その十 黎明~ヨーゼフ・ヨアヒム
机の上に木製の写真立てが一つ、十九世紀末の髭もじゃの男がこちらを見下ろしている。ご本人は澄ましているだけかも知れないが、睥睨という趣である。いかにも頑強な骨格、それに鋼鉄の意志と非妥協的な不機嫌。小柄な人だったというが、どう見ても巨人だ。
われわれがこんにちモーツァルトのコンチェルトやバッハのソナタを、あるいはまたベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトあるいはソナタを演奏会場で聞くとき、本来は、一分間、彼のことを思い出すべきなのである。
(J・ハルトナック『二十世紀の名ヴァイオリニスト』松本道介訳)
同感である。なるほど、せめて一分間目を閉じて、「彼」に思いを馳せるべきだ。「彼」とは、すなわち、写真立ての偉丈夫、ヨーゼフ・ヨアヒムである。ヨアヒムに捧げられるべき一分間の瞑目……「一分間」というのはそれなりに長い時間だが、ヨアヒムの、ヴァイオリン音楽史上の功績を思えば、むしろ短すぎるくらいのものである。
ところで「本来は」と、ハルトナックは断ってもいた。一分間の瞑目など、今日では誰も思いつきもしないということだろう。そう、ヨアヒムのことなど、みな、忘れてしまった。サラサーテのことは覚えているのに。「これは本来は妙なことなのである」(ハルトナック)。たしかにパブロ・サラサーテはある種の音楽的傾向の達成に違いない。それは妖しいまでに美しい。が、やはりそれはひとつの時代の終焉、落日なのだ。夕映えなのだ。それに対してヨアヒムは、今日のすべてのヴァイオリニストを照らし出す曙光である。そしてその一閃は鮮烈だった。
八歳の少年ヨーゼフ・ヨアヒムに関してわれわれは、この少年とその腕前に真の奇蹟を見、また聞いたという以外にない。彼の演奏、そのイントネーションの曇りのない美しさ、そして困難な個所の克服ぶり、リズムの安定性といったものは、聴衆をうっとりさせ、彼らはただ絶えず拍手をして、第二のヴュータンに、第二のパガニーニに、第二のオール・ブルになると、おのおの予言したのであった。
(『二十世紀の名ヴァイオリニスト』に引用された《シュピーゲル》紙の記事)
1838年、ブダペストでのデビューの直後に現れた批評である。引用しつつハルトナックは、ここに二つ誤りがあるとしている。まず、このときヨアヒムは未だ七歳であったこと。次に、「第二のパガニーニ」ではなく、むしろ「パガニーニの克服者」というべきであったということ。
たしかに「第二」の称号は、たとえばサラサーテのようなヴァイオリニストにこそふさわしい。「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りた」パガニーニのように、サラサーテは、故国スペインの旋律やジプシーの歌謡を、演奏の度毎に、芸術音楽へと高めてみせた。が、その傍では、少なからぬサロン系のヴァイオリニストたちが、パガニーニの幻影を追いながら、いつか切実な芸術的動機を見失って、つかの間のきらめきと喝采とを思い出に空虚な頽廃へと落ち込んでいったように見える。伝承されてきた趣味や教養が、新時代との葛藤を忌避して自閉し、ナルシスティックに「進化」しつつ滅びていく……パガニーニに潜む魅惑的な陥穽だ。その傾斜の最中にあってそれに抗い、放浪のヴァイオリニストの魂を己の本領として輝いた宵の明星……サラサーテは、私には、そういう奇跡的な個性と見える。
さて、ヨアヒムもまた、きわめて個性的な神童として登場したのであった。だが、その眼差しは、パガニーニのさらに向こう、バッハやモーツァルトやベートーヴェンといった古典の系譜に注がれていくことになる。
ブダペストでの衝撃のデビューの後、聖地ウィーンに向かったヨアヒムだったが、音楽院の最高権威ゲオルグ・ヘルメスベルガーⅠ世にはその将来性を悲観されたらしい。さすがにハインリヒ・エルンストはその可能性を見抜いて、自らの師であるヨーゼフ・ベームを紹介している。
そのウィーンでの修業時代を経て、次に向かったのはライプツィヒであった。神童としてはパリに学ぶのが常道だが、東欧ハンガリー、キトシュという村の貧しいユダヤ人一家にそんな財力はなかった。また親戚筋のヴィトゲンシュタイン夫人がライプツィヒ行きを勧めたともいう。ライプツィヒにはゲヴァントハウス管弦楽団があり、新設の音楽院があり、それらを主宰するフェリックス・メンデルスゾーンがいた。十二歳のヨアヒムは、そのメンデルスゾーンによって、もはや音楽院で勉強する段階ではないと評され、メンデルスゾーン自身やフェルディナンド・ダーヴィト教授、さらにはエルンストやアントニオ・バッジーニといった一流奏者との交流を通して、後にはシューマン夫妻との交際も加わって、その天稟の芸術性を高めていったのである。エルンストもバッジーニも、パガニーニの系譜だが、ここではメンデルスゾーンのバッハへの傾倒が決定的な影響となった。
その影響は、1847年のメンデルスゾーンの死後、フランツ・リストの招聘に応じてワイマールに赴き、オーケストラのコンサートマスターとして恵まれた生活を送る中で、次第に結晶していった。やがて、リヒャルト・ワーグナーとともに、「新ドイツ楽派」の首領として「未来の音楽」を主張することになるリストとの親密な友情のなかでこそ、ヨアヒムはかえって自らの古典への志向を自覚し、より強くしていったのではないか。二人は、後に訣別することになるが、それは、それぞれの音楽観の建設的な展開の必然的帰結だ。以後、ヨアヒムは、音楽の倫理性を求め、古典の媒介者ないしは継承者としての道をまっすぐに歩き始める。
そしてその同行者、それが、正真正銘の古典派ヨハネス・ブラームスだった。自分の音楽などには懐疑的で、むしろ過去の巨匠たちへの、わけてもベートーヴェンへの敬意を動機のすべてとして、彼らを仰ぎ見つつ、無私を得んとし続けたブラームス。ヨアヒムに宛てた手紙のなかで彼はこんなふうに自問自答していた。
「ヨハネスは何処だ。彼はまだティンパニさえ響かせないのか。ベートーヴェンのシンフォニーの冒頭を思いながら、彼はそれに近づこうと努力することになるだろう」。
ヨアヒムもまた、ブラームスに出会う少し前に、こんな言葉をしたためている。
「どうやらぼくは音楽にとって何の役にも立たないように運命づけられているみたいだ……しかも自分の芸術の向上を真剣に考えている。それはぼくにとって神聖なものだ……それにもかかわらず、事実上何も成就していない。まるで、何か悲劇的な運命がぼくの上にのしかかっているみたいだ。それと闘う力がないんだ! この運命は一生つきまとうのだろうか? ……しかし、征服してやるぞ。何としても芸術に対して大きな貢献をしたいのだ!」
メンデルスゾーンによってバッハへの目を開かれ、その無伴奏のヴァイオリン・ソナタを再発見していたヨアヒムにとって、あるいはワーグナーのベートーヴェンへの眼差しに対峙し、楽聖の未知の展開などより、その魂魄にこそ迫ろうとしていたに違いないヨアヒムにとって、ブラームスは恰好の同志であり、あるいは自らの志の半分を投影するに充分な相手だったかもしれない。ヴァイオリニスト・ヨアヒムは既に作曲家でもあったが、その一面は、半ばはブラームスに委ねられたのではないか、そんなふうにも見える。ブラームスもまた、ヨアヒムという知己を得て、作曲家として生きる人生を確信したことだろう。他人の干渉を徹底的に拒むために、すべてに敵対しつつ古典の世界を幻想する、どこまでも非妥協的なこの作曲家の伴侶は、古典に推参するその姿に敬意を払い、かつそこに遠く及びえない天才を認めるヨアヒムの、その謙譲と寛容をもってして、はじめて務まる役柄であった。
1869年、三十八歳になる年、ヨアヒムは新設のベルリン音楽大学の学長に就任した。学長は学内外で猛烈に働き、学生は年毎に増えていった。「真に世界的なヴァイオリニストを一人も育てなかった」と、カール・フレッシュは後に酷評したが、一定の技量をもち、かつ古典を教養とする多くのヴァイオリニストを輩出することで、ベルリンの、ひょっとしたらヨーロッパ全土のオーケストラの質を飛躍的に高めた功績は見逃せない。それと同時に自らの演奏活動も精力的に行い、聴衆に迎合してきたヴァイオリン音楽のプログラムを、ただただ技巧的であったり過剰にロマンティックであったり空虚な感傷を楽しんだりするだけの小品が並んだ従来のプログラムを、クラシックを軸にした厳粛なものへと改革した。現代のクラシック・コンサートの会場には、良くも悪くも、たとえばミサのような緊張した雰囲気が満ちているが、その萌芽はどうやら、ヨアヒムが築いたその音楽文化、サロンの小部屋から解放された新興都市ベルリンという芸術空間にこそあるようだ。そしてその間にもブラームスと議論を重ね、シューマンやメンデルスゾーンのエピゴーネンと貶められたこの作曲家を支えた。たとえばブラームスのヴァイオリン・コンチェルトは、ヨアヒムの音色とその圧倒的な技量とを念頭に書かれたものだ。
かくして十九世紀までの漂泊のヴァイオリニストたちに芸術家としての地位を与え、また今日に持続するクラシック音楽の伝統を再構築した巨匠こそ、ハンガリーに現れ、バッハ終焉のライプツィヒを経て、ベルリンを新たなクラシック音楽の拠点としてそこに躍動した、このヨーゼフ・ヨアヒムなのである。
もはや歴史の彼方の人物だが、幸いにも五曲、古いレコードで今もその演奏を聴くことができる。1903年、もとより晩年のドキュメントであって全盛期のそれではないが、贅沢を言ってはいけない。オリジナルの分厚いレコード盤にごく上質の鉄針を落とせば、一世紀ほど前まで確かに生きていた真の巨匠ヨーゼフ・ヨアヒムの、その奏でる音響、誠実で瑞々しい音色が、時間を超えて溢れてくる。ありがたいことである。ヨアヒム先生のレッスンは、まずは生徒に弾かせ、何か批判すべきことがあると、直ちに自分で弾いて規範を示すというものだった。「まったく神々しいような態度でみずから問題の個所を弾いて」みせたとは、同じハンガリーを出自とする高弟レオポルト・アウアーの述懐だが、ヨアヒムはいつも自分で弾いたのだ。だから彼のレコードは、自ら演奏してみせることのできない、未来の「門弟」に向けられたものであっただろう。そしてその「教材」に選んだのは、まずはバッハ無伴奏から二曲、次にブラームスのハンガリー舞曲集から二曲、そして自作の一曲であった。
ヨアヒムは作曲家としても知られていたから、その一曲の自演が遺されたことは幸いである。しかしながら、一般にヨアヒムの作品は、今日ほとんど顧みられていない。もっともその「作品」の定義をほんの少し広げれば、事情は違ってくるのである。ブラームスの、モーツァルトの、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトにあるカデンツァだ。ことにベートーヴェンのカデンツァは、いかにも古典派らしい名品である。ヴィルトゥオーゾ的名人芸とクラシックの高次の統合。残念ながらヨアヒムの録音はない。私は、ヨーゼフ・ヴォルフスタールの1929年の音源で、それを確かめたのだった。ベートーヴェンはこの曲のカデンツァを書いていないというから、ヨアヒムが代わりに書いた、そういう趣である。そして、ヨアヒムの演奏が遺されていないから、ヴォルフスタールが弾いたのだ。
1844年5月27日、ヨアヒムは、ロンドンのフィルハーモニー協会のコンサートで、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを、そのカデンツァをつけて「復活」させた。十三歳になるひと月前のことである。指揮をしたメンデルスゾーンは、「前代未聞の成功」と称賛した。1806年のフランツ・クレメントによる初演では、長い第一楽章の後に休憩が入ったというから、それは「復活」どころか、初めての完全な形での「初演」であったかも知れない。
ところでこのコンチェルト、ニコロ・パガニーニが少なくとも一度、その演奏会のプログラムに載せているそうだ。この事実は、思いがけず深い意味を持つかもしれない。パガニーニが一度だけ弾いた。言い換えれば二度と弾かなかった。何故か。それはつまり、聴衆に理解されなかったということではないか。聴衆が好むのはあくまで享楽的なショートピースであって、構成的なクラシックの大曲なんかではない。それでも一度はこの名曲を演奏した、が、断念した。そういうことではないか。すなわち、パガニーニは聴衆に迎合した。迎合しつつ、彼の心は、もはや、聴衆から離れ、再び還らなかったのだ。そうだとすれば……。
ヨアヒムは、「パガニーニの克服者」である。それは、パガニーニをも含む前世紀のヴァイオリニストの限界をクラシックの文脈に統合して超克したということである。そして、パガニーニが断念したところから出発して、クラシックを、新たな時代の聴衆に開いたということである。ヨアヒムは、自分にも他者にも求めるものが高く、したがって常に悲観して、寛容の裡にも不機嫌を潜ませていたというが、それはつまり、彼が、その時代と聴衆から離れることなく、非妥協的に奮闘していた、その証だ。そしてその眼差しは、今日の私のような者にも届いている。
注)
ヨーゼフ・ヨアヒム……Joseph Joachim1831-1907 ハンガリー・キトシュ出身
パブロ・サラサーテ……Pablo Sarasate1844-1908 スペイン・パンプローナ出身
アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps1820-1881 ベルギー・ヴェルヴィエ出身
ニコロ・パガニーニ……Nicolo Paganini1782-1840 イタリア・ジェノヴァ出身
オール・ブル……Ole Bull1810-1880 ノルウェー・ベルゲン出身(オーレ・ブル)
「民謡の一旋律を……」……小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。
ハインリヒ・エルンスト……Heinrich Ernst1814-1865 パガニーニの演奏を見て「ネル・コル・ピユ・ノン・ミ・セントの変奏曲」を習得し、パガニーニのいる演奏会で弾いたという。
ヴィトゲンシュタイン夫人……ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの祖母。
アントニオ・バッジーニ……Antonio Bazzini1818-1897 イタリア・ブレシア出身
カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身
レオポルト・アウアー……Leopold Auer1845-1930 ハンガリー・ヴェスプレーム出身
「幸いにも五曲」……バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・ソナタ一番よりアダージョ
バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・パルティータ一番よりブーレ
ブラームス作曲ハンガリー舞曲一番
ブラームス作曲ハンガリー舞曲二番
ヨアヒム作曲ロマンス
ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal1899-1931 ウクライナ・レンブルク出身
(了)