庭の一年

小島 奈菜子

雑草で埋め尽くされた庭に一目惚れして、二○一九年の秋から今の家に住み始めて一年が過ぎた。初めて見たのは夏の終わりで、野山さながらの植生の多様さから、周りの家と違って一度も宅地造成されておらず、土が入れ替えられていないことが見てとれた。八十を越えている隣家の大家さんにも築年数がわからないほど、家自体も古いという。庭に入ると、靴底に踏みしだかれてドクダミの香りがつんと立つ。目立つのは野生化した青紫蘇の群生と、隅で枝垂れている萩。ドクダミの合間から、タンポポやスベリヒユ、カタバミといった野草がのぞいている。この肥沃な土なら何でも育つだろう。数年前から野草や微生物、自然農法についての本を好んで読むようになっていた背景には、食べられる植物を、手間もお金もかけずに育ててみたいという好奇心があった。

引っ越しのてんやわんやが落ち着き、冬を迎えて一切が枯れた土に、生ごみを肥料として施していった。あらゆる有機物を埋めていたので、土に還る速度の違いが徐々にわかってくる。魚のあらや鶏のガラを埋めた翌朝は、たいてい小動物が掘り返した穴が空いていて、土に還り難い貝殻や玉ねぎの皮、卵の殻などが周囲に散らばっていた。おそらく狸か野良猫の仕業だろう。人間が匂いを感じない程度に深く、丹念に土と混ぜ合わせて埋めても、彼らの鼻をごまかすには足りない。目が覚めてすぐ庭へ行き、元気のいい仕事の跡を見るのが楽しみになってきた頃、春は目前となっていた。

 

周知のように、二○二〇年の春は穏やかには訪れなかった。新型コロナウィルスの流行で外出がままならない中、ささやかなレジャーとして近所の山や海を散歩がてら、ムラサキハナナやノビル、ハマダイコンといった美味しい野草を持ち帰り、庭に植えた。野草なら土さえ合えば植えっぱなしでいいので、手間もお金もかからない。しかしどんどん欲が出てきて、花屋や市場を覗いては、ミント、パセリ、コリアンダー、ルッコラ、バジル、レモンバーム、フェンネルといったハーブ類を手当たり次第買って植えた。ハーブは店で買うと量に比して高価だが苗は安価だし、一度植えればどんどん増えて使い放題という目算だ。借家なので木はだめ、と言われていたがひとつだけ、こっそり山椒の苗木も植えてみた。ある料理本によると、流通を経たものとは違い、採りたてで皮の柔らかい山椒の実は、さっと茹でて塩や醬油に漬けるだけで格別らしいのだ。

意図して植えたものばかりではない。食べきれず古くなった百合根を埋めておいたら、忘れた頃に見事な太い茎が現れ、初夏に鮮やかな橙色の花をいくつもつけた。その百合の茎を支えにして、生ごみとして埋めた豆苗の根からエンドウが育った。蘭のように可憐な赤紫の花をつけたあと、しっかり豆の入った立派な鞘が三つとれた。多様な植物がおのずと生長していく庭の眺めは、移動が制限されている日々の数少ない楽しみだった。

 

やがて入梅。過去に覚えがないほどの長梅雨が来た。昨年は庭の半分を覆っていた野生の青紫蘇も、時季が来ているのに出てこない。空いている土地を活用しようと、出回りはじめたミニトマト、キュウリ、ズッキーニなどの野菜の苗を植えたばかりだったが、雨を理由に放置していた。注意して見ていないので変化に疎くなる。一週間でも間が空けば気付いたのだろうが、ほぼずっと家にいるので見ない日も無い。ドクダミが蔓延はびこっていたが背丈は伸びず、緑一辺倒の植物たちも私も、熱い日差しを待ち望んでいた。

充分すぎる雨に養われ忍耐強く育った根を基地として、梅雨明けとともに日照権闘争が始まった。野草やハーブが力を失う一方、ミニトマトとズッキーニがいつのまにか大帝国を築き上げていた。栽培種はある程度世話をしないと育たないだろうと予想して油断していたのだが、野生種に負けまいと反発力が働いたのだろうか。他種との共生など考えるはずもなく、ズッキーニは三メートル四方の領土をすべて葉の下に隠し、日陰にしてしまった。切れ込みの多いトマトの葉は日光を独占はしなかったが、それもあくまで我が実の成熟のため。新鮮なトマトをいつもいただけるのはありがたかったが、養分を独り占めするので他の植物が育たない場所になってしまった。競争に負けたキュウリは次の世代に望みを託したのだろう、日陰に一本だけ巨大な青白い実を残して枯れた。多様さを保つためには、やはり手入れをしなければならない。食べられない雑草も繁茂してきたので、重い腰をあげて剪定と除草に取り掛かった。

作業を始めてみると、思いのほか精神的負担が大きく、なかなか進まない。トマトもズッキーニも、もとはといえば私が植えた苗。自らの生を全うしているだけなのに、何の権利があって私は彼らを切り刻むのだろう。雑草だって、たまたま人間に有用でないだけでなぜ命を選別されなければならないのか。手を動かしながら、私は彼らへの言い訳を捻り出した。私だって例外ではないのだ、今まさに未知のウィルスによって無慈悲に命の選別が行われていて、人間はいまだに完全に逃れる手段を持っていない、だから許してくれ、と。卑怯な詭弁だ。私はそんなこと言われても納得などできないし、自分がウィルスで死ぬことになったらきっと「なぜ私が」と思ってしまうだろう。落ち着いて考えれば、店で買う肉や魚や野菜や米だって生きていたのであり、いつだって私は命を奪って食べている。自らの手を汚すまで深く考えたことがなかった私は、理屈をつけて自分を正当化し、罪悪感から逃げようとしていた。

このときのことを考えるうちに、小林秀雄の「本居宣長補記Ⅱ」第三部に引用されている「伊勢二宮さき竹の弁」と題する本居宣長の文章が思い出された。

 

「そもゝゝ世ノ中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万ヅの事はあるなり。儒者仏者など、さまゞゝ高上なる理屈を説ども、命なくては、仁義も忠孝も、何の修行も学問も、なすことあたはず。いかなるやむごとなき大事も、命あつてこそおこなふべけれ、命なくては、皆いたづらごと也。然れば人の世に、至りて大切なる物は命なるに、其命をつゞけたもたしむる物は何ぞ、これ食也。金玉きんぎょくなど尊しといへども、一日の命をも、保たしむることあたはず、故に世ノ中に無上至極のたふとき宝は、食なりといふ也。此ことわりは、誰もみなよく知れることながら、たゞなほざりに知れるのみにて、これを心によくたもちて、真実に深く知れる人のなきは、いかにぞや。……」

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.363 12行目~)

 

この引用文のあとにある、「食欲は動物にもある、という事は、人間の食べ物についての経験は、食欲だけで、決して完了するものではないという意味だ。では、どういうところで、どういう具合に、人間らしい意識は目覚めるのか。この種の問いに答える為に、『食の恩』と言う言葉ほど簡明的確な言葉が、何処に見附け出せようか。いや、この意識の目覚めと、この言葉の出現とは同じ事だ」という小林秀雄の言葉を読み、恥ずかしくなった。私の「人間らしい意識」は目覚めていないばかりか、「たゞなほざりに知れるのみ」であることに、気がついてすらいなかったのだ。浅薄な罪悪感を超えて「恩」のこころが自ずと湧き上がるまで、私には庭の生き物たちとの生活が必要だろう。

 

結局ズッキーニはまったく食卓に上らなかった。頃合を見計らっているうちに、ダンゴムシに全部食べられてしまったのだ。普段どこに隠れているのか、驚くほどの数がいた。二十センチ以上育った立派な実が十ほどあったが、熟したそばから彼らの食事になり、残ったのは硬くて誰も食べない根本だけ。トマトも例外ではなく、熟す前に青いまま収穫しなければ同じ運命を辿る。一日中庭で過ごす彼らが、おいしいタイミングを見逃すはずがない。

ダンゴムシの食欲にもおののいたが、バッタのほうが数では上だ。生まれたばかりとおぼしき体長数ミリのバッタたちが、葉の上に並んで日光浴している姿を見かけ、和やかな気持ちになっていたのも束の間、環境耐性の強いハーブも、ようやく出てきた青紫蘇の葉も、バッタたちが次々に食べ尽くしてしまう。美食家の彼らは雑草を好まない。山椒の木も、硬い棘で自衛しているからと高を括っていたら、いつのまにか丸裸になっていた。

しかし虫たちは敵ではない。彼らを目当てに様々な生き物が訪れるようになり、庭は豊かさを増していった。メタリックブルーの尾が鮮やかなトカゲや、つぶらな瞳のカナヘビ、半透明の白い体が神々しいヤモリ。私は彼らの姿形がたまらなく好きなので、一瞬でも見かけると一日幸せな気持ちが持続する。小鳥たちもいろいろとやってきたが、こちらの視線を感じるとすぐに飛び去ってしまうので、スズメやツバメ、ガビチョウなどを鳴き声から特定し、遠巻きに見守るようになった。小鳥が留まる物干し竿の下には、彼らが落とす糞に混じってハゼノキやアオキ、クワなどの木が芽吹いた。一列に並んでいるので、このまま育ったら生垣にでもなりそうだ。大きなトンビまでやってくるようになったのは、鎌倉へ来る観光客の減少で、食べ歩きを狙う機会が減ったためかもしれない。

労せずおいしいものを食べたいという動機で始めた庭づくりは、ままならない様々な出来事を経て今、ある程度目的を達した。夏の間姿を消していたノビルは、秋に再び葉を伸ばし、栽培種にはない野性味を堪能させてくれた。青紫蘇も存外たくさん実をつけたので、塩漬けにして熟成させている。一度素っ裸になった山椒の木も、再び小さな葉を二つつけた。死んだように見えても、土の下の見えない部分を拠り所にしぶとく生きていたのだ。夏に刈った雑草たちも、きっとまた力強く芽吹くのだろう。

 

長年育まれてきた土のように、人間の言語にも、先人達が養ってきた土壌がある。母国語の巨大な組織に蓄積されている力を借りなければ、日常生活は立ち行かない。

 

「今日口ヲ開キテ言語シ、一生涯ノ用事ヲ弁ズル報恩ノ為ニモ、折々ハ詠ズベキコト也」(「あしわけをぶね 三八」)

(同『小林秀雄全作品』第28集 p.373 13行目~)

 

言葉の恩に報いるために歌を詠め、と言う宣長のこの一文が、「本居宣長補記Ⅱ」を読むたびに深い印象を残すのだが、なぜなのか未だ言葉にならない。庭の植物たちに倣い、私自身も、次の季節に向けて根の張りなおしを試みたい。

(了)