批評家の系譜―紫式部、本居宣長、小林秀雄

橋岡 千代

人々は批評という言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいうものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考える、そういう風に考える人々は、批評というものに就いて何一つ知らない人々である。

(小林秀雄「批評に就いて」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第3集所収)

 

国語辞典、たとえば『広辞苑』は、批評とは「物事の善悪、美醜、是非などについて評価し、論ずること」と言っている。しかし、小林先生の批評はそうではない。「論ずる」のではなく「考える」のである。小説や音楽、絵画など、ものをつくる人々の立場に立って、その人の身になって考える、それが先生の批評態度である。

なぜこういうことを言うかというと、先生の「本居宣長」(同第27、28集所収)を読み進めているとき、ぱっと目に入ってきた言葉があったからだ。第十四章で、先生は、紫式部が「源氏物語」の中で物語というものについて書いているくだりに対する宣長の発言を評して、宣長という「大批評家は、紫式部という大批評家を発明した」と言っている。

 

宣長は「蛍の巻」の光源氏と玉鬘の会話を評して言う、「此段、表はたゞ何となく、源氏君と玉かづらの君との物語なれ共、下の心は、式部が此源氏物語の大綱総論也、表は、たはむれにいひなせる所も、下心は、ことごとく意味有て、褒貶ほうへん抑揚して、論定したるもの也、しかも、文章迫切ならず、たゞ何となく、なだらかにかきなし、又一部の始めにもかゝず、終りにもかゝずして、何となき所に、ゆるやかに、大意をしらせ、さかしげに、それとはいはねど、それと聞せて、書あらはせる事、和漢無双の妙手といふべし」(「紫文要領」巻上)。これを承けて、小林先生は言っている。「宣長の読みは深く、恐らく進歩した現代の評釈家は、深読みに過ぎると言うであろうが、宣長が古典の意味を再生させた評釈の無双の名手だった所以ゆえんは、まさに其処そこにあった」……。

 

光源氏は、かつて愛した夕顔の娘、玉鬘を養女として引き取っている。長雨の続くある日、絵物語を読む玉鬘のもとにやって来た源氏は、「あなむつかし。女こそ、物うるさがりせず、人にあざむかれんと、生れたるものなれ……」と話しかける。雨に乱れる髪も気にせず、本当のことなど書いていない物語の虚言そらごとにわざわざ騙されてむやみに感動している、女というのは困ったものだ、どんなに世の中には嘘をつきなれた者がいて、その口で、根も葉もない話を作っていることだろう、そうは思わないかと。

しかし玉鬘は、「げに、いつはり馴れたる人や、さまざまに、さもくみ侍らん。たゞ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」と、日頃嘘をつきなれている人はそう思われるのかもしれませんが、私には本当のこととしか思えません、とやり返す。

これに続けて小林先生は、「作者式部は、源氏と玉鬘とを通じて、己を語っている、と宣長は解している」と書いている。そして、式部は、物語は「童子わらわの娯楽を目当てとする俗文学であるという、当時の知識人の常識」に少しも逆らわなかった、なぜなら、この娯楽の世界は、式部には「高度に自由な創造の場所」と見えていたにちがいないからだ、と言っている。

機嫌を損ねた玉鬘に、源氏は、「こちなくも聞こえおとしてけるかな。神代よりよにある事を、しるしおきけるななり、日本紀などは、たゞかたそばぞかし、これらにこそ道々しく、くはしきことはあらめ」と物語を悪く言ったことを謝り、神代の昔からある物語は、「日本書紀」よりも優れている、なぜなら、「日本書紀」には、この世の中や人間について、ほんの一部が書かれているだけだが、これらの物語には「日本書紀」以上にくわしくこの世の道理にかかわることが書いてあるよね、と笑って言って玉鬘の気持ちに同意する。

こうして、紫式部のオブラートに包んだ物語論を読み解く宣長とともに式部の物語論を読み進めて小林先生は次のように言う。

 

「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ。自分の書くこの物語こそ「わざとの事」、と本当に考えていたのは式部であって、源氏君ではない。式部の「日記」から推察すれば、「源氏」は書かれているうちから、周囲の人々に争って読まれたものらしいが、制作の意味合いについての式部の明瞭な意識は、全く時流を抜いていた。その中に身を躍らして飛び込んだ時、この(宣長という)大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。

 

玉鬘は、物語を分別ある心で読んでいるのではない。「そらごと」か「まこと」かにかかわらず、物語の筋に翻弄されながら、素直な心でその物語に動かされている。宣長にしても同じことで、「うそごとながらうそごとにあらず」という紫式部が作った言葉の世界に乗り移って楽しんでいる。「判断とか理性とか冷眼とか」ではなく、「愛情と感動」で読んでいる。様々な研究や評価の書を借りてではなく、愛情と感動でしかこの「源氏物語」は味わえないと宣長が確信していたからである。先へ行って、先生は、「物のあはれ」という言葉の意味合について考察するくだりで、「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている」と言っている。

紫式部が王朝文化の直中で花開いた物語によって表現したかったのは、「人間はいつの世も、不安定な感情経験とともに生きている」ということであったろうし、それを宣長は素直に自分の身の上に引き受け、式部の言葉の表現力に入り込んだ。小林先生は、宣長がこういう直観力、洞察力、認識力を存分に駆使して紫式部という「作者」と出会い、真正面から向かいあった、ここを捉えて宣長を「大批評家」と言ったのであろう。

 

小林先生の「ドストエフスキイの生活」や「モオツアルト」、「ゴッホの手紙」などはよく知られている。これらはまさに、「いつの世にも不安定な感情経験とともに生きている」人間の生き方についての批評文であるが、その批評文の規範となったのは近代批評の創始者、一九世紀フランスのサント・ブーヴの仕事であるという。サント・ブーヴは作品そのものを論じるだけでなく、作品の奥にいる作者に会いに行き、その作者の人間像をつかんで批評したと聞く。

私は、本居宣長に出会った小林先生が、日本にはこんなにも早くからサント・ブーヴがいたのかと驚かれたことを想像してみる。そして、紫式部や宣長の通ってきた物語味読という批評の道を、自らも辿っていることを楽しまれていたにちがいないと思っている。

繰り返すが、宣長という「大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい」と小林先生は言った。先生は、宣長に対しても、紫式部に対しても、単に「批評家」ではなく「大批評家」と言っている。「本居宣長」の中で、先生が「批評家」という言葉を使ってこれほど興奮している所は他にない。これは、長い間、サント・ブーヴの衣鉢を継いで「批評」を書いてきた先生の、一言では言い切れぬ強い思い入れがあったからだろうと思う。

(了)