編集後記

坂口 慶樹

新型コロナウイルス禍がいまだ収束しないなか、深刻な豪雨被害を受けられた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 

 

今号には、本誌2019年11・12月号の「本居宣長の奥墓おくつきと山宮」に引き続き、石川則夫さんに「特別寄稿」いただいた。今回は、「『本居宣長』の最終章から第1回へと還流する文体を浮き彫りにしようとする」目論見の前段として、小林秀雄先生と柳田国男氏との交流の具体的な様相が、最新の研究成果も踏まえ、その端緒から克明に詳らかにされている。本塾生はもちろん、すべての読者にとってきわめて大きく興味を惹かれるテーマであるだけに、一読者として次回以降の本格山行に同道できることが、今から待ち遠しくなる。

 

 

巻頭随筆は、新田真紀子さんが寄稿された。小さな命を身に宿したとき、新田さんが思い出したのは、近くに住むお祖母さんと毎月行っていた手紙のやり取りである。塾頭の勧めもあって、「ゴッホの手紙」を久しぶりに読み返し、新田さんが新たに感得したことは、小林先生が言うところの「告白」の深意であった。まさに私信を読ませてもらうかのように、新田さんの言葉を玩味したい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島由紀子さんと本田正男さんが寄稿された。

比叡の山から降りる途中、小島さんが思い出したのは、「源氏物語」宇治十帖において、入水後、横川よかわの僧都の助けを得て、叡山の麓、小野の里に移された浮舟の姿であった。そのまま、小島さんの眼は、同帖について評し了えた宣長が詠んだ一首につき、小林先生が記した、この言葉へと向かう――「作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである」――「宣長の夢」とはいかに……

本田さんは、弁護士として、司法修習生を受け入れる折、自分が法廷への提出書面作成のうえで大切にしていることを何だと思うか? という問いを提示しているという。法廷弁論が書面中心となるなかで、本田さんが、そこに映ずる「言葉の姿」にまで細心の注意を払うのは、なぜなのか? 「本居宣長」への自問自答を通じて、本田さんが感得したところに着目したい。

 

 

「美を求める心」に寄稿された橋岡千代さんの足を止めたのは、竹の枝にうずくまる二羽の雀が描かれた地味な墨絵であった。その絵と一心に相向かう橋岡さんの脳裏に、小林先生が言う「観」という言葉が去来する。橋岡さんが、「観」について論じている小林先生の言葉を書き写すことで、観る側が感じることの肝要さを繰り返す先生の言葉の深みをいっそう強く感じた、その自問自答の姿を観じていただきたい。

 

 

今般のコロナ禍という状況下、山の上の家の塾は、やむをえず3月より休会となっていた。しかし、「私たちは、もうこれ以上、今次の災禍に抑圧されてばかりはいられない」という思いも抑えがたく、あくまでの一時避難として鎌倉から場所を移し、「3密」を完全回避するかたちで、7月より再開することができた。同様に、池田塾頭による各種講座も順次再開されており、先日は「小林秀雄と人生を読む夕べ」も開かれた。テーマは「文学と自分」(『小林秀雄全作品』第13集所収)、その中で、小林先生がこのように述べているくだりが、強く印象に残っている。

「……二宮尊徳は思想という言葉は使っていない。大道と言っておりますが、大道はたとえば水の様なもので、世の中を潤沢して、滞る処のないものだが、書物になって了えば水が凍ったようなものだ、その書物の註釈というものに至っては、氷に氷柱つららがぶら下がった様なものだ。『氷を解かすべき温気うんき胸中になくして、氷のままにて用ひて、水の用をなす物と思ふは愚の至なり』と言っております。大切なのは、この胸中の温気なのである。空想の世界の広大さに比べて、確実な己れの生活の世界の狭さを知れとは、この胸中の温気の熱さを知れという事に他なりませぬ」(傍点筆者)。

 

コロナ禍という非常時における今次の塾の再開も本誌発行の継続も、本塾に関わるすべての者の、小林秀雄先生に学びたいと一貫して希う「胸中の温気」によるものである。

本誌は次号より季刊誌となって生まれ変わる。しかし、執筆者の「胸中の温気」に、これまでと変わるところは一切ない。引き続き、読者の皆さんのご指導ご鞭撻を切にお願いする。

(了)