「本居宣長」における「精神」について

溝口 朋芽

「本居宣長」を読むようになって6年が過ぎたが、冒頭の第1章、第2章に登場する、宣長本人が書いた「遺言書」を捉えようとする私の精神は、空回りを繰り返していた。今年の山の上の家の塾での質問も、懲りずに「遺言書」に関する事を取り上げたいと思っていると、ふと、最終章、第50章の最後部、下記の一文に目が留まった。

 

―宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう、宣長は見ていた。そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「ココロ」を、しっくりと取り巻いている、「物のココロ、事のココロ」を知る働きでもあったからだ。

―もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いがしきりだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

こうして長編「本居宣長」は全50章の幕を閉じるのであるが、直前の文章で2度、「精神」という言葉を述べた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっている。小林秀雄氏はまるで、直前に書いた「精神」という言葉に突き動かされるように、私たち読者を「遺言書」に誘っているように思われた。全編を通して「精神」という言葉は、幾度となく登場するが、ここで言われている「精神」について考えることで、遺言書への手掛かりがつかめるのではないか、という思いに駆られ、次のような質問を立てた。

 

―小林氏が伊藤仁斎や荻生徂徠の学問に対する姿勢について語る際、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」(第10章)と表現をしています。また、第50章の最終段落において「純粋な精神活動」「徹底した一種の精神活動」という表現があり、それら「精神」について触れた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっています。小林先生は「精神」という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、本を書き終わる頃には、宣長の「精神」と「遺言書」が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか。そうであるから、最後に「また遺言書に戻る他ない」と書いたのではないでしょうか。

質問の文中で私は、「精神」という言葉について、「格別の」、とはあらわしたものの、その中身についてはこの時点でまったく思いが到っていない状況であった。そこで、まずは、小林氏が本文で「精神」という言葉をどのように用いているのかについて辿ろうと思い、全編を通じて多く登場する「精神」という言葉をさらうことにした。それらの中から、今回の私の質問にヒントをくれるのではないかと感じた箇所をピックアップし、その内容を塾当日の質問発表の場で塾生諸氏と共有した。それが下記の10か所である。

 

一、

―ところで、彼(宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言がげんは、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。(中略)契沖にとって、歌学が形であれば、歌道とは、その心であって、両者は離す事は出来ない。(中略)詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった。それと言うのも、話は後に戻るのだが、問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語っていないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。

 

二、

―日本の歴史は、戦国の試煉を受けて、文明の体質の根柢からの改造を行った。当時のどんな優れた実力者も、そんなはっきりした歴史の展望を持つ事は出来なかったであろうが、その種の意識を、まるで欠いていたような者に何が出来るわけもなかった事は、先ず確かな事であろう。乱世は「下剋上」の徹底した実行者秀吉によって、一応のけりがついた。(中略)しかし、「下剋上」の劇は、天下人秀吉の成功によって幕が下りて了った訳ではない。「下剋上」と言う文明の大経験は、先ず行動の上で演じられたのだが、これが反省され、精神界の劇となって現れるには、又時間を要したのである。(中略)彼には、家康の時代が待っているという考えは、自然なものだったであろうが、己れに克つという心の大きな戦いには、家康とは全く別種の豪傑が要る、歴史の摂理は、もうこれを用意していたとは、恐らく秀吉の思い及ばぬところであった。

 

三、

―仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。(中略)仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニむかフ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「住家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は、「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉をつかむ為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していたのである。言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。

 

四、

―彼等が、所謂博士家或は師範家から、学問を解放し得たのは、彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。(中略)過去が思い出されて、新たな意味を生ずる事が、幸い或は悦びとして経験されていた。悦びに宰領され、統一された過去が、彼等の現在の仕事の推進力となっていたというその事が、彼等が卓然独立した豪傑であって、而も独善も独断も知らなかった所以である。彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。

 

五、

―ここに歌人等の決定的な誤解が生じた、と想像していいのだが、彼等がどう誤解したかを考えてみるのも無駄ではない。簡明な要約のかなわぬ、宣長の言葉の含みを言うのには、そんな迂路うろも必要なのである。(中略)そこで、彼等にとっても、見掛けの上では、歌の道は言葉の「アヤ」と言う問題が中心となるのだが、「文」の意味合が、宣長の言う「文」とはまるで違って来る事になる。宣長は、「歌といふ物のおこる所」に歌の本義を求めたが、既述のように、その「歌といふ物のおこる所」とは、即ち言語と言うものの出で来る所であり、歌は、言語の粋であると考えた事が、彼の歌学の最大の特色を成していた。「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文ある辞」(「石上私淑言」巻一)と歌を定義する彼の歌学は、表現活動を主題とする言語心理学でもあった。この心理の動きを、彼は「自然の事」とか「自然の妙」とか呼んだが、そういう時、彼が思い浮べていたのは、誰にも自明な精神の自発性に他ならなかった、と見てよいなら、彼の「文」という言葉も、其所から発言されていたと考えていいわけだろう。そういう考えから、彼の歌の定義をもう一度読んでみるがいい、「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文ある辞」という言い方で、あやという言葉が目指しているのは、「辞のあや」ではなく、むしろ「あやとしての辞」である事を、合点するだろう。

 

六、

―堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。(中略)詞は、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬと言う意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういうことになるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入はいって行く。(中略)そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人にキカする所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。

 

七、

―宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼の言い方に従えば、「物のあはれをしるココロウゴき」は、「うき事、かなしき事」に向い、「こころにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或は精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういう情のおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである。この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此世」の何物にも囚われず、わずらわされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かである、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるところ、そういう純粋無雑な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。

 

八、

―生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり、動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬさまになっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落して、自立した姿で浮び上って来るのに、宣長は着目し、古学者として、素早く、そのカタチを捕えたのである。其処に、彼は、先きに言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の眼にさらすのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退きならぬ動きを、誰もが持って生れて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々がめいめいの天与の「まごころ」を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、「神世七代」の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか。この観点に立った宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発はじめの時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。

 

九、

―物語最初の吉善ヨゴトさえ、「凶悪マガコトの根ざし」を交えずには、作者達は発想出来なかったのに気が附くだろう、と註釈は、読者の注意を促している。これが宣長を驚かした。彼は、この驚きを、「神代を以て人事ヒトノウヘを知」るという言葉で言ったが、この「人事」という言葉は、人間の変らぬ本性という意味にとってよい。この彼の考え方は、古人の心をわが心としなければ、古学は、その正当な意味を失うという確信に根ざすものだが、問題は、この方法の彼なりの扱い方にあった。これは繰返し言って置きたい。古人に倣い、「びの大神おほかみ御霊みたま」と呼ばれた生命力を、先ず無条件に確認するところに、学問を出発させた以上、この「御霊」の徳の及ぶ限り、「皇統アマツヒツギは、千万世の末までに動きたまはぬ」事については、学問上の疑いは出来しゅったいしない。(中略)何も作家達という言葉にこだわる事はない。宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう宣長は見ていた。

 

十、

―そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「ココロ」を、しっくりと取り巻いている、「物のココロ、事のココロ」を知る働きでもあったからだ。

もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いがしきりだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

 

以上の抜粋を、山の上の家の塾当日の質問の際に挙げてのち、「本居宣長」において小林氏が使われている「精神」とはどういうことか、というお話を池田塾頭より伺うことができた。それは私の拙い質問が敷衍された先の、今まで知りえなかった小林氏が語るところの「精神」についての核心部分であった。その詳細については、塾頭による、本誌「好・信・楽」の「小林秀雄『本居宣長』全景」、二十五「精神の劇」(2020年5・6月号掲載)に詳しいが、この中で「精神」について、以下のように述べておられる。

―「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた彼等の精神」、その「精神」を端的に言えば、何事につけても人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能である……そして、私が先に挙げた10か所の「精神」の文脈はどれもこの“人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能”という背景を背負っている、と書かれている。確かに今回ひいた10か所を見返してみると、文中に「おのずから」「自然の」といった言葉が、頻繁に用いられていることに気が付く。そして小林氏の意味する「精神」がかたどられ、その姿が垣間見えてくるようである。そのような心持ちであらためて、最終章の最後部の文章を読んでみる。

―宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「ココロ」を、しっくりと取り巻いている、「物のココロ、事のココロ」を知る働きでもあったからだ。

この一文が、小林氏が宣長について語ろうとして書いた結晶のような言葉に見えてくる。この結晶をさらに読み解くためには、「精神」という言葉のもつ意味を何度も反芻する以外にないのだろうと思う。

 

このように導かれて辿ってくると、「精神」について書かれた本文の中で1箇所選びそびれた箇所があることに気づいた。

―宣長を語ろうとして、藤樹までさか上るというこの廻り道を始めたのも、宣長の仕事を解体してこれに影響した見易い先行条件を、大平おおひらの「恩頼図おんらいず」風に数え上げて見たところで、大して意味のある事ではあるまいという考えからであった。見易くはないが、もっと本質的な精神の糸が辿れるに違いない、それが求めたかった。近世の訓詁の学の自立と再生とに、最も純粋に献身した学者達の遺した仕事を内面から辿ってみれば、貫道する学脈というものは見えて来るのである。

 

なぜ宣長には古事記が読めたのか、小林氏がその問いに精神を集中する中で、中江藤樹から紡がれた日本近世を貫く一筋の「学問の道」が浮かび上がり、小林氏自身が合点した「もっと本質的な精神の糸」を読者に示してくれているのだということに、今、ようやく思いが到るのである。

 

 

(参考)「本居宣長」からの引用部分

小林秀雄全作品第27集

  ① 第6章 P73 L4 「精神の新しさ」

  ② 第8章 P90 L1 「精神界の劇」

  ③ 第10章 P112 後ろからL4 「彼等の精神」

  ④ 第11章 P120 L3 「精神的遺産」

同第28集

  ⑤ 第36章 P58 L8 「精神の自発性」

  ⑥ 第36章 P59 後ろからL7 「精神の働き」

  ⑦ 第50章 P198 L10 「精神化」

  ⑧ 第50章 P202後ろからL2 「精神の上で秩序附け」

  ⑨ 第50章 P208 後ろからL1 「純粋な精神活動」

  ⑩ 第50章 P209 L4 「精神主義」

 

本文最後の引用部分

  ⑪ 第11章 P121 後ろからL4 「精神の糸」

(了)