を書いているからだろう。誰しも、心の裡にある思考や情感といったものは、それぞれ個々の言葉にある定義や意味によってだけでは表現はできない。しかし、割符のように言葉と言葉が組み合わされた文章に接すれば、自分の心の中にある何かとつながって、これまでにない新たなイメージを呼び起こされて、そこに驚くことになる。自分自身の心が動くのだ。作者と読者の対話の触媒となるのが、小林秀雄の言う詩として書かれた文章であり、そのおもしろさなのだろう。

例えば、ここにある「肉声」という言葉ひとつとっても、単に「声」ではなく「肉声」となっていることで、読み手が思い出すイメージはまったく違ってくる。「声」と「肉声」、辞書に書いてある意味だけ見れば大差はない。しかし、迫って来るものはまるで違う。「はちきれんばかりの」ときて、そこに「充実感」と連なって来れば、もうノックアウトだ。こちらの心の底まで見られているのではないかとさえ感じてしまう。

 

小林秀雄の言葉は鋭い。心に迫って来る。だからこそ、この文章に接すれば、自分はどうなのか、とまず考えさせられるわけだが、それこそ、彼の文章を読むときに陥ってしまう罠かもしれない。

僕はどうだろうかと考えることは、自分自身の経験との対比となる。これが危険だ。この瞬間、そこにある文章から思考そのものが離れていってしまう。それでは、ここに書かれた、筆者がせっかく削り出した言葉と言葉の連なりとは切れてしまい、違うところに行くことになる。現代社会で言えば、スマートフォンやSNSが使われるようになる前と後の違いと同じようなものかなと、アナロジーを持ち出して、わかったふりになってしまうのも危ない。けっきょく、自分自身に強烈に響いた「意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感」という言葉だけしか見ていない。彼が示した言葉の連なりはそれだけではない。それでは、彼が本当に見ていたもの、考えていたことに辿り着くことは決してできない。それとは関係ない、小林秀雄が書いた本文から離れた、安易な置き換えと見当違いの自己反省、そして、自己満足の妄想が続くばかりだ。

少なくとも、この段落の文章を読むだけでも、己れの肉声の充実感から、自分の声のあり方に心が飛んでしまっているのは間違いだと気付くだろう。筆者は「肉声の充実感」は、あくまでも、古人のものとして書いているのであって、現代社会を生きる人、つまり僕自身のことについて、書いているわけではない。「古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆することができた」と書いている。

古人は、自然の中で共同生活しながら、息遣いまで含めた肉声の交換によって、肉声に助けられつつ、生きてきた。肉声とは私自身だと断言できる喜びを持っていた。肉声は、溢れる感情から、零れ出て顕れる事もあるし、心が思うままにならないように、自分の肉声に驚かされもした。言伝えの言語には、固有な霊があり、それが、言語に不思議な働きをさせると古人は考えた。これを信じ、情の動きに直結する微妙なニュアンスを持つ肉声にこそ、はちきれんばかりの充実感があったわけだが、これは、文字の出現以降、殆ど望めなくなったと宣長は考えた。そう、小林秀雄は言っているのだ。

 

彼が書く詩としての言葉の連なりは、一つの文章や段落だけで途切れることはない。その連なりは、大きな弧を描いているように感じる。だから、ここで熟視した本文にしても、この段落だけで切り取って読むのも危ない。

文章の連なりである弧はきわめて大きい。章を越えた弧であることはもちろん、作品を跨いだ弧さえある。同じ時期の作品のつながりはもちろんだが、時間軸を越えて、彼の若い作品からずっと後の作品に、同じ通奏低音を感じることもある。そこから離れずに触れ続けていれば、様々な形で聞こえてくるものが必ずある。

おそらく、それは、彼自身が、ずっと考え続けてきたからなのだと思う。

文章を読むこともそうだし、考えることもそうだが、続けること、それも途切れず、持続するのが大切だ。しかし、それはなかなか簡単ではない。現代社会はいろいろ邪魔が入り、やっかいだ。スマホはすぐにブルブル震えて、メールが来るし、電話もかかってくる。やはり、持続が途切れないよう、自分から考え続けるための環境を作ることがまず大切なのだろう。

この塾で課せられる自問自答というのは、考え続けること、その持続性が問われているのだと思う。心に浮かんだ自分の問いを手放さず、考え続ける。安易に答えと思しきものに飛びつかないことも重要だ。

僕たちは「問いを解くこと」に慣れすぎた。加えて、解答を出すことに急ぎすぎている。問いとセットになった解答がどこかに隠されていて、それを見つける宝探しばかりしている。問いがあれば、どこからか言葉を借りて来て解答らしき言葉を並べてみたくなるものだが、それでは、小林秀雄が書いた言葉の連なり、自分自身の心に割符となってつながるものにはなりはしない。

問いは僕自身のものであって、誰かのものではないから、他の誰かが解答を持っているはずがない。試験問題のように、誰かが、それは合っているとか間違っていると判断してくれるわけでもない。ましてや、考えることは、答えを示して誰かを説得するためのものでもないし、褒められたり、評価されるためのものでもない。

なにより、そんなに簡単に確たる答えが見つかることを問いにするのでは意味がないではないか。心はゆらゆらと移ろうから、定まらず、いろいろな思いが浮かんでは消えていく。その摑みどころがはっきりしないから、自らの問いにしたはずなのだ。そう思いながら、問いを心の中に留保しながら時間をかけて、本文から離れずにいると、自分の問いに触り続けているという確かな手触り感が出てくる。自分の心のどこかに問いを置いておくことができるようになってくるような気がしてくる。筆者が書いた言葉と言葉の連なりと、自分の心の動きが静かに交わり、何かがまたつながってくるようになる。

問いに向き合うこと、その持続はできるかもしれないが、解答なんてものは、そもそも出てこないのかもしれない。むしろ、問いをそこに置いて考え続けていれば、やがては、問いそのものも、自分自身も変容していっていることにふと気付く。解答とか解決という安易な出口となる言葉に騙されず、問いを留保しておくこと、それこそが大切なのかもしれない。

結局のところ、生きていくというのはそういうことなのだろう。他の誰でもない、この世に生まれた僕が、僕らしく生きていくことなのだから。

(了)