天才とは意に随って取戻される幼年期に他ならない。……
顔にせよ、風景にせよ、光、金泥、塗料、燦めく布、化粧
に飾られた美女の魅惑等、それが何にせよ、新奇を眼前に
する小児らの動物的に恍惚とした凝視は、この深い楽しげ
な好奇心の所為となさなければならぬ。
シャルル・ボードレール「近代生活の画家」(*1)
以前、箱根、彫刻の森美術館(ピカソ館)(*2)を訪れた時、ベビーカーに乗った女児が、両親と一緒に入ってきた。絵の前に来ると、「これなんだろうねー」と甲高い声を上げる。ただ、それだけである。そして、次の絵の前にくると、同様に「これなんだろうねー」と言う。私は、その繰り返しを心地よく耳にしながら、ピカソが捏ねた「みみずく」の陶器と、静かに向き合っていた。
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小林秀雄先生は、「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)を書き終えて、「先年、外国旅行をした時、絵を一番熱心に見て廻った。当時得た感動を基として、近代絵画に関する自分の考えをまとめてみたいと思い、昭和二十九年の春から書き始め、毎月雑誌に発表して今日に至った」(*3)と記している通り、その執筆動機は、「絵画についての疑い様のない感動」(「ピカソ」、同)が基にある。ところが先生は、ピカソについて、気の置けない大岡昇平さんとの対談で、「ほんとうは好きじゃないんだよ。ただ問題性があって別なところで好きなんだ」(*4)と述べている。つまり、心底では必ずしも好きになれないが、別なる問題性に心動かされてピカソ論を書いた、しかも連載にして17回にも及んだ(*5)。それでは、小林先生が眼を付けたピカソの「問題性」とは一体何なのか? 紙幅の許すところで、考えを深めてみることにしたい。
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小林先生は、ピカソ論の前半で、美術史家ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」の説について、エジプトでの実体験に基づき、多くの紙幅を割いている。この説は、本誌前号(2020年5・6月号)「遁れるゴーガンの『直覚』」でも書いた通り、人間の芸術意欲を駆動する深因について、心理学者リップスの「感情移入の概念」、すなわち、人間側の「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」(傍点筆者)を、ロマン主義(*6)が愛好した審美的直観を理論的に再構成したもので、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これを凡ての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」として退ける。
ヴォリンゲルはむしろ、ピラミッドに代表されるエジプトの芸術様式が示すように、そこには「生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがあ」り、「われわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である」という「抽象作用の概念」こそ第一義、とするのである。
そこで小林先生は、ヴォリンゲルが言う意味合いでの抽象芸術という言葉に、ピカソが反対する理由はなかったという前提で、このように述べている。
「二十世紀の抽象芸術は、明答は得られないにせよ、ヴォリンゲルの仮説の応用問題を提供している様に見える。歴史は二度繰返さないが、異なった条件の下に非常によく似た事が起るとは考えられよう」(傍点筆者)。
先生は、ピカソの「実在感から出発しない様な絵はない」という主張と同様、「美術史に最初に現れた抽象的芸術の作者達も実在感から出発した」と言う。作者たるエジプト人らは、「到るところに不思議を見、危険を見て生活していた。彼等に迫る世界の像は、混沌として、不安定であり、これを取り鎮める合理的な世界の解釈は、彼等の能力を超えたものだったから、彼等は、この大敵に対し本能的に身構えをする他はなかったのだが、この身構えこそ彼等の造形力であり、具象のまどわしから逃れて意識の安定を得んとする道であった」。
それならピカソは、何に対し「不思議」や「危険」を見て、身構えたのか……
彫刻の森には、「貧しき食事」(1904年)という、印象的なエッチング(銅版画)があった。一組の男女がテーブルに肘をついて坐っている。ともに瘦身である。机上には、酒瓶にコップと、カチカチのパンが二かけ。盲目なのか男は目をつぶり、口を半開きにしたまま、左手を女の肩に回しているが、その指は長くて細い。実に表情的な指だ。私は、秘めた恨めしさを静かに醸し出す、日本の古い幽霊画でも見ているような心持になった。
これは、1901年から04年末までのピカソの作風、いわゆる「青の時代」の作品である。小林先生は、その時代の代表作「自画像」(1901年)について、「孤独なしには、何一つ為し遂げることは出来ない。私は、かつて私の為の一種の孤独を作った」というピカソの言葉にある「孤独」を語っているのだと言う。さらに、そういう作者自身の姿を扱うのに、青の色調、精神医学者ユングが言う「冥府の色」を必要とした、というのも、「名附けようもない自分自身に出会った一種の恐怖に由来すると言ってもいいからである」と言っている。
「貧しき食事」に描かれた男女から、私が感得したものもまた、ピカソが覚えた、そういう一種の恐怖の意識だったのだろうか? いや、小林先生の言う通り、「ピカソの内的体験は、やはり謎に止まる」だろうし、ピカソから「私には自分を自分流に知る事で手一杯だ」と一蹴されそうなので、さらなる詮索はやめておこう。
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幸いにも、私達は今でも、ピカソが制作する状況を、映像を通じて観ることができる。小林先生もピカソ論の冒頭で、鑑賞後「言葉のない感動が、尾を引いていて、口をきくのもいやだった」と言う、クルーゾー監督による映画「ミステリアスピカソ」(*7)である。
こんなシーンがあった。ピカソは、唐突に「見ててくれ、驚くものを描くから」と言うと、花束を描き始めた。……花束は、そのまま魚の鱗と化す。……魚は、鶏の羽の模様に変わる。すると突然、画面を黒く塗りつぶし始めた。最終的に出来上がったのは、不気味に嗤うアルルカン(道化)の顔であった。
別のシーンである。彼は、海水浴場と思しき絵を描き始めた。画面は、何度も何度も書き直されていく。一度や二度ではない、書き直しの永劫回帰である。
ピカソの声が拾われる。
「これはひどいな、まったくだめだ」。
書き直しは続く。
「ますます悪くなる 心配かい? 心配無用だ。最後にはもっと悪くなる……」。
ついに、当初の絵とは似ても似つかない物に変わり果ててしまった。
「またひどくなった。剥ぎ取ってしまおう」。
今度は修復の繰り返しが始まる。
「少しはよくなったか」
ようやく出来上がりか、と思われた瞬間……
「これもただ一枚の絵。今ようやく、この絵の全体をイメージできた」。
「新しい画布で、すべてを描き直そう」。
このシーン、映画では10分弱に編集されているが、実際の撮影は8日間にも及んだという(*8)。
もう一つ、小林先生がピカソ論を書くうえで大事にしていた書籍がある。まずは、先生が抱いていたピカソの印象も含めて、そのことがよく分かると思う一節を紹介したい。
「サバルテスというピカソの秘書が書いた『親友ピカソ』(*9)という本がある。先日、訳者の益田義信君から贈られて読んで、大変面白かった。いつか『ライフ』誌上に、何か特殊な発火装置めいたもので、空中に絵を描いているピカソの実に鮮明な写真が出ていたが、毛の生えていない大猿の様な男が、パンツ一枚で、虚空を睨んでいたが、その異様な眼玉には驚いた。こんな眼つきをした男は、泥棒、人殺し、何を為出かすかわからぬが、議論だけはしまい、と感じたが、益田君の訳書を読んでみると、やはりそんな風な人に思えた」。(「偶像崇拝」(同、第18集所収))
続いて、同書の中の一節を引く。前述の映画と相まって、ピカソの実際の制作時の特徴が、よくわかるのではないかと思う。
「彼の心は天も地も彼を抑え引きもどすことも出来ぬ程、急速に一つのことから他へと移って行く。どんな場合でも、人をして話の源を忘れさせてしまうのが常である。彼の無数の幻想の一つを、形につくり上げにかかる時は、話題を全然変えてしまうこともある。何度岐路にはいって話を中絶したことだろう。……彼が時々私にする話の形式は、彼の創作形式と比較せざるを得ない程よく似ている」。
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ピカソには狂的な蒐集癖もあった。紙くず、骨のかけら、マッチ箱…… あらゆる実物で、ポケットは一杯になって破れ、部屋中に散乱していた。サバルテスが指摘しても、「棄てねばならぬ理由が何処にあるか」と譲らない。小林先生は、この奇癖に興味を持ち、「殆ど彼の制作の原理だ」とまで断言する。「頭脳は、勝手な取捨選択をやる、用もない価値の高下を附ける。みんな言葉の世界の出来事だ、眼には、それぞれ愛すべきあらゆる物があるだけだ。何一つ棄てる理由がない」のである(「偶像崇拝」)。
先生は、ピカソが、「美とは、私には意味のない言葉だ。その意味が何処から来たのか、どこへ行くのか誰も知らないのだからな」と言ったことを踏まえ、このように続けている。
「恐らく彼は、自分の蒐集癖が、『美』の抑圧への、深い反抗に発している事をよく感じているのである」。「自分の心底深く隠れている蒐集の理由だけが正当で、大事なのである」。
であるならば、この、ピカソの歎きの声も、さらに深く感得できよう。
「誰もが美術を理解したがる。何故、鶯の歌を理解しようとはしないのか。何故、人々は理解しようとはしないで、夜や、花や、廻りのいろいろな物を愛するのか。ところが、絵画となると、理解しなければならないのだそうである。画家は必要から制作している事、彼自身は、世界の些々たる分子に過ぎない事、説明は出来ないにしても、私達に喜びを与える沢山の他の物に比べて、絵を特に重要視するには当たらぬ事、そういう事を世人が何よりも先ず知ってくれればよいのだが」(「声明」1935年)。(「近代絵画」)
私には、彼が「自らの作品も、頭脳で理解せず、眼でみたまま愛してくれよ」、そう訴えているように聞こえる。そうなると、ピカソ作品の特徴を、キュービズムという外附けの枠組みで分類したり、作品の表題や第三者の解説で理解することも無用ということになる。彼の絵を見て、わからない、と嘆くこともないのだ。
確かにピカソは、「我々がキュービスムを発明した時、キュービスムを発明しようという様な意向は全くなかった。自分等の裡にあるものが明かしたかっただけだ」(傍点筆者)と言っている。ところが小林先生は、次のように続けるのである。
「ピカソが実際に行ったところは、寧ろ内部からの決定的な脱走だったと言った方がいい。ロマンティスムが育成して来た『内部にあるもの』は、次第に肥大して、意識と無意識との対立とな」る。しかし彼にとって、「意識と無意識が対立する様な暇はな」く、「絶えず外部に向って行動を起こす」。眼前にある対象物に向かって仕事をする。対象物に激突したピカソは「壊れて破片となる」。そこには「平和も調和も」なく、「恐らくはそれは自然を吾がものとなし得たという錯覚に過ぎなかった」のであろう。
先に、ピカソの制作のリアルな有り様を、映画やサバルテスの文章を通じて紹介したが、それらこそまさに、ピカソによる「内部にあるもの」からの脱走、すなわち、彼が対象物に激突して破片と化す様だったのではあるまいか。さらには、そこで私達は、対象を己の所有物と感じたいと欲する「感情移入」の拒絶、すなわち小林先生が言う「ヴォリンゲルの仮説の応用問題」を目の当たりにしていたのではあるまいか。
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ピカソは晩年、子供たちを見ると、このように言っていたという。
「私があの子供たちの年齢のときには、ラファエロと同じように素描できた。けれどもあの子供たちのように素描することを覚えるのに、私は一生かかった」(*10)。
さて、彫刻の森の女児は、相変わらず「これなんだろうねー」を繰り返している。
ふと思った。ピカソの作品を味うには、表題や解説の言葉に頼らない注意力を保ちながら、あの女児になりきって観ていくのがよいのかも知れない。
鶯が歌うように、「これなんだろうねー」とだけ繰り返しながら……
(*1)ボードレール「ボードレール 芸術論」(佐藤正彰・中島健蔵訳、角川文庫)
(*2)彫刻の森美術館(神奈川県足柄下郡箱根町ニノ平1121)
※ピカソ館は1984年に開館。2019年に全面リニューアルされた。
(*3)「『近代絵画』著者の言葉」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収
(*4)「文学の四十年」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収
(*5)向坂隆一郎「『近代絵画』前夜」、『この人を見よ 小林秀雄全集月報集成』新潮社小林秀雄全集編集室編
(*6)ロマンティスム。18世紀末から19世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。自然・感情・空想・個性・自由の価値を重視する。
(*7)「ミステリアスピカソ-天才の秘密」Le mystère Picasso、DVD発売;シネマクガフィン、販売:ポニーキャニオン
(*8)この作品「ラ・ガループの海水浴場」(第一作)は、東京国立近代美術館に所蔵されている。
(*9)「親友ピカソ」(美術出版社)
(*10)ローランド・ペンローズ「ピカソ その生涯と作品」(高階秀爾・八重樫春樹訳、新潮社)
※出典確認は、彫刻の森美術館の黒河内卓郎さんにお世話になりました。記して感謝申し上げます。
【参考文献】
マリ=ロール・ベルナダック、ポール・デュ・ブーシェ「ピカソ 天才とその世紀」高階絵里加訳、創元社
(了)