ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その六 蓄音機の一撃~ジネット・ヌヴーと出会った夏

 

いつだったか、電話を寄越した勤務先の若い職員が、その通話の最中に唐突に言いだしたことがあった。

「おつかれさまです、センセエ、あの、明日の打ち合わせのことなんですが…………あの、スミマセン、その、後ろで鳴ってるの、なんですか」

蓄音機の音は格別だ。受話器越しでもわかってしまう。気の毒に、以来彼は、蓄音機という得体の知れない機械に心を奪われたままのようで、今でも顔を合わせればその話だ。早く買えばいいのにと思うのだが、何を恐れているのか、なかなか買わない。

私自身の蓄音機との出会いも同じようなものだった。もう三十年も昔のことだ。

夏の最中の夕暮れ時、私は下駄をつっかけてアパートを出た。煙草を切らしたのだったか、夕涼みがてらにぶらぶら歩く路地裏の、傾きかかったような三軒続きのひと部屋から、それはとつぜん聞こえてきた。ヴァイオリンか。だがそんなことが問題でもなかった。なにか非常に濃密な、手でつかめそうな音があふれ出していたのである。私は、植物の生い茂った小さな庭越しに、開け放された縁側を見た。薄いカーテンに電球の灯り、外から透けて見える小さな部屋の、いったいどこで鳴っているのか。あたりを領するような、それでいてむしろ静かな、そんな不思議な音……。

ふと、カーテンがめくられ、四十くらいの男性が半身を現わした。

「いい音でしょ。聴いていかれません?」

気づかれて私はうろたえたが、いいんですか、ありがとうございます、ではちょっと……促されるままに庭に入り、縁側にあがりこんだ。庭には茄子が生り、トマトが植えられ、向日葵が丈高く育っている。人のよさそうなメフィストフェレスは関西弁だった。

「知っとる? 蓄音機」

「いえ……」

「針、付け替えんねん」

彼が針を外しにかかると、そのごそごそいう音が、もう部屋いっぱいに鳴るのである。そして新しい針をとり付け、クランクを回してゼンマイを捲き、針をそっと下した。レコードと針との摩擦音が「ちりちりちり」と鳴って、これも部屋を満たす。すぐそこで鳴っているのだけれど、どこで鳴っているのかわからない。既に空間は変容しはじめている。まもなく、舞曲風のピアノの旋律が鮮明繊細に奏でられ、そこに突然、ヴァイオリンが鳴り渡った。緻密で伸びやかな、圧倒的な弦の響き。これはなんだ。聴いたことがない。しかしなんという郷愁……世界は一変した。

異様な興奮のなかで、これならわかる、と私には思われた。何が? それはよくわからない。よくわからないが、レコード一面の演奏が済んで、自分の人生が、新たな次元に入り込んだことは確かであった。

「ジネット・ヌヴーや。知らん?」

「いや、クラシックはあんまり……」

「知らんか、そやけど関係ないやろ?」

「関係ないですね、すごいもんです」

「今日はこの人の誕生日や、8月11日、70歳。ボクひとりでお祝いしとったんよ。もっともこの人、30で亡くなったからなぁ……飛行機事故や」

私はビールを買ってくることにした。

「ハバネラ形式の小品」というラヴェルの曲だと言っていた。が、私は果して「音楽」を聴き、それに感動したのだろうか。どうも怪しい。そんなことよりも、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストにまさしく出会った、その奇妙な感触の方が確かだ。彼女は間違いなくあそこに現れた……ジネット・ヌヴーという、かつて存在したヴァイオリニストによる、疑う余地のない、それは強烈な一撃だった。

 

小林秀雄は「演奏会の聴衆」について、「これはもうはっきりした或る態度を持って、音という事件に臨んでいると言えるだろう」と書いている。「演奏会の聴衆」と「レコード・ファン」とを対比させた文脈だ。「レコード・ファン」は「いつも同じ音を発する機械」に対して「全く受身な知的な且孤独な態度をとらざるを得ない」。しかし「演奏会の聴衆」はというと、それは「音という事件」の渦中にいるというわけだ。

「音という事件」、それは演奏というものの一回性を示唆している。ライヴでの演奏家は、白紙にも喩えられるべき「無」をその立脚点として、自らのそれまでの人生を賭した演奏を、線と形と色彩として、不可逆性の裡に描き出さねばならないのである。その宿命に服するように、レコーディングを拒み、ひたすらライヴに賭けた演奏家もいる。自ら「ノー・レコード・カタログ」と称したフィリップ・ニューマンなどはその典型だ。他方、苦しい格闘を強いられた演奏家もいるのである。ウラディミール・ホロヴィッツはその全盛期の12年間、ステージに立つことができなかった。グレン・グールドは遂にステージを去ってスタジオに籠ってしまった。厳格な一回性を強いる純白の舞台は、最高度の実現を可能にする条件であると同時に、第一級の演奏家にとってさえ、いや第一級であればこそ、想像を絶する危機的な場所でもあるらしい。そう気づかされて、粛然とする。人生の一回性という決定的に切迫した真実、人は、虚無にも誘われかねないこの真実から眼をそらすべく、現世に集中するという「知恵」の発動を許されているが、演奏家は、むしろその現実に敢えて直面すべきことを強いられている、といっていいだろうか。いずれにせよ、演奏家はその一回性における高次の達成という使命に挑み、聴衆は演奏会場でその現場に立ち会い、演奏家の人生と己の人生との感動的な交点を幻想しつつあるのである。

 

ところで、古いレコードを蓄音機で聴く「レコード・ファン」の体験は、もとより反復可能なものに相違ないが、彼らは、それがあたかも一回性のものであるかのごとき感慨の裡にいるもののようだ。言い換えれば、おそらく彼の胸は、この演奏がかつて行われたのだというその歴史的一回性に衝きあげられているのである。それを「音という事件」と呼ぶことに私は躊躇しない。彼は今や「レコード・ファン」の特権であるはずの「知性」を、演奏を対象化し冷静な分析を試みる賢明なる「知性」を奪われている。それはおそらく、蓄音機によって再生されるのが、音楽そのものであると同時に、その演奏家の肉体であり、またその時間その空間でさえあるからだろう。彼はその時空にさらわれて、演奏家その人に出会っていないともかぎらないというわけだ。

小林秀雄が勘違いしているのではない。生きた時代が違うというに過ぎない。なにしろあの頃のレコードといえば、おおむね同時代の演奏家のその演奏の記録であったのだから。たとえば音楽青年小林秀雄が蓄音機で聴いていたに違いない、ミッシャ・エルマンやフリッツ・クライスラー、ジャック・ティボーといった、歴史に名を留めるヴァイオリニストたちは、その全盛期に日本を訪れ、小林秀雄は「その都度必ずききに行った」し、「それは又見に行く事でもあった」と述懐するのである。ところが、言うまでもないことだが、かかる人々の演奏は、今日の我々にとっては、既に過ぎ去った遠い時代の記憶なのである。加えて、エルマンもクライスラーも不世出だということがある。最早優れた音楽家は出現しないなどといいたいのではない。そういうことではなく、彼らは「最初の」演奏家なのだ。彼らこそが、今日のすべての演奏家の原点であり、例外なく、切実な動機をもって、人生を賭けて時代を拓いたのだ。そして、そういう人々に対する敬意が、私に蓄音機のゼンマイを捲けというのである。

ところが、「でもやっぱりナマには敵わないでしょう?」という問いを、私は幾度も受けてきた。蓄音機愛好家であるという私に対する、これは一種の反駁なんだろうと思う。しかしながら、蓄音機で聴くのと演奏会で聴くのとでは、今日では、その経験の意味がまるで違っている。双方のあいだには単純な比較を拒絶するものがあるのである。

言うまでもなく演奏会は楽しい。そんなことはわかりきったことである。この私にしても、演奏会一般の楽しみを否定することなどありえない。習いたての子供らの「スリリングな」ピアノ発表会であっても、演奏会は楽しい。近所の小さなお嬢さんなら、その盛装に応じて、こちらもきちんとネクタイを着用し花束なども拵えて、いそいそと出掛けようかというものだ。まして一流の演奏家が、蒼ざめた面持ちで、覚悟を決めて白紙に臨む、そんな、まさしく一回性の演奏会に立ち会えたなら、それは一生の宝である。

ところが蓄音機で音楽を聴くというのは、そのような時空の共有などもはや叶わぬ過去への、想像力の飛翔なのである。失われたはずの過去との思いがけない邂逅、それは歴史に推参する契機をさえ与えてくれると言っても、あながち誇張ではないであろう。

 

書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない。

(小林秀雄「読書について」)

 

レコードを聴くことと書物を読むこと、これらをすっかり同じだということはできないかも知れない。しかしながら、書物なりレコードなりを介して、その向こうにいる人間に出会い得るという点ではよく似ているだろう。ヴァイオリニストから出て来たものを、再び元のヴァイオリニストに返す事が、レコード音楽を聴く技術の全てであるか、そういう問いは残るが、元のヴァイオリニストが、ふと見えてしまうということ、少なくともそんな気がするというくらいのことなら、それはどうやらありそうだ。

二十代も終わりにさしかかったあの夏の宵、私は、蓄音機が再生するジネット・ヌヴーの音楽に身を委ねながら、まったく未知の人である彼女に邂逅したと思ったのだった。それは、レコードを通して、既に亡いジネット・ヌヴーに思いを馳せたというようなことではなかった。彼女は蓄音機によって再生される音の最中に、たしかにいたのであった。かくして死者は、あるいは過去は、現在に持続するのかも知れない。そしてそれは、失われたはずのものでもある。その狭間に私どもは置かれ、救済されながらも翻弄されて、せつない思いにとらえられる。蓄音機の音楽は、いつも、哀しみのような感動を連れて来る。

(了)