比叡山からの帰途、下りのケーブルカーで、ふと、「こんな杉林の中にいたら、浮舟の心も動き続けて止まないのでは……」と、「源氏物語」宇治十帖のヒロイン浮舟がすぐそこにいるような気がした。
杉木立の檻と、その隙間の緑の深く尽きない奥行き。浮舟は身動きできぬまま、揺れる葉の濃淡を目に、思い悩み続けているのでは……。
そして、小林先生の「本居宣長」の第十五章が蘇ってきた。
「まめなる人」薫と「あだなる人」匂宮という正反対の貴公子の狭間で懊悩する浮舟は、死を選び宇治川へ向かうが、匂宮の姿をした物の怪に憑かれ、入水を果たせぬまま比叡山の麓で出家する。薫は浮舟の行方を突きとめるが、浮舟は薫の手紙には答えず、ただあらぬ方を眺める……。
小林先生は、この浮舟入水のくだりに対する宣長の浮舟評を「紫文要領」から引く。浮舟が死を選んだのは、
薫のかたの哀をしれば、匂宮の哀をしらぬ也、匂宮の哀をしれば、薫のあはれをしらぬ也、故に思ひわびたる也、かの蘆屋のをとめも、此心ばへにて、身を生田の川にしづめて、むなしうなれり、是いづかたの物の哀をも、すてぬといふ物也、一身を失て、二人の哀を全くしるなり、浮舟君も、匂宮にあひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず、これも一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集165頁15行目)
薫と匂宮、それぞれの「物の哀」をいずれも捨てまいとするなら自分が死ぬしかない、と浮舟は思いつめた、「物の哀をしる」とはそこまでいくものなのだ、と宣長は言い、小林先生は、これが「『物の哀をしる』という意味合いについての、恐らく宣長の一番強い発言である」と言う。
ところが、この「紫文要領」の「一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也」という最後の一句は、後に「紫文要領」をほとんどそのまま踏襲した「源氏物語玉の小櫛」では削除される。
さらには「うしろみのかた(女性の家事全般、世帯向きの心がまえ)の物の哀」についての説明も削除される。
小林先生は、第十五章でも折口信夫氏の見解に言及するが、第四十六章で折口氏の指摘を再び引いて言う。
折口氏によると、宣長の使った「ものゝあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「ものゝあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……彼の執拗な吟味によって、誰が見ても取るに足らない「ものゝあはれ」という平凡な言葉から、その含蓄する思いも掛けぬ豊かな意味合が、姿を現した。……その様子が、「紫文要領」 に、明らかに窺える。「ものゝあはれ」がはち切れているのである。この辺りのところは、後年の「玉の小櫛」では、削徐されている。誤読されるより増しと考えたのであろう。……いずれにせよ、問題は、彼の心に秘められ、持越されたと見るべきだが、これを、「古事記」の訓詁という実際の仕事が、彼の裡から引出し、その解決を迫ったという、そういう考えに、私はここで、誘われているのである。
(同第28集156頁8行目)
そして小林先生は、第四十七章に入って、宣長に「あやしき事の説」という文があり、「今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世ノ中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ」と宣長は言っていると言って、さらに次のように言う。
(「古事記」の伝説は)世の中の事「あやしからぬはなきぞとよ」とでも言うより他はない、名状し難い、直かな、人生との接触に導かれたという智りの働きだけが、言わば、光源のうちに身を置くように、世の中の事の有るがままの「かたち」を、一挙に照し出す。つらつら思いめぐらせば、世の中の事、何物かあわれならざると観じた式部の眼を得て、「源氏」の論は尽きたのを思い出して貰えばよい。「物語」が「伝説」に変ったところで、最上と信ずる古書の読み方を変更する理由は、宣長にはなかったし、又、彼の学問の一切の実りが由来する、人間経験の根本が、神代今世の移りにつれて、移る筈もなかった。
(同第28集167頁12行目)
学者達は、神代の伝説に接し、特にその内容を取り上げて、「あやし」と判ずるのだが、伝説の裡に暮していた人々は、そういう「あやし」という言葉の使い方、つまり、あやしからぬ物に対して、あやしき物を立てる巧みを知らず、ただどう仕様もなく、「あやし」と感受する事の味いの中にいた、というのが、宣長の考えであった。丁度、「源氏」が語られるその様を、「あはれ」という長息の声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、「あやし」という、絶対的な「なげき」を得た。
(同第28集174頁5行目)
私は、この「あやし」と「あはれ」が胸に強く迫ってきながらも、これ以上は近づけぬまま第十五章に戻る。と、宣長が「古事記伝」と並行して「源氏物語玉の小櫛」に打ち込む姿が浮かんできた。
その「源氏物語玉の小櫛」を、宣長は寛政九年、六十八歳の年の九月に完成させたが、巻末に一首、歌を添えた。小林先生は、この歌に宣長の心を読んでいく。
宣長は、薫の感想を、さり気なく評し去り、歌を一首詠んでいる。「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」(「玉のをぐし」九の巻)――作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。
此の物語の「本意」につき、「極意」につき、もう摘み残したものはない、と信じた時、彼の心眼に映じたものは、式部が、自分の織った夢に食われる、自分の発明した主題に殉ずる有様ではなかったか。私には、そんな風に思われる。「物の哀をしる」とは、理解し易く、扱い易く、持ったら安心のいくような一観念ではない。詮じつめれば、これを「全く知る」為に、「一身を失ふ」事もある。そういうものだと言いたかった宣長の心を推察しなければ、彼の「物のあはれ」論は、読まぬに等しい。だが、彼は、そうは言ってみたが、その言い方の 「道々しさ」に気附かなかった筈もあるまい。
(同第27集167頁13行目)
ここで言われている「道々しさ」は、ひとまずは理屈っぽさ、と解してよいだろう。
そして小林先生は、宣長が、七十歳にちかくなって自分の余命に思いをめぐらせ、肝心の「古事記伝」も未完成ではあるが、「源氏物語」の註釈は可能なかぎりこれからも続けようと思うと記した「玉の小櫛」の一節を挙げ、そういう心境のうちで嘗ての「道々しき」評釈は「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」という穏やかな歌へと変じたと語る。
この歌の「春野」は「源氏物語」である、「すみれ」は「源氏物語」のなかの言葉であり、「けふ暮れぬとも」は、ひとまずこれで一区切りとするが、である。全体の歌意は、「源氏物語」にはまだまだ註釈を必要とする言葉が残っている、今回はここで一区切りとするが、心がひかれ、離れがたいので、いつかまたここへ戻ってきてそれらの言葉を味わうつもりである……、である。
この歌は、すなおに読めば「源氏物語」註釈という大仕事を終えた宣長の安堵の歌である、安堵と同時に心残りはまだまだあるという告白でもあり謙退でもある歌である。しかし小林先生は、こう言っていた、
作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。
此の物語の「本意」につき、「極意」につき、もう摘み残したものはない、と信じた時、彼の心眼に映じたものは、式部が、自分の織った夢に食われる、自分の発明した主題に殉ずる有様ではなかったか。私にはそんな風に思われる。
「作者とともに見た、宣長の夢」とは何だろう。今の私にとっては少し近づいたかと思うと、その奥は深く遠のくばかりである。
ケーブルカーの終点、八瀬の駅に降り立った。それでも杉林の緑の濃淡の残像は消えず、浮舟の比叡小野の里を探り当てたら近づけるだろうかと、浮舟の存在をリアルに感じていることに驚く。
「本居宣長」と「源氏物語」をもっともっと読まねば……。本居宣長が紫式部とともに見た夢を追い、「春野のすみれ」に続く道を探して……。
(了)