新型コロナウィルス感染症問題の影響を受けて、今年4月に車通勤を始めた。帰り道は毎夜、車も人もほとんどない、店の灯りも落ちた中を走るのだが、その時に、小林秀雄先生の講演のCDを聴くことにした。今回のコロナ以来、私の職場でも、会議等で検討するのは未経験のことばかり、判断の拠り所は「人は、それをよしとするかどうか」となった。つまり、「健康に生きることが最優先という時に、立場や文化の違いを超えて人がよしとするもの、納得する答えは何か」を探し続けた。「語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する」、大袈裟なようで気恥ずかしいが、まさに先生のこの言葉は、私の職場における、最善を模索する話し合いそのものであったと思う。
――物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。「かた」は「言」であろうし、「かたる」と「かたらふ」とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、「日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし」と言ったのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集181頁)
だから私は、小林先生の言葉が私の職場にも何かヒントを与えてくださるのでは、と期待した。先生は講演後の質疑応答で、学生の質問に答えて言った。「昔の人の心になるのは何でもないことです。それは、人間は変わらないものだからです。人間は変わるところもあるけれど、変わらないところもあるからです。あなたに目が二つあることは変わらないでしょう。生物としての人間、種としての人間は、全然変わってないでしょう。それと同じで、人間の精神もやっぱり変わっていませんよ。現代は、物質的な進歩は確かにたいへんなもので、それに僕らはつい目を奪われるから、人間はどんどん変わっているように思ってしまう。これは、人間の精神を実は蔑ろにしていることです。人間の変わらないところ、変わらない精神を発見するのには、昔のものを虚心坦懐に読めばいいのです。……想像力さえあれば、いつでも彼らの心に触れることができる」。
『本居宣長』で、小林先生は「学問界の豪傑達は、みな己に従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」と書いている。藤樹、契沖、仁斎、徂徠、宣長といった豪傑達は、まさに信を新たにする道を行うために、想像力を磨いたのではないだろうか。
古典を虚心坦懐に読むために、小林先生の言う「想像力」とは何かを理解し、できるなら、それを磨きたいと思い、『本居宣長』を読みながら「想像力」という言葉を追ってみた。前回の塾の自問自答で、溝口朋芽さんが「精神」という言葉を追い、丁寧に考えを深められたように私も、と思った。
――当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。この努力に、言わば中身を洞にして了った今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である。(同103頁)
――彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見たわけであり、この、言語による表現の在るがままの姿が、想像力の眼に直知されている以上、この像の裏側に、何か別のものを求めようとは決してしなかったのである。(同206頁)
――おぼつかない神代の伝えごとを、そのまま受納れた真淵が、「古へを、おのが心言にならはし得」たところを振返ってみるなら、それとは質の違った想像力が、この易しい譬えの裏には、働いているのが見えて来るであろう。――「言を以ていひ伝ふると、文字をもて書伝ふるとをくらべいはんには、互に得失有て、いづれを勝れり共定めがた」くと、宣長は繰返し言っている。これは大事な事で、彼は定めがたき一般論などを口にしているのではない。ただ、両者は相違するという端的な事実に着目して欲しい、と言っているだけなのだ。ところが、其処に眼を向ける人がない。「上古言伝へのみなりし代の心に立かへりて見」るという事が、今日になってみると如何に難かしいかを、宣長は考えるのであり、その言うところには、文字を用いなれたる人々が、知らずして抱いている偏見に、強く抗議したいという含みがある。(同第28集169頁)
――「文字は不朽の物なれば、一たび記し置つる事は、いく千年を経ても、そのまゝにるは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字無き世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし、今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字しらぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、殊に皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」、――神代より言い伝え、言霊の幸わう国と語り継いで来た「文字なき世は、文字無き世の心なる故」と、しっかりと想像力を働かせてみるなら、「言辞の道」に於いて、「浮きたる事」は、むしろ今の世の、「文字を知れる人」の側にある事に気付くであろう、というのが、宣長の言いたいところだったのである。(同上)
用例探索をさらに進めていく中で、私は「想像力の眼」という言葉に強く惹きつけられてしまった。想像力の眼は、言葉が描き上げた物語の中の人物を実在の人物を見るのと同じように見る、あるがままに見る。余計な意味づけなど決してしない。さらには、想像力をしっかりと働かせてみれば、「『言辞の道』に於いて、『浮きたる事』は、むしろ今の世の、『文字を知れる人』の側にある事に気付くであろう」と、書かれていた。
「想像力を働かせる」とは、私を無くし、相手に同化して考えることだ。そのためには、これまで自分の中に積み重ねた知識や経験を一掃し、現代における一切の通念を捨てた、ゼロの原点への回帰が求められる。言うまでもなく、小林秀雄に学ぶ塾では、何度も言及されている。このようなことが、凡人の私にできるのだろうか。小林先生は、そのためには想像力を磨け、と言う。講演の中でも、「想像力は磨くこともできるのです。想像力だってピンからキリまであるから、努力次第ですよ。精神だって、肉体と同じで、鍛えなければ駄目です。使っていないと、発達などしません。想像力も自分で意識して磨いていけばどんどん発達するものです」と、学生を励ましている。
――万葉歌人が歌ったように「神社に神酒すゑ、禱祈ども」、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じ事なのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、そういう意味での死しか、古学の上で、考えられはしなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、何もない。世間には識者で通っている人達が巧みに説くところに、深い疑いを持っていた彼には、学者の道は、凡人が、生きて行く上で体得し、信仰しているところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考えられていたのである。
「真実の神道の安心」を説いた、「答問録」の中の文の出どころを、「古事記伝」中の「神世七代」の講義に求め、私の文もくだくだしい書きざまとなったが、講義の急所は、伊邪那岐命の涙にある、という考えさえ手離さなければ、二つの文は、しっくりと重なり合うのが見えて来るだろう。
「御国にて上古、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく」と門人等に言う時、彼の念頭を離れなかったのは、悲しみに徹するという一種の無心に秘められている、汲み尽し難い意味合だったのである。死を嘆き悲しむ心の動揺は、やがて、感慨の形を取って安定するであろう。この間の一種の沈黙を見守る事を、彼は想っていた。それが、門人等への言葉の裏に、隠れている。死は「千引石」に隔てられて、再び還っては来ない。だが、石を中に置いてなら、生と語らい、その心を親身に通わせても来るものなのだ。上古の人々は、そういう死の像を、死の恐ろしさの直中から救い上げた。死の測り知れぬ悲しみに浸りながら、誰の手も借りず、と言って自力を頼むと言うような事も更になく、おのずから見えて来るように、その揺がぬ像を創り出した。其処に含蓄された意味合は、汲み尽し難いが、見定められた彼の世の死の像は、此の世の生の意味を照し出すように見える。宣長の洞察によれば、そこに、「神代の始メの趣」を物語る、無名作者達の想像力の源泉があったのである。
想像の力は、何を教えようとも、誰を喩そうとも働きはしない。かろやかに隠喩の働きに乗じ、自由に動く。生死は吉善凶悪となり、善神悪神となり、黄泉にとどまる悪神の凶悪に触れた善神は、禊によって、穢悪を祓い清めなければならない、という風に。だが、それが為に、物語の基本の秩序は乱れはしない。自由に語るとは、ただ、任意に語る事ではない。「女男ノ大神の美斗能麻具波比より始まりて、嶋国諸の神たちを生坐し、今如此三柱ノ貴ノ御子神に、分任し賜へるまで」、――の物語を、注意して読んで行けば、――「世間のあるかたち何事も、吉善より凶悪を生し、凶悪より吉善を生しつゝ、互にうつりもてゆく理リ」に、おのずから添うて進むのが見えて来る。作者等の想像の発するところに立ち、物語が蔵する、その内的秩序に、一たん眼が開かれれば、初め読み過したところを振り返り、「女男ノ大神の美斗能麻具波比」という物語最初の吉善さえ、「凶悪の根ざし」を交えずには、作者達は発想出来なかったのに気が附くだろう、と註釈は、読者の注意を促している。(同206頁)
用例から繰り返せば、「想像の力は、何を教えようとも、誰を喩そうとも働きはしない」。だからこそ、「『世間のあるかたち何事も、吉善より凶悪を生し、凶悪より吉善を生しつゝ、互にうつりもてゆく理リ』に、おのずから添うて進むのが見えて来る」という。こう考えると想像力は、生命が危機や未知に直面した時、極めて困難な局面を打開して、人間を救う力にもなるだろう。
コロナで大きく変わった社会の中で、考えるヒントを求める私たちは、小林先生の文章を読んで、生きるための知恵とは何かを知る。それは、こういうことのようだ。想像力を磨けば、今も昔も変わらない人間の精神、つまり、誰もが無意識に持つ「常識」が思い出される。もちろん、ここでいう「常識」は、一般に言われる常識ではない。『小林秀雄全作品』の脚注には、この言葉が出るたび、「人間が生れつき備えている知恵や能力。外部から習得される知識よりも、万人共通の直観力、判断力、理解力に基づく思慮分別に重きをおいて著者は用いる」とある。そういう「常識」は、さらに精神を働かせる。この繰り返しを絶やさないよう努め想像力を磨き続けることこそが、このような時代でも、よく生きる、ということなのかもしれない。
(了)