霧の中の憂鬱

飯塚 陽子

文学を学ぶということは、死者たち、それも空虚ならざる死者たちとともに、時間や空間に入り込むことです……。私が師と仰ぐ人の言葉である。もの悲しい色に染まったパリを眺めつつこの教えを反芻すると、そのたびに、ああ、これは死者と死者が生きているかのように付き合った小林秀雄のことではないか、と思い至る。何語であろうと、文学の本質は想像力なのだ。そう思うと、東と西を隔てる海や大陸が随分ちっぽけに感じられる。図書館は死者らで満ちあふれた魔の洞窟である、という妙句があるが、文学を愛する者というのは、その魔の洞窟から死者たちを解放し、彼らとともにこの世界の「無限」を遊歩する人のことであるかもしれない。

「無限」の代名詞たるパリは奇妙な街で、滞在者に生の鋭い感覚を絶えず要求するという気難しい一面を持ちながら、常に緩慢な死の気配を充満させている。しかしその死に不気味さはなく、むしろ活発な都会の情景に見事なほど馴染んでいる。とりわけセーヌ川は興味深い。年中汚らしく混濁していて、暗くなればネズミが飛び出し、例えばロワール川のような、天国を思わせる色彩の美しい調和はまるでなく、ただ地上の死のにおいが漂っている。欄干がこんなに低くて、衝動的に身を投げる人がいるのではないかと心配になる。しかしそんなセーヌで私たちは写真を撮り、古本の陳列を眺め、ジョギングをし、クルーズを楽しみ、愛を語らうのである。セーヌの岸辺には、必ず人間の生活がある。

この街には、生き生きと死に出会うための条件が揃っているようだ。私の日常も例外ではない。たとえば、ウィーン風の喫茶店を横目に狭い医学部通りをすり抜けてオートフイユ通りに差し掛かるとボードレールの産声が、ギリシャ料理屋からの帰りに陽気な足取りでデカルト通りに入るとヴェルレーヌの絶命の声が、いつも聞こえてくるような気がする。死者との微笑ましい邂逅を、パリは可能性として秘めているらしい。とは言っても、「死者とともに時間や空間に入り込む」と実感できるほどの文学経験は、どんな土地にいようとそう簡単には得られないものである。あるいは、死そのものを経験することなしにはあり得ない、と言ってもいいかもしれない。

 

十月の最後の週はペールラシェーズ墓地へ行くと決めていた。それがトゥッサンの休暇と一致しているのは偶然で、あるヴァイオリニストの七十回目の命日に合わせて墓参りをしたいという、それだけのことだった。パリの墓地は観光スポットでもあるし、私にとっては日常の延長だった。何事もなく済むはずの用事であったが、秋という儚い季節のいたずらか、当日の朝私はある奇怪なイマージュに引き摺り込まれ、些か墓参りを躊躇うこととなった。

その日は小さな動揺とともに始まった。早朝に見た悪夢の後味が残る、鉛のような体を引きずって台所へ行くと、窓の外が不安を掻き立てる白っぽい灰色で覆われていた。降った雪にしては光が足りないし、降る雪にしては動きが足りない。

それは濃霧だった。見慣れた景色が、仄白ほのじろい水の埃に溶け込み、ほとんど消失していた。道路も建物もなかった。アパルトマンのすぐ隣にある背の高い木々だけが、うっすらと輪郭を保っていた。まだ半分ほど濃緑の葉が生きており、枝に点々と残る枯れ葉は、水滴に支えられるかのように宙にとどまっていた。目を凝らすと、舗装された中途半端な色の地面に落ち葉が広がっているのが分かった。こんなに濃い霧を見るのはいつぶりだろう。暖かい部屋が霧に侵食される恐れはないのに、私は深い緑を見詰めながら無意識に息をひそめていた。

今年の初秋霧は、不意打ちで私を捕らえた実に幻想的な画面だった。しかしその非日常的な魅力に反して、霧のタブローは私を憂鬱な気分にさせた。あの美しく悲しいギリシャ映画のせいだろうか。そうかもしれない。しかし同時に、胸の奥底で別の何かがじんと疼くのを私は感じていた。どんなに痛ましい映画であろうと、映画の記憶は痛みにはならないはずだ。ヴェルコールは長引く沈黙を立ち籠める霧に譬えたが、その時私の胸の痛みは、霧の中で沈黙していた。

窓から目を逸らすと、朝食用の古代小麦パンがとぼけた色でこちらを眺めていた。そうだ今日はペールラシェーズへ行くのだ、と当初の予定を思い出すと、じんわり空腹を感じた。すると突然、数年前の強烈な記憶が色彩とともによみがえってきた。胸の疼きの正体は、奇妙な色合いに塗りたくられたその記憶であるらしかった。外の霧が人の骨の色をしていることを、私はその時確信した。窓枠のステンレスは、大きな骨壺の色で、霧に抗う孤独な緑は、流れる灰を受け止めた草の色だった。アパルトマンの窓から見た霧の風景は、たしかに死の色に染まっていた。あの遺灰が沈黙を連れて街に広がったかのようであった。そこにとどまり続ける死の痕跡は、私を戦慄させた。

 

数年前の夏の終わり、ソローニュという沼沢の多い森林地帯で知人の散骨をした。彼の遺言は、「大好きな森に、見晴らし台から遺灰を全部撒いてくれ」というものであったが、それを叶えることはできなかった。手のひらに乗る量ならまだしも、人間一人分の灰が風に乗って遠くまで舞うということはない。もし見晴らし台から散骨すれば、草木ではなく人間が切り拓いた散策道にまとまって落ち、人の足に踏まれることが明らかであった。遺族は、森の中で最も美しいと思われる一角に遺灰を「置く」ことを提案した。森に還りたいという故人の願いを尊重するならば、その方が賢明であった。

故人の長女が、大きすぎる銀色の骨壺を一息にひっくり返した。鮮やかな緑のグラデーションに、白っぽい灰色が乱暴に差し込んだ。それは完成間近の風景画のタブローに、画家が自虐的に石灰でも投げつけたかのようであった。遺灰には粉らしい軽やかさは全くなく、真っ直ぐ、重たく、草木の根元へ落ちた。あれが人間の重さか。死んでも、灰になっても、人間は重いのか。陰鬱な秋に移行する直前の、晩夏の最後の明るさと潤いを、重苦しく乾燥した灰が、数秒の間支配した。

不謹慎だと思ったが、その時私はランボーの『酩酊船』を思い出していた。なぜ夜は緑なのだろう、なぜ雪は眩しがるのだろう、と心の中で呟いた。それは信仰する宗教を持たない私の、身勝手な祈りの文句であったのかもしれない。瑞々しい濃緑の森は生死の間隙から漏れ出た緑の夜で、一切の光を拒む遺灰はこの世界の煌めきに眩惑している……そう信じてもよかったのだが、生を持て余す私の目には、やはり無言の灰が虚しく映るだけであった。「祈り」は虚空に浮いた。

何をどう歪めようと、人間の灰は乾いた剥き出しの固体であり、苦しい現実だった。もし夢の中であれば、画面ごと溶けていったであろうに。どんなに悲しくても、水の中を深く沈んでゆけたのに。私は二本足で立って、この目で乾燥と虚無の色を見詰めるしかなかった。そこに詩情の生まれる余地は、その時はなかった。私は促されるままに、パンジーの花を灰の上に投げた。

 

ペールラシェーズ墓地は墓地だから、当然、遺骨は墓の下にあって隠蔽されている。そこに幼稚な安堵を覚えて、霧から視界を取り戻した昼過ぎに私は家を出た。何度も乗り換えをする必要があり、最終的には、普段利用することのない濃いブルーのメトロ2番線に乗った。私の家からこれほど行きづらい場所も他になかった。

ペールラシェーズ墓地は、「無限」のパリにある小さな無限空間だった。まず、広大である上に複雑な構成であるため、訪れた人は全体を把握することができない。区画はあるのだが、それを控えたところで簡単には目的の墓へたどり着けないので、あってないに等しい。加えて、この小さな無限空間には無数の死者が埋められており、つまり、目には見えない深さがある。私は野暮な足取りで死者の天井を歩いていたが、この縦横の広がりをそら恐ろしく感じた。霧こそ姿を消したものの、灰色の空が相変わらず頭上にのっぺりと広がっており、晴れたとは言い難かった。

目当てのヴァイオリニストの墓は、区画11のメユール小径の半ばにあるらしかった。想像より大分道幅が狭く、本当にここでいいのだろうかという不安を覚えつつ息を切らして坂道を上ると、突然ひと際美しい墓が目に入った。これだ、という確信めいたものがあったので、手元の地図は見なかった。もう秋であるのに、その一角だけはなぜか初夏の爽やかさがあった。ひょっとすると、ここは一年中爽やかなのかもしれない。その早すぎた死を悼む誰かが、常に新鮮な空気を送ってやっているのかもしれない。

私は、以前からただこのヴァイオリニストの音楽が好きであった。何かを痛切に感じるような時、私の心は、彼女の音楽とともに歓びそして悲しむことを望んだ。それは、七十年前に夭逝した音楽家とともに私が今を生きていることの証かもしれなかった。遠い過去の演奏であるのに、聴くたびに生きた何かと出会う。そして、これは間違いなくこの人の音だ、と思う。その確信が幾度も私を救った。すべてが息をひそめ、すべてが姿を眩ませる濃い霧のただ中で立ちすくむような時、唯一聞こえてくる音に気高い生き様を見定めると、私は霧に包まれる恐怖から救われ、再び人間の精神を信じることができた。この冷めた陶酔が、魂ある人間として生きることを肯定してくれた。

圧倒的な演奏を聴く時、人はごく自然に遥かな時間の厚みに入り込み、そこで雁字搦めの「生」から解放され、逆説的に「生」の実感を得る。端的に言えばそれは、自分は生きている、と思い知ることだ。人生について絶えず自問自答する人間の精神は、そのような飛翔の機会を暗がりで待っている。苦悶の雨に濡れた魂が、心地よい旋律と甘やかな音色に暖を取るような時、問うことを倦まぬ精神はきっと、その慰めの彼方に待つ雨夜の月を探しに行くだろう。

音楽を聴くというのは、つまり、生きることの尊さを確かめるために精神を解き放つことではないだろうか。放っておいては否定されるその尊さを、人は生き続けるために確かめなければならない。音楽は束の間の休息でもあるが、その実、切迫した何かに立ち会うための、果てしない時の旅でもある。清々しい墓の前に立っていると、辺りの澄み切った空気が旅人の出立を待っているかのように思われた。

十月が終わろうとしていたあの日、広大な墓地の目立たぬところにひっそりと存在する美しい場所で、私は「生」の限界を強く意識しながら、しかし時間の支配から自由だった。死者とともに生きる歓びを感じていた。時間の芸術たる音楽は、立ち籠める霧を恐れることはなかった。

 

子どもの頃はなぜだか、向かい風の中を進むことに深刻な苦痛を感じていた。実際には軽い逆風への抵抗が生を突き動かしていたが、それを認めるには幼過ぎた。大人と呼ばれる年齢になってすぐ思い知ったのは、私にとって本物と思われる苦痛はいつも霧の中にあるということだった。重さも運動もないために、抗うことさえ叶わぬ、どうしようもない悲しみというのがこの世にはあった。それは、ヘッセが詩に書いた孤独とも少し違う。意味もなければ実体もない、死の気配だけが漂うただの悲しみだった。この類の悲しみに囚われて日常を生きるのは、たしかに苦痛だった。人はこれを憂鬱と呼ぶのかもしれない。

文学には、霧に沈んだ精神を優しく掬い上げる力がある。漠とした悲しみは圧倒的な現実であり、実際に日常生活へ倦怠と停滞をもたらすものであるが、それを実用の言葉によって捉えるのは難しい。だから生命の滲み込んだ文学の言葉が要請される。最後に救済が用意されているかどうかは、大した問題ではないだろう。人の心の繊細な震えが、生きた言葉を静かにただ待っているのだ。音楽のように鮮やかな飛翔を実現することはできないが、いやだからこそ文学は、心の震えに寄り添いつつ精神の自由を夢みるのである。

掬い上げた精神に翼を与えることは、文学には出来ないのだろうか。言葉は思いの外、立ち籠める霧に対して無力である。霧を晴らして現実を暴こうとすれば、本質が蒸発してしまう。無限の霧に支配されることを許せば、沈黙と停止を余儀なくされる。

しかしそんな時、仄白ほのじろい世界の不自由を逆手にとって想像を巡らせることができるとしたら……。精神は無限の世界を駆け巡り、プリズムのような詩の言葉を生むだろう。重く鈍い憂鬱の塊は、躍動する文学へと昇華するだろう。死を不動から解放するのは、人間の想像力であるに違いない。きっとしなやかな想像のその先に、死者とともに生きるという一つ次元の高い経験があるはずだ。「本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね」、と小林秀雄は言う。空想は空虚でありうるが、想像には必ず充実した生命が脈打っている。

 

霧の中にはいつも憂鬱があった。緩慢な死の気配が憂鬱に養分を与え、刻一刻と霧を濃くし、そこに留まることが宿命であるかのように思われた。しかし音楽は軽やかに勝利し、文学は想像力によって和解した。本当の楽観は、こうやって訪れるのかもしれない。

無力であることを知った人間は、もはや無力ではない。霧を貫く生命の音に魂を震わせ、血を巡らせるように精神を世界に行き渡らせ、生み落とされた詩句を静かに彫琢するならば、荒涼の地に生きる人間は、霧の白さに抗う深い緑を、あるいは虚無を受け止める瑞々しい緑を、孤独に育ててゆけるはずだ。いつかささやかな緑が育てば、目に映る景色は昏い現実の断片などではなく、生と死の抱擁を描く広大なタブローとなるだろう。そして緑を守った人間は詩人となり、死者とともに遊歩する自由を、真の意味で獲得するだろう。

いつかまた、憂鬱の塵埃が視界を覆いつくすのだろうか。構わない。儚くともつよい一葉の生命を心に守り抜く覚悟さえあれば、それは、死者とともに無限へ旅立つ契機となるのだから。

 

 

トゥッサン(Toussaint)……カトリック教会の祝日の一つ。11月1日が諸聖人の日(トゥッサン)で、翌日11月2日が死者の日とされる。

(了)