小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

二十四 「独」の学脈(下)

 

1

 

前回すでに引いたが、小林氏は第十章で、次のように言っている。

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学こぶんじがく」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

伊藤仁斎の古義学については、前回、小林氏の文脈に沿ってその成り立ちを辿ったが、荻生徂徠の古文辞学については、それがどういう学問であったか、どういう経緯で成り立ったか、小林氏はほとんど書いていない。第三十二章に至って、宣長の学問が徂徠学の影響下にあったことを考察する、そこに、

―徂徠の主著と言えば、「弁道」「弁名」の二書であるが、彼は、ある人の為に、二書の内容をとって、平易な和文を作った(「徂徠先生答問書」)。「答問書」三巻は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」という文句で始まり、「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候」という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない。即ち「古文辞学」と呼ばれた学問の体裁なのである。……

―言葉の変遷という小さな事実を、見詰めているうちに、そこから歴史と言語とは不離のものであるという、大きな問題が生じ、これが育って、遂に古文辞学という形で、はっきりした応答を迫られ、徂徠は、五十を過ぎて、病中、意を決して、「弁道」を書いた。書いてみると、この問題に関して、彼は、言わば、説いても説いても説き切れぬ思いをしたのであるが、その姿が、其処によく現れているのである。……

と言われているだけである。

むろんその第三十二章から第三十三章を精読すれば、古文辞学の何たるかは髣髴ほうふつとしてくるのだが、いま第十章で小林氏の言わんとしているところを呑み込もうとすれば、やはり古文辞学とはどういう学問であったか、少なくともその輪郭は目にしておく必要がある。なぜなら、小林氏は、仁斎から徂徠へと、「古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」と言った後、ただちに次のように言うからである。それも、改行なしで、である。

―これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである。……

小林氏の文章には、論理の飛躍が多いとよく言われるが、あるいはここもそう言われているかも知れない。仁斎から徂徠へと、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された、ここまではいちおう納得できる、だがそれが、なぜ古典研究上の歴史意識の発展と呼べるのか、唐突感が拭えない。しかも、小林氏は、そういう読者の唐突感は一顧だにせず、続けてやはり、改行なしで、

―言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。……

と、言って、「道とは何か」という問いまで掲げ、小林氏は一目散に突っ走る。

だが、これは、けっして論理の飛躍などではないのである、小林氏にしてみれば、論理の飛躍どころか、「古文辞学」とはどういう学問であったか、その結論なのである。この結論は、当然ながら氏が古文辞学なるものの心髄を見ぬき、見極めたうえで言っているのだが、「本居宣長」に荻生徂徠を初めて本格的に登場させる第十章において、「これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが」と、いきなり「歴史」という言葉を持ち出してきたについては確たる理由がある。徂徠は、早くから宋儒、朱子学に没入していた、しかしあるとき、ある偶然から、一気に古文辞学に目覚めた、その目覚めの決定的な動因が、「言葉も変遷する、言葉にも歴史がある」ということを、自ら発見した驚きにあったのである。

だが、小林氏は、その経緯、すなわち徂徠の古文辞学者としての実生活にはまったくふれず、徂徠が実生活から抽象した学問の思想、すなわち「学問は歴史に極まり候事ニ候」、「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候」へと直行する。この直情径行は、小林氏の流儀の一典型である。

しかし私は、やはり徂徠の実生活を追うことから始めたい。とにもかくにも古文辞学の輪郭なりと目にしないでは、小林氏が到達した徂徠の思想という高峰への道は踏み出せない、踏み出せたとしても観念論に迷いこんでしまうであろうことが明らかだからである。

 

 

2

 

ひとまず、『日本古典文学大辞典』(岩波書店)、『日本思想史辞典』(ぺりかん社)等に予備知識を求めてみよう、古文辞学とは、荻生徂徠が中国明代の古文辞派の示唆を受けて唱えた新学問である。

中国では、明代に古文辞派と呼ばれる文人たちが、それまで規範とされていた宋代の詩文を退け、文は秦・漢に、詩は盛唐に範を取る擬古主義的な文学運動を始めた。秦・漢の文、それがすなわち古文辞である。その運動の代表的存在であった李攀竜りはんりょう王世貞おうせいていらの詩文集を、四十歳の頃、偶然入手し、衝撃を受けた徂徠は、彼らにならって擬古主義的文学運動を起した。こうして始った蘐園けんえん派と呼ばれる徂徠一門の詩文は、八代将軍吉宗の時代の享保から九代家重、十代家治時代の宝暦にかけて一世を風靡した。

徂徠は、それと同時に、李攀竜、王世貞の示唆によって詩文の歴史的変遷を見る目を得、熟読、実作という古文辞理解の要諦も心得た。それが小林氏も言っている「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なである。徂徠は、今文今言、すなわち現代の文章や言葉で古文古語を解そうとするな、ひたすら古文辞に習熟することで古文古語に即した古意を得よと言い、そしてついに、古文辞のありように相即したいにしえの光景、すなわち「礼楽」を行き渡らせた先王のまつりごとの跡を目の当りにした。「礼」は礼儀で、社会の秩序を保ち、「楽」は音楽で、人心を感化する作用があるとして、古代の中国においてともに最重要視されていた。「先王」は、遠い昔の徳の高い王の意であるが、具体的には古代中国に出現した七人の統治者、古伝説上のぎょうしゅんに始り、王朝の創始者いん王朝の創始者とう、周王朝の創始者文王、武王、周公を指して言われる。

 

徂徠は、偶然入手した李攀竜、王世貞らの詩文集に、衝撃を受けた。その衝撃の経緯と実態は、日本思想大系『荻生徂徠』(岩波書店)の吉川幸次郎氏による解説、「徂徠学案」に精しい。この吉川氏の「徂徠学案」を、まずはしっかり、古文辞学とは何かを教わるために読んでいこうと思う。吉川氏のこの文章を、小林氏も熟読していたはずなのである。

吉川氏は、中国文学の泰斗として夙に著名だが、日本近世の学問にも造詣が深く、日本思想大系『荻生徂徠』『本居宣長』両書の校注者の先頭に立ち、昭和五十年には岩波書店から『仁斎・徂徠・宣長』を出し、小林氏の『本居宣長』と同じ年、昭和五十二年には筑摩書房から『本居宣長』を出している。

小林氏は、吉川氏の「徂徠学案」を読んでいた……、そこを私は、小林氏から明確に聞いたわけではない。にもかかわらず、熟読していたはずであるとまで言うのは、「本居宣長」の『新潮』連載中、小林氏は折あるごとに吉川氏の示教を仰いでいたし、吉川氏は随時、読後感を手紙に書いて送ってきていたからである。その吉川氏に報いようと、『本居宣長』の刊行後、小林氏は京都へ赴き、気心の知れた行きつけの店へ吉川氏を招いて謝意を表した。小林氏七十五歳、吉川氏は七十三歳の冬だった。

 

そういう次第で、以下、できるだけ吉川氏の文章を忠実に引き、吉川氏の直話を小林氏の傍で聴かせてもらうような気持ちで読んでいく。が、何分にも原文は、基本的には専門研究者を念頭において書かれている、そのため、ところどころ、一般読者は読み煩うかと懸念される表記や言葉遣いが見受けられる。ついては、その種の懸念の湧く箇所は、文意に影響しない範囲で表記や言葉遣いの一般化を図らせてもらおうと思う。この点、吉川氏にはげてご宥恕をいただけるよう懇願し、さっそく読み始める。日本思想大系『荻生徂徠』はA5判の本で総頁数八三一頁、そのうち吉川氏の「徂徠学案」は一一一頁に及んでいる。

 

吉川氏は、「徂徠学案」を「一 学説の要約」「二 第一の時期 幼時から四十まで 語学者として」と書き進め、「三 第二の時期 四十代 文学者として」で、徂徠の李攀竜、王世貞との邂逅に立ち会う。

―藩主吉保の厚遇に甘えつつも、けっきょくは語学の技術者としての柳沢藩邸の生活、また将軍綱吉の儒学のお相手という光栄と束縛、その中にいた徂徠に、衝撃を与えたのは、明代十六世紀後半の古典文学者、李攀竜、あざな于鱗うりん、王世貞、号は弇州えんしゅう、この二人の著者と四十歳の頃に邂逅し、宋代の文学が、文学の堕落として忌避され、詩、文ともにより古い文学との合致をめざすのを読んだことによる。この衝撃によって、従来は宋ないしは宋的な詩文を実作の典型としていた惰性から、徂徠は文学の実作者としてまず脱却する。そうして李氏王氏とともに、散文は西紀前、秦漢の「古文辞」、詩は、古体すなわち自由詩型においては三世紀以前の漢魏、近体すなわち定型詩の律詩絶句においては八世紀前半の盛唐を排他的に典型とし、その完全な模倣をもって、新しい文学の主張とした。ただし、儒学説はなお宋儒を離れない。しかしまず宋の文学を捨てることが、次の時期である五十歳以後、儒学説においても宋儒を捨てて新しい学説を樹立する前提となったのであり、以後の彼のすべての発足点は、李王(李攀竜と王世貞/池田注)の書との邂逅にある。この邂逅を、彼は「天の寵霊」、天の特別な恩寵によるとしている(「弁道」まえがき、及び「屈景山に答う」)。……

李攀竜、王世貞との出会いが、徂徠に詩文の実作、さらには古文辞学への目をひらかせたというのである。だが実際は、今言(現代語)でたやすく出会いと言ってしまえるような出会いではなかった、出会った後にたいへんな苦労を味わうことになった出会いだった。

―彼の晩年の弟子である宇佐美灊水しんすいが、師の遺著『古文矩』を、明和元年に刊行したが、その序文によれば、ある蔵書家が破産して庫ごと売り払うと聞き、本好きの徂徠は、家財の全部を売り、なお足らぬところは借金して一括ひきとった。その中に、李王二家(李攀竜と王世貞/池田注)の書が偶然含まれていたというのである。筆者不明の『蘐園けんえん雑話』も、宇佐美からの聞き書きとして同じことを言い、かつ一括購入の額は百六十金、徂徠三十九歳か四十歳のできごととする。……

―得たところの二家の書とは、いずれも詩文の全集であって、李の『滄溟そうめい集』十六巻、王の『弇州えんしゅう山人四部稿』百七十四巻であったはずである。多作家の王は、他にも多くの著書を持つが、李は他に著書がない。もっとも上総かずさ時代の徂徠の読書として上述した『唐詩訓解』など、著者編者の名を李に仮託したものは別である。……

―李攀竜という名、王世貞という名は、李に仮託された『唐詩訓解』その他によって、徂徠は早くから知っていた。二人の文学の傾向、ことに詩のそれも、何種かの明詩の選本が、早く輸入され、あるいは覆刻されていたことによって、向学な彼の知識にあったに相違ない。今は全集を得て、二人の文学の全貌に接することとなったのである。……

―李の『滄溟集』、また大きな巻数をもつ王の『四部稿』、いずれも中国の詩文集の常として、実作の集積であり、議論の書でない。まだしも王の『四部稿』は、詩約三千首、文約二千首のほかに、附録として文学評論の巻「芸苑巵言しげん」をもつが、李の『滄溟集』は、詩約千首、文約五百首、すべて実作である。文学者の伝記、他人の詩文集への序文、また書簡には、文学論の断片が見いだされるが、文章のおおむねは、行政官なり軍人の伝記、それらの赴任を送る文章、学校神社などの創建あるいは改修についての叙述などであり、詩はそれらを素材とするoccasional poemsなのを大多数とする。……

 

そして、ここからが、李攀竜、王世貞との真の出会いである。

―徂徠の感心したものは何であったか。両人の言語の緊迫である。ことに文章の文体として現れるそれである。従来読みなれて来、またみずからの実作の典型として来た宋代の文章、すなわち欧陽修と蘇軾そしょくを代表者とするそれ、またすなわち李王二氏が文章の堕落として排撃これつとめるそれとは、完全に異質であると感じられたことである。そうして久しく模索していたものが、ここにあるという予感を、おそらくはもった。……

―しかし、しばらくは驚きとともに、当惑の中にいた。従来から読みなれた宋代の文章と、文体がちがうばかりでなく、特殊な難解さに満ちる文章だったからである。しかしやがて難解の主因となるものを見いだした。二家の文章は、典型との強い合致を求める結果、典型とする古典、最も多くは『史記』、ついでは『左伝』『戦国策』など、それらの成句を、自己の表現しようとする事態の表現として、一字一句ちがわぬ形で使い、その綴りあわせをもって、みずからの文章とすることであった。……

―一例として、おなじく「古文辞」の一党である友人徐中行じょちゅうこうの父の伝記「長興の徐公敬之の伝」(『滄溟集』二十)は、次のようにはじまる。「公は名はかん。始めまずしきに居りし時、まちの諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるるし。之れを久しくして弟子に室に里中に授く。其の好みに非ざる也」。はじめは同郷の青年たちから相手にされず、寺子屋の教師をいやいやしていたという事態をいうが、そのうち「始居約時」という表現は、『史記』の「張耳陳餘列伝」に、「張耳陳餘、始居約時」すなわち「張耳と陳餘とは、始め約しきに居りし時に」というのをそのまま使い、「遊邑諸生間、莫能厚遇也」というのは、おなじく『史記』の主父偃しゅほえんの伝の「遊斉諸生間、莫能厚遇也」すなわち「斉の諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるるき也」、それをやはりそのまま使う。以下千字ばかりのこの伝記の文章、ほとんどそうである。あるいは李攀竜の文章のすべてが、そうした形にある。徂徠には、そのことが衝撃を与え、以後の新学説樹立の契機となった。……

―しばらくは読みにくさに閉口した李王二家の文章の、読みにくさの主因がそこにあることを発見したかれは、李王がみずからの文章のために句をひきちぎってきた原典どもの原文を、読み返してみた。むろんこれまでにも読んでいたのを、このたびは李王の文章との関係を考慮の中心におきつつ、読み返してみた。そうしてさらにいくつかのことを発見し、また発見の結果にもとづいて、いくつかの主張を創始した。……

 

こう言って吉川氏は、「(1)『古文辞』の実作による『古文辞』原典の把握」と見出しを立て、

―李王の難解の秘密、また文体の秘密が、そこにあることを発見してのちの徂徠は、単に李王の文章が読めるようになったばかりではない。以下のことを発見した。このように李王が原典の句をひきちぎって来て、自己の表現しようとする事態の表現に転用することにより、いいかえれば自己身辺の経験を原典の句に充填することにより、原典の句そのものが、急にはっきりと具体性をもって把握されて来ることである。まわりくどい注釈を通じて原典を読むよりも、ずっと直接に、生き生きと把握される。……

―『史記』にもいろいろ後人の注釈があるが、「張耳陳餘伝」の「始居約時」について、注釈は、「貧賤に在るの時也」と、いわでもの陳腐な訓詁を与える。そんな解説に頼らずとも、李の文を読めば、徐中行の父という近ごろの人間が、若いころにいた状況と同じ状況に張耳陳餘という古代の英傑も、その発足時にはいたということが、いきいきと身近につかめる。「主父偃伝」についても同じである。しからばここに原典把握の新しい方法がある。従来の方法は、原典をむこうに置いて読むという、いわば受動的な方法であった。そうではなく、能動的な方法として、李王のなしたごとく、みずからの体験を、原典の言語で書く。「古文辞」で書く。つまり原典の「古文辞」の中に自己の体験を充填する。そうしてこそ原典の「古文辞」は、自己の体験と同様に、自己身辺のものとして完全に把握される。そう考えた彼は、それを自己の学問の方法として利用した。それがすなわち彼のいわゆる「古文辞の学」である。……

―以上の経過を告白するのは、京都の堀景山、すなわちのちに宣長の医学の師となった人あての書簡である。書簡は、のち「学則」の附録の一つともなっているように、徂徠自身も重視する書簡であり、執筆は儒学説においても反宋儒の旗幟きしを鮮明にしてのちの、晩年のものであるが、李王の「古文辞」に邂逅してのおどろきののちに、如上の方法を考えついた経過を叙した部分を摘めば、「不佞ふねいは幼きり宋儒の伝注を守り、崇奉すること年有り。積習のざす所、亦た自ずから其の非を覚えざりき矣」。しかるに「天の寵霊にりて」、天の特別な恩寵により、「中年におよびて、二公の業を得て以って之れを読む」。王李二公である。「其の初めは亦た入るに難きに苦しめり焉」。能力者と自負する彼も、何ともとっつきにくかった。その原因は、「けだし二公の文はこれを古辞にる」。古代のみが生産した文学性に富む言語、それを李王の文章は史料としている。「故に古書に熟せざる者は、以って之れを読む能わず」であり、やがてさとったことは、「古書の辞の、伝注の解する能わざる者を、二公はこれを行文のさわりに発して渙如たる也。た訓詁をたず」。「伝注」すなわち注釈では要領を得ない箇所を、李王が自己の文章のさわりにとり入れることによって、ぱっとかがやき出し、注釈を不用にする。「蓋し古文辞の学派、だ読むのみならん」。それではだめであって、「亦た必ずこれを其の手指しゅしより出だすを求む焉」。筆をもつ自分の手から吐き出さねばならぬ。「能くこれを其の手指より出だせば、しこうして古書は猶お吾れの口より自ずから出づるごとからん焉」。早い時期の議論として、中国語を理解するにはその中へ飛び込んで中国語を日本語のごとく身近なものにせよという論理、それが今や古今を超越するものとしてはたらく。そうしてこそ「れ然る後に直ちに古人と一堂の上に相いゆうし」、昔の人と同じ座敷で挨拶を交わし、「紹介を用いず焉」。通訳はいらない、注釈はいらない、「豈に郷者さきには門墻もんしょうの外に徘徊し、人の鼻息を仰いで以って進退する者の如くならん」。注釈者の鼻息をうかがってうろうろしていたころとは、情勢がちがって来る。「豈に婾快ならず哉」。同じく「学則」の附録とした安積澹泊あての書簡でも、同様の経過をいい、且つこの勉強をした時期には、李攀竜の言に従い、後漢以後の文章には、一さい目をふれなかったという。……

 

次いでは、「(2)注釈の否定」と見出しを立て、

―このように「古文辞の学」によれば、秦漢の原典を原形のままに把握できるという認識は、注釈をもって、単に不用であるばかりでなく、反価値的な存在であり、原典の破壊であるという思考、それは早く上総の独学時代にきざし、また大奥の女中の素読の先生であることによってもつちかわれたらしいが、それを一そう決定的にした。上引の堀景山あての書簡は、宋儒の注釈の棄却を決定したのちのものであるが、中国後世の注釈の中国古代の原典に対する関係は、「冗にして俚」なる、冗長で卑俗な中国後代語をもって、「簡にして文なる」、簡潔で文学的な中国古代語を翻訳するものであって、原形の破壊であることは、日本語の「訓読」の中国語に対する関係と、同様であり、原文の「意」は伝え得ても、原文の「文采の粲然たる者」は「得て訳す可からず矣」とする。また別に詩人入江若水あての書簡に、「和訓を以って華書(中国の書/池田注)を読む」のは、「意」を得ても「語」を得ずといい、更にさかのぼっては、早く「訓訳示蒙」に、「詞ヲ得ズシテ意ヲ得ルモノハ必ナヒコトナリ」という。それらは、日本語による中国語のいいかえを破壊とするのであったが、今や中国語による中国語のいいかえも破壊だとする。要するにすべてのいいかえは、破壊である。こうしてひとり宋儒のいわゆる「新注」のみならず、それ以前の「古注」、すなわち二世紀の鄭玄じょうげんを中心とする漢魏人の儒書注釈に対しても、限度をともなった尊敬をしか払わない。……

「簡にして文なる」の「文なる」を、吉川氏は単に「文学的な」とだけ言っているが、より具体的には、語彙の選択、そして言い回しに繊細な神経が張り巡らされ、それによってそこはかとない美や品性が感じられる、そういう文章の趣きを徂徠は言っているのであろう。「文采の粲然たる者」の「文采」はまさに文章の「あや」であり、「粲然たる」は「燦然たる」に同じであるが、『大漢和辞典』は「文」の字義の最初に「あや」を掲げ、その下に「色を交錯させて描き出した系統のある模様」の項目を立てて典拠を数々挙げている。そして、今日「文章」という言葉に使われている場合の「文」の字義、「語句を綴って思想感情を表したもの」は、それよりかなり遅れて掲げられている。ここから推せば、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が、比喩であったにせよ本来だったのではないだろうか。だとすれば、「簡にして文なる」の「文」はまちがいなく「あや」であり、「文なる」は、言語表現に適切な配慮が施されることによっていわく言い難い風韻が感じられるようになっている、そのさまを言っているのであろう。

 

次いでは、「(3)後代の中国文と非連続であること」である。

―しかしより重要な思考は、次にある。なぜ後世の注釈は、そのように秦漢の「古書」を正しく解釈し得ないのか。秦漢の古書の文章は、「古文辞」すなわち古代独特の修辞であって、古代に独特なものであるゆえに、後世の中国文とは非連続なのである。そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。この非連続を生んだ最もの原因は、助字を多く挿むか挿まないかにある。最初、貧乏なころは、人から馬鹿にされたという事実を、後代の宋的な「今言」ならば、「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」などと長ったらしく言うであろうところを、省き得るだけの助字を省いて、「始居約時、莫能厚遇」と表現を凝縮させるのが「古文辞」の「古言」である。この非連続は日本語が中国語との間にもつそれと同じである。日本語はテニヲハまた動詞の語尾変化、それらを必須とするゆえに、せっかく「簡にして文」な李于鱗の原文、「始居約時、莫能厚遇」を、「始メ約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セラルルシ」と、冗長にしてしまう。あるいは中国後代の「今言」さえも、日本語による訓読は、「其ノ始メ貧約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セルル莫キ也」と、一そう冗長にしてしまう。つまり日本語はこのように常に「冗にして俚」なのに対し、中国語は一般的には「今言」といえども「簡にして文」なのであるが、同様の非連続の差違が、中国語自体の中でも、「古文辞」を構成する中国古代の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある。要するに二者は、ひとしく中国の文章語であるけれども、同一の言語でない。更にあるいは後代の中国語の中でも、文章語と口語を比較すれば、後代の文章語の「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」が、後代の口語では更に冗長に、「起初他在窮約的生活的時候児、他没能勾受到很好的待遇」などとなるであろうことも、およそ言語には「簡にして文」なるものと「冗にして俚」なるものとが、非連続としてある旁証となる。このように中国「古文辞」の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある非連続、その関係が認識されないため、中国後代の注釈は「古文辞」の「古言」をば「今言」と同じ条件で読み、「今言」をもって「古言」を翻訳する。ゆえに誤謬だらけなのである。学問をするには、そこのところをまずよく認識しなければならない。以上、「訳文筌蹄せんてい」の「題言」、ただし挙例は私(吉川氏/池田注)の作文による補入である。……

「訳文筌蹄」は徂徠の著作で、一言で言えば漢文学習のための高度な字書である。この書については前回、次のように記した。徂徠の父方庵は、五代将軍徳川綱吉の上野こうずけの国舘林たてばやし藩主時代、綱吉の侍医であったが、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総かずさの国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされた。赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じた。暮しは困窮をきわめたが、その間、「訳文筌蹄」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁した……。

その「訳文筌蹄」は、日本思想大系『荻生徂徠』の「荻生徂徠年譜」には、元禄五年(一六九二)二十七歳の頃、門人に口授筆記させ、正徳元年(一七一一)四十六歳の年、刊行したとある。ということは、徂徠が初めて世に名を知られた「訳文筌蹄」は写本だったのであり、吉川氏がそのつど言及している「題言」は、板行に際して書き足されたのである。徂徠が李攀竜、王世貞と出会ったのは三十九歳ないしは四十歳の年であった。吉川氏は「徂徠学案」の「第二の時期 四十代 文学者として」をほとんど「訳文筌蹄」の「題言」に拠って書いている。徂徠の古文辞学の自信、確信は、李攀竜、王世貞との出会いから数年かけて、艱難辛苦のうちに固まったのである。ただし、『日本国語大辞典』は、刊行年を徂徠四十九歳から五十歳にかけてのこととしている、私にはその刊行年を、どちらがどうとも言うことはできないが、『日本国語大辞典』の説に立って顧みるなら、徂徠の古文辞学は、ほぼ十年の歳月を閲して打ち立てられたのである。

 

次いでは、「(4)『古文辞』の『古言』と『今言』の非連続は時代の推移を原因とすること」と立てて続けられる。

―この非連続は何によっておこったか。時代の変遷のためであるとする思考は、「訳文筌蹄」の「題言」には見あたらないが、次の時期の書である「学則」の第二則にはっきり現われる。「世は言を載せて以って遷り、言は道を載せて以って遷る」。各時代による言語の変遷ということ、現代われわれの認識としては普通であるが、彼以前の日本、ないしは中国では、いかようであったか。彼の思考は、たとい完全な創見がないにしても、一つの画期であったのではないか。少なくとも徂徠自身としては、新しい覚醒であったのであり、この覚醒以前は、宋人の文章も古代の文章の連続と誤認していたゆえに、宋人の文章を典型として、その雰囲気の中に安んじていたことが、宋人の儒学説に安住し、古典の真実の獲得を困難にしていたと、藪震庵あての書簡にいう。いわく、聖人の「道」は、今や直接には知り得ない。それはただ書物の「辞」によって知られる。ところで「辞の道も亦た時とともに汚隆する也」。汚隆は盛衰の意、つまり「学則」の「世は言を載せて以って遷る」である。そうして前にも引いたように、「不佞も初めは程朱の学に習い、而うして欧蘇の辞を修む」と、宋の儒学と文学を勉強して、「其の時にあたりては、意に亦たおもえらく先王孔子の道はこに在り矣」としていたと、懺悔をしたうえ、この錯誤の原因は、「是れ他無し、宋の文に習いし故也」。宋の欧陽修や蘇軾の文学を、古代とは非連続であることに気づかないままに、勉強していたからである。「後に明人の言に感ずる有りて」、李王二氏による覚醒である。「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」。かく言語の時代による非連続に気づくことによって、はじめて宋代の言語による文学の雰囲気から脱却して、正しい道に進み得たとする。……

「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、李攀竜、王世貞と出会って初めて、言葉にも歴史があるということを知ったと言うのである。

 

次いでは、「(5)『古文辞』優越の理由その一、叙事」である。

―なぜ「古文辞」は、このように他の言語とは非連続に優越するのか。その理由として徂徠がまずいうのは、それが事実を叙する文章であることである。文章には叙事と議論とがあるとする意見は、宋文から脱却する以前の「風流使者記」にすでに見えるが、秦漢の「古文辞」、またそれにならう李王の散文が、「簡にして文」であり得るのは、議論よりも叙事を主とするゆえであり、叙事こそ文章の本来であるという思考が、「訳文筌蹄」の「題言」ではなお幾分の猶予をのこしつつ見える。次の「蘐園けんえん随筆」巻四では、「六経りっけいの文の如きは、皆叙事なり」といい切り、『左氏春秋』『楚辞』『史記』『漢書』、みな名文の代表だが、どれも議論でないと、いい添える。こうして事実を叙述する文章としての「古文辞」の尊重は、やがて事実そのものの尊重へと赴く。次期における儒学説の結論が、「六経」の内容について、「礼」と「楽」は「事」、すなわち事実そのものであり、「詩」と「書」は「辞」、すなわち事実と密着した修辞であるとする主張、そうして「事」と「辞」とを総括する語が「物」であり、「六経」は「其れ物」、すなわち標準的事実にほかならぬと「学則」第三則でなされる宣言、それら後来の儒学説、みなこの時期の文学説に発足しよう。……

「六経」とは、先述の七人の先王が設定した政治の方法、すなわち「先王の道」を記録した六種の経書けいしょ(儒教の最も基本的な教えを記した書物)で、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。『書』は最初から書物として存在していたが、元来は口頭歌謡であった「詩」、元来は実演の技術であった「礼」と「楽」を孔子が書物化し、『易』『春秋』、これらも「先王の道」が記されたものと孔子が認定して「六経」とした。以上のことは吉川氏「徂徠学案」の「一 学説の要約」に書かれている。

 

次いで、「(6)議論の否定と信頼の必要」と立て、

―このように叙せられた事実そのものの尊重へとのびるべき叙事の文章の尊重に対し、議論の文章は嫌悪される。嫌悪は、議論の一種である注釈を反価値とする段階で、すでにきざしているが、「訳文筌蹄」の「題言」では、宋人の文章が、助字を多く加えて「冗にして俚」、非文学であり非真実であるのは、議論にばかりふけり、文章の正道である叙事の能力を失ったからだとする。……

―「学則」の第三則に、「れ之れを言う者は、一端を明らかにする者也。一を挙げて百を廃す。害ある所以なり」。「言う者」とは議論者をさす。なぜ議論は「一端」片はしを「明らか」にし得るのみで、一方的であるのか。複雑に分裂する現実のすべてを、人間は知り得ないとする思考が基底にあるほかに、特殊な思考が併存する。議論は必ず論敵を予想し、それを克服しようとするゆえに、必ず一方的であり、誤謬におちいるとする思考である。宋儒はことにそうである……

 

これを挟んで、「(7)『古文辞』優越の理由その二、修辞による事実との密着」が続けられる。

―何ゆえに「古文辞」は、事実に密着したすぐれた言語であるのか。古代人の特殊な修辞法によってそうなのである。「訳文筌蹄」の「題言」にはいう、言語にまず必要なのは、「達意」すなわち事実の伝達である、『論語』の「衛霊公」篇の孔子の語に、「辞は達するのみ」というようにである。同時にまた孔子は、『易』の「けん」の卦の「文言ぶんげん伝」で、「辞を修めて其の誠を立つ」という。つまり「達意」と「修辞」の両者は、文章に必須な二つの条件である。まただからこそ更なる孔子の語として、『左氏春秋』の襄公二十五年の条に見えるものには、「言は以って志を足し」、言語は意思の充足、「文は以って言を足す」、修飾された文章こそ言語の充足、というのである。孔子は更につづけていう、言語の第一段階は、「もの言わざれば誰か其の志を知らんや」であり、「達意」は言語の基礎であるけれども、「言のかざらざるは、行わるること遠からず」、修飾されない言語は、広い普及力をもたない。このように、「修辞」は「達意」とともに文章の必須の条件である。……

―古代の「古文辞」の中でも、より多く「達意」に傾くものと、より多く「修辞」に傾くものと、二種があるのは事実だが、大体としては両者が渾然と分裂していないのが、西紀前の前漢までの「古文辞」の文章である。それが紀元一世紀二世紀の後漢から六朝・唐初にかけては、「修辞」偏重におちいったのを救わんがため、「達意」でおしかえしたのが、唐の二大散文家、韓愈かんゆと柳宗元である。ところが宋の欧陽修以下に至っては、「達意」のみが惰性的なものとなり、文章が堕落した。それをこんどは「修辞」で振るいおこしたのがすなわち李攀竜、王世貞であり、「大豪傑と謂う可し矣」。以上は「訳文筌蹄」の「題言」の説に、『左氏春秋』の孔子の語を、他では彼がしばしば引くのを加えた。……

―つまり、「古文辞」とは、いにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである。あるいは「辞」という一字、それだけでもその意味だとするのは、次の書簡である。「れ辞と言とは同じからず。しかるに足下は以って一つと為す。倭人の陋也」。「辞」はただの言語ではない。あなたはそれを同一視している。日本人は冗長な「言」ばかりになれて、修飾された「文」を心得ないゆえの誤認である。「辞なる者は」、何か。「言のかざれる者也」。さればこそ古典にも、「辞をたっとぶとい、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」。……

―このように「修辞」という属性が「叙事」という属性と併存することは、以下のことを結果する。すなわち「修辞」は「叙事」のための「修辞」であり、事実を言語に密着させるための「修辞」ということにならねばならない。また「修辞」があればこそ「叙事」が可能になり、文章が事実に密着し得るとしなければならない。堀景山あての書簡に、議論ばかりしている宋人の文章は、「辞をしりぞく。故に事を叙する能わず」というのは、まさしくその意味である。……

―またこのように事実に密着した「修辞」が「古文辞」であるとすることは、更にやがてその学説の結論として、「道」はすなわち「辞」において求められるという主張を完成して行ったとせねばならぬ。「道」を「辞」において求めるということは、「辞」をもって「道」を伝達する過程とするのには止まらない。そのような表白も見えないではない。藪震庵あての書簡に、古代から遠ざかったわれわれにとり、「其の得て知る可き者は、辞のみ」といい、また「故に今の以って準と為す可き者は、辞にくはし焉」というのなどは、なおその方向にある。……

―つまり「古文辞」は事実と密着した「修辞」であるゆえに、それ自体が事実であり、事実であるゆえに「法」であり「義」であり「先王の道」なのである。またこのように「修辞」こそ文章の正道であるとする文章論は、すべての事象が、修飾を価値とし、素朴簡単を価値としないという思考へとのびる。「弁道」また「弁名」の「文」の条に、「先王の道」、またその記載である「六経」は、修飾された存在すなわち「文」的な存在であるゆえに、至上の価値なりとする。……

言葉には、それを存在せしめる必須の条件が二つある、その一つを、徂徠は物事の伝達という意味の「達意」であると言い、もう一つは「達意」とともに孔子が強調している「修辞」であると言う。そして徂徠は、「達意」はどんな言葉にも当然の条件であるが、「修辞」は、それを欠いた言語でも言語として成り立つことは成り立つ、しかし、「古文辞」には、「修辞」は欠くべからざる条件である、逆に言えば、「修辞」を欠いた言語は「古文辞」とは呼べないと徂徠は言っている、という意味のことを吉川氏は言い、ここから「修辞」という言葉をめぐって様々に考察を重ねるのだが、私たちにはまず、孔子が言った「辞を修めて」、すなわち「修辞」と、現代語の「修辞」とを明確に識別してかかる必要があると思われる。

今日、「修辞」の「修」は「修飾」の「修」、つまりは「かざる」と解され、「修辞」という言葉は、「辞」の見栄えをよりよくする、あるいは増幅するといった意味合で使われていると言っていいだろう。しかもそこへ、英語「rhetoric」(レトリック)の訳語としての「修辞」がかぶさり、「辞」を社交的に、あるいは戦術的に装飾する、さらに進んで、相手の歓を「辞」で買う、といった、虚飾もしくは巧言のニュアンスまでが漂うに至っている。だが、孔子が言った「修辞」にも、徂徠が言った「修辞」にも、吉川氏が言っている「修辞」にも、そういった意味合は微塵もないことをまずはよく腹に入れたい。

なるほど、吉川氏の文中にも、「修飾された文章こそ言語の充足」とか、「修飾されない言語は広い普及力をもたない」とかと言われているが、これらの「修飾」は、現代語の「修飾」と同じではないのである。もし同じだったとしたら、それまでに吉川氏が縷々力説した「簡にして文」の「簡」と相容れなくなるだろう。吉川氏は、こう言っていた。

―そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。……

もはや、言うまでもあるまい、現代語の「修辞」が孕む「修飾」という概念は、「簡にして文」どころか「冗にして俚」そのものなのである。

では、吉川氏の言う「修飾された文章」を、どう解すべきか。結論から言えば、「修飾された」は、「あやある」なのである。

先に「文」の字義を見て、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が本来だったのではないか」と書いた。そしてそういうふうに織り上げられる言葉は、「繊細な神経を張り巡ら」して選びぬかれた言葉であり、それらが交錯することによって、一語一語では見られなかった美や品性の輝く文章が現れる、それらをさして吉川氏は「修飾された文章」と言っているのではないだろうか。

そのことは、後に続く吉川氏の文章自体によって裏づけられる。

―「古文辞」とは、いにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである。……

したがって、吉川氏の言う「修飾された文章」とは、それを書く人間の工夫もさることながら、最終的には言葉が言葉そのものの力によって己れを飾った文章、のいいなのである。言葉にそういう力を発揮させるために、人間は苦心し、神経を張り巡らせるのである。

吉川氏は、古文辞とはいにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである、と言った後さらに、「辞」という一字、それだけでもその意味であり、「辞」はただの言語ではない、「辞なる者は」何か、「言のかざれる者也」、だからこそ古典にも、「辞をたっとぶとい、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」のであると言う。

「文は以って言を足す」とは、言葉というものは語意、文意の上にあやを具えて初めて事足り、十全に機能するようになる、の意であろう。このことについては、孔子が『左氏春秋』で、「言のかざらざるは、行わるること遠からず」、あやを具えない言語は広い普及力をもたない、と言っていたが、「古文辞」は、その語意、そして文意を、より深く、より広く、世に浸透させるに不可欠なあやを具えた言語の世界であり、「修辞」とは、そういうあやのにおいたつ世界を生み出すべく用語を的確に選び、整然と布置する行為をさして言った言葉である、と同時に、そうすることによって現れ出たあやのにおいたつ言語の全体、また文章の全体をとらえても言われた言葉と解し得るだろう。

言葉があやを具えるとは、言葉の一語一語が永い年月にわたって使われているうち自ずと色彩を帯び、語感という音を蓄え、そういう色や音が交錯することによって絵が浮び、音楽が鳴り、語意、文意以上のことが相手の視覚にも聴覚にも伝わるようになる、それを言うのであろう。

そこでさて、最初に還って「修辞」の「修」だが、『大漢和辞典』を引いてみると、「修」には、第一に「おさめる、おさまる、ととのえる、ととのう」という字義が掲げられ、次いで「つくろう、なおす」が掲げられ、その次に「かざる」がくる。ここから推せば、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」の「修めて」は、明らかに「かざって」ではなく「ととのえて」であると理解できるだろう。吉川氏も別途、朝日文庫『論語 中』では、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」は、言葉をととのえて誠実さを打ち立てる意であると説いている。

繰り返して言おう、徂徠が言った言葉の二つの必須条件、「達意」と並ぶ「修辞」に、現代語が帯びている「修飾」の意味合は毫もない。そこを吉川氏は次のように書いてもいた。

紀元一世紀二世紀の後漢から六朝・唐初にかけては、文章が「修辞」偏重におちいった、それを「達意」でおしかえしたのが唐の韓愈かんゆと柳宗元である、ところが宋の欧陽修以下に至っては「達意」のみが惰性的なものとなり、文章が堕落した、それを「修辞」で振るいおこしたのが李攀竜、王世貞であり、徂徠は「大豪傑と謂う可し矣」と言っている……。

李攀竜、王世貞の詩も文も、「簡」に徹しきっていた、装飾などは影すらなかった、そこはもう繰返すまでもないだろう。

 

次いで、「(8)『古文辞』の優越の理由のその三、含蓄」である。

―「古文辞」の優越の理由として、彼の主張するものは、更にある。種々の方向へと伸びるべき意味の可能性を、渾然と未分裂に包括した文体であることである。「訳文筌蹄」の「題言」に、「含蓄多くして、余味有り」。「題言」には更にいう、そうした文体のゆえに、「古文辞を熟読する者には、つねに数十の路径有り」。意味が数十の方向に放射される。しかも秩序をもった放射であって、「心目の間に瞭然として、条理みだれず」。ゆえに「読んで下方に到るに及んで、数十の義趣、漸次にはためかず、篇を終るに至りて、一路に帰宿す」。光彩陸離と放射された数十の路線が、やがて篇末に至って、はっきり焦点をむすぶ。それが「古文辞」である。後世の文章は、議論の分析を事とするため、放射するものは、ただ一本の線である。そればかり読んでいる人間は、「だ一条の路径を見るのみ」。要するに「古文辞」は、その「修辞」のゆえに、包括的な、ひきいだされるべきすべての可能性を内蔵するところの濃密な文章である。……

 

次いで、「(9)古代の事実の一般的にもつ含蓄」である。

―「訳文筌蹄」の「題言」には、「含蓄」はこのように古来の文章である「古文辞」の属性であるばかりでなく、古代の事実一般の属性であるとする思考が、言及されている。つまり古代の事実は、人間の事実の原形であり、後代の諸事実は、原形である古代の事実の中に含蓄されていたものの変化であるにすぎない。いいかえれば、後代の諸事実は、新しいように見えるものも、古代の事実を研究すれば、みなその中に未分裂のものとして含蓄されているとするのである。だから学問の方法は、まず古代の事実を押えてこそ、後代の事実がわかるのであり、文章の勉強もまた、「古文辞」からはじめねばならぬ。たとい含蓄のゆえに読みにくくとも、むしろ読みにくいゆえに、そこからはじめねばならぬ……

 

次いで、「(10)『古文辞学』の目的」である。

―こうして「古文辞」のみならず古代の事実は、後代に分裂した事実のすべてを含蓄する。ゆえにまず根本である「古」を押えよと、「訳文筌蹄」の「題言」は説きおこすのであり、同様の思考は、竹春庵あての書簡の一つにも見える。「且つ古なる者は本也、今なる者は末也」。ゆえに「流れに滞る者は、何んぞ其の源をらんや。後世の載籍は海の如し」、後世の書物は無数である。その中に沈没していては、「能く為す莫き也」、どうにもならない。「孔子も泰山に登りてのち天下を小さしとす」でないか。しかしこのように「古文辞」あるいは古代の研究からはじめるのは、なお学問の方法であって目的ではない。時間空間を超えてことならない人間の事実を、「古文辞」の研究によって確認し、ほりさげること、それこそが学問の帰結であるとする主張、それが「訳文筌蹄」の「題言」の結語となっている。……

―古今という時間、天地人という空間、その差違を超えて、パイプを通すのを学者の任務とする。私はそれをやる。「故に華と和とを合して之れを一つにす、是れ吾が訳学」。まず日本と中国の間にパイプを通すのである。そうして今や、「古今を合して之れを一つにす、是れ吾が古文辞学」。そう宣言する。……

 

次いで、「(11)『古文辞学』の方法」である。

ではどうしてパイプを通すか。「古文辞」の中に、自己を投入するのである。「古文辞」の通りの文体で、みずからの文章を書く。ことに「古文辞」の書の成句を、李王がしたように、自分が表現しようとする事態の表現として、せいぜい転用することが望ましい。これを摸擬であり剽窃ひょうせつであると評する者が、李王の周辺にも徂徠の周辺にもあった。堀景山あての書簡に彼は昂然と居直っていう、すべての学問は、そもそも模倣ではないか。またそもそも日本人が中国語を書くということが、模倣でないか。いかにもはじめのうちは、模倣であり剽窃であるかも知れない。しかし「久しく之れと化すれば」、「習慣は天性の如く」なり、「外り来たるといえども」、むこうにあったものが、「我れと一つと為る」。それがいやなら、学問などせぬがよい。「故に摸擬をとがむる者は、学の道を知らざる者也」……

 

次いで、「(12)『古文辞学』の資料」である。

―ではこのように古今に通ずる「古文辞学」のパイプのむこうの口となる文献は、何か。結論をさきに言えば、西洋紀元以前、つまり前漢以前の文献は、みなそれである。李王のいわゆる「文は則ち秦漢」が、すでにその意味であるが、徂徠の場合は、「世は言を載せて以って遷る」という思考の上に、前漢までは「先王の道」が確乎と存在した「世」、あるいはその延長であった「世」であるゆえに、みな事実と密着した修辞であるとする説明が、やがて「先王の道」への思考を深めたのちには加わる。……

―「六経りっけい」が最上の「古文辞」であることは、いうまでもない。「六経」を編定したのは孔子であって、孔子は、尭舜ら七人の「先王」のごとく「道」の作為者たる地位にいなかったけれども、このように「六経」を編定し、「先王の道」を後世に伝えることによって、作為者たる「先王」と同じく「聖人」の呼称を受ける。……

ここにもいま一度、記しておこう、「六経」とは儒学の根幹となる六種の経書けいしょで、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。ただし『楽記』は、秦の始皇帝による言論統制政策「焚書坑儒」の犠牲となって滅びたとされている。

 

 

3

 

吉川幸次郎氏「徂徠学案」の引用は、ここでひとまず措く。ひとまずというには随分多量に引用したが、私としては、小林氏が、

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

と言ったあと、すぐに続けて、

―これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していた……

と言っている徂徠の歴史意識、それがどういうもので、どういうふうに徂徠はこれを摑み、咬出したか、そこを徂徠の実生活に即して目撃したいと希ったのが最初だった。

私の希いは、ただちに叶えられた。徂徠は四十歳の頃、明の李攀竜、王世貞との邂逅に恵まれ、同じ中国語でありながらそれまでなじんでいた宋の詩文とはまったく異なる言葉の世界、すなわち古文辞の世界が広がっていることを知った。

この古文辞との衝撃の出会いによって、徂徠は言葉も変遷するということに初めて気づいた。「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、つまり、言葉にも歴史があるということを知ったのだ。時代による言語の変遷ということ、そこに気づいた徂徠の思考は、たとえ完全な創見とは言えないにしても一つの画期だったのではないかと吉川氏は言っている。その徂徠の画期的な発明は、まさに小林氏の言う卓然として独立していた豪傑たる精神の賜物であり、こうして徂徠に備わった古典研究上の歴史意識にはなるほど伊藤仁斎の歴史意識からの発展が明らかに見て取れ、同じく小林氏の言うとおり「道とは何かという問いで緊張していた精神」によって着色されていた。そのことが、吉川氏の「徂徠学案」を読んでいくにつれてどんどん明瞭になり精緻になり、気づいてみればこれほどの量にもなる引用、というより引き写しになった。

 

本来ならこの引き写しを縮約し、その結果としての要約で小林氏の言う徂徠の「歴史意識」を照らしだす、という手順を踏むべきなのだが、今回は、敢えてそれを行わず、そっくりそのままこの引き写しを読者にお届けしようと思う。なぜかと言えば、引き写しの縮約にかかろうとした私の手を、吉川氏の文体が制したからである。一言で言えば、吉川氏の文章の縮約は、吉川氏の文体の「破壊」そのものである。吉川氏は徂徠とともに言っていた、すべて言い換えは破壊である……、氏のこの言がまざまざと目の前に甦り、ただちに私は思い当った、吉川氏の文章は、荻生徂徠という事実を叙した修辞なのである、だからこの文章を縮約したり要約したりすれば、たちまち徂徠はいなくなってしまうのである。したがって、私が徂徠に関して何かを言おうとするなら、私の文章に吉川氏の文章をそのまま取りこむに如くはない、これを言い換えれば、拙いながら私の徂徠経験を、ということは小林氏に教えられた徂徠の学者像を、吉川氏の文章に充填する、そうすることによってこそ私は吉川氏の説くところを寸分違えず理解できる……。徂徠が李攀竜、王世貞に教わったことを私も実行するのである、いささか牽強付会の気味がないではないが、そう思った瞬間から吉川氏の記述の縮約ということは私の念頭を去った。今回の大半が吉川氏の文であるのは、以上のような経緯による。

もっとも、こういう勝手な措置が気儘に講じられるというのも、本誌『好・信・楽』がWeb雑誌であったればこそである。『新潮』とか『文藝春秋』とかの、古くからの紙の雑誌であればとてもこうはいかない。

 

では、なぜ、言葉も変遷するか。言葉は世とならっている、習い熟している、ゆえに世が遷れば言葉も遷る。徂徠はそれを知った、それを知って人間に与えられている言葉というものと新たに向き合った。すると脳裏に次々思想が湧いた。そこを小林氏は、次のように言っている。

―「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」(「学則」二)、既に過ぎ去って、今は無い世が直接に見えるわけがない。歴史を知ろうとする者に現に与えられているものは、過去の生活の跡だけだとは、わかり切った事だ。この所謂いわゆる歴史的資料にもいろいろあるが、言葉がその最たるものであるのに疑いはないし、他の物的資料にしても、歴史資料と呼ばれる限り、言葉をになった物として現れる他はあるまい。歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。ところで、生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから、如何に生くべきか、という課題に応答する事が困難になる。道は明かには見えて来ない。これは当然であるが、困難や不明は、課題の存続を阻みはしないし、道という言葉がそれが為に、無意味になるわけでもない。「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」のである。道は何を載せても遷らぬ。道は「古今ヲ貫透スル」と徂徠は考えた。歴史を貫透するのであって、歴史から浮き上るのではない。……

―徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す「経学」と、変るものに向う「史学」との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている。これは、既に「人ノホカニ道無ク、道ノ外ニ人無シ」(「童子問」上)と言った仁斎が予感していたところとも言えるのだが、徂徠の学問には、この「人」に「歴史的」という言葉を冠せてもいい程、はっきりした意識が現れるのであり、それが二人の学問の、朱子学という窮理きゅうりの学からの転回点となった。この支柱が、しっかりと摑まれた時、徂徠が学問の上で、実際に当面したものが、「文章」という実体、彼に言わせれば、「文辞」という「事実」、あるいは「物」であった。彼は言う。「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得して、書籍のまま済し候而、我意を少もまじえ不申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)。……

―私はここで、二人の思想に深入りする積りはない。ただ、其処に現れた歴史意識と呼んでいいものの性質、特に徂徠が好んで使った歴史という言葉の意味合を、彼自身の言ったところに即して言うに止めるのだが、(中略)無論、徂徠は、歴史哲学について思弁を重ねたわけではないし、又、学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……

そう言って引かれるのが、前回も見た次の逸話である。

―愚老が経学は、憲廟けんべう御影おかげに候。其子細は、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせて承候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄之事ニて、食事之間大小用之間ばかり座を立候事故、後ニは疲果ツカレハテ、吟味之心もなくなり行、読候人はただ口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物をナガめ居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷ひさしく詠暮し申候。如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつて無之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故それゆゑ門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……

「経学」は四書五経、すなわち儒教の根本経典とされる『大学』『中庸』『論語』『孟子』の「四書」と、先に記した「六経」から『楽記』を除いた「五経」を研究する学問の意で、ここで徂徠があの放心経験を回想しているのは、あれが後年、宋儒から脱するに至る大きな契機となった、それが言いたいのだと受け取ってよいだろうが、吉川氏の「徂徠学案」によれば、時期としては李攀竜、王世貞と出会ったのもこの頃である。とすればあの放心経験は、宋儒から脱する契機となったということもさることながら、それに先立って、古文辞との出会いにこそ与って力があったと言うべきかも知れない。

そう思って、これも前回引いた次のくだりを読み返せば、小林氏ははっきり「古文辞」と言っている。吉川氏は、李攀竜、王世貞の詩文と出会った徂徠は、しばらくは驚きとともに当惑の中にいたと言っていた。それまで読みなれていた宋代の文章と、文体がちがうばかりでなく、特殊な難解さに満ちた文章だったからである。

―例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」ながめるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。これが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」という考えの生れた種だと合点すれば、歴史の表面しか撫でる事が出来ないのは、「古書に熟し不申候故」であるという彼の言分も納得出来るだろう。……

たしかに徂徠は、「古文辞」を、こちらの思惑でどうにでもなるどころか、自分たちがこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と見てとった。その一端が、吉川氏の「徂徠学案」にも鮮明に描かれていた。そしてこれが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」という考えの生れた種だと小林氏は言っている。すなわち、小林氏が第十章で注視した、徂徠の歴史意識の源流であった。

 

(第二十四回 了)