前号でご案内の通り、本誌は今号より、季刊誌として改めて出帆することとなった。塾生一同、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌という名に恥じない、さらなる誌面の充実に向けて決意を新たにしたところであり、読者の皆さんには、引き続きご指導とご鞭撻を、心よりお願いする次第である。
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まずは、前号に続き石川則夫さんに「特別寄稿」を頂いた。まさに続編という位置付けであり、前号も含めて味読いただきたい。今号では、小林先生の柳田国男観が、時系列で精緻に繰り広げられている。それは、先生の「講演文学」として名高い「信ずることと知ること」が、二度にわたる講演と加筆を経て定稿版へと至る過程でもある。改めて「お月見」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)という作品も読み直したくなった。
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巻頭劇場は、もちろん荻野徹さんである。今回は、件の娘がノリノリのラップで口ずさんでいた、「宣長は、『古意を得る』ための手段としての、古言の訓詁や釈義の枠を、思い切って破った」という言葉から幕が開く。さて「ふたつの訓詁」を中心に展開する今回の対話劇、果してどのような大切りを見せるのか、東西東西(とざいとーざい)、ご注目!
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「『本居宣長』自問自答」には、越尾淳さんと渋谷遼典さんが寄稿された。お二方とも、主題は、小林先生が言っている「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」についてである。
越尾さんは、本塾での自問自答に立った後、突如、同僚の方の訃報に接することとなった。そういう状況の中で、「まさに知ると感じることが同じであるような全的な認識を自分ごととして経験した」と言う。心からの哀悼の意を表しつつ、越尾さんが真心を込めて綴られた言葉を静かにかみしめたい。
渋谷さんは、小林先生が「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」と呼ぶ、その「『全的な認識力』の内実は、『宣長』本文でこれ以上詳述されることはない」点に着眼し自答を試みている。わけても、「全的な認識力」という先生の言葉遣いから「自ずから思い出された」として、渋谷さんが紹介しているベルグソンの文章には、ぜひお目通しいただければと思う。
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今号の「考えるヒント」は、「本居宣長」において、小林先生が使っている二つのキーワードの用例探索特集である。
溝口朋芽さんは、山の上の家の塾の自問自答のなかで、入塾以来、自らのテーマとしてきた本居宣長の「遺言書」へさらに近づく手掛かりとして、「精神」という言葉に注目した。十箇所の用例を精査するなかで、それらの言葉は宝玉のように輝きを増してきた。さらには、一連の宝玉を貫く一筋の緒も見えて来た。なお、溝口さんも言及している通り、池田雅延塾頭による「小林秀雄『本居宣長』全景二十五 精神の劇」(本誌2020年5・6月号掲載)も併せてお読みいただければ、さらに理解を深められることと思う。
その溝口さんの自問自答が深耕される姿に触発された橋本明子さんは、「想像力」という言葉に眼を向けた。それはちょうど、今般の新型コロナウイルス禍の影響を受け、橋本さんの職場でも、想像力を駆使する必要に迫られた時のことであった。そこで橋本さんが見出した「考えるヒント」とは何か?
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今回、橋本さんが引用された『学生との対話』(新潮社刊)に、先生のこのような発言がある。
「イマジネーションは、いつでも血肉と関係がありますよ。イマジネーションというのは頭全体を働かせることですね。頭や精神というのは、常に肉体と直接に触れ合うものです。僕も経験してきたことだが、イマジネーションが激しく、深く働くようになってくると、嬉しくもなるし、顔色にも出ますし、体もどこか変化してきます。本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね……」。
塾生一同、先生が言うところの「想像力」を我が物とし、本誌読者の皆さんの心にも身体にも響く言葉を求めて、新たな歩みを進めていきたい。
(了)