語釈は緊要にあらず端緒としての契沖「百人一首改観抄」

坂口 慶樹

本居宣長は、「玉勝間」(二の巻)において、若かりし頃を、こう思い出している。

亡父の家業を継ぎ、家運挽回に努めていた義兄は病死、江戸の店は倒産した。そこで自分は、母のすすめもあり、二十三歳の時、医術を習うべく京都遊学に出た。

「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖(*1)といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、……」

この告白について、小林秀雄先生は「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」と評している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.56)。

私は、「宣長の自己発見の機縁」となった契沖という人間に、さらに一歩近づいてみたいという思いが募り、その機縁の端緒となった「百人一首改観抄」(以下、同抄)をひもとき、幾度となく眺めてみた。

 

 

そこには、読者に対して、上から教え諭すような姿勢は一切なかった。仏教的にも儒学的にも、そんな気配は皆無である。小林先生の言うとおり、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」る、その「直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である」のだから、これらをいっさい排して見る、という姿勢で貫かれていた。この、古典にむかう態度を、宣長は「大明眼」と呼んだ。

「コヽニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、……ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(あしわけをぶね)

 

私自身が、同抄に触れて、まさに目が覚めたように感じたのは、一首一首について相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する契沖の綿密な眼差しであった。具体例を示したい。

鎌倉右大臣、すなわち源実朝にこんな歌がある。

 

世の中は 常にもがもな 渚ぐ 海人あま小舟をぶねの 綱手つなて悲しも

 

眼の前の渚を、漁夫が小舟を漕いでゆく、その綱手引くさまを、実朝は、「悲しも」と詠んでいる。だがこの「悲し」は、今日私たちが言う「悲しい」ではなく、「ああ、趣きがある、心惹かれるなぁ」というような感慨である。そのことと相俟あいまって、契沖が着目するのは、「世の中は 常にもがもな(ずっとこのままであって欲しい)」という言葉である。

さっそく彼は、「まず本歌の心をあらあら注すべし」として、実朝が本歌取りの技法で取りこんだ本歌三首を示す。

 

河上の ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常娘子とこをとめにて

(万葉集 巻第一、吹黄刀自ふきのとじ

 

荒磯辺ありそべに つきて漕ぐ海人あま から人の 浜を過ぐれば 恋しくありなり

(万葉集 巻第九、雑歌)

 

陸奥みちのくは いづくはあれど 塩釜の 浦ぐ舟の 綱手つなて悲しも

(古今集 巻第二十、よみ人しらず)

 

契沖は、第一の本歌について言及する(*2)。「ゆつ」すなわち神聖なこれらの岩々は、岩であるがゆえに草も生えず永遠にある、自分の命もいつまでもあって欲しい、仙女のように老いることなくこの山川を眺めていたいから、が歌意である。神々しい景色を見て長寿をねがうというのには、そこを愛でる気持ちがあるのだと言う。実朝の歌の「常にもがもな」も、こういうところから出ていて、歌としての大意も「万葉集」の歌と同じく、長寿を希うことで眼前の光景を讃えているのである……。

このように第二、第三の本歌も同様に読み解いていった最後、彼は、実朝の歌全体についてこのように言う。

「旅に出て、えもいはずおもしろき浜づらを行くに、渚につきて綱手引きて漕ぎゆく漁夫あまの釣舟の、様々のめ(海藻)を刈り、魚を釣り、貝を拾ふを見るに、飽かず珍かにおぼゆる故に、かくて常にここにながめをらばやと思ふによりて、世の中は常にもかなと、ながき命のほしくなるなり」。

 

続けて「万葉集」から、「おもしろき所などにつきて命を願ひたる類」として、以下の三首を引く。

 

我がいのちも 常にあらぬか 昔見し きさの小川を 行きて見んため

(万葉集 巻第三、大伴旅人)

 

万代よろづよに 見とも飽かめや み吉野の たぎつ河内かふちの 大宮所おほみやどころ

 

人みなの 命も我も み吉野の 滝の常盤ときはの 常ならぬかも

(万葉集 巻第六、笠金村かさのかなむら

 

命長らえて、昔見た小川をもう一度訪れてみたい……、激流渦巻く吉野川にある離宮は、見続けても飽きることなどありはすまい……、皆の命も我が命も、滝の不動の岩のように永遠にあってくれないものか……、そんな趣旨の歌を列挙することによって、「常にもがもな」という心、ずっとこのままであって欲しいと祈るような心情を、その言葉の持つ含みまで込めて、読者に眼のあたり見させてくれているのである。

さらに契沖は、「枕草子」に記された清少納言の言葉までも引くのだが、ここでは、その詳細は割愛する。ともあれ、このように語釈や自らの勝手な解釈は避け、先行する歌や随筆という具体的な作物を連ねることで、作者の心持ちへの近接に徹する彼の態度は、作者が己の「思フ心」を、どのようにことばをととのえて表現しようとしたかに肉薄し、自得せんとするものだと言えよう。

 

 

以上のことを念頭に、改めて「本居宣長」に向き合ってみると、宣長の「うひ山ぶみ」から引かれた、こんな文章が眼に飛び込んできた。

「『語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひかごと、多きぞかし』

これと殆ど同じ文が『玉勝間』(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教えではなく、余程彼の言いたかった意見と思われる。古学に携る学者が誘われる、語源学的な語釈を、彼は信用していない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、という彼のはっきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵(*3)を受けて、『語釈は緊要にあらず』と言う宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭かんとう(*4)にあったと言ってもよい」(同p268-269)。

「うひ山ぶみ」が著されたのは、畢生の大作「古事記伝」を擱筆かくひつした後、宣長六十九歳の時点であることも踏まえれば、これはまさに、長年にわたる確信に確信を重ねたうえで到達した、鋭角的な断言と受け留めてよい。

わけても、宣長の、この言葉を熟視したい。

「諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」。

この教えこそ、先ほど私が同抄を読んで感得した、「相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する」契沖の態度に、重なってはこないだろうか。

 

 

宣長は、県居あがたゐ大人うしとして敬愛する賀茂真淵に学んだ。その教えは、「学問の要は、『古言を得る』という『低き所』を固めるにある、これを怠って、『高き所』を求めんとしても徒事である」ということであった。ここで「真淵の言う『低き所』とは、古書の註釈、古言の語釈という、地道な根気の要る仕事」であり、小林先生は「宣長は、この道を受け、いよいよ低く、その底辺まで行ったと言ってもよい」と言い切る。その「底辺まで行った」ということは、例えば、宣長が「古今集遠鏡とおかがみ」を成したことで具体的に示されている。

古典原典の直接研究を旨とする「古学」の血脈にある宣長が、「古今集」の歴代初の現代語訳者となったのである。この、一見不可解な営為の動機については、「物の味を、みづからなめて、知れるがごとく、いにしへの雅言ミヤビゴトみな、おのがはらの内の物としなければ」(「古今集遠鏡」一の巻)、と小林先生が紹介しているとおりであり、ここにも「宣長の言語観の基本的なものが現れている」と先生は言っている(同、p267)。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも聞ゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、、そのいきほひをウツすべき也」(傍点筆者)。

そういうことを通じて、「古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬ」、例えば「『万葉』に現れた『言霊』という古言に含まれた、『言霊』の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかり合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである」。まさに宣長は、「古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働き方の中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ」、そう考えていたのである。

 

先に、私が熟視対象とした宣長の言葉は、以上のような冒険的な成果と、それらを基にする言語観を踏まえた鋭角的な断言だったのである。このような道筋を経て、私は、次のような自問自答に想到した。

「宣長の自己発見の機縁」となった契沖が著した「百人一首改観抄」は、宣長をして、古言の語源学的な語釈を信用せず、「古人の用ひたる所」を重視する、即ち言葉の転義に着目する態度を我が物とせしめた、端緒の一つとなったのではなかろうか。

もちろん、宣長が「わきまへさとった」このような態度は、この一書だけでも、契沖の教えのみによるものでもなく、生得的なものも含めてさまざまな機縁があったことには、十分留意する必要がある。加えて契沖は、語釈をすべて捨て去っていたわけではない。これは、「契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった」と小林先生が書いているとおり、確と認識しておくべきことである。

 

 

この自問自答のあと、小林先生による「実朝」(同、第14集)を再読する機会があった。失念していたが、先に同抄から引いた実朝の歌について、語釈や註釈をされることもなく、このように評されていた。

「この歌にしても、あまり内容にこだわり、そこに微妙で複雑な成熟した大人の逆説を読みとるよりも、いかにも清潔で優しい殆ど潮の匂いがする様な歌の姿や調しらべの方に注意するのがよいように思われる。実は、作者には逆説という様なものが見えたのではない、という方が実は本当かも知れないのである」。

改めて、思うところがあった。「やすらかに見る」ということ、そして、語釈を緊要とはせず、作者や登場人物の心中をいかに思いはかろうか、という姿勢は、「モオツァルト」や「ゴッホの手紙」はもちろん、この「本居宣長」という著作でも現れているとおり、小林先生もまた我が物とされていた、批評の態度ではなかったか。

 

 

 

(*1) 江戸前期の国学者、真言僧。1640-1701

(*2) 万葉集では、「十市皇女とをちのひめみこ、伊勢神宮に参赴まゐでます時に、波多はたの横山のいはおを見て、吹黄刀自ふきのとじが作る歌」との詞書が付いている。すなわち、吹黄刀自という女性が、十市皇女の立場で詠ったものである。

(*3) 賀茂真淵、江戸中期の国学者、歌人。1697-1769

(*4) 百尺もある竿の先端、の意で到達している極点、極致のこと。

 

【参考文献】

「百人一首改観抄」『契沖全集』第九巻、岩波書店刊

「萬葉集」新潮日本古典集成

 

(了)