「大明眼」を開く

泉 誠一

小林秀雄氏の『本居宣長』において、契沖の「大明眼」に若き宣長が驚き、それを我物にしたことは、決定的な要件だろうと以前から思っていた。しかし、何故そうなのか、そもそも「大明眼」とは何なのか、それは、うまく言うことができなかった。ただ、「大明眼」というからには、本居宣長が「源氏物語」や「古事記」を読むにあたって、絶対不可欠だった何かだ、と思っていた。

 

その「大明眼」は、『本居宣長』第六章の冒頭に「あしわけをぶね」の引用として登場する。

 

「コヽニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集67頁)

 

これを読んで、「大明眼」とは何かを知りたくならないわけがないだろう。小林氏の狙いだと思う。引き込まれて読み進むと、こんな段落に来た。

 

「ところで、彼が契沖の『大明眼』と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その『本来の面目』がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。『万葉』の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、『源氏』の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である」

(同68~69頁)

 

どうだろう。「古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ」なんて、当たり前ではないか。「大明眼」とは大袈裟ではないか。何か、膝を打つような納得感を期待していたのに、それは萎んでしまった。

その後は、宣長は「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」(「うひ山ぶみ」)と、詠歌は、歌学の方法として大へん大事なものだと言っているが、学問の方法については何も言わないのがよいこと、考えれば対象はおのずから「我物」になるはずだということ、に話は進む。第七章に入ると、今度は、契沖の人生が追いかけられ始める。「大明眼」はもう出てこないのだろうか。「大明眼」を我物にすることが出来ないまま、私は、不完全燃焼感を何年も抱えていた。

 

今回、「小林秀雄に学ぶ塾」での質問を作ることになった。あれこれ迷った末、その「大明眼」と向き合うことにした。自問して、たとえ自答が得られずとも、何かを持っていけば、何かを教えてもらえると思った。また、小林氏は、読者に何かを投げかけて、それを放っておくような人でもない、と思い直した。質問を拾う目線で、第六章から読み進んでいくと、もう第七章も殆んど終わり近くになって、唐突に、在原業平に行き当たった。

小林氏は、契沖の「伊勢物語」の注釈書「勢語臆断」に言及し、次のように言う。

 

「これは、二十三歳の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写した最初のものである。―『むかし、をとこ、わづらひて、心ちしぬべくおぼえければ、「終にゆく みちとはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを」―たれたれも、時にあたりて、思ふべき事なり。これまことありて、人のをしへにもよき歌なり。後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは、道をさとれるよしなどをよめる、まことしからずして、いとにくし。たゞなる時こそ、狂言綺語もまじらめ。今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生のいつはりをあらはすなり』」

(同84~85頁)

 

「宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、『ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ』(「玉かつま」五の巻)と註した。宣長が言う契沖の『大明眼』という言葉は、実は、『やまとだましひなる人』という意味であったと、私は先きまわりして、言う積りではないが、この言葉の、宣長の言う『本意』『意味ノフカキ処』では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい」

(同85頁)

 

何の因果でだろうか、在原業平、契沖、本居宣長、小林秀雄、四人の人物が、一列にならんで、時代も場所も超え、自分とつながる。なんとも、不思議な感じの箇所である。私の知る業平の歌は、昔、学校で習った、

 

ちはやふる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは

唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

名にしおはば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

 

くらいだが、こういう歌が良い歌と聞かされて、また、自分もそうだと思っていた。しかし、これがまさに「酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」であった。第六章冒頭の「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」の一つには「伊勢物語」の事もあったであろうか。私には、小林氏の投げかけた謎が、第七章の終わりで取り込まれるように思われた。今まで見逃していたが、これは、私の探していた、膝を打ちたくなる納得感であった。

業平の「終にゆく……」という歌への契沖の註は、それに驚いた宣長にとっての「大明眼」の現場であり、「この言葉の、宣長の言う『本意』『意味ノフカキ処』では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である」という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたいと小林氏は言う。それなら、「終にゆく みちとはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを」のような歌を「みづからの事にて思」って詠んでいけば、自分も「俗中の真」を我物にできるのではないか。第六章から第七章に渡って、脈々と書きつらねられてきた事はすべて、ここを読むための心構えだったのではないか。そんなことに、思い至った。

他の業平の歌には、多かれ少なかれ狂言綺語がまじっているだろうが、「終にゆく……」では取払われた。一方で、この歌に残されているものは何だろう。私が、この歌を「ワガモノニセント思ヒテ見」て思うのは、もう、読み人知らずの歌のようだということである。しぬるここちの「をとこ」は、もう、この世でのかえしは期待せず、無我になっているかのようである。それが、俗中の真があらわになったこの歌の姿で、だからこそ、「人のをしへにもよき歌なり」なのだろうか。一方、他の歌は、俗中の俗も真も混交している。まといつく俗中の俗は、見るものが払わなければならない。そこに何かが現れたら、それが俗中の真ということだろうか。

 

「終にゆく……」の歌がそうだと指し示した後、「俗中の真」が具体的にどういうものか、小林氏は、もう何も言わない。読者は、契沖や宣長の上ではなく、みずからの事にて「俗中の真」を思う、これを自分で実践しなさい、と言われているようである。

そして、最後に契沖の遺言状が引かれる。後の整理について書かれているが、この遺言には契沖の一生のまことがある。自分で「俗中の俗」を払って、何が見えるか、自分自身を試してみなさい、もう、見えるようになっているはずだと、小林氏が言っているような気がした。

(了)