ウール県はヴェルノンの
ジヴェルニーにて居を構え
夏にも冬にも欺かれぬ眼にて
絵筆を執るモネ様へ
ステファヌ・マラルメ
(*1)
1922年、現在パリのオランジュリー美術館で観ることのできる「睡蓮」の大装飾画の国家への寄贈を終えた82歳のクロード・モネ(1840-1926)は、白内障のため視力が極端に悪化した状況のもと、16歳の時、画家のブーダン(1824-1898)と出会った頃を、こう思い出していた。
「突然、目の前のとばりが引き裂かれたかのように、絵画がどうあるべきかを悟った。既成概念にとらわれず自己の芸術に心を燃やしているこの画家のたった一枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれたのだ」(「モネ 新潮美術文庫26」)
そんなブーダンの作品を、先日「バレルコレクション展」(bunkamuraザ・ミュージアム)で観た。展示の3点は、いずれもノルマンディー海岸の「浜辺の女王」と呼ばれたトゥルービルの海景画で、水色の海にはヨットや帆船が、水色の空には雲がやさしく浮かんでいる。陽光の反射によって作り出された、帆布や雲の鮮やかな白が目に飛び込む。気持ちよく晴れ切った戸外で画布に向かう画家の心持が、直に伝わってくるような作品である。そんなブーダンと海辺でイーゼル(画架)を並べた、青年モネの胸の高鳴りまで聞こえてくる感じさえ覚えた。
その後パリに出て絵を学び続けていたモネは、1865年の官展(サロン)に二点を出品し入選、世に認められる。ともに海景画であったが、守旧的なサロンであることを意識してか、伝統的手法に依ったものであった。その後、67年のサロンでは、戸外の光のもと製作に没頭した「庭の女たち」で落選、生活も苦しくなり、68年には自殺を図ったこともあった。そんな失意のモネを、ラ・グルヌイエールという水浴場兼カフェに引っ張り出したのがルノワールである。二人はそこで仲良くイーゼルを並べ、モネはその水面きらめく作品をサロンに出展するが、またしても悔し涙を呑んだ。その時の審査委員を務めていたのが、モネがその作品に強い関心を抱き、交流も始まっていたドービニー(1817-1878)であった。彼は支持していたモネの作品が不当に拒絶されたと抗議し、審査委員を辞す。
そんなドービニーの没後140周年を記念して開催された「ドービニー展」(損保ジャパン日本興亜美術館)にも足を運んだ。彼の作品は、審査委員の辞任という激しい自己主張とは裏腹に、列をなして泳ぐ鴨の群れや河畔で水を飲む牛たちが描き込まれた田園風景が広がり、静かに時が過ぎて行く。そのギャップを面白く思った。
初期の作品は、昵懇だったコローの作品のように、目の前の自然がリアルに描き込まれたものだが、後年になると、あたかも実験を進めるかのように筆触が変わっていく。例えば、「旅する画家」とも呼ばれただけに、所有するアトリエ船ボッタン号に乗って画布に向かう自らを描いた作品がある。その水面の筆触は、パレット上で絵具を混ぜる代りに、画布上で色調を併置させる筆触分割の手法を使ったということで知られる前述のモネの作品「ラ・グルヌイエール」のそれとそっくりである。私は、先達と後進が刺激を受け合いながら前進する様を、如実に見たような気がした。
もちろん、そのモネの手法は、小林秀雄先生が「近代絵画」(モネ、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)で書いているように、ターナーらの影響も受けており、「これを徹底的に極めたのは、モネであった」。先生はそう言った後、こう続けている。
「モネは、生涯、この知的な分析的な手法の為に苦しんだ。理論は殆ど役に立たなかったからである」。
*
その初夏の日、直島(香川県香川郡)の空は、爽快に晴れ渡っていた。私は、高松港からのフェリーを降り、藍緑色にきらめく瀬戸内海を眺めながら、30分程歩いて地中美術館へと向かった。
その一室には、モネの最晩年、オランジュリーの大装飾画と同じ時期に描かれた「睡蓮」シリーズの作品群が展示されている。靴を脱いで室内に入る。暗い前室を進むと、その先の展示室正面にある2×6メートルの大作「睡蓮の池」(1915-26)が少しずつ大きく浮かび上がる。自然光のみの展示室に入る。五つの「睡蓮」に囲まれる。あまりの荘厳さに足が止まった。何か人智を超えた存在が、そこにいる。時間の進行が止まってしまったかのような錯覚に陥る。自ずと涙がこぼれ落ちそうになるのを我慢して、正面の絵に歩を進めた。
徐々にモネの筆触が露になる。当初に感じた何か大きな存在に包み込まれるような感覚は逆に薄れ、画面に近づくほどに、大胆で荒々しく、今描かれたばかりで、絵具の匂いがしそうな感じさえした。しかも描かれたものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、一向に判然としない。それは、小林先生が書いているように「この美しさには、人を安心させる様なものは少しもなかった。……モネの印象は、烈しく、粗ら粗らしく、何か性急な劇的なものさえ感じられる。それは自然の印象というより、自然から光を略奪して逃げる人のようだ」。
ちなみに、開館準備中から、これら「睡蓮」の修復に加え、合わせガラスによる隔離密閉という展示方法までも提案された絵画修復家の岩井希久子さんによると、これらの「睡蓮」作品群は、特別に保存状態が良いという。岩井さんの言葉である。
「地中美術館のモネは、モネが描いたままの絵具の質感とつや、絵具の突起がそのまま残っていました。生クリームを泡立ててピンと角が立つように、絵具がつぶれずに立っている。そうやって残っている絵は、世界じゅうで2割あるかないかだと思います」。
確かに一つの作品には、画布に塗られた絵具の盛り上がりの中に、モネの絵筆の毛が一本、ピンと突き刺さったまま残っていた。(*2)
*
話を元に戻そう。モネはいったい何に苦しみ続けてきたのか。
フランスの批評家でモネと親しかったジェフロワによれば、モネは、1890年、50歳から睡蓮の習作を描き始めた。その頃に彼が書いた手紙の言葉に耳を傾けてみよう。
「私はまたまた、水とその底にうねっている水草という、できっこないようなシロモノと取り組みました……見れば実に素晴らしいのですが、いざそれを描こうとすると気が違ってしまいそうです。だが毎日毎日それに取り組んでいます」。
「思うようにはかどらなくて、絶望してしまうのですが、しかしやればやるだけ、私が追求している“瞬時性”を、とくにまわりを包んでいるもの、あたり一面にひろがっている光を表現できるようにするためには、うんと描き込まねばならないことがわかってきます」。
ここで小林先生の言葉を借りれば、「瞬時も止まらず移ろい行く、何一つ定かなもののない色の世界こそ、これも又果なく移ろい行く絵かきに似つかわしい唯一の主題だと信じていたのであろうか。そして、それは、瞬間こそ永遠、と信ずる道だったのだろうか」。(同前)
1894年には、ジヴェルニーのモネの庭に、睡蓮が植えられた。「積み藁」や「ルーアン大聖堂」の連作を描き終えると、モネの眼は、ジヴェルニーの庭、そして睡蓮の池に集中していく。一方で、その眼は視力を徐々に失っていった。それでもモネはへこたれない。習作を続けてきた彼は、ジェフロワにこんな手紙を寄こした(1908年)。
「私は仕事に没頭している。水と反映の風景は、憑き物みたいになってしまった。私の老いた力を超えたものだが、私が感じとったものを表わしとげたいと思う。私は毀してはまた始め、なんとかして何かを作り出してみたい」。
さらに、「睡蓮」の大装飾画に着手した2年後の1918年、80歳の時に、ジヴェルニーへの訪問客に向けて語った独白に注目したい。
「私が本当に僅かな色のかけらを追っているのをご存知でしょう。私は触れることのできないものを摑もうとしているのです。それなのに、いかに光が素早く走り去り、色も持っていってしまうことか。色は、どんな色でも一秒、時には多くても三、四分しか続かない。……ああ、何と苦しいことか、何と絵を描くことは苦しいことなのか! それは私を拷問する」。
モネにとっては、もはや目の前にあるものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、ということは二の次になってしまったようだ。彼が摑もうとしていたのは、眼前の、ありとあらゆる物象から反射された色のかけら、すなわち光の壊れ方だけだった。私は先に、画布上に描かれた物が一体何なのか判然としないと書いたが、色と物との対応関係を判然とさせ自得する必要など全くなかったのである。
そのことを小林先生は、こう書いている。
「光は物象を壊しはしないが、光の壊れ方を追求する絵かきの視覚にとっては、物象は次第に壊れて来た。この事が、音楽家が音を考える様な具合に、画家が自ら色を考える様になる大変好都合な条件になった。画家はオレンヂで考える、青で考える、その考えたところが、確かに蜜柑や海を現しているか、いないかという事は、これは別の事である、別の考えである。文学的な、或は抽象的な秩序に属する考えである。そういう強い意識が画家に生れた。光の壊れ方に気附いた時、画家は、物との相似性の観念をもう壊していた」。(同前)
さらに先生は、同前書「セザンヌ」の中でこう敷衍する。
「自然観が彼(筆者注:モネ)に於いては、もう変わったものになっているという事なのだ。……自然の命とか魂とかいう曖昧なものは、画家の仕事に入って来る余地が全くなくなって来る。自然に向い乍ら、自然の存在というものさえ、実験出来ない単なる観念として、知らず識らずの中に、画家の考えから消え去った。彼等の努力は、専ら、具体的な、疑い様のない知覚や感覚に集中され、これを純化する事が、取りも直さず絵を純化する事だという道に進んで行った。モネの絵筆の動きを、考えの上から言えば、彼は絵筆を動かしながら、視覚というものに関する言わば経験批判論を書いていたと言っていい。視覚を分析批判して、純粋視覚というものを定義しようと努めていたと言っていい」。
私が直島で、「睡蓮」の生々しい筆触に視たものは、いよいよ発展する色彩の科学的理論に惑わされることなく、その自ら信ずる視覚を只ひたすら純化せんとする、モネの格闘の様だったのである。思えば、その展示室に足を踏み入れた瞬間に「何か大きな存在に包み込まれるような感覚」を得たとき、私は、そんな格闘するモネの精神と見られる対象とが、遂に一体化するに至った何ものかを直覚していたのかも知れない。
そのようなモネの眼玉を、詩人マラルメは「欺かれぬ眼」と呼び、批評家小林秀雄は「異様な眼」と呼んだ。
(*1) 1890年夏モネ宛ての封筒に書かれた四行詩
(*2) 2019年9月23日まで、国立西洋美術館(東京、上野)で開催中の「松方コレクション展」では、2点の「睡蓮」を見ることができる。その内、1921年に松方幸次郎がモネから直接購入した「睡蓮、柳の反映」(2×4メートル)は、戦時下フランスに接収され所在不明になっていたところ、2016年にルーブル美術館の一角で、上半分が消失した状態で発見された。今般、1年の修復を経て展示され、下半分の状態は良好で、赤い3本の睡蓮の花には直島の「睡蓮」で見られる生々しいモネの筆触を見ることができる。
【参考文献】
岩井希久子「モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事」美術出版社
ギュスターブ・ジェフロワ「クロード・モネ ――印象派の歩み」黒江光彦訳 東京美術
シルヴィ・パタン「モネ――印象派の誕生」渡辺隆司・村上伸子訳、創元社
(了)