続・小林秀雄と柳田国男

石川 則夫

1 小林秀雄からの言及

前稿の最後に柳田国男『昔話と文学』の序文を長々と引用し、それが、ただならぬ文章であると記しただけで擱筆してしまい、読まれた方にはなんのことやら意味不明に思われたのではないかと思う。で、どういう訳かと言うと、これも明確には言いがたい性質のものなのだが、「日本文学史」や「日本文学概説」などという講義を長年、芸も無く繰り返してきた者にとって、最も悩ましい問題は、日本文学の特質とは何か、それをどう把握して説いたら良いかということで、この悩みを抱いて教壇に立って来た者ならば、必ず、あの柳田国男の知見、1938(昭13)年時点であのような認識に立っていたことに驚嘆するはずなのである。今、これについて詳細に語る術が私にはないのだが、私なりのある漠然とした方向性を得たという想い、それが「ただならぬ」という言葉になってしまったのだった。

さて、前稿で考察したように、小林秀雄が創元社編集顧問に着任し、『創元選書』を企画、その第1巻柳田国男『昔話と文学』が刊行されたのは1938(昭13)年12月10日、柳田63歳の年の暮れであった。この選書シリーズはその後かなりな刊行数に達し、出版業としては大いに成功したと言ってよいが、その第1巻についてかなりな思い入れや拘りが想定されるものの、この時期の前後には、小林が柳田に直接言及した文章は見あたらない。戦後になって、漸く、しかし、わずかな言及が現れてくる。

まずは、小林秀雄による柳田国男への言及が、いつ、どのようになされたか、それを時系列に整理しつつ、そこに現れる柳田国男観の展開を考えてみたい。

1950(昭25)年2月に発表された折口信夫との対談「古典をめぐりて」(「本流」創刊号)において国文学史と美術史とを総合するような歴史書が欲しいと小林が発言したときに、折口は「柳田先生のなさって居られる為事しごと――あれともう少し領域の違う方面にやっぱりあれだけ大知識人が、二、三人でもあると、余程よくなるのだと思いますがね」と語るが、小林はそれに応じて「ああいう博学な人が二、三人といっても大へんな事だ」と言う。柳田国男、すなわち博学な人物、この対談ではそれだけである。しかし、1958(昭33)年1月の「国語という大河」(「毎日新聞」)では、様々な国語教科書に採用される自らの文章への複雑な思いを述べながら、次のような言及が見える。

 

そういう次第だが、うれしかった経験もある。だが、たったいっぺんだけだ。それは、柳田国男氏が、氏の編集する国語教科書に、山に関する私の紀行の全文を選んで下さった時である。うれしかったというのは、私の文章なぞから、強いて選んでもらえるなら、この種の文章よりほかにはなさそうだと思っていたからである。

 

1935(昭10)年の8月に霧ヶ峰ヒュッテの「山の会」でその謦咳に触れた後、敗戦直後に自ら柳田邸へ赴き「創元」創刊に関わる相談を持ちかけた民俗学者・柳田国男への敬意は、敗戦後にもそのまま続いていたということである。しかし、この後は1965(昭40)年11月の大岡昇平との対談「文学の四十年」で、柳田が亡くなる前に呼ばれて筆記を依頼されて会いに行った経験を語る時へ飛んでしまう(前稿参照)。そして次には、『本居宣長』第二十八回の「稗田阿礼」についての記述箇所、すなわち「阿礼女性説は、柳田国男氏にあっては非常に強い主張(妹の力、稗田阿礼)となっている」に現れることになるが、しかし、驚くべきことにこの箇所は『新潮』連載時の「本居宣長」第二十九回(昭和45年4月)には記述がなく、阿礼女性説は折口信夫の論説としてのみ言及されていたのである。つまり、雑誌連載を終えた昭和51年12月以降から単行書『本居宣長』(昭和52年10月刊)の原稿成立の間に新たに加筆、修正されていると見なければならないが、これはこれで私にとっては興味深いことであって、『本居宣長』刊行前の昭和52年という時期に柳田国男の『妹の力』所収の「稗田阿礼」論が改めて組み込まれたことは、後に振り返ってみたい。

さて、これ以降の文章については、1974(昭49)年1月の「波」(新潮社)に掲載された「新年雑談」になる。これは『八丈実記』を刊行して菊池寛賞を受賞した同姓同名の編者、小林秀雄への祝意を表した文章だが、その『八丈実記』の著者である近藤富蔵という人物について「僕は柳田国男さんからはじめて話を聞きました」そして、この富蔵が自らの行状について「読本風に書いた」もの、「『鎗北実録』という面白いものがあるから、と柳田さんに薦められて読んでみたのである」と見えるが、この実録は相当気に入ったようで、「重蔵富蔵父子という事で、何か書けないかと思ったりして、家内に写させたものを今も持っている。ただそんな事をふと思っただけで済んでしまったが、誰かよくしらべて書いたら面白いのではないかと思う」とまで述べている。

この文章は1973(昭48)年の暮れに書かれたと思われるが、実はこれまでの小林秀雄全集類には未収録になっている「近藤富蔵の事」という文章が、この年の「文藝春秋」12月号に掲載されており、これは同誌の「第21回菊池寛賞発表」のページに「菊池賞受賞を喜ぶ」(p380)という欄があり、各受賞者への賛辞が簡単に書かれている記事で、小林の文章には「新年雑談」とほぼ同内容が記されている。しかし、この文章では、

写本「鎗北実録」を、柳田氏から拝借したのだが、非常に面白かったし、この人物について書いてみる気はないかと言われた事もあったし、家内に筆写させ、今も所持している。

 

と記されているのである。つまり、写本は柳田国男から借りて読んだもので、その際に、「この人物について書いてみる気はないか」と促されたとも読める。いつ、どこかは不明だが、小林秀雄と柳田国男との交流の一端をうかがわせる記述である点、見逃せない文章であろう。

そして、その翌年1974(昭49)年8月5日の鹿児島県霧島で行われた「国民文化研究会・全国学生青年合宿教室」における講演「信ずることと考えること」(原題)には、柳田国男の具体的な著作への、まとまったかたちでは初めてと言える言及が現れて来るのである。

 

 

2 柳田国男「ある神秘な暗示」をめぐって

先ず、この時期について小林秀雄の側から見れば、連載中の「本居宣長」の第五十二回が同年7月号、五十三回が8月号、五十四回が9月号に掲載されている。そして、このあたりの話題は本居宣長と上田秋成との「呵刈葭かがいか」論争の考察に入って来たところであり、論旨から言ってもまさしく、信ずることから身を起こす学問の姿と、物事を対象化して分析、考察していくいわゆる自然科学的思考法との対比を、古代人の奉じた神を問う論争に典型的なかたちで露呈してくることに注視し、その記述に集中していたところであった。いわば「本居宣長」の記述もいよいよ佳境に入って来たところであり、「信ずる」から出発する学問とはどういうものか、どういうかたちを取るものなのかについて、思い巡らしていた時期の講演であったと言えよう。

霧島での講演は、当時TV出演で一世を風靡したユリ・ゲラーの念力実験から、精神感応なる超常現象の話をめぐるベルグソンの思考方法に及び、そして霧島へ来る前に初めて読んだという柳田国男の『故郷七十年』、その「ある神秘な暗示」という文章についての読後感から次のように説き始めている。これは「信ずることと考えること」1974(昭49)年8月5日、霧島での講演録音(新潮CD『小林秀雄講演第二巻』)からそのまま文字起こししてみよう、それは後に活字化され、文章として整理されたものよりも、小林秀雄の息づかい、言葉を発する際の抑揚のあり方などに、柳田国男への想い、敬愛の情が実によく表現されているからである。出来るだけその肉声を聴き取るように読んで欲しい。

 

こないだね、僕は、こっち来る前に、柳田国男さんのね、故郷七十年という本を読んでた。昔から僕は聞いてた本だけども、ん、読まなかった、諸君、読んだ人あるかねえ、んー、柳田国男さんていう人は、諸君もよく読むといいですよ。あの、ハイカラみたいな本ばっかり読まないでね、ハイカラみたいな本、今、だいたいハイカラみたいな本、ろくな本はないです。

 

この発言後に、柳田国男『故郷七十年』中の「ある神秘な暗示」、すなわち柳田が14歳の時、茨城県の布川に預けられていた時の経験を語るものであるが、当時住んでいた旧家の庭に小さなほこらがあり、これは亡くなったお祖母さんを祭ったものだと聞いて、好奇心から中を覗いてみたという経験である。祠の中には美しい蝋石の玉があった。それを見た瞬間に、実になんとも表現できないような「異常心理」に陥り、昼間の空に輝くいくつもの星を見てしまう。その時、たまたま頭上高く飛んでいたヒヨドリの鋭い鳴き声で我に返ったという話を語り終えて、

 

僕はそれを読んだときね、非常に感動しましてね、ははあ、これで僕は柳田さんという人はわかったと思いました。そういう人でなけりゃ民俗学なんていうもんはできないんですよ、民俗学というのもひとつの学問です、学問だけど科学ではないですよ、科学の方法みたいな、あんな狭っ苦しい方法では民俗学っていう学問はできないんです。それからもっと大事なこと、もっと大事なことは、ヒヨが鳴かなかったら発狂するっていうような、そういう神経を持たなけりゃ民俗学っていうものはできないんです。そういうことをよく諸君考えてごらんなさい、諸君は目が覚めないか、そういう話を、僕はほんとにそのときに、はっと感動してね、あっ柳田さんの学問の秘密っていうのはここにあったんだ、こういう感受性にあったんだ。

 

というようにほとんど一気呵成の勢いで自らの感動をほとばしらせている。その語勢には聴いている者をこの感動の中に巻き込んでいく激しさが表れているのである。次いで柳田の話をもう一つということで、『山の人生』中の最初の話、「一 山に埋もれたる人生ある事」を紹介していく。これは明治の30年代後半あたりのこと、「西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男」が、自分の2人の子供を「まさかりで斫り殺した」事件の記録を、当時法制局参事官職にあってこれを読んだ柳田の思い出話なのだが、柳田自身はこの話の中でどのような想いを持ったのか、これが自分の学問、民俗学とどういう関係があるのかについてまったく言及していない。ただ、「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる」とだけ述べるに止まっている。しかし、小林秀雄はこの『山の人生』が刊行された大正15年に思いを馳せつつ、明治の終わりから大正期にかけての文学に大きな流れをもたらした自然主義、柳田の友人、田山花袋らが主導していった自然主義から私小説への潮流が、どれほど矮小な人生観を小説に仮託し続けてきたか、そこに現れた「空想で描いてみる世界」の人生よりも、「山に埋もれたる人生」の方が真実であり、そこには遙かな昔から今日まで、日本人の知恵として育まれて来た人生観があるのだという痛切な想いが、この話を書いていた柳田の胸中に去来していたはずだと説いているのである。

この霧島での講演は、ベルグソンへの言及が分量としては多く、柳田への言及は先に挙げた二つの著書に触れるだけなのでその半量くらいに止まっていた。そして、この講演が、後に「信ずることと知ること」として文章化され、『新訂小林秀雄全集』(第4次全集)の別巻Ⅰ(昭54年)に収録されたのであった。この全集の書誌Ⅱの解題によれば、

 

『日本への回帰』第一〇集、国民文化研究会刊、昭和五〇年三月。「諸君!」昭和五一年七月号に再掲・昭和四九年八月の国民文化研究会における講演に基く。

 

と記載されている。しかし、この霧島での講演の録音テープがそのまま新潮カセット文庫(昭六〇年十二月)で発売されてみると、その講演での言葉、文章は全集収録本文とはだいぶ異なっていることに気づく、その点について、このカセット文庫に付された解説(現行CD版にも掲載されている)によって、霧島での講演録音がそのまま活字化されなかった事情は明らかになるが、実はその時の講演だけではなく、その翌々年(昭51年)の3月になされたもう一つの講演を経て定稿とされた文章が、先の『新訂全集』本文なのだ。少々ややこしい話になるのだが、これはまた後に触れるとして、今は時系列の順を追って進めていこう。霧島の8月5日の講演から約2ヶ月後に「古田君の事」(『回想の古田晁』筑摩書房私家版 1974(昭49)年10月)に、再び柳田国男への言及が現れる。

これは筑摩書房の創業者であった古田晁の「一周忌に、友人ども相寄り、一文を草して、霊前に供えるという事で、書く事を約したままでいたところ、編集者から催促を受けた。それが、丁度、『故郷七十年』を読んだところであった」というのである。この古田晁追悼の文章は次のように始まる。

 

「定本柳田国男集」は、筑摩書房の優れた出版物の一つである。柳田さんの厖大な研究は「故郷七十年」と題する思い出話で終わるのだが、その中に、「ある神秘な暗示」という談話がある。十四歳の時の不思議な経験が語られている。

 

そして先に挙げた小さな祠を覗き見て「異常心理」に襲われた経験を紹介し、こう述べる。

 

この少年時の思い出の淡々たる記述は、人を引きつけずには置かぬ一種の名文であって、私は読んで、柳田さん自身の口から、その学問の秘密を打ち明けられたように思われた。

それはやっぱりそうだったかという強い感じであった。蝋石に宿ったお祖母さんの魂が、まざまざと見えるという、古人にとっては解りきった事実の中に、何の苦もなく、極めて素直に入りこめる柳田さんの、場合によっては狂気にも誘われ兼ねない天賦の感受性、或いは想像力に、出会う思いであった。これが柳田さんの学問の原動力をなしていた。そして、これは非常な抑制力によって秘められていた。この人にはこの人の持って生まれて来た魂の、全体的な動きというものがあり、それは、その学問の方法を受けついだ人々にも受けつぐ事は出来なかったものに相違ない。

 

この後に先の引用、この文章を書いている経緯について触れ、「故郷七十年」を読んでいたところだったと書いて、こう続く。

 

序でに、余計とも思われる事を言えば、今年初めてだが、裏庭の錦木の茂みに、鵯が巣をかけ、卵が三つ孵った。親は、高空で鳴く暇もなく、毎日、朝から餌をはこぶので苦労している。雛は、巣から高々と首を延ばし、精一杯に開けた口は、空を仰いで、満天の星を望んでいるような様子をしている。そういう次第で、ペンを取り上げると、私はわれ知らず、古田君の魂の行方を追うようであった。

 

ヒヨドリが営巣して雛を孵す時期がほぼ6月~8月頃とすれば、霧島での講演の直前に『故郷七十年』を読んでいたのであろうか。古田晁の命日は1973(昭48)年10月30日であって、その一周忌に文集を出すということであり、「編集者から催促を受けた。それが、丁度、『故郷七十年』を読んだところであった」というところを踏まえるなら、先の霧島での講演の直前に書かれたものではないかと推測されるが、柳田を語る文章の整い方をみれば、講演で語られた言葉に基づいて、かなり推敲されたようにも思われる。

さて、1974(昭49)年には8月と10月に柳田への言及を含む講演と文章が確認できるのだが、もう一度「信ずることと知ること」に戻し、1976(昭51)年に行われたもうひとつの講演について見てみよう。これが「古田君の事」の後に続く柳田への言及になる。

 

 

3 「信ずることと知ること」成立の経緯

現行の『小林秀雄全作品』にも収録されている「信ずることと知ること」が、実は2回の講演に基づいて成立していたこと、いわば文章作品としての「信ずることと知ること」の生成過程といったものが、『小林秀雄 学生との対話』(2014(平26)年3月 新潮社刊)の刊行によって明らかになった。本書には霧島での講演後、これをその翌年にはじめて活字化した「初稿版」と昭和51年3月の講演を経て成立した「定稿版」の両者を掲載し、次のような解説を付しているのである。

 

「信ずることと知ること」は、昭和四十九年八月に「信ずることと考えること」の題下に講義された後、翌年、改題されて国民文化研究会発行の「日本への回帰」第10集に掲載された(本書三〇頁から収載のもの)。小林秀雄はその後も思索を重ね、五十一年三月に東京で講演を行い、「諸君!」同年七月号に改訂稿を発表、これを決定稿とした。同じテーマが、講義をし、学生と対話し、講義録を作り、さらに時間を経て講演し、改稿されることで、作品にどれほどの深まりと表現上の工夫が齎されたか味読いただきたい(同書158ページ)

 

では、「初稿版」と「定稿版」でどこが異なるか。今、本稿で問題としている柳田国男に関わる小林秀雄の言及というところだけ取り上げれば、柳田国男の著作として紹介し、説いていく対象の数が違うのだ。1974(昭49)年8月の霧島講演とその活字化「初稿版」では、『故郷七十年』と『山の人生』の2著だけに言及しているが、「定稿版」では、これに加えて、『遠野物語』の「序文」と「山人考」、次に『遠野物語』中の第61話、そして『妖怪談義』にも言及しているのである。この4点の増加が何を意味するか。端的に言えば、霧島での講演から、小林は柳田国男の著作をさらに読み進めていったということである。それでは、1976(昭51)年3月の講演とはどのようなものだったのか。

これは福田恆存の依頼によって同年3月6日に、文京区本駒込にあった三越三百人劇場で行われた講演であった。この講演は録音されており、同年中にCBS・SONYからLPレコード小林秀雄講演「信ずることと知ること」と題して発売されたのである。私はこのアナログレコードを忘れもしない大学入学時(昭52年)に、秋葉原にあった石丸電気本店のレコード売場で購入し秘蔵していたが、世の中がCD時代になってからこのLPレコードを聴くこともなくなり、内容に柳田国男の話題があったとは記憶しているもののその全体はすっかり忘れていたのである。ところが、先だってふとしたことからこの音源に再び触れることを得て(本誌でもお馴染みの荻野徹さんのご厚意による)、一聴して驚嘆した。というのは、この三百人劇場での講演内容は、最初から最後まで柳田国男についてだけ語っていたものだったからだ。

 

 

4 三越三百人劇場における講演

1976(昭51)年3月6日、三越三百人劇場での講演「信ずることと知ること」の冒頭部はこう始められている。これも出来るだけ忠実に文字起こししてみる。

 

今日は僕、柳田さんの話を、ちょっと、ほんのわずかですけど、しようと思ってね、それで失礼しようと思ってんだ。実はね、今日はこの本持ってきた、これは柳田さんの本です。全集の中の本です、あの有名な「遠野物語」がのっかってる全集の一つですがね、実はこれはちょっと他でもしゃべったことがあるんですがね。

 

つまり、この時から2年前の夏、霧島での講演を踏まえることを示唆しつつ、その時と同じように「近頃僕は『故郷七十年』っていう本をね初めて読んだんです」と語って、やはり「ある神秘な暗示」という一節に言及していく。その読後の感動は次のような言葉となっている。

 

もしもヒヨドリが鳴かなかったら発狂したかもしれない、そういう非常な、あの、経験だなあ、そういう感受性を、がだね、柳田さんの学問の中でどのくらい大きな役目をしてるかっていうことは、僕は、柳田さんの本を読んでてよく分かるんですね。(……中略……)ははあ、これで分かった、ここに民俗学ってものを生かしている本当の命があるんだということを、私はそのとき、悟ったんですよ。あんとき、僕は柳田さんを好きでよく読んでいるんですけどね、そのとき、僕は、はっと目が覚めた。ははあそうか、やっぱりそうだったか……。

 

すなわち、この『故郷七十年』中の「ある神秘な暗示」の読後感について、小林は1974(昭49)年8月に講演し、同年10月に書き、そして1975(昭50)年3月に「信ずることと知ること」初稿版を書き(正確には聴講した学生のノート原稿に加筆、修正した)、さらに1976(昭51)年3月にまたこの講演で言及し、同年7月に「信ずることと知ること」定稿版を書く、という都合5回に渡って語り、書く行為を繰り返していたことになる。

三百人劇場の講演は、次に『山の人生』第1話に触れていくが、これは霧島での講演とほぼ同じである。しかし、その後は、『遠野物語』の「序文」に言及していく。

「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」を読み上げて、「随分激しい言葉を言っていますね」と語り、この「平地人」とは現代の「インテリ」のことだと近代知性に凝り固まった人間への鋭い批判を展開している。しかし、この序文の文言「平地人を戦慄せしめよ」という強い口調を取り上げるところ、これは、たとえば小林秀雄の遺作となった「正宗白鳥の作について」の第5回(「文學界」1981(昭56)年9月)で触れている、フロイトの『夢判断』の巻頭言「天上の神々を動かし得ざりせば、冥界を動かさん」への注目と同様な意味合いを持っているのではないか。つまり、柳田国男とフロイトに、その時代を占有している知性を根元から壊乱させるような力、しかし、それは、実に孤独な精神によって培われるしかなかった力、そのようなものを小林秀雄は、「平地人を戦慄せしめよ」という柳田の激しい語勢に、確かに感じ取っていると、私には思われるのである。

また、講演は『遠野物語』第61話を読み上げて、山中で白鹿に出会い、これを魔性のものと思って対決した猟師の話に、自然の力と人間の心との交流が開かれる異常な経験の姿を読み取っていく。そして、三百人劇場の講演は、最後に『妖怪談義』の一節を引用していく。

 

「化け物の話を一つ、出来るだけきまじめに又存分にしてみたい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、従って或民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれに由って、通常人の人生観、分けても信仰の推移を窺い知るに在った……(中略)……私は生来お化けの話をすることが好きで、又至って謙虚なる態度を以て、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっと断念してしまったわけは、一言で言うなら相手が悪くなってきたからである。先ず最も通例の受返事は、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものは有るもので御座りましょうかと来る。そんな事はもう疾くに決している筈であり、又私がこれに確答し得る適任者でないことは判りきっている筈である……(中略)……無いにも有るにもそんな事は実はもう問題でない。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が昔は多いにあり、今では少しはある理由が分からないで困っているのである」。

 

この文についても、柳田が極めて婉曲に表現しているところを読み取って、次のような語勢で聴衆を柳田の文脈の内側へと強く誘っていくのである。ここでの小林の口調もまたたたみかけるような力が漲っている。

 

こういう文章の意味、分かりますか、こういう文章の含みが。ここには大変な含みがあります。だいたいね、柳田さんの文章は、みんな、含みがあります。含みで読ませるように出来ているからね、だから、難しいんですよ。柳田さんの学問ってものはね、含みのない文章じゃ表現することが出来なかった学問です。さっきも言ったようにね、ああいう、発狂するかしないか、ヒヨドリの声ひとつだというような心を持っていないと出来ない学問なんですよ、これは冗談でも何でもないんです、今、そういう学問がなくなっちゃったんです。文章の含みによって真理を語るっていう様な学問がね。そりゃあ文士はやってますよ、詩人は。だけどそういう学問だってなきゃ駄目なんです。それでなきゃ人間の学問はできませんね、人間に関しての、あるいは歴史に関しての……。

 

オバケの話を聞かせてくれと地方に行って頼めば、なんだ田舎者と思って馬鹿にするなと怒られるようになった。また逆に、都会ではオバケの話をしても「ニヤリ」と笑われておしまいになる。つまり、もう既にオバケという存在はかつての迷信の一つとして遠ざけられ、極めて意識的かつ合理的な日常生活においては忘れ去られたことになってしまっている。しかし、暗がりに潜む化け物は退治されたかもしれないが、心の奥底に追いやられた化け物は、底知れぬ不安として居座り続けているではないか。今もまだ、暗闇の中で恐怖を感じる人は、少なくなってはいるが必ずいるし、化け物話の風説はいまだに流布しているのであるから、我々の心の世界の奥行きと拡がりがどれほど遠くにまで及んでいるか。本当は計り知れないものであるはずだが、現代人は心の世界の隅々まで科学の発達によって知り尽くしたと自負し、それが恐れというものを追放したと思い込んでいる。

というように三百人劇場の講演は展開し、昔の人々が自然とあまりに近づいて、深刻な取り引きを結んでいた。その結び方を通して、神の恵みや神の怖しさを悟ることが出来たのだ、それは人間の心、魂の問題だった。そして、なぜそう出来たかといえば、この肉体と心というような区別などなかった、魂というものを持っていたからである。

柳田国男は、そういう魂のあり方が受け入れられなくなったことを嘆いているのだ、ということを最後に話してこの講演は終わっている。

 

 

5 柳田国男論

1976(昭51)年3月6日の本講演が伝えることは、先に挙げたフロイトの『夢判断』が実行した、人間心理の暗がり、「冥界」へメスを入れるような思考とまったく同様な、日本人の心の伝承的な真実を明るみへ出そうという画期的な学問が柳田国男の民俗学であること。しかし、その学問の前提として、柳田国男という、極めて繊細な感受性を生まれながらに帯びていた個性を必要とし、かつ、その個性に満ちた表現を以てしか成し遂げられなかったということなのである。注意すべきことは、柳田の民俗学という学問の成果は、その個性的な文体と切っても切り離せないということ。すなわち、言語的表現の意味というものは、その字面、そこに現れている文字自体には宿っていないという難解だが具体的で経験的な真実を懸命に伝えようとしていることである。そうした想いこそが、「こういう文章の意味、分かりますか、こういう文章の含みが」という、聴衆の心へ叩きつけるような語勢となってほとばしり出てしまうのである。

そして、さらに注意したいのは、この「文章の含み」なる働き、力の出所が「古田君の事」でそれとなく記されていたこと、柳田の人並み外れた感受性が「これは非常な抑制力によって秘められていた」と書き添えていることと深いつながりがあるはずだと、私には思われるのである。

さて、この講演を経て後、「信ずることと知ること」は定稿版へ整うのだが、おおまかに言えばその前半は霧島での講演で、後半が柳田国男の学問について、そこに三百人劇場での講演が接続されている。しかし、どうやら、この講演記録の文字起こしで定稿版のすべてが成立しているわけではない。極めて些細なことかも知れないが、この講演内容を注意して聴いた上で、文字化された定稿版を読み直すと、定稿版において柳田国男の「山人考」が「山人」の由来を説く引用文とともに付け加えられていることが分かるのだ。つまり、三百人劇場の講演から定稿版擱筆までの間に、さらに柳田国男の文献を確認していたことになる。

以上のような経緯を振り返ると、1974(昭49)年の夏、霧島での講演を皮切りに、1976(昭51)年の「諸君!」7月号の「信ずることと知ること」定稿版に至るほぼ2年間に、小林秀雄は柳田国男の著作のあれこれを渉猟していたことが分かってくる。そこで、先に少々触れた、『本居宣長』の稗田阿礼女性説の件に戻ってみたい。

繰り返せば、『新潮』連載時の「本居宣長」第二十九回(昭和45年4月)には、阿礼女性説は折口信夫の論説としてのみ言及されており、雑誌連載を終えた昭和51年12月以降から単行書『本居宣長』(昭和52年10月刊)の準備としての連載原稿推敲の間に、柳田国男の説が新たに加筆、修正されていると見なければならないが、すなわちこれまで叙述して来た小林秀雄の柳田国男への注視の時間を踏まえれば、少なくともその2年間あたりで、柳田国男『妹の力』所収の論文「稗田阿礼」を読んでいたということになると思うのである。

もちろん霧島での講演直前に柳田国男を初めて読んだわけではない。小林秀雄と柳田国男との邂逅から創元選書第1回『昔話と文学』刊行(1938(昭13)年12月)、そして敗戦直後の柳田邸訪問等、その付かず離れずの関係は戦前から継続していたことは前稿で記した通りである。たしかに、柳田国男論は書かれなかったが、先に記した三百人劇場での講演はそのままで実に見事な柳田国男論であった、時は『本居宣長』の完成に向けて集中されていたとは言え、あるいはその先に、柳田国男論が書かれていても不思議ではなかった、そう私には思われるのである。

 

 

6 「お月見」

 

柳田国男は1962(昭37)年8月8日、ひどく暑い夏の日に逝去したという。享年87歳。その年の秋、10月27日発行の「朝日新聞」PR版・四季の欄に小林秀雄は「お月見」という小文を寄せていた。

 

知人からこんな話を聞いた。ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をした。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのがたまたま十五夜の夕であったといったような事だったらしい……

 

と始まる小文は、宴席の途中で誰もが月の出を待つように空を見上げる、ところがその席にスイス人が数名加わっていて、賑やかな宴会の途中に月を見上げて静まり返った日本人たちに「今夜の月にはなにか異変があるのか」と質問したという逸話である。そして、次のように終わっていく。

 

お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむずかしいなどと口走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。私は、自然とそんな事を考え込むようになった。……

 

日本人が長年の間に培って来た自然への独特な感受性は、我々の身体のどこかに、必ず潜んでいる。しかし、それは我々には意識化できないもので、たまたま外国の人が鏡となった場合に、漸く、自らの姿がそこに写されるように浮かび上がる。そうしたことを生涯かけて掘り起こして来たのが柳田国男の民俗学であったことは疑いない。そして、そうつくづく思っていると、この「お月見」という小文には、柳田国男への追悼という「含み」がある、私にはそう読めて来るのである。

 

(了)