ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その十一 ウィーンのコンサートマスター~アルノルト・ロゼー

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツとかポルカだとか、私はもうまったく無関心であった。「美しく青きドナウ」に「皇帝円舞曲」そして「アンネン・ポルカ」……無関心どころか、半ばは軽蔑していたかも知れない。

「そう馬鹿にしたもんじゃないよ」

「そうかねぇ。優雅な方々向けの御用音楽じゃないのかい、所詮は」

「そりゃあそう扱われてきたというだけのことさ。偏見だよ。そもそも、ベートーヴェンの悲劇性こそが音楽だ、みたいなところがあるからな、君には。けれどブラームスは、ベートーヴェンからの直接の主流だと評したらしいぜ?」

「シュトラウスを?」

「シュトラウスを、さ。ワグナーも、モーツァルトからまっすぐに連なるウィーンの伝統だと言ったそうだ。ベートーヴェンの後継たらんとしたお二方、そろって絶賛みたいだぜ」

「……」

たしかに、私の耳に鳴るヨハン・シュトラウスは、「珠玉の名曲 クラシック・ホームコンサート」みたいなLPレコードの記憶と分かち難く結びついていたのかも知れない。ヨハン・シュトラウスすなわち俗流という定式が、頭の中に出来上がっていたのかも知れない。

「何かいいレコードがあるかい?」

「あるよ。とっておきが」

そんな次第で、まんまと一枚買わされる羽目になったのだが、後日届けられたその「とっておき」は、まさしく十インチの小さな爆弾であった。演奏はむろんウィーン・フィル。指揮クレメンス・クラウス。1929年録音の、他でもない「アンネン・ポルカ」が、私の雑然とした狭い部屋で、朗らかに炸裂した。頭上を天球が廻った。その眩暈のなかで、私は舞曲の意味を了解できたと思った。踊るのは人間だが、鳴っている音楽は、それは宇宙なのだ。満天の星。コスモス。だとすると、それがウィーンの伝統なのか。

 

「ロゼーがソリストとして躍進しようとしなかったことは、他の全てのヴァイオリニストにとって幸運であった」

この方面のコレクターの多くは、音源ではなく、たとえばイザイのこの言葉を介してロゼーというヴァイオリニストに出会うのではないか。もとより、その名に出会うだけでは済まない。ウジェーヌ・イザイはロゼーとほぼ同世代のヴァイオリニスト、しかも斯界の巨匠と目された人であったから、その発言には、演奏家としての切実な実感と正確な評価とが反映されているに違いない……皆そう信じ込まされてしまう。そして、すなわち、聴いてみたくもなる、というわけだ。

その「聴いてみる」ということが、ロゼーの場合、既にして容易ではないのである。録音自体が僅少なのではない。僅少どころか、クライスラー以前のヴァイオリニストで最も多くレコーディングしたのはロゼーだ。ソロだけで三十面以上もある。ところが、それが手に入らない。手に入るどころか、見かけることすら稀なのである。おおかたヨーロッパあたりの血統書付きのコレクターが、確と秘蔵して手放さないのだろう。だから、たまに海外のオークションなんかに出てきても、それはもうべらぼうな高騰ぶりで、極東の貧しい蒐集家なんかが手を出せる代物ではないのだ。そんなわけで、言うまでもないが、ますます「聴かずにはいられなくなる」のである。この際、真っ二つに割れたような盤でも可としよう。ロゼーの音、一瞬でもいい、誰か聴かせてくれないか……。

聴けるのである。それこそ「一瞬」でいいなら、ロゼーの音が、ちょっと努力しさえすれば、オリジナルの盤で聴けるのである。リヒャルト・シュトラウスの楽劇「薔薇の騎士」より第二幕のワルツ。演奏ウィーン・フィル、指揮カール・アルヴィン。少しだけれど、正真正銘のロゼーのソロが聴こえてくる。二枚組のレコードだが、海を越えてやって来るそれは、その面ばかりが聴きこまれているようだ。ふと、どこの誰とも知れぬ同好の先輩に思いを馳せてみたりする。そして私も、はじめてのロゼーの音を聴き取ろうと耳を澄ませたのであった。これがロゼー入門。

そうこうするうち、鈍感な私にもやがて気が付くことがあった。待てよ。そうか。アルノルト・ロゼーは、ウィーン音楽史に燦然たるヴァイオリニストだ。1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合で亡命を余儀なくされるまでのなんと五十七年余にわたって、ウィーン国立歌劇場と、途中約十年のブランクはあるがウィーン・フィルと、その二つのオーケストラのコンサートマスターの地位にあった人である。ということは、その時代のウィーン・フィルの交響曲なんかのレコードにヴァイオリン・ソロの部分があれば、それはやっぱりロゼーだということになるのではないか。もっとも、1931年録音の「薔薇の騎士」のレーベルにはその名がクレジットされていて、ソリスト・ロゼーの情報に間違いはないのだが、しかしながらそういう気の利いた盤が他にもあるという話は聞かない。すなわち、自分の耳で聴き分ける他ないということになる。もとより、私には、とても聴き分ける自信などないのだが、ひとりでこっそり、これはロゼーか、この音の純度はロゼーではないのか、おお、などとぶつくさ言っている分には、何もかまうことはあるまい。というわけで、そんなレコードを一枚取り寄せては、たまにおっと思ったり、たいていはああとがっかりしたり、そんなことを繰り返してきたというわけである。

そんな酔狂も、レコード・コレクションの醍醐味の一つみたいなもので、まことに愉しいのだが、そうは言ってもやはり煩悩は断ち難い、イザイの言葉が忘れられないのである。ソリスト・ロゼーの芸が聴きたい。その思いは、募りこそすれ、止むことはなかった。

 

ロゼーのレコーディングは1900年の四曲を嚆矢とする。ポッパーの夜想曲、サラサーテのスペイン舞曲八番、ブラームスのハンガリー舞曲五番、それにシモネッティのマドリガルである。興味深いことに、ポッパーの夜想曲は1902年に、他の三曲については1902年に加えて1909年にも、その録音が繰り返されている。サラサーテのツィゴイネルワイゼンにも二回の録音があるが、こういったことは、いかにも、レコード文化の黎明期らしい事象だといえそうだ。音盤製作技術の顕著な向上が背景にあるのであろう。また、規範となるような演奏をよりよいカタチで遺さねばならい――そんな責任感のようなものがうかがわれもするのである。

さて、それらのうち、スペイン舞曲の二回目および三回目、ハンガリー舞曲の三回目、さらにツィゴイネルワイゼンの二回目などの盤が、いま、私の手許にある。例の「べらぼうな高騰」というやつに幾度か乗っかってしまったというわけだが、それはそれとして、これらのレコードは、私の曖昧な音楽観に対する、まことに痛烈な一撃であった。そのどれもが、大地から生えてきたような舞曲を、その出自を活かしたまま音楽的に高め、結晶させている。この「音楽的に」というところが肝心で、19世紀のサロン系ヴァイオリニストの多くが、それを、過剰にエモーショナルな装飾や感傷にすぎないものに安易に置き換え、結局は芸術的頽廃に落ち込んでいったのに対して、ロゼーは、先達ヨーゼフ・ヨアヒムと同じ道を行ったのだ。ウィーンの聴衆は、コールド・ロゼーと綽名したそうだが、これは、大衆的志向に合わせることのできないこのヴァイオリニストの、その本質にある芸術観に対する倒錯した批評である。なるほど、情緒に媚びることのない彼の音楽は、しばしば冷淡な印象を与えたかも知れない。が、それはまことに浅薄な批判だ。ロゼーの本領はそんなものを超えたところにあるのである。

たとえば、ロゼーの演奏するハンガリー舞曲五番、まことに格の正しいその演奏は、彼が、ブラームスの盟友ヨアヒムの、その正統な系譜にあることを証明している。ハンガリーのキッツエーからベルリンにやって来たヨアヒムと、ルーマニアのヤシからウィーンにやって来たロゼー。新興都市と古都の違いはあるが、いずれにせよ近代という時代に投げ込まれた孤独な人たちである。その根源的な孤独の支えとなる、確かな出自としての音楽性が、彼らの演奏にはあるように思われるのである。もとよりそれは単なる郷愁なんかではない。民族的土壌と都市的な知性、それらの高次の統合が彼らの本領だ。

ロゼーも、ヨアヒムと同様、大衆に寄り添いながら、しかし迎合することはなかった。その精神において古典派だったのだ。彼が、郷愁とか感傷とかいうものに積極的であったなら、もっとウケていたに違いない。イザイは、ロゼーを「ソリストとして躍進しようとしなかった」と言ったが、案外そうではないのではないか。たしかにロゼーはオーケストラのコンサートマスターとしてこそ、あるいはヨーロッパ随一の室内楽団ロゼー・クァルテットの主宰者としてこそ、時代に名を刻んだとはいえるが、同時に豊富なソロ・レコーディングも行っているのだから。つまり、コールド・ロゼーは、ソリストとしての躍進を志し、その本領をもって時代を超えたが、むしろそのゆえに、同時代の大衆にはウケようがなかったのではないか、そんな気がしてくるのである。

さて、古典派ロゼーの面目が躍如とする録音といえば、まずベートーヴェンである。ロゼー・クァルテットはブラームスの信頼厚く、1890年には弦楽五重奏二番などの初演を託されたが、当然、ベートーヴェンを主なレパートリーとし、その弦楽四重奏から四番と十番、それに十四番をレコーディングしている。それらの演奏は、ヨアヒムが、あるいはその後継ヘルメスベルガーが受け継ぎ伝えたであろうベートーヴェンの、その音楽を彷彿とさせるものである。また独奏ではロマンスの二番がある。なぜ古いレコードばかりを、しかも蓄音機なんかで聴いているのか――この一枚は、そんな問いに対する答えになるかも知れない。この盤から聴きとれるロゼーの音は、十九世紀生まれの第一級のヴァイオリニストだけがもつ、ほとんど強靭とも形容すべき明晰さをもった、しかし繊細なものだが、それによって、甘美な旋律に随伴するある種の危うさが、むしろ高い倫理性へと昇華されているかのようだ。コールド・ロゼーでなければできない芸当である。

次にバッハ、二丁のヴァイオリンのための協奏曲である。1910年を最後に、ロゼーにソロの録音はなく、その後のレコーディングはおおむねクァルテットに限られているから、1928年のこのドッペルの収録は、きっと、第二ヴァイオリンを務めた娘のアルマのために行われたのだろう。稀代のヴァイオリニストを父とし、グスタフ・マーラーの妹を母として生を授かった娘も、やはり一級の音楽家に育っていたのである。この曲の、よく知られた古いレコードといえば、たとえばエネスコとメニューインによる師弟の交感であったり、カール・フレッシュとシゲティによる同郷の対決めいたものだったりして、それぞれに面白みがあるのだが、ロゼー父娘によるこの共演は、やはり庇護と自立、つまりいかにも親子らしい対話なのである。アルマの羽ばたきが聞こえてくるようだ。

彼女はその後どのように飛翔したか――残念ながらアルマのレコーディングは、この一曲だけで終わってしまった。もっとも、録音がないというだけで、彼女の音楽的使命感は強く、たとえば1930年代には女性オーケストラを組織して高い水準に育てあげ、欧州各地で旺盛な演奏活動を行っている。また、ナチスの脅威が迫る中、偉大なコンサートマスターである父を亡命させ得たのも、彼女の責任感と行動力があってのことだったらしい。彼女の使命は、個の栄光にではなく、人間を人間たらしめる芸術的空間の創出と存続にこそあった。しかし、その強靭な意志が、かえって災いすることにもなった。1938年、父親とともにイギリスに亡命した後、彼女自身は、周囲の制止を振り切って、自らの使命を果たすべく大陸に戻るのだが、やがて囚われて、強制収容所へと送られたのである。しかし、そこでも彼女は邁進する。女性囚人のオーケストラを鍛え上げ、絶望のビルケナウにあって、なお彼女たちの生存のために奮闘したのであった。

1944年、アルマはアウシュヴィッツで病没した。ユダヤ人たちはむろん、ナチの将校たちも、その死を惜しんで涙したという。彼女は誰を救ったのだろうか。このドッペルは、アルノルト・ロゼーにとって、アルマの無私の生涯の、哀しく温かな記念となったことであろう。

なおこの曲はSP盤五面を要する大曲だが、空いた一面のフィルアップには、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ一番よりアダージョが収められている。ドッペル第三楽章のカデンツァと、1909年に録音されたG線上のアリアとを合わせて、アルノルト・ロゼー独奏による貴重なバッハの記録である。

 

かくして、ヴァイオリンの本領ともいうべき舞曲とクラシックの継承において、ヴァイオリン演奏史に銘記すべき功労のあったロゼーだが、彼はコンサートマスターとして、ウィーンの伝統に連なる同時代の音楽にも貢献している。殊にウィーンの一時代の指揮者でもあったマーラーは、義弟アルノルトを信頼し、オーケストラの音作りを彼に委ねていた。

ブルーノ・ワルターの指揮による1938年1月16日のライヴ録音は、そのマーラーの大曲、交響曲第九番ニ長調である。それはロゼー亡命の年だ。おそらく、彼の、五十八年になんなんとするウィーンでの音楽人生に対する告別のコンサートとなっただろう。そのヴァイオリン独奏部分はロゼーのものとしてよく知られている。第一楽章の終盤や終楽章、ヴァイオリンの旋律が聴こえてくると、ああ、ロゼーだ、と思う。やっぱりこういう音なのだ。優美な、純度の高い、ストラディヴァリウスの音。

このマーラー最後の交響曲は、作曲家自身の過去の作品からの、あるいはベートーヴェンやワグナーら先達からの引用を多く含みつつ、長大な無時間を構成している。まさに終焉を示唆するかのような「第九」であり、おそらくは「死」という永遠を主題としたひとつの宇宙なのである。ただしその宇宙はどうも形而上学的だ。音楽思想家マーラーの集大成らしいといえばそうだが、かつて舞曲の高度な結晶を実現することで、大地に生きる人間と天上とを媒介していたロゼーの音楽とは、根本において相容れないところがあるように思うのだが、どんなものだろう。

そういえば、クレメンス・クラウスの「アンネン・ポルカ」も、ロゼーの時代のウィーン・フィルではないか。今日の私にとって、あの舞曲はいっそう魅惑的だ。ドラマのない舞曲。音楽も人生も、始まりがあって終わりがあるからドラマが生まれる。旋回する舞曲にそれはない。あるのは永遠の反復であり、それが人生を祝福している。束の間の人生を支え救済する宇宙は永遠の円運動である。「ポルカ」の裏面は「無窮動」であった。いずれにもロゼーのソロはないが、間違いなく、ロゼーが、その身を捧げて、グスタフ・マーラーやフェリックス・ワインガルトナー、あるいはクレメンス・クラウスらと創り上げてきた、ウィーンのオーケストラの精髄であり、ウィーンの、止むことのない伝統である。

 

注)

アルノルト・ロゼー……Arnold Rosé1863-1946 本名アルノルト・ヨセフ・ローゼンバウム。ルーマニア・ヤシ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1881年にウィーン宮廷(のち国立)歌劇場管弦楽団およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任し、1938年まで務めた。ただし1902年~1928年の期間はウィーン・フィルのメンバーからは外れており、1925年と26年にゲスト・コンサートマスターを務めたのみである。妻ユスティーネは、ウィーン宮廷歌劇場総監督グスタフ・マーラーGustav Mahler1860-1911の妹。娘のアルマAlma1906-1944の名はマーラーの妻の名前である。なお、アルノルトの弟も、マーラーの妹と結婚している。

クレメンス・クラウス……Clemens Krauss1893-1954 オーストリア・ウィーン出身。1929年ウィーン国立歌劇場音楽監督、翌年ウィーン・フィル常任指揮者。1934年に失脚するが、1944年大戦末期のウィーンに戻りフィル・ハーモニーと行動をともにした。

イザイ……Eugène Ysaÿe 1858-1931 ベルギー・リエージュ出身のヴァイオリニスト。

クライスラー……Fritz Kreisler1875-1962 オーストリア・ウィーン出身のヴァイオリニスト。ウィーン・フィルの入団試験を受けたが、「音楽的に粗野」「初見演奏不十分」として、他でもない、ロゼーに失格させられた。自分の地位を脅かしかねない逸材をロゼーが恐れた、という見方もあるが、やはり、音色もヴィブラートも、当時のフィルハーモニーに合っていなかったのだと思う。

エネスコ……George Enescu1881-1955 ルーマニア・リヴェニ出身の作曲家、ヴァイオリニスト、ピアニスト。最初に学んだのは、ロゼーの故郷ヤシの音楽学校であった。

メニューイン……Yehudi Menuhin1916-1999 アメリカ・ニューヨーク出身のヴァイオリニスト。

カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身のヴァイオリニスト。きわめて多くの、かつ多様な逸材を育てたプロフェッサー。

シゲティ……Joseph Szigeti1892-1973 ハンガリー・ブダペスト出身のヴァイオリニスト。

無窮動……常動曲。ペルペトゥム・モビレ。モト・ペルペトゥオ。一定の旋律が無限に反復される音楽。

ワインガルトナー……Felix Weingartner1863-1942 マーラーの後任として、ウィーン宮廷歌劇場とウィーン・フィルの音楽監督を務めた。

(了)