寄席通い

荻野 徹

……小林秀雄『本居宣長』を読んでは取りとめもないおしゃべりをする男女四人、今日は第十四章あたりが話題になっているようだ……

 

元気のいい娘(以下「娘」) 落語を聴いて、「もののあはれを知る」って、できるかな。

生意気な青年(以下「青年」) なにそれ。

娘 最近、寄席に通っててさ。滑稽噺に大笑いするんだけど、なにか胸に残るんだよね。

江戸紫の似合う女(以下「女」) どういうことかしら。

娘 紙入れ、ってお噺あるよね。

女 あら、ちょっと色っぽい。

凡庸な男(以下「男」) どんな噺?

青年 こういう噺ですよ。とあるおたなしん、奥方ですね、このひとが出入りの若い職人の新さんを誘惑、旦那の留守中に引っ張り込むんだけど、さあこれからというときに急に旦那が帰ってくる。ほうほうの体で逃げ出した新さん、紙入れ、つまり財布、それも御新造の手紙なんかも入ってるのを、忘れてきちゃう。

男 ほう、おとこものか。

青年 翌朝、新さんはお店に出向き、前夜の出来事をよその家でのことのように旦那に話して、紙入れに気づいているか探りを入れる。新さんは気が気でないのに、旦那は興味津々であれこれと聞き出す。ゴシップ話くらいのつもりなんだね。

男 で、どうなる?

青年 そこへ御新造が登場、我がことと知らず面白がっている当の旦那に、「旦那の留守に若い人を引っ張り込もうって女ですからねえ、抜かりはありませんよ」。「紙入れを見つけて、ちゃあんと、旦那に分からないようにしまってあるに決まってますよ。ねえあなた」。

男 といいながら、若い男に合図を送っているわけだ。

青年 そうとは知らない旦那が得意げに「そりゃそうだ。よしんば見つかったところで、女房を寝取られるような間抜けな野郎だ、そこまでは気がつかねえだろう」とのたまって、下げ、ってわけです。

男 フランスの艶笑小咄えんしょうこばなしみたいだね。しゃれてる。

娘 旦那の間抜けぶりを笑う滑稽噺だけど、何度聞いても面白い。後味が悪くない。すじがきは単純だけど、噺家さんの話芸を通じて、ああ、人間ってこうだよなって感じがしてくる。

青年 浮気は不道徳だとか、恋愛は純粋だとか、善悪美醜の詮索を離れ、弱さや愚かさやずるさを含めて、ありのままの人間を感じることが、落語を聴く醍醐味ではありますね。

娘 だからさ、宣長さんが「源氏物語」を読んで、「王朝情趣の描写」にとどまらないものを感じたのと、ちょっと似てるんじゃないかって。

青年 あのね、「源氏物語」も確かに色好みの物語ではあるけどね、「源氏」を深く深く読んだ宣長さんと、寄席でゲラゲラ笑ってるだけのきみとじゃ、月とスッポンでしょう。

娘 私と宣長さんが似てるわけない。そうじゃなくて、落語を聴いても、「源氏物語」を読んでも、心がどううごくのか、自分でもよく分からないことがある。分からないってとこが似てるんじゃないかって。

男 小林先生も、心というものが「事にふれてうごく、事に直接に、親密にうごく、その充実した、生きたこころの働き」という言い方をされているね。

女 それが私たちの心の不思議なところ。私は、私の心と切り離せない、というか、心を取り去った私というものは想像もできないけれど、じゃあ自分の心を自分で分かっているかというと、そうでもないのよね。

男 確かに、小林先生も、書いておられるね。「よろずの事にふれて、おのずから心がうごく」。しかし、それは、分析的に、あるいは知的に理解することは出来ない。このような「習い覚えた知識や分別には歯が立たない」ものこそ、「基本的な人間経験」である。これが、宣長さんの考えだった。

青年 まあ、自分で自分が分らないってことも、あるにはあるけど。でも、いつもそうだったら、まともに生きていけないよね。

女 そういうことじゃないの。心はこんなふうに動くんだということを、頭で理解することはできない、ということ。もちろん、私たちが現に生活を続けている以上、心の働きそのものは、時々刻々、現実のものとして私たちを律している。だから、「生活感情の流れに身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから」心というものが意識されてくるのではないか、きっと宣長さんはそう考えたんじゃないかしら。

娘 それが、「生活感情の本性への見通し」ってやつか。「もののあはれを知る」につながるんだね。

青年 そうですかねえ。情に棹さしゃ流される、感情に身をゆだねても知的な理解には程遠いよ。

男 えーと、宣長さんは「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたい」のだって、小林先生はおっしゃっているよね。

青年 「全的な認識」って、分かるの、あなたがた。

女 分かるのかと言われると、正直、困ってしまいますわ。でも、何か、心惹かれるものはあるのよ。イメージがわいてくるの。むかしむかし、人間がこころなるものを持ったそのとき、知性と感情という区別などなかったのではないかしら。子どもが、初めて自分以外の存在に気づくとき、それは、頭でわかるとも心で感じるとも言えない、驚きのようなものじゃなくって?

男 それが、「そのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」だって言いたいわけ?

青年 (女に)イメージとか言って、まさにあなたの妄想でしょう。筋道だった説明が欠落している。

女 (少し、はにかむように)そうね、妄想よね……でも、人間のこと、ご自分のことって、お知りになりたいでしょう。

青年 ……

女 人間って、多彩で多様よね。感情のありようも、人柄も。赤ちゃんのときは何にも知らないのに。

青年 確かに、人間の精神は、歓喜から絶望に到る種々の感情を味わい、ひいては崇高から極悪に及ぶ多様な人格を形成しますけどね。

女 その、なんていうのかしら、人間の心が、どこからスタートして、どんなふうに枝分かれして、どう育っていくのか、それってお知りになりたいでしょう。

娘 人間とは何か、私とは何か、ということかな。

女 「もののあわれを知る」というのは、こういうことかもしれないって思いますの。

娘 紫式部ちゃんが、思想家であり、批評家であるというのは、そういうことかな。

女 そんな気がするの。人間について、深く深く考えて、それを、自覚的に物語として描いたんだわ。

男 宣長さんが「道」と言うのも、同じようなことかな?

女 私たちの心情というのは、それこそ千々に乱れるというか、定まりのないように見えるものだけれど、私たちが生きていくということは、そこに「脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる」何か、そういう何かがある、ということじゃないかしら。

娘 宣長さんは、その何かが、知りたかったってこと?

男 それが、「純粋な、或いは基本的な、と呼んでいい経験」というわけ?

女 さあ、そこまでは、わたくしには分かりかねますけれど。宣長さんは、「源氏物語」を深く深く読んで、式部の目を通して、人間が人間であるということの根っこにある何かを見つめていたのではないかしら。そこで何かが分かったというより、その何かを知ろうとする努力を、「道」と呼んだのではないかしら。

娘 宣長さんは、文学を突き抜けて、人間研究をしてたんだね。

女 きっとそう。こころとは何かを知りたかった。そう考えますと、「源氏」を読んでも、名人の落語を聴いても、人情の機微に触れ、人間の業に気づかされるという点では、情こころの中では同じようなことが起きているのだと思いますの。

青年 (娘に)落語聴いて人間研究でもしてきたおつもりかな。

娘 バカじゃん。寄席では大笑いするだけ。それに痛快よね、このお噺。なんてったって、御新造よ。二人の男を手玉に取り、でも、どちらも傷つけないようにしてあげて、場面を乗り切る。ボク、こういう大人の女を目指すぞ!

(男と青年、顔を見合わせる)

娘 でもね、寄席がはねて、木戸口を出て、夜道をそぞろ歩きしてるとさ、何かほっこりしてくるんだ。ダメ男二人も、ちょっとかわいいかなって。

男 おっ、ダメ男の、どの辺が。

娘 大物ぶってるけど間抜けな旦那さんや、好人物だけど弱っちい新さんにも、好感が持てるなって。

青年 たまにはいいこと言うじゃないか。

女 あら、あら、お二人とも。(娘に)素質は十分ですわ、とっても楽しみ。

 

……取り留めもないおしゃべりは、取り留めもなく続いてゆく……

(了)