恋は、遠い日の花火ではない

荻野 徹

1 恋の始まり

かつて、ウイスキーのテレビコマーシャルにこういうものがあった。夜の盛り場、会社の飲み会の帰り道、若い男女のグループは二次会へ向かうが、一人の女性が残る。長塚京三演ずる上司であろう中年の男が、君は行かないのかと問うと、「もう若い子はいいんです」。女性は立ち去るが、たった一言で、男はもう昨日までの彼ではない。「恋は、遠い日の花火ではない」とのナレーションが流れる。コマーシャルとはいえ、記憶に残る。言葉によって聞き手の心が動きだす様子を、巧みに描いているからであろうか。

 

2 言詞をなほざりに思ひすつることなかれ

我々は普段、伝達の手段としての言葉の有効性にばかり関心を寄せる。この気持ちが伝わらないのはなぜか、口下手のせいか、メールの無機質な文字列が誤解を生むのか、などなど。大切なのは伝える内容なのに、手段である言葉が不完全で、うまく伝わらないのだといらだつ。

しかし、宣長さんによればそれは逆さまである。こころよりことば、すなわち、意味内容ではなくそれを言い表す様子こそ、言語の本質なのだという。例えば、上代の「宣命せんみょう」とは、「ノリキカするワザをさしていへる」であって、「その文を指していふ名」ではなかった。勅命そのものではなく、それを伝える「読揚ヨミアゲざま、音声の巨細こさい長短昂低こうてい曲節」こそ重要であったのだ。こころよりことばが先行するという言語観は、神代「天ノ石屋戸」の頃にまで遡るもので、意を重んじて「言詞をなほざりに思ひすつる」は、漢意、すなわち後世の迷妄に過ぎないと断じる。

意味より表現が先行する。これは我々の日常の通念に反するのではないか。そこで、小林先生に耳を傾ける。

「眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザの、多かれ少かれ意識的に制御されたアヤは、すべて広い意味での言語と呼べる事を思うなら、初めにアヤがあったのであり、初めに意味があったのではない」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集第48頁。以下、引用はすべて同全集からである)。

確かにその通りだ。赤ん坊も、単語や文という形式での言葉を知らないが、周囲に何かを訴えようと必死だ。そしてそれは、確かに通じるではないか。大人にとっても、同じことだ。何かを伝えたいと思ったとき、辞書のどこにも、その思いをぴたりと表す言葉などあるはずがない。だからといって、言葉を発しないわけにもいくまい。「日に新たな、生きた言語活動」に身を置き、実際にやり取りをすることによらずして、思いが伝わるはずもない。

なるほど、相手に伝えようとして、赤ん坊のように、懸命に努力するという行為こそが、言葉を発するということなのか。しかし、翻って、そのような、独りよがりかもしれない行為によって相手に思いが伝わるとは、いかなることであろうか。

 

3 しるしとして生きている言葉

どんなに言葉を尽くしても思いが伝わらないというもどかしさや、語るべき言葉を見つけられずに呆然とするという体験は、決して稀ではないだろう、しかし、それでも私たちは、何かを語ろうとする。それはおそらく、私たちが、同じ言葉の世界に生きているという確信のようなものを持っているからではないか。小林先生は、こう論ずる。

「この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、そのシルシとして生きている理由を、即ち言葉のそれぞれのアヤになわれた意味を、信ずる事に他ならないからである」。(28集49頁)

私の目に映るもの、耳に聞こえるもの、触って感じるもの、これらの感覚は私固有のもので直接に他人と共有はできない。私の身振り手振りも、口調や声色も、自分としては自然な、あるいはやむに已まれぬ、動きなり音声なりであるのだが、そういった内心を他人と共有することはできない。しかし、言葉は、「各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている」。言葉によって、私たちはばらばらにならずに済んでいる。だからこそ、言葉が発せられたとき、その言葉のいいざま、すなわち身振り手振りや口調や声色によって、自他がつながることができる。すなわち、「言葉のそれぞれのアヤに担われた意味」を信じる事ができるのだ。

そして先生は、こう論ずる。

「更に言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言語のやりとりの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨され、成長もするであろう」。(28集49頁)

話しかける、それを受け止め返事をする。こういう言葉のやり取りによって、言葉の意味自体が決まってくる。表現の仕方が違えば、受け止め方も変わり、やりとりの行方も異なるものとなる。このようにして、話し手たちの気持ち自体が形作られていく。言葉は意味を伝える手段ではなく、言葉のやり取りによって、意味が形成される。

それでは、言葉のやり取り自体は、どのようにして始まるのであろうか。

 

4 人に聞する所、もつとも歌の本義

人はなぜ語りだすのか。宣長さんの答えは端的である。「すべて心にふかく感ずる事は、人にいいきかせではやみがたき物」であり、「さていひきかせたりとても、人にも我にも何の益もあらね共、いはではやみがたきは自然の事」であるというものだ(28集49頁)。

小林先生は、「そういう言語に本来内在している純粋な表現力が、私達に、しっかりした共同生活を可能にしている、言わば、発条ばねとなっているという考えが、彼の言語観の本質を成していた」と論ずる(第28集51頁)。

言葉が発条ばねになるとは、どうしても語り出さずにはいられないということだろう。なぜそうなるかといえば、心に深く感ずることは、それを人に聞かせることと不即不離であるからだ。意味(心に感ずる事)が表現(人に聞かせる事)に先行するのではない。言葉は意味を伝達する道具ではない。だからこそ、「人に聞する所、もつとも歌の本義」なのであり、「歌は人のききてアハレとおもふ所が緊要」であるのだ。小林先生の論じるように、「詠歌という行為の特色は、どう詠むかにあって、何を詠むかにはない。何を詠うかはどう歌うかによって決まる他ないからだ」(第28集54頁)

しかしここでまた、凡庸な通念が頭をもたげてくる。歌の出来栄えであれば、表現の巧拙によってきまるのだろう。しかし、私たちの気持ちというものは、歌を詠むかどうか、歌が上手か下手かで決まるものではなかろう。聞き手の受け取り方で自分の気持ちが変わるなどというのは、軽佻けいちょう浮薄な現代人にはありうるとしても、人間の本来の在り方とはいえないのではないか。自分の気持ちとは何か、ということだ。

 

5 心の動揺を鎮める

自分の気持ちとは何だろうか。怖い体験であれ、嬉しい出来事であれ、それを誰かに語ることによって、怖い思い、嬉しい思いが、確かなものとなる。目の前に聞き手がいるかどうか、実際に声を出すかどうかという問題ではない。「怖い」であれ「うれしい」であれ、内心、何らかの言葉を思い浮かべることで、自分の気持ちがはっきりとしてくるのだ。言葉のこういう働きは、「心に深く感ずる事」の場合、特に顕著となる。小林先生は論ずる。

「堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。(略)それが誰の心にも、おのずから開けている『言辞の道』だ、と宣長は考えたのである」(第28集58頁)。

そしてこう論ずる。

「言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない」。なぜなら、「心の動揺は、言葉という『あや』、或は『かたち』で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安」だからである(第28集59頁)。

言葉の最初の聞き手は、言葉を発した自分自身であるということなのだ。

 

6 愛の告白の最初の聞き手

冒頭のテレビコマーシャルのシリーズには、次のようなエピソードのものもある。在来線のボックス席に座る中年男と若い女、出張中の上司と部下であろう。女が「わたし新人のころ課長に叱られて泣いちゃったことがあるんです」というが男には心当たりがない。女は、「だからいつか泣かせてやろうと思って」。愛を告げる女の言葉は、男を舞い上がらせるに十分のものであるのだが、同時に、女が自らの気持ちを確かめ、形作るためのものなのだろう。愛の告白の最初の聞き手は、女自身なのだ。

(了)