小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

二十七 まねびの道

 

1

 

第十章で、小林氏は、

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。……

と言い、これを承けて第十一章に言う。

―歴史意識とは「今言」である、と先きに書いた。この意識は、今日では、世界史というような着想まで載せて、言わば空間的に非常に拡大したが、過去が現在に甦るという時間の不思議に関し、どれほど深化したかは、甚だ疑わしい。「古学」の運動がかかずらったのは、ほんの儒学の歴史に過ぎないが、その意識の狭隘を、今日笑う事が出来ないのは、両者の意識の質がまるで異なるからである。歴史の対象化と合理化との、意識的な余りに意識的な傾向、これが現代風の歴史理解の骨組をなしているのだが、これに比べれば、「古学」の運動に現れた歴史意識は、全く謙遜なものだ。そう言っても足りない。仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。そうも言えるほど、意識の質が異なる。……

次いで、大意、こう言う。徂徠に言わせれば、歴史の真相は、「後世利口之徒」に恰好な形に出来上っているものではない、歴史の本質的な性質は、対象化されて定義されることを拒絶しているところにある、この徂徠の確信は、ごく尋常な歴史感情のうちに育った、過去を惜しみ、未来をねがいつつ、現在に生きているという普通人に基本的な歴史感情にとって、歴史が吾が事に属するとは、自明なことだ、歴史がそういうものとして経験される、その自己の内的経験が、自省による批判を通じて、そのまま純化されたのが徂徠の確信であった……。

そして、

―この尋常な歴史感情から、決して遊離しなかったところに、「古学」の率直で現実的な力があったのであり、仁斎にしても徂徠にしても、彼等の心裡しんりに映じていたのは儒学史の展望ではない。幼少頃から馴れ親しんで来た学問の思い出という、吾が事なのであり、その自省による明瞭化が、即ち藤樹の言う「学脈」というものを探り出す事だった。……

小林氏が言わんとしていることを、私たちの身近に引き寄せて聞けば、こういうことである。今日、「歴史」という言葉は溢れかえっている、新聞でも雑誌でも見ない日はないとさえ言っていいほどだ、だが、そこで言われている「歴史」は、過去を、すなわち過去の人間たちの言ったりたりしたことを、他人事ひとごととして扱っている、たしかに他人事にはちがいない、しかしその他人事が行くところまで行ってしまい、過去の人間たちをまるで鳥や獣を観察するのと同じ次元で観察している、そしてその観察結果を、現代人の理解が届く範囲でのみ整理し整頓してものを言っている……、これが小林氏の言う「歴史の対象化と合理化」である。なぜそうなったか、近代の歴史学が歴史学も科学であろうとし、客観的であれ、実証的であれのスローガンの下に、人間の内側を見なくなってしまったからである。

この近代の歴史家たちの、さらには知識人たちの、過去を上から見下ろす歴史意識に比して、藤樹、仁斎、徂徠らの歴史意識は謙虚だった。徂徠に言わせれば、歴史というものは、学者や知識人に都合のよいようには残っていない、歴史の本質的な性質は、後世人が観察し分析し、定義できるようなところには見出せない、徂徠はそう確信していた、この徂徠の確信は、一般普通人の生活感情によって育った、過去を惜しみ、未来をねがいつつ現在に生きている一般普通人にとって、過去の人間たちはまったくの他人ではない、隣人である、昔の人の名を聞けば、そこはかとなくではあっても今の人に覚えるのと同じような親近感を覚える、過去は誰にもこういうふうに経験される、徂徠自身のそういう内的経験が顧みられ、検証されて、徂徠の歴史に対する確信が成った、と小林氏は言うのである。

事情は、藤樹、仁斎の場合も同じだった。自分自身の内的経験が顧みられ、そこから発して過去の人間たちの呼び声を聞き、その呼び声に答えようとした、それが藤樹、仁斎、徂徠の学問の基盤だった。

永い間、日本の学問は、律令制以来の博士家や師範家に独占され、支配され、師から弟子への伝授というしがらみに縛られていた。その柵を藤樹らはった、学問を因襲から解き放った。彼らがそれを為しえたのは、

―彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。……

と小林氏は言い、続けて、

―過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。……

と言っている。

「官家」は、官位の高い家、あるいは貴人の家、であるが、ここでは「博士家」である。「博士」は平安期以来、大宝令の制下で大学寮、陰陽寮などに属した官職であり、「博士家」はその「博士」を世襲した家柄で、菅原家、大江家、藤原家、清原家などがあった。学問はそういう官家の「家業」だったのである。

では、官家、博士家の家業を超えて、藤樹、仁斎、徂徠たちが目覚めた学問とは何か、学問の伝統とは何か、である。

 

2

 

小林氏は、藤樹、仁斎、徂徠らの学問の基盤は、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに成立した、今日の歴史家たちが過去を他人事として対象化し、合理的に解釈することで失ってしまった過去との親密な交わり、それが彼等の意識の根幹を成していた、と言った後に、

―だが、そう言っただけでは足りまい。「経」という過去の精神的遺産は、藤樹に言わせれば、「生民ノタメニ、コノ経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ」、仁斎に言わせれば、「手ノコレヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、そういう風に受取られていた。過去が思い出され、新たな意味を生ずる事が、幸い或はよろこびとして経験されていた。悦びに宰領され、統一された過去が、彼等の現在の仕事の推進力となっていたというその事が、彼等が卓然独立した豪傑であって、しかも独善も独断も知らなかった所以である。……

「経」は「六経」と解してよい。先に「二十三 『独』の学脈―伊藤仁斎」で見たが、中国古代の七人の王が遺した治世の実績、すなわち「先王の道」を記録した六種の経書けいしょで、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。「生民」とはたみである。「手ノコレヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」は仁斎の言葉で、これも先に「二十三 『独』の学脈―伊藤仁斎」で見た。

そして、小林氏は、第十一章で言う。

―彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。……

氏は、第十一章の冒頭で、

―仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。……

と言ったが、「自負の念」は、自己顕示欲と一体であろう、己れを顕わそうとする欲が「斬新や独創」に狙いをつけさせる。今日の歴史家は、そういう「斬新や独創」を競って得た「自負」に悦びを見出している。だが、仁斎や徂徠は、そうではない、自己を過去に没入すること自体に悦びを覚え、その悦びが自己を形成し直す所以となっていた、すなわち「無私」に通じていた。小林氏が、仁斎や徂徠の歴史意識は、その質が今日の歴史家たちとはまったく異っていたと言うのはここである。

 

―随分廻り道をして了ったようで、そろそろ長い括弧かっこを閉じなければならないのだが、廻り道と言っても、宣長の仕事に這入はいって行く為に必要と思われたところを述べたに過ぎず、それも、率直に受取って貰えれば、ごく簡明な話だったのである。……

小林氏は、第十一章の半ばに至ってこう言う。その「ごく簡明な話」とは、

―「学」の字の字義は、カタドナラうであって、宣長が、その学問論「うひ山ぶみ」で言っているように、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている。……

「まねび」は「真似をすること」であり、「模傚」は「模倣」と同義である。

―彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。……

―従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであったし、例えば徂徠の仕事に現れて来たような、言語と歴史とに関する非常に鋭敏な感覚も、この努力のうちに、おのずから形成されたものである。例えば仁斎の「論語」の発見も亦、「道」を求める緊張感のうちでなされたものに相違ないならば、向うから「論語」が、一字の増減も許さぬ歴史的個性として現れれば、こちらからの発見の悦びが、直ちに「最上至極宇宙第一書」という言葉で、応じたのである。……

これが小林氏の言う「ごく簡明な話」のすべてである。以下、順を追ってこの「簡明な話」を腹に入れよう。

 

「学」の正字は「學」だが、「學」とは「カタドナラ」ということを表した文字だと小林氏は言う。「本居宣長」の執筆中、氏が座右においてそのつど繙いた諸橋轍次の『大漢和辞典』にも、近年の大字典、白川静の『字統』『字通』『字訓』にもその旨の解字はないが、白川氏は『字訓』で、「まなぶ」の項に「學」は子供たちを教える建物とそこで行われること、すなわち今日の学校にあたる教育機関を表していると解字した後、「まね」の項で、「まね」は「まねぶ」と同根の語と言い、さらに次のように言っている。

平安時代前期に出来たわが国最古の仏教説話集『日本霊異記』に、「象り効う」の「効」の正字「效」をマネビとする訓があり、平安時代末期に成った字書『類聚名義抄』にはマネブ、ナラフと見えていて、中国の現存最古の字書『説文解字』は「效」を「る」と訓じている、『類聚名義抄』に言う「ナラフ」は「倣ふ」であり、古くは倣うことを「倣效」と言ったが、「效」と「學」とは古音が近く(heoˆとheuk)、双方に通じて用いられる字であった……。

おそらく、こういう経緯によって「學」に「象り効う」の字義が加わったのだろう。したがって、「學」を「象り効う」と解した伝統はたしかにあったのであり、小林氏が「模倣」と言わず、「模傚」と言ったのにも事由があったようなのである。

だが、私の遡及はここまでである。「學」の字義は「象り効う」であると明記した字書、あるいは文献に、今のところ私は行き着けていない。小林氏は何に拠ったのだろう、少なくとも『字訓』ではない、『字訓』が刊行されたのは小林氏の死後である。

 

そして宣長は、「うひ山ぶみ」を、

―世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一ㇳやうならず、そのしなじなをいはば……

と書き起し、「学問」のことを「物まなび」とも言っている。が、宣長にあって「物まなび」は、日本の学問をさし、中国の学問をさして言われていた「学問」とは使い分けがされている。「うひ山ぶみ」にはその理由も書かれているが、いまそこは措く。そもそもを言えば「物学び」という言葉は古くからあり、『日本国語大字典』はその用例を南北朝時代、北畠親房が書いた『神皇正統記』から採っている。

その「まなび」「まなぶ」とともに、かつては「まねび」「まねぶ」も用いられ、「まねび」「まねぶ」も「学び」「学ぶ」と書かれていた。「まねぶ」を、『広辞苑』は「まねる」と同源であると言い、『大辞林』『日本国語大辞典』は「まなぶ」と同源と言っている。ということは、「まなぶ」と「まねぶ」と「まねる」、この三つの言葉の根は同じであり、かつての日本人は、「まなぶ」と言うときも語感としては「まねる」を伴っていた、「まなぶ」とは何かを模倣することだという意識を自ずともっていた、そういう意識で「まなんで」いた、ということのようなのだ。

小林氏が、藤樹、仁斎、徂徠らは新しい学問を拓いた、だがそれは、「彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである」と言ったこともここにつながってくる。小林氏の言う学問の伝統とは、「まねぶ」だった、模倣するということだったと言ってよいのである。

 

しかし今日、「まなぶ」に「まねぶ」の語感はない。それどころか、私たちにはなんとなくだが「まなぶ」は高尚で、「まねる」は卑俗だという感じがある。これはどこからきたのだろう。「まなぶ」は人間に知恵がついてからの大人の行為、「まねる」は知恵がつく前の子供の行為という、慣用からくる認識差があるようだ。

さらには学校で、図画工作でも読書感想文でも、人真似はいけません、あなた独自のものを出しなさい、大事なのは個性です、独創性ですと、さんざ言われ続けたことがあるだろう。これは、おそらく、近代になってあわただしく輸入した欧米の個人主義などを、子供たちに闇雲に押しつけたということだったと思われるのだが、独創、独創と言われても子供たちは何をどうすれば独創になるのかがわからず、とにもかくにも人と違ったことをしておけば恰好がつくとなってその場かぎりの奇妙奇天烈な花火を誰も彼もが打ち上げた。

だが、小林氏はちがった、終始一貫、何事も「まず、まねよ」だった。それを最も精しく、最も強い口調で言っているのが「モオツァルト」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第15集所収)である。

―彼(モオツァルト、池田注記)の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。……

そして氏は、間髪を容れず畳みかける。

―模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。……

「模倣出来ぬもの」とは、すなわち自分である、自分の個性である、その自分の個性がどういうものであるかは、他人を模倣してみないでは見つけられない。他人を模倣してみて初めて見つけられる。「他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい」とは、歌の模倣は自分の肉声があってこそ成り立つ、どんなに巧みに他人を真似たとしても、自分の肉声は厳としてある、残る、ということであり、ぎりぎりの極限まで他人を模倣したとしても、完璧な模倣は実現しない、なぜなら、模倣の対象と自分とはついには別々の個体だからである。こうして模倣の対象と自分との間に現れる如何ともし難い差異、これが自分の個性である。

小林氏は、次いで、「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」と言っている。「僕自身の掛けがえのない歌」、それこそが個性の発現であり独創であり、模倣を徹底すればするほど模倣の対象と自分との差異はよりいっそう強く意識される、そこからさらなる高みに達しようとすれば、他人との差異、すなわち自分の個性のありように沿って訓練を積むほかなくなる、それが「僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」ということだろう。

そこを小林氏は、「本居宣長」では、「彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった」「古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」と言ったのだが、「モオツァルト」で、「模倣」に即して、モオツァルトの教養とは「殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった」と言ったその「精神上の訓練」は、「本居宣長」では「心法を練る」という言い方で言われているのである。

 

3

 

第十一章で、中江藤樹や伊藤仁斎、荻生徂徠たちにとって、古書を読むということは、古書を上手に模倣しようとしてのことだったと言った小林氏は、第九章では次のように言っていた。「二十二 『独』の学脈―中江藤樹」でも見たが、

―彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「もう」を、契沖は「萬葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「萬葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……

先に、小林氏が、学問の根本は模傚、模倣であると言って、「模倣」という言葉に格段の意味内容を見出しているさまを見たが、いまこうして第九章と第十一章を読み合わせてみると、「模倣」とともに「信」という言葉、「無私」という言葉が「学問」の線上に並んでいるのを見る。端的に言えば、藤樹、仁斎、徂徠たちの学問の姿勢は、「信」であり、「無私」であり、「模倣」であったということなのである。

小林氏が言っている「古典への信を新たにする」の「新たにする」は、より深くする、より強くする、の意と解してよいと思われるが、その「信」は、孔子が言った「述べて作らず、信じて古を好む」の「信」であると解し得る。この言葉は、「論語」述而じゅつじ篇の冒頭にある、というより「述而篇」という篇名はその原文「述而不作、信而好古」に基づいているのだが、吉川幸次郎氏によれば(朝日文庫『論語』)、「述べて」は「祖述」の意であり、「作る」は「創作」の意である。孔子は、「私は古書古文を祖述するのみである、創作はしない、古書古文を信じて愛好する」、そう言ったのである。

しかし、「祖述」という言葉には注意が要る。今日、「祖述」は、「甲は乙を祖述したに過ぎない」などという言い方で、人真似、二番煎じ、亜流等々と同義に解する向きが少なくないが、孔子は単に後追いするという意味で「述べて」と言ったのではない。『大漢和辞典』は、「祖述」の用例として、『中庸』の第三十章にある「仲尼祖述尭舜」(仲尼、尭旬を祖述す)を挙げている。「仲尼」は孔子である、「尭舜」は先に「二十六 言は道を載せて」で言及した先王、すなわち古代の聖帝である。だとすれば、「述べて」は、孔子が「六経」を補修するにあたって自らに言い聞かせた決意ととれる。そこから見れば、今日の辞書、たとえば『広辞苑』に「師・先人の説をうけついで学問を進め述べること」とあるうちの「進め述べること」、『大辞林』に「先人の学説を受け継いで発展させて述べること」とあるうちの「発展させて述べること」、『日本国語大辞典』に「前に発表された説をもとにして、補い述べること」とあるうちの「補い述べること」は、いずれも現代語としての「祖述」であり、孔子の言葉に照らせば「作る」にあたる行為である。孔子はそういう意味での「作る」もいっさいしないと言っているのである。吉川氏は、過去の文明は多くの人間の智慧の堆積であり、創作は自分一個人の恣意に陥りやすい、そうした考えのもとにこの言葉は生れているであろうと言い、しかしこうした過去の書物の祖述は手軽な古代主義からではない、過去の書物のうちからよいものを選んでよいと信じ、またそのなかの愛好すべきものを心から愛好するがゆえであると言っている。

 

続けて小林氏は、「彼等に仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」と、「信」と「無私」を同一平面で言っている。そこでいま一度、「信」という言葉の前に立ち返る。今日、私たちは、「彼が私のことをそんなふうに言うはずはない、私は彼を信じている」とか、「私はもう人間というものが信じられなくなった」とかと言う。こういうときの「信じる」は、物心いずれの面でも自分が不利益を蒙らないように、あるいは不利な立場に立たされないように他人の良心をあてにする、そういう期待があっての「信じる」である。しかし小林氏は、こうした現代一般の、自分本位の言い方とは真反対の意味合で「信」を言っている。それは、たとえ相手の術中に陥って不利益を蒙ろうともかまわない、不利な立場に立たされようともかまわない、自分はこの人こそは、この道こそは、と直覚した人や道にすべてを委ねる、そういう信仰心にも近い意味合いで「信」を言うのである。

氏は、昭和二十五年四月、四十八歳の年に書いた「信仰について」(同第18集』所収)でこう言っている。

―私は何かを欲する、欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。……

―後は、努力の深浅があるだけだ。他人には通じ様のない、自分自身にもはっきりしない努力の方法というものがあるだけだ。あらゆる宗教に秘義があるというのも、其処から来るのでしょう。私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。……

「宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄」、この自分自身を確と信じたうえで行われる「自己放棄」、これが小林氏の言う「信」である。ここを読むたび、私は「私の人生観」(同第17集所収)で言われている釈迦を思い浮かべる、同時に親鸞を連想する。親鸞は、専修念仏による往生を説いたほうねんを師としたが、『歎異抄』で言っている、

―念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはべるらん、また、地獄におつべきごふにてや侍るらん、総じてもつて存知ぞんぢせざるなり。たとひ法然聖人にすかされ参らせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行も励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は、一定いちぢやう、すみかぞかし。……

おそらく、「宗教的偉人の自己放棄」と言ったとき、小林氏の脳裏には釈迦とともに親鸞の自己放棄もあったであろう。

そこまで「信」を見透して言われた「彼等に仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」を熟考すれば、「信」と「無私」は、「自己放棄」を共通項として同義とさえ言ってよさそうなのである。しかも小林氏は、「信仰について」で、宗教的偉人に見られる驚くべき自己放棄も、他人には通じようのない、自分自身にもはっきりしない努力の方法があってのことであると言っている。一方、「本居宣長」では、「無私を得んとする努力」と言っている。「信」も「無私」も、努力なくしては得られない、その「信」と「無私」を、藤樹も仁斎も徂徠も、必死で得ようとした、小林氏はそう言っているのである。

 

4

 

小林氏は、色紙というものを好まなかった、が、わずかに遺した色紙のなかに、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という言葉がある。この言葉は、氏の文章中には見えないが、読者の間ではよく知られた言葉である。

杉本圭司氏の『小林秀雄 最後の音楽会』(新潮社刊)によれば、この言葉が最初に書かれたのは、当時、新進の文芸批評家であり、小林氏が顧問の立場で編集責任を負っていた出版社、創元社において部下でもあった佐古純一郎氏に色紙を望まれてのことで、時期は小林氏が四十九歳の年、昭和二十六年(一九五一)の後半だったと推測されるという。

昭和二十六年と言えば、一月、「ゴッホの手紙」を『芸術新潮』に連載し始めた年である。この連載は二十七年二月に及び、同年六月、新潮社から刊行したが、その本文の最後に氏はこう書いている。

―私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは、書き進んで行くにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。読者は、これを諒とされたい。……

「ゴッホの手紙」は、その半ばまではゴッホの手紙を抜粋し、これに小林氏が論評を連ねるというかたちで書かれている、だがそのうち、徐々に氏の言葉は減っていき、最後はほとんど「述べて作らず」になっている。

小林氏にとって「作らず」は、批評的言辞が自ずと消滅したということだった。そしてこれが、小林氏が「ゴッホの手紙」という批評を書くことによって図らずも得た「無私」であった。ゴッホの手紙の苦しい気分に心を領され、自分の言葉を、ひいては自分自身を放棄させられて得た「無私」であった。その息づまるような実体験が、「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という言葉に結実した……、私にはそう思える。杉本氏もそう言っている。

この「無私」を、小林氏はそのまま「本居宣長」でも得ようとした。第二章の閉じめに言っている、

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

 

『大漢和辞典』は、「述」は「のべる」だと言ったあと、この「のべる」には「したがう、先人のあとにしたがう」という意を含んだ用例があると一番に記し、『説文解字』に「述」は「循」だと説明があると言う、そこで「循」へ飛んでみると、「循」も大きくは「したがう」だが、細かく見れば「寄る、沿う」、「倣う、学ぶ」、「踏む」に相当する用例がいくつもある。ここから推せば、孔子が言った「述べて」の真意は「先人のあとに従って」なのである。孔子は、先人、すなわち尭、舜たち先王の治績の記録に、忠実に従おうとしたのである。そのためには、先王の治績が記された文書をそっくりそのまま写し取る、そこに専心したであろう。だとすれば、これは今日、絵や書の世界で言われる「臨摸」に近い。「臨摸」はすなわち「模倣」である、徹底して行われる「ナラウ、マネブ」である。

こういうふうに辿ってくると、小林氏が、因襲というしがらみに縛られていた日本の学問、その柵を藤樹らはった、彼らにそれが為しえたのは、彼らが学問の伝統に目覚めたというところが根本なのであると言った「学問の伝統」とは、「學」という字の字義「象り効う」であり、具体的には孔子がひらいた「述べて作らず、信じて古を好む」道だったと言ってよいだろう。

続けて、こうも言えるようだ。「無私」は、誰かを、あるいは何かを、「模倣」することによってこそ得られる、「模倣」の対象と一体になろうとする「努力」、それこそが「無私」をもたらす……。逆に言えば、「無私」を得ようとするなら、然るべき人を、物を、「模倣」せよ、極限まで「象り効え」、ということのようである。

小林氏は、昭和四十五年八月、長崎県の雲仙で行われた「全国青年学生合宿教室」に出向き、「文学の雑感」と題して講義したが、それに続いて、「批評とは無私を得んとする道である」について質問した学生に、こう答えている(新潮文庫『学生との対話』所収)。

―無私というのは、得ようとしなければ、得られないものです。客観的と無私とは違うのです。よく、「客観的になれ」などと言うでしょ? 自分の主観を加えてはいけないというのだが、主観を加えないのは易しいことですよ。しかし、無私というものは、得ようと思って得なくてはならないのです。これは難しいな、ちょっと口では言えないな。つまりね、君は客観的にはなれるが、無私にはなかなかなれない。しかし書いている時に、「私」を何も加えないで「私」が出てくる、そういうことがあるんだ。……

―君は、自分を表そうと思っても、表れはしないよ。自分を表そうと思って表しているやつは気違いです。自分で自分を表そうと思っているから、気が違ってくるんです。よく観察してごらんなさい。自己を主張しようとしている人間は、みんな狂的ですよ。そういう人は、自己の主張するものがどこか傷つけられると、人を傷つけます。……

―人が君を本当にわかってくれるのは、君が無私になる時です。君が無私になったら、人は君の言うことを聞いてくれます。その時に、君は表れるのです。君のことを人に聞かせようと思っても、君が表れるものではない。あるいは僕が君の言うことを聞きたいと思った時、つまり僕が無私になる時、僕はきっと表れるのです。……

ここで小林氏が言っている「僕が君の言うことを聞きたいと思った時、つまり僕が無私になる時」の「君のことを聞きたいと思う」が、『大漢和辞典』にあった「述」の字義「従う」であり「寄る、沿う」であり、「倣う、学ぶ」であり「踏む」であろう、すなわち、「模倣」であろう。

そしてさらに、「無私」の対語が「自負」である、とも言えるようだ。先に私は、「自負の念」は自己顕示欲と一体であろう、己れを顕わそうとする欲が「斬新や独創」に狙いをつけさせる、と言ったが、「己れを顕わそうとする欲」、すなわち自己顕示欲では己れは表れないと小林氏は言う。「斬新」や「独創」に必要な仕掛け、つまりは「新しい見方」の意識が先走り、「己れ」は二の次、三の次になるからでもあるだろう。

この「自負」について、小林氏はこう言っていた。

―歴史の対象化と合理化との、意識的な余りに意識的な傾向、これが現代風の歴史理解の骨組をなしているのだが、これに比べれば、「古学」の運動に現れた歴史意識は、全く謙遜なものだ。そう言っても足りない。仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。……

歴史に限ったことではない、何か新しい物事と真摯に向きあおうとするとき、「自負の念」は一番の障碍となる。己れの力量に対する過信と誇りが、いま目の前にある新たな物事をどう見るか、どの角度から見るかと、物事を対象化し合理化するための「観点」を求めるからだ。

この「観点」が、歴史と向きあうときは「史観」と呼ばれ、なかでもマルクス、エンゲルスに始る「唯物史観」は最も知られた史観と言ってよいが、こういう「史観」が心という人間本来の認識力を妨げる。「史観」に視野を限定され、全体が見えなくなる、認識できなくなる。歴史という先人に、従う、寄る、沿う、倣う、学ぶといったことがなくなる。「信」も「好」も、そこには生れない。

人間は、人間本来の認識力、すなわち、物事を見て知って、正しく認識する力は、「観点」などよりはるかに先に誰もが授かっている、それが、心である、そこを小林氏は、第十四章でこう言っている。

―よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれてウゴく、事に直接に、親密にウゴく、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。……

小林氏は、何事であれ、常にこの「観点を設けぬ、全的な認識力」を駆使して考えようとした。昭和十六年七月、三十九歳の年に書いた「パスカルの『パンセ』について」(同第14集所収)にこうある。パスカルは、「人間は考える葦だ」と言ったが、この言葉を、ある者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦のように弱いものだ、という意味にとった、またある者は、人間は、自然の威力には葦のように一とたまりもないものだが、考える力がある、ととった、いずれもそうではない、

―パスカルは、人間はあたか脆弱ぜいじゃくな葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。……

これをさらに、同時期に行った三木清との対談「実験的精神」(同第14集所収)ではこう言っている。

―パスカルは、ものを考える原始人みたいなところがある。何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめるというようなところがある。いろいろなことを気にしないで……。

「すぐそこから真っすぐに考えはじめる」「いろいろなことを気にしないで」がすなわち「観点などは設けずに」である。これが「本居宣長」では次のように言われるのである、

―彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていた。……

 

この「自己を形成し直す所以」が、先に仁斎、契沖、真淵、宣長と名を挙げて、

―学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……

と言ったうちの「無私を得んとする努力」、ひいては小林氏自身の「批評とは無私を得んとする道である」を照らし出す。「無私」は、小林氏の考えでは、何かを得るための、あるいは何かを実らせるための心的境地には違いないが、藤樹たちにとっては学問を実らせる、小林氏にとっては批評を実らせる、そのための心的境地ではないのである。藤樹たちにとって、学問はまだ目的ではない、手段である、小林氏にとって、批評はまだ目的ではない、手段である。そういう手段を用いて目ざす目的、それが「道」である、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている「道」である。

宣長は、寛政十年(一七九八)六十九歳の六月、「古事記伝」第四十四巻終章の清書を終え、明和元年(一七六四)以来、三十五年に及んだ「古事記伝」の注釈を完成したが、その四ヵ月後の十月、門人たちの懇望に応じて学問の手引き「うひ山ぶみ」を書き上げ、その「うひ山ぶみ」の最初に、ひとくちに学問と言っても多岐にわたる、だが、「ムネとしてよるべきすぢは何れぞといへば、道の学問なり」と言い、

―道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いささかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也……

と言っている。

この、学問の中軸は「道」を知ることであるという宣長の認識は中江藤樹以来のものであり、したがって学問は、藤樹、仁斎、徂徠、宣長たちが「道」を知るための手段であった、それと同様に、批評は小林氏が「人生いかに生きるべきか」を知るための手段であったのだが、学問も批評も、いきなり駆けだしたのでは覚束ない、「無私」を得ようとする努力とともにでなければあらぬかたへ迷走する。あらぬ方とは「自負」のかたである。したがって、学問によって、また批評によって、まず得るべきは「無私」であり、「道」は、学問によって、批評によって得られた「無私」によって、初めて得られるもののようなのである。

 

小林氏は、折にふれ、須臾しゅゆの間とはいえ自分が「無私」の境地にいたという経験を記している。まずは、「ゴッホの手紙」である。ゴッホの「烏のいる麦畑」を初めて見たとき、

―熟れ切った麦は、金か硫黄いおうの線条の様に地面いっぱいに突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色にき出ている。空は紺青こんじょうだが、嵐をはらんで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管絃楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた―僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。むしろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。……

「ゴッホの手紙」は、この「巨きな眼」は何だったのか、なんとかして確かめてみたいという欲望に駆られて書き始められた。

その四年前、「モオツァルト」を書きあぐんでいたときは、次のようだった、同じく「ゴッホの手紙」からである、

―ある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K. 593)を聞いていた。夜来の豪雨は上っていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやって来る白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晰な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。……

続いて、「花見」(同第25集所収)である。昭和三十九年、六十二歳の春、青森県の弘前を訪れ、

―外に出ると、ただ、呆れるばかりの夜桜である。千朶万朶せんだばんだ枝をして低し、というような月並な文句が、忽ち息を吹返して来るのが面白い。花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。「狐に化かされているようだ」と傍の円地文子さんが呟く。なるほど、これはかなり正確な表現に違いない、もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐって来ないのが、先ず確実な事ならば。私は、そんな事を思った。何かそういう気味合いの歌を、頼政も詠んでいたような気がする。この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思い出せない。花やかえりて我を見るらん、―何処で、何で読んだか思い出せない。……

「頼政」は、これより前にも出ていて、平安時代末期の武将、源頼政である。ちなみに、「花やかえりて……」の上句は、「入りかたになりにけるこそ惜しけれど」である。

これらの、いつしか相手に見られていると思えた「無私」の境地、また思いがけない方向から感動が来たという「無私」の境地、それらの記憶が、「本居宣長」では国語の伝統意識につながり、宣長の「古言を得る」という古学の追体験につながるのである、すなわち、宣長の「まねびの道」につながるのである。第二十三章で言われている。

―互に「語」という「わざ」を行う私達の談話が生きているのは、語の「いひざま、いきほひ」による、と宣長は言う。その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に飜訳し合うという離れわざを、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語という巨きな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。……

(第二十七回 了)