杉本圭司『小林秀雄 最後の音楽会』(新潮社刊)

三浦 武

何年か前の夏、杉本さんにご足労いただいて、私が講師を務めている予備校の受験生、特に浪人生諸君を相手に講演してもらったことがあった。そこで杉本さんは「小林秀雄、小林秀雄」と「連呼」され、小林秀雄へのこの傾倒ぶりは、これはどうやら三浦どころの段ではないぞと直観した生意気盛りの聴衆に、ただちに冷やかされるところとなった。この「連呼」の意味するところ、それは本書「あとがき」に著者自身が書かれている。

もとより聴衆の印象は「連呼」に止まるものではなかった。必ずしも順潮ならざる青年期を経て、ようやく小林秀雄を読むというその事に志を定め、その一筋に連なって今日まで来られた、その半生を回顧し織り交ぜられての講演は、受験失敗という挫折とともに、思いがけず自らの人生について考えることになってしまった浪人生諸君には、今日の自分に思いをいたす契機となり、明日の励みとなったことである。

己を語って「私」を主張せず、ただ聴衆とともに感じ考えようとするかのような杉本さんの語りは、その風貌と「小林秀雄」の名前とともに、しばらくのあいだ教室の語り種となった。翌年も講演をお願いした。そのときには、大学生となった前年の聴衆らによって、「杉本先生」は、半ば伝説のようになっていたものである。

杉本さんは、2013年、小林秀雄没後三十年の年に、「契りのストラディヴァリウス」で眼の覚めるようなデビューを果たされ、本年9月、それを開巻劈頭とする『小林秀雄 最後の音楽会』を上梓された。それは本当に待ち望まれたことであった。その記念の書評をとのことで身に余る光栄だが、仰ぎ見るようなこの著を評することは私には難しい。その山麓を逍遥しょうようするくらいのことで勘弁していただきたいと思う。

 

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1951年秋、戦後初めて来日した大物ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインの演奏に接した小林秀雄は、その感慨を「あなたに感謝する」と題してただちに『朝日新聞』に書き(現題「メニューヒンを聴いて」)、年明けには「ヴァイオリニスト」という小論において、「私は、ヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と告白した。ヴァイオリンばかりではなく、小林秀雄の傍らには常に音楽があったのだが、その最晩年、亡くなる一年前の入院療養前後にはまったく音楽を聴こうとしなくなったのだそうだ。それは、音楽とともにあった小林秀雄の文学的生涯の終わりを示唆していた。

しかし「亡くなる二ヶ月前の或る夜、小林秀雄は、もう一度、音楽の方へ振り返った。病院から自宅に戻ったその年の暮れ、テレビで放映されたユーディ・メニューインの演奏会を、彼は最後まで聴いた」と、本書の第一部「契りのストラディヴァリウス」にある。

それが小林秀雄の「最後の音楽会」だ。戦後まもなく、知命五十歳になんなんとする頃、メニューイン奏でるストラディヴァリウスの音に「あゝ、何んという音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」と感激した小林秀雄は、八十年の生涯を終えようとするとき、あたかも惑星の軌道が交差するかのように、再び恩人メニューインに邂逅したのであった。

感傷をそそのかされかねない逸話である。しかし杉本圭司の眼には、そもそも単なるエピソードとは見えていないのである。彼はいつもそうだ。彼はしばしば沈黙するが、そんなとき、彼は偶然と見える光景の底に、宿命の気配を看取しつつあるのである。

たとえば。小林秀雄がベッドから起きて来て妻と聴いたという「最後の演奏会」のプログラムである。ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、それにフランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタ。杉本圭司はこれを、「私」を去って凝視する。すると、このプログラムが、濃密な時間性と立体性を帯びて、思いがけない相貌を浮かび上がらせるのである。

これらの衛星とその配列は、小林秀雄という天体の骨格を示唆しているかのようだ。第一曲には「観念と形」の問題が映し出され、第二曲では「美」とその倫理性が語られる。そして第三曲はまさしく「宿命」であるか。セザール・フランクという名とその曲には、「共に『辛い文学の世界』を彷徨ほうこう」する「痛ましい宿命」を分かちもった河上徹太郎との、さらには富永太郎、中原中也らとの記憶がつき纏うのである。だとすれば、三十一年前の「あなたに感謝する」には「バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった」と書いた小林秀雄だが、この「最後の音楽会」でも、同じような思いの裡に、「ブラウン管に映し出されるストラディヴァリウスの共鳴盤を追って、満ち足りていたのだろうか」。

 

考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる。そういう経験をいう。

(小林秀雄「考えるという事」)

 

杉本圭司もまた、そういう意味合いで一筋に考える。そして動かし難い確信に逢着する。

 

富永太郎が夭折した十二年後、中原中也は三十歳の若さでこの世を去り、河上徹太郎は、昭和五十五年九月二十二日、七十八歳でその生涯を閉じた。そして昭和五十七年十二月二十八日、秋雨の降る日比谷公会堂から三十一年後、ブラウン管の中で、ふたたび、第三楽章レチタティーヴォ・ファンタジアが嬰ヘ短調のコーダに沈む。「バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった」はずはない。

(「契りのストラディヴァリウス」)

 

どうでもよい事であったはずはない。かくして小林秀雄と音楽について考えることは、そのまま小林秀雄の人生とその相貌について思いを致すことに連なるのであった。

 

さて、小林秀雄と音楽といえば、やはり作品としても音楽家としても「モオツァルト」が思い出されるだろう。さらにいえば、作品「モオツァルト」で語られている「僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」というあの話か。「街の雑沓の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った」。そして自ら問う。「一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているだろうか」「あの頃、僕には既に何も彼も解ってはいなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいるという事になる」。杉本圭司によれば、この自問自答が「全十一章にわたるこの作品の全篇において繰り返されている」のである。

ただし、「モオツァルト」執筆の直接の動機は、「道頓堀の経験から十四年経った昭和十七年五月、当時、伊東に疎開していた青山二郎の自宅で聴いたニ長調弦楽クインテットのレコードによって与えられたものであった」。

 

僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晳めいせきな形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。

(小林秀雄「ゴッホの手紙」)

 

「無定形な自然」に映りこんだ「精巧明晳な形式」として、いわば無時間の相をもって実存する「聴覚的宇宙」。杉本圭司はこの「聴覚的宇宙」を、「ドストエフスキーの『至高なる刹那』としての意識の臨界点、少なくとも、これと本質的なアナロジーを持つ経験であっただろう」という。「言わば、それは、調であった」とも。そしてそれは「無常という事」の冒頭に現れているのである。

 

突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。

(小林秀雄「無常という事」)

 

杉本圭司は、俊敏な遊星となって惑星のあいだを経廻りながら、ひとつのコスモスを織り上げようとするかのようだ。遊星はこのあと、小林秀雄の人生にとって最も切実な経験に違いない母の死に立ち止り、モオツァルトとの間を往還しつつ、ベルグソンに赴く。そしてプルーストの「超時間(エクストラ=タンポレル)の存在」を経て、「他者の記憶が己れの記憶の裡で鳴り、他者の歴史が己れの歴史の裡で思い出される精神」というべき「小林秀雄の批評精神」に到達するのである。

 

小林秀雄は、批評家としての己れの『時』を見出したのだ。そして以後、彼が歩み始めた道は、嘗て「時間」の問題に直面したベルクソンが、自らの哲学的方法の開眼について述べ、それを受けて書いた小林秀雄の言葉を借りて言えば、「失われた時を求めて」、前人未到の道であった。

(本書第二部「小林秀雄の『時』 或る冬の夜のモオツァルト」)

 

私には、杉本圭司もまた、小林秀雄という巨星の軌道を追って、その孤独な「前人未到の道」を辿りつつある人とみえる。

 

その小林秀雄が親身に交わり、己が身に感じて生きたところの巨星は、たとえばドストエフスキーであり、モオツァルトであり、ゴッホである。そして「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」というこの批評家の「道」は、ゴッホを巡る「螺階的上昇」を経て、「『ゴッホの手紙』を擱筆しようとしていた小林秀雄が、ついに『批評的言辞は私を去った』と自覚した瞬間に開けた道であった」。それは、常に音楽とともにあり、「『何よりもまず音楽を』(ヴェルレーヌ)とねがう抒情詩人の血を引く文学者の一人であった」小林秀雄が、「主題を叩き付けるように提示し、コーダに向かって一直線に邁進する」ベートーヴェンのダイナミズムから、「主題が和声の細緻な網の目に織り込まれながら、紆余曲折の裡に進展する」ブラームスの書法へと旋回する決定的な契機だったのである。

「本居宣長」を「ブラームスで書いている」と言った小林秀雄の境地が、本書の第三部「ブラームスの勇気」で開示される。「自身の音楽の価値に対しても極めて懐疑的」で「過去の巨匠たちの音楽への憧憬と尊敬を生涯持ち続け」たブラームスを、小林秀雄は「あいつ」と呼ぶ。そして独りごちるのである。「誰がわかるものかい、ブラームスという人のね、勇気をね、君。……」。

 

周りからは擬古典主義、ベートーヴェンの二番煎じと揶揄されながらも、ベートーヴェンが残した偉大な足跡と労苦を辿り、ベートーヴェンが実現した音楽の意味を理解し、これを我が物とするところに自らの喜びを見出そうとした。言わば、「述べて作らず、信じて古を好む」の道を行くことが、作曲家としての自らの使命であり宿命であると自覚した人であったのだ。

(「ブラームスの勇気」)

 

小林秀雄にとってブラームスは同志であった。「本居宣長」の執筆という「孤独な仕事を続けるために、彼がその都度、ブラームスから『勇気』をもらい続けた」。もっとも「それはあくまで彼の晩年の書斎の中だけで生起した、この作曲家との内奥の交感の軌跡」である。だから小林秀雄はブラームスについて、「ついに一行も書き残さなかった」のではないか。

そう書き記す杉本圭司もまた、自らの使命と宿命を自覚し、たびたび小林秀雄の著作を繙いては、意志と忍耐と勇気というものを学んできたに違いないのである。そうでなければ、メニューインのヴァイオリンに再会し、フランクのソナタで来し方を回顧し、セザンヌの「どんな宗派にも属さぬ宗教画」の前へと天体の軌道を閉じていった、小林秀雄のその末期に至るまでの長い旅路を辿りぬくことはできなかったであろう。

辿りぬいて、小林秀雄という、複雑で豊富な軌道を包摂した天体を、そのまま我々にも親しい大地の存在に返してくれる人を、我々は、ずいぶん長い間待っていたような気がする。小林秀雄を、巧みに解釈し、簡潔に要約したり抽象したりして、小林秀雄という人間とは凡そ隔たる像を作りあげ、それを讃えたり難じたりする、そういう「知的」な人達はたくさんいたが、そういうことにはもううんざりしていたところだ。

 

批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。

(小林秀雄「正宗白鳥の作について」)

 

杉本圭司に教わったことの第一は、この「熟読」である。それは敬意と信頼によってのみ支えられる無私の行為なのだ。小林秀雄は、批評について、「主張の断念という、果敢な精神の活動」だと言う。そして杉本圭司は、その系譜を、いま、たしかに継いでいる。

 

ところで、小林秀雄の「最後の音楽会」の最後の音楽、新聞テレビ欄にも「ほか」とあるだけで知り得なかったはずのその日のアンコール曲は、どうやらブラームスだったらしい。それが奏でられた刹那……いやいや、ブラームスだと知れただけで充分だ。余計な空想などはやめておくのが賢明である。

 

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杉本さんの言葉に耳を傾けていると、それまで茫漠としていた小林秀雄という銀河の星々が、ひとつひとつ輪郭をもってあらためて発見され、また相互に連なって、太陽系のような惑星系をいくつも構成しはじめる。それが我々の、地上の世界の秩序となり救済となって、小林秀雄を読もうか、という気にさせてくれる。そういう意味でも、この『最後の音楽会』は、本当の教養の書だ。

「小林秀雄連呼」の翌年だったか、予備校でお願いした講演の中身は、まさにブラームスの「勇気」についてであった。杉本さんは、小林秀雄が最後に聴いたであろうブラームスのアダージョを、メニューインの演奏で聴くというプログラムをもってしめくくりとされた。

私は教室の外に出てそれを聴いていたのだが、廊下にも伝わり来る聴衆の静寂には、なにか格別なものがあった。それはなにも学生諸君が、ブラームスの、本音を思わずほとばしらせたというようなあの旋律に、感傷を誘われたということではなかったと思う。

小林秀雄を読むことに魂を打ち込んできた杉本さんであるから、「最後の音楽会」に隠された「ブラームス」という、驚くべき秘密に漕ぎつけられたのだ。それが学生にもわかったのだ。ブラームスのような無私を得んとして本居宣長に従った小林秀雄が、その人生の最後に聴いたのが、他ならぬブラームスだった。これはもう偶然なんかではない。そういうことだったのだ。それを発掘するのは、やはり無私に徹して小林秀雄を読みぬき、語り、知らず知らず天命に従って半生を生きて来られた杉本さんを措いて他にありえない。そしてすべてはまったき調和を得てコスモスへと昇華したわけだ。

杉本さんがブラームスのアダージョに邂逅した時にすべては完結していた。このたびの出版はその記念である。と同時に、いて三十有余年、ようやく本当の小林秀雄研究の地平が拓かれる、その黎明を告げてもいる。この一冊は、私には生涯の座右となるが、彼はさらに、「螺階的に」上昇しなければ済まないであろう。

(了)