二十三 「独」の学脈(中)
1
中江藤樹は、「論語」の訓詁は「郷党」篇に対してしか残さなかった。「学而」に始まり「尭曰」に至る「論語」全二十篇のうち、「郷党」は第十篇だが、その「郷党」では孔子はほとんど口を利かない。そこに写されているのは孔子の日常の挙止だけである。だがそれゆえにこそ藤樹の訓詁は「郷党」に集中した。
小林氏は言う。
――藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。……
「徳光」は人の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれる影である。
だから、と藤樹は言う。
――此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識シ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ……
「端的」は、最も言わんとするところ、である。「嘿」は「黙」に同じ、「体認」は今日では実際に体験して会得すること、また心に刻みこむように会得すること、とされているが、ここは、実際の体験はなくとも的確に会得する、それも、実際に体験したと同じように心で確と会得する、の意であろう。小林氏が言っている「これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある」の「力量」は、この「体認」の力である。
小林氏は、藤樹には「郷党」が孔子の肖像画と映じていたと見ていいと言い、これを読んで、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」という伊藤仁斎の言葉を思い出す、それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしていることが仁斎の著述の随所に窺われるからだと「画」を介して言う。「独」の学脈の二の手、伊藤仁斎の幕が開く。
「六経」は、中国における六種の経書、すなわち中国古代の聖賢の教えを記した六つの書で「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」「楽経」を言い、儒教の基本となっている。いっぽう「語孟」は「論語」と「孟子」で、「孟子」は孔子の教えを継いだ孟子の言行を弟子が編纂した書であるが、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」とは、「六経」は描かれた絵そのものに譬えることができ、「論語」と「孟子」はそういう絵の描かれ方を見究めた書に譬えることができる、と言うのである。
伊藤仁斎は、藤樹に後れること約二十年、寛永四年(一六二七)に京都の町家に生れた。十一歳の年、「大学」の「治国平天下」の章を読んで儒学に志し、当初は深く朱子学を奉じたが、後にこれを疑って三十六歳の年、自力で「論語」「孟子」の言葉そのものへと遡る古義学を興し、「論語古義」「孟子古義」「語孟字義」、そして「童子問」を著した。没年は宝永二年(一七〇五)、享年七十九だったが、「語孟字義」は五十七歳の年、「論語古義」と「孟子古義」との成果に立って書き上げた書、「童子問」は最晩年に書いた古義学の概論とも言える書である。しかし、これらの書は、いずれも稿を改めること数度に及んで生前一書も刊行されず、刊行は仁斎の死後、嗣子東涯らの手によった。小林氏が、「仁斎は『語孟』への信を新たにした人だ」と言っているのは、この間の消息である。
「論語」は、孔子の言行や、孔子と弟子たちとの対話が記録された本だが、孔子の死後、弟子たちによって一書に編纂されて以来、二〇〇〇年以上にもわたって読み継がれた結果、その周辺にはありとあらゆる訓読や解釈が堆積し、「論語」の原文はそれらの訓読、解釈に押しひしがれんばかりになっていた。そこへ、朱熹の「論語集注」が現れた。
言うまでもなく朱熹は、中国の南宋時代に新しい儒学である宋学を集大成した学者だが、彼自身の儒学の体系は朱子学と呼ばれ、宋学と言えば朱子学をさすまでになっていた。ではその朱子学とは、どういう学問であったか、子安宣邦氏の『仁斎 論語』等に教わりながら概観してみる。
朱子学は、「性理学」とも呼ばれた。「性」とは人に備わっている生まれつきの性質のことだが、朱熹は、宇宙は存在としての「気」と、存在の根拠や法則としての「理」とから成るとし、人間においては人それぞれの気質の性が「気」であるが、人間誰にも共通する本然の性に「理」が備わっているとして「性即理」の命題を打ち立てた。人はこうしてその存在理由と根拠とをもっている、天も根拠をもっている、それが「天理」である、人は天理を本然の性として分かちもっており、これが「性即理」ということである、そしてこの「理」の自己実現が、人間すべての人生課題だと朱熹は言った。こうして朱子学は、「理気論」をもって宇宙論的に人間を理解しようとした。
さらにはこの「理気論」に、「体用論」が加わっていた。「体」とは本体、「用」とは作用である。人の本体として主宰的性格をもつのは心であり、人の運動的契機としての身は用である。心もその本体をなすものは性であり、心が動いて発現するのが情である。「理」と「気」も、「体」と「用」も、万事万物がもつ二つの契機であり、その間に優劣はないのだが、本体論的、本来主義的な構えを基本とする朱子学においては、「理」が「気」に対して、「体」が「用」に対して、心が身に対して、性が情に対して、静が動に対して、それぞれ優越することになる。ここから朱子学は、人間は心の本来的な静によって外から誘発される動を抑制せよという、禁欲的かつ修身的傾向を強く帯びていた。
そして朱熹は、「論語」をはじめとする経書もこの立場から解釈し、「論語」に関しては「論語集注」を著した。日本には鎌倉時代に伝えられ、室町時代には広く学ばれるようになっていたが、江戸時代になると幕府が朱子学を官学として保護したことも与って、「論語」の読み方は「論語集注」によって規定されるまでになっていた。
だが仁斎は、二十代の後半、身体が衰弱し、何かに驚いて動悸が激しくなるという病を得、首を俯し机によったきりで約十年、門庭を出ることなく外部との交渉を断った。この病患の十年があったことにもよって、仁斎は朱子学が人間を叱咤するどころか抑圧する思想の体系であると感じとり、三十代に至って朱子学からの離脱を決意した。そこを小林氏は、東涯が父親を語った「先府君古学先生行状」によってこう書いている。仁斎も青年時代、
――「宋儒性理之説」の吟味に専念したが、宋儒の言う心法も「明鏡止水」に極まるのに深い疑いを抱き、これを「仏老の緒余」として拒絶するに至った。……
「仏老」は仏教と老子、「緒余」は残りもの、あるいは端切である、要するに朱子学は、仏教や老荘思想の追随に過ぎないと仁斎は見たのである。
「明鏡止水」は、澄みきった静かな心境を言う言葉だが、そういう心境を掲げて修身を説く朱子学を仁斎は疑った。なぜか。
――藤樹が心法を言う時、彼は一般に心の工夫というものなど決して考えてはいなかった。心とは自分の「現在の心」であり、心法の内容は、ただ藤樹と「たゞの人」だけで充溢していたのである。仁斎の学問の環境は、もう藤樹を取囲んでいた荒地ではなく、「訓詁ノ雄」達に満ちていたが、仁斎にとっても、学問の本旨とは、材木屋の倅に生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。……
仁斎が「論語古義」「孟子古義」に生涯をかけた気概の源泉はここにあった。彼は自分の註釈を「生活の註脚」と呼んだが、中国古代の聖人たちが説いた人間の道、すなわち人間の生き方は、「理」だの「気」だのといった観念を振り回して宇宙に求めたところで得られるものではない、いつの世にも変ることなく万人にあてはまる生き方は、我々人間の日常にある、平常にあるとして、仁斎はそれを「論語」に見出そうとしたのである。
小林氏は、第八章で、
――「藤樹先生行状」によると、藤樹は十一歳の時、初めて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、壱是ニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動したと言う。「嘆ジテ曰ク、聖人学デ至ルベシ。生民ノタメニ、此経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ。コヽニヲイテ感涙袖ヲウルヲシテヤマズ。是ヨリ聖賢ヲ期待スルノ志アリ」と「行状」は記している。伝説と否定し去る理由もないのであり、大洲の摸索時代の孤独な感動が人知れぬ工夫によって、後に「大学解」となって成熟する、むしろそこに藤樹の学問の特色を認める方が自然であろう。……
と言い、最後に、
――藤樹に「大学」の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった。……
と言っていた。
そして、第九章の冒頭で、
――宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えず発明して、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。それほど、藤樹の立志には、はっきりと徹底した性質があった。……
と言っていた。
ここで言われている「発明」は、物事の、これまで表面には現れていなかった道理や意義を発見して明るみに出す意の「発明」だが、「教養」については「読書週間」(「小林秀雄全作品」第21集所収)でこう言っている、
――教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかに自ら現れる言い難い性質がその特徴であって、教養のあるところを見せようというような筋のものではあるまい。……
「本居宣長」の第九章で言われている「教養」も、まったく同じ「教養」である。日常の「生活体験に基いて得られ」た、「生活秩序に関する精錬された生きた智慧」である。中江藤樹は、そういう一般人の「教養」とまっさきに交渉したのである。伊藤仁斎は、紛れもなく藤樹の志を継いだのである。
2
小林氏は、中江藤樹から伊藤仁斎へという日本の近世の学脈は、「心法」という言葉によって貫かれていると見、その心法とは文字を読むときの心ではなく、絵を見るときの心だと言っているが、その「心法」は、藤樹では「体認」と言われていた、それが仁斎になると「体翫」になる。仁斎が「同志会筆記」で自ら回想しているところによると、
――彼は十六歳の時、朱子の四書を読んで既にひそかに疑うところがあったと言う。「熟思体翫」の歳月を積み、三十歳を過ぎる頃、漸く宋儒を抜く境に参したと考えたが、「心窃ニ安ンゼズ。又之ヲ陽明、近渓等ノ書ニ求ム。心ニ合スルコト有リト雖モ、益々安ンズル能ハズ。或ハ合シ或ハ離レ、或ハ従ヒ或ハ違フ。其幾回ナルヲ知ラズ。是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ヲ以テ求メ、跬歩ヲ以テ思ヒ、従容体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」……
「朱氏の四書」は、朱熹が「礼記」の中の「大学」「中庸」と「論語」「孟子」を四書と呼び、儒学の枢要書と位置づけてこれらに関わる註釈を集成した「四書集注」のことである。若き日の仁斎は、これを読んで「熟思体翫」の歳月を積んだというのだが、「体翫」の「翫」は「翫味」「賞翫」などとも言われるように、深く味わう意である。そうであるなら「体翫」は、身体で味わう、ということになるが、仁斎は生涯、「熟思体翫」の歳月を積み続けた、その端緒がここで語られている。
「是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ヲ以テ求メ、跬歩ヲ以テ思ヒ、従容体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、朱子の「四書集註」をはるかに上回る烈しさで「論語」と「孟子」を体翫したと言うのである。しかも、「悉ク語録註脚ヲ廃シテ」である。「語録」は、ここでは宋、明以後の中国で見られるようになった儒者や高僧の言葉を記録した書物のことで、たとえば朱熹に「近思録」、王陽明に「伝習録」などがあるが、仁斎はこれらを註脚、すなわち書物に施された割注などの類とともにいっさい斥け、「論語」と「孟子」の原文を、原文だけを、直かに読んだと言うのである。「寤寐ヲ以テ」は寝ても醒めても、「跬歩ヲ以テ」は片足踏み出すたびに、「従容」は焦ることなく、「自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、おのずからこうだと合点することがあってそこにはなんらまじりけはなかった、である。
こうして仁斎は、書を読むについて、重大な心法を身に着けた。
――彼の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテ露サザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。……
語録や註脚に頼るのは、「学ンデ之ヲ知ル」であろう、「思テ之ヲ得ル」が体翫であろう。そして、「思テ之ヲ得ル」こそが「独学」であろう。
――彼は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。……
――世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻な学説に作り直す事は可能である。……
――宋儒の註脚が力を振ったのは其処であった。仁斎が気附いたのは、「語孟」という学問の与件は、もともと学説というようなものではなく、研究にはまことに厄介な孔孟という人格の事実に他ならぬという事であった。そう気附いた時、彼は、「独リ語孟ノ正文有テ、未ダ宋儒ノ註脚有ラザル国」に在ったであろう。ここで起った事を、彼は、「熟読精思」とか、「熟読翫味」とか、「体験」とか「体翫」とか、いろいろに言ってみているのである。……
仁斎は、「体翫」の他にもいろいろに言って、自分自身の書の読み方の気味合をなんとか摑み取ろう、伝えようとしているらしいのだが、私はやはり、「体翫」に最も強く魅かれる。中江藤樹は「体認」と言っていた。近世の学問の夜明けを担った藤樹と仁斎が、ともに「体で」会得する、「体で」味わうと言っているところに彼らの学問のひときわ高い鼓動を聞く思いがするのである。それは、小林氏が、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める四年前、『文藝春秋』に「考えるヒント」の一篇として「学問」(同第24集所収)を書いて、そこで次のように言っていたことにもよる。
――仁斎の言う「学問の日用性」も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。「論語」に交わって、孔子の謦咳を承け、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の「論語」の註解を、「生活の註脚」と呼べたのである。……
小林氏によれば、「体翫」とは、信頼する人間と、深く親しく、全身で交わることなのである。
3
こうして仁斎は、「論語古義」に四十余年をかけた。先にも述べたように三十歳を過ぎて朱子学を疑い、三十六歳で古義学を創始したが、「論語古義」の起稿もこの時期と見られている。と言うより、「論語古義」の起稿をもって古義学の創始と見られていると言うべきだろうか。四十歳の頃に初稿が成ったが、以後、七十九歳で没するまで補筆修訂を施し続け、多種の稿本が現在まで伝わっているという。「稿本」は、手書きの草稿である。生前最後の稿本では、各巻の内題が「最上至極宇宙第一 論語巻之一」などとなっているという。そこを小林氏は、次のように書いている。
――仁斎は、「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。「論語」の註解は、彼の畢生の仕事であった。「改竄補緝、五十霜ニ向ツテ、稿凡ソ五タビ易ル、白首紛如タリ」(「刊論語古義序」)とは、東涯の言葉である。古義堂文庫の蔵する仁斎自筆稿本を見ると、彼は、稿を改める毎に、巻頭に、「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている様子が、明らかに窺えるそうである。私は見た事はないが、かつてその事を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時、仁斎の学問の言わば急所とも言うべきものは、ここに在ると感じ、心動かされ、一文を草した事がある。……
「五十霜ニ向ツテ」は五十年ちかくに及び、の意、「稿凡ソ五タビ易ル」は草稿は五度書き改められた、である。倉石武四郎氏は明治三十年生れの中国語学者、中国文学者、昭和二十四年刊の『口語訳 論語』の「はしがき」でこの仁斎の逸話にふれている。
それはともかく、小林氏の文の、先を読もう。
――「論語古義」が、東涯によって刊行されたのは、仁斎の死後十年ほど経ってからだ。刊本には、「最上至極宇宙第一書」という字は削られている。「先府君古学先生行状」によると、そんな大袈裟な言葉は、いかがであろうかというのが門生の意見だったらしく、仁斎は門生の意見を納れて削去したと言う。そうだっただろうと思う。彼は穏かな人柄であった。穏かな人柄だったというのも、恐らくこの人には何も彼もがよく見えていたが為であろう。「論語」が聖典であるとは当時の通念であった。と言う事は、言うまでもなく、誰も自分でそれを確めてみる必要を感じていなかったという意味だ。ある人が、自分で確めてみて驚き、その驚きを「最上至極宇宙第一書」という言葉にしてみると、聖典と聞いて安心している人々の耳には綺語と聞えるであろう。門生に言われるまでもなく、仁斎が見抜いていたのは、その事だ。この、時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質であった。彼にしてみれば、「最上至極宇宙第一書」では、まだ言い足りなかったであろう。まだ言い足りないというような自分の気持が、どうして他人に伝えられようか。黙って註解だけを見て貰った方がよかろう。しかし、どう註解したところで、つまりは「最上至極宇宙第一書」と註するのが一番いいという事になりはしないか。そんな事を思いながら、彼は、これを書いては消し、消しては書いていたのではあるまいか。恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のない躊いであろう。……
――「論語古義」の「総論」に在るように、仁斎の心眼に映じていたものは、「其ノ言ハ至正至当、徹上徹下、一字ヲ増サバ則チ余リ有リ、一字ヲ減ズレバ則チ足ラズ」という「論語」の姿であった。「道ハ此ニ至ツテ尽キ、学ハ此ニ至ツテ極ル」ところまで行きついた、孔子という人の表現の具体的な姿であった。この姿は動かす事が出来ない。分析によって何かに還元できるものでもなく、解釈次第でその代用物が見附かるものでもない。こちら側の力でどうにもならぬ姿なら、これを「其ノ謦咳ヲ承クルガ如ク、其ノ肺腑ヲ視ルガ如ク」というところまで、見て見抜き、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、こちらが相手に動かされる道を行く他はないのである。……
先の引用のなかに、「一文を草した」とあったのは、昭和三十三年の秋、「論語」(同第22集所収)を書いたことを言っている。そこにはこうある。
――伊藤仁斎は「論語」の注釈を書いた時、巻頭に、「最上至極宇宙第一」と書いたという。仁斎の原稿は、今も天理図書館に、殆ど完全に保存されていて、それを見ると、「最上至極宇宙第一」の文字は、消されては書かれ、書かれては消されて、仁斎がこの言葉を注釈に書き入れようか、入れまいかと迷った様が、よく解るそうである。私は、かつて、この話を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時に、心を動かされたのを覚えている。こういう話から、昔の儒者は、仁斎のような優れた儒者でさえ、「論語」という一人の人間の言行録を、天下の聖典と妄信していた、と考えるのは、浅はかなことであろう。「論語」という空文を、ただわけもなく有難がっていた儒者はいくらでもいたが、仁斎のように、この書を熟読し、異常な感動を体験した人は稀れであったと見るのがよいと思う。恐らく、仁斎は、なるほど世間では、皆、「論語」を最上の書と口では言っているが、この書を読んだ自分自身の感動を持っている人は一人もいないことを看破したのである。彼は、自分の感動を、どういう言葉で現していいか解らなかった。考えれば考えるほど、この書は立派なものに思えて来る。自分の実感を率直に言うなら、最上至極宇宙第一の書と言いたいところだが、そんなことを言ってみたところで、世人は、徒に大げさな言葉ととるであろう。仁斎は迷い、書いては消し、消しては書いた。そんな風に想像してみても、間違っているとは思えない。恐らく、仁斎は、「論語」という書物の紙背に、孔子という人間を見たのである。「論語」の中に、「下学シテ上達ス」という言葉がある。孔子は自分の学問は、何も特別なことを研究したものではない、月並な卑近な人事を学び、これを順序を踏んで高いところに持って行こうと努めただけだ、と言うのである。仁斎が、「仲尼ハ吾ガ師ナリ」と言う時に感歎したのは、そういう下学して上達した及び難い人間であって、単なる聖人の理ではなかった。仁斎は、宋儒の天即理とか性即理とかいう考え方を嫌い、仲尼という優れた人間の言行に還るのをよしと考えた、気性の烈しい大学者であった。「仲尼ハ吾ガ師ナリ」という言葉は、「仁斎日札」のなかにあるのだが、その中で、彼はこういうことを言っている。儒者の学問では、闇昧なことを最も嫌う、何でも理屈で極めようとすれば、見掛けは明らかになるようで、実はいよいよ闇昧なものになる。道を論じ経を解くには、明白端的なるを要するのであり、「十字街頭ニ在ツテ白日、事ヲ作スガゴトク」でなければならぬ、という。彼の考えによれば、「論語」に現れた仲尼の言行とは、まさにかくの如きものなのである。……
「仲尼」は孔子の字である。字は中国で男子が元服のときにつけ、それ以後一生通用させた名であるが、孔子の字「仲尼」が三度にわたって出る小林氏の「論語」を、「本居宣長」第十章からの引用に続けて長く引いたのは、「最上至極宇宙第一書」にこめた仁斎の思いを小林氏に導かれてしっかり受け止めたかったからだが、それに加えて小林氏が、仁斎を、ここでまさに「体翫」していると思えたからである、しかもその「体翫」の息づかいは、より高く「学問」のほうから聞える、それを読者にも感じてほしいと希ったからである。
仁斎は、孔子を体翫した。孔子という信頼してやまない人と、深く親しく交わった。その仁斎を、小林氏は「最上至極宇宙第一書」という仁斎の肺腑の言を通じて体翫した、伊藤仁斎という信頼に価する人と、深く親しく交わろうとした。
思えば、小林氏の仕事は、「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」「本居宣長」……、いずれも「体認」「体翫」の結晶であった。
4
――仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。「大学定本」「語孟字義」の二書に感動した青年徂徠は、仁斎に宛てて書いている。「茫茫タル海内、豪杰幾何ゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而シテ独リ先生ニ郷フ」(「与伊仁斎」)、仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている(「童子問」下)。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、倚ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニ郷フ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。……
小林氏は、伊藤仁斎に続いて、荻生徂徠と向き合う。
――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
徂徠は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言している、が、彼は、
――学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……
と小林氏は言って、徂徠の「告白」を引く。
――愚老が経学は、憲廟之御影に候。其子細は、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせて承候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日明六時より夜の四時迄之事ニて、食事之間大小用之間計座を立候事故、後ニは疲果、吟味之心もなくなり行、読候人は只口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物を詠め居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷詠暮し申候。如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而無之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……
「憲廟」は、徳川幕府の第五代将軍、綱吉である。私の経学、すなわち徂徠の四書五経の学問は、綱吉公のおかげであると言うのである。五代将軍綱吉と言えば、悪名高い生類憐みの令で知られるが、その生類憐みの令は将軍在位約三十年の後半、元禄・宝永期の弊政のひとつで、前半期の天和・貞享期には綱紀粛正策等で実を上げ、「天和の治」と称えられるほどだった。したがって、生類憐みの令も、当初は儒教・仏教による人心教化を意図していたと言われ、将軍となってすぐ、儒学の教えを幕政に反映させようと、幕臣を集めて自ら講義することもたびたびだったという。
その綱吉に、徂徠は講義をした。吉川弘文館の『国史大辞典』によれば、もともと徂徠は綱吉と縁があった。徂徠の父方庵は、将軍職に就く前、上野の国舘林藩主時代の綱吉の侍医だった。だが方庵は、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総の国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされた。
赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じた。だが暮しは困窮をきわめ、豆腐のからで食をつないだという逸話を残すほどだった。しかしその間、「訳文筌蹄」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁し、ついには五百石の禄を得るまでになった。
柳沢吉保については多言を要すまいが、側用人とは歴とした徳川幕府の職名である。定員は一名で、将軍に近く仕えて将軍の命を老中に伝え、また老中の上申を将軍に取次ぐ要職である。格式は老中に次ぐが、職務上の権力は老中をしのいだ。吉保は、こうして将軍綱吉の後半期、綱吉の寵を恣にしたが、教養面では綱吉の学問上の弟子となり、その線上で徂徠らを召し抱え、中国古典の覆刻版を刊行するなどした。
しかし、徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言っているが、徂徠が綱吉から蒙った「御影」は、偶然の椿事だった。「其子細は」、すなわち、「憲廟之御影」というのを詳しく言えば、「憲廟之命にて御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味」する機会に恵まれたことだった。「素読」とは、「論語」などの漢籍を読むにあたって、先生が少しずつ区切って読む本文を、生徒は先生に続いて先生が読んだとおりに読む、声に出して読む。先生は語意や文意の説明はいっさいしない、「子曰く」「学びて時に之を習う」「亦説しからずや」……と、ひたすら本文だけを読んでいく。こういう音読を、何度も繰り返す、こうして「論語」なら「論語」を暗記させてしまう。これが当時の漢籍初学の常道だった。
小林氏は、岡潔氏との対話「人間の建設」(同第25集所収)で、大意、こう言っている。
――昔は、子供が何でも覚えてしまう時期、その時期をねらって素読が行われた。これによって誰でも苦もなく古典を暗記してしまった。これが、教育上、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきです。昔は、暗記強制教育だったと簡単に考えるのは悪い合理主義です。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。……
今日、「素読」が日常会話に上ってくることはまずないが、上ってきたとしてもさほど意識されていないか忘れられているのが「暗記」である。「素読」の主目的は「暗記」だったとさえ小林氏は言っているのである。ここで私が、あえて「素読」にまつわる小林氏の発言を引き、「暗記」という言葉に注意を向けてもらったのは、徂徠の告白にも「素読之忘れを吟味仕候」と見えているからである。徂徠が言っている「忘れ」とは、一語一句の訓読法の忘れもあるかも知れないが、「素読之忘れを吟味」するとは、「論語」の全文が生き生きと身体に入っているかどうか、それを見るということだっただろう。そうでないのであれば、現代の中間考査や期末考査のように、所々を抜き出して、精々一時間か一時間半ほどの間に正解を問えばよいではないか。「毎日明六時より夜の四時迄」というほどの時間と体力を、厖大に注ぎこむことはないではないか。「明六時」は、今日の時刻では午前五時から七時頃である、「夜の四時」は午後十時である。
こうして「素読之忘れ之吟味」は、夏の酷暑のさなか、連日十五時間前後にわたって行われ、毎日、時間が経つにつれて小姓も徂徠も朦朧となり、放心状態を繰り返すありさまだった。だが、「如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候」ということになった。「注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而無之事ニ候」ということを痛いほど知った。「曾而」は「まったく(~ない)」である。
小林氏がここで引いた徂徠の回想も、「体認」「体翫」に目覚めた得難い経験の告白と解してよいであろう。そこを徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言ったのである。先に、「体認」「体翫」とは、「体で会得する」「体で味わう」ことらしいと言ったが、いまはもっと進めて、「頭の介入を排して会得する」こと、「頭を介在させないで味わう」こと、と言い換えてもよいだろう。徂徠の告白を読み上げて、小林氏は言っている、
――例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」詠めるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。……
徂徠の経学は、古文の言葉をそこまで味わい会得しようとする強い信念のもとに研鑽が積まれた、それが徂徠の古文辞学だったと小林氏は言うのである。むろん藤樹の「体認」、仁斎の「体翫」も、同じ信念から出た言葉であった。
(第二十三回 了)