小林秀雄の『本居宣長』を読む四人の男女。今日はどの章を読むともなく、とりとめのないおしゃべりが続いている。
生意気な青年(以下「青年」) おや、浮かない顔だね。
元気な娘(以下「娘」) コロナでオヤジが巣ごもり、家でゴロゴロしてて邪魔くさいんだよ。
凡庸な男(以下「男」) 邪魔だなんて言わないであげて、お父さんも多感なお年頃なんだから。
娘 ナントカ相哀れむってやつ、ウザッ。
江戸紫が似合う女(以下「女」) まあ。それで、お父さま何なさってるの。
娘 テレビショッピングにはまっちゃって。ああいう番組に、利用者の声みたいなのが出て来るでしょう。「個人の感想です」というテロップ付きで。あれが気に入らないらしくて、ぶつぶつ言ってるの。
女 どういうことかしら。
青年 ああそうか。あれって、商品の品質の信用度を高めるために、利用者個人の証言を示したつもりなんだろうけど、同時に、同じ効能を保証するわけではないと逃げを打ってるわけでしょう。
男 客観的な商品テストの結果を示さずに、主観的な体験談でごまかすのはおかしい、ということかな。
青年 それはそうだね。主観的、客観的といえば、普通、客観的の方が、いいに決まってる。主観的なものは個人の勝手な思い込みだけど、客観的なものは正しい、と考えるよね。
娘 あっ、でも、小林先生は、そうじゃないみたい。
男 なんだって?
娘 『本居宣長』の中で、「中身を洞ろにしてしまった今日の学問の客観主義」では、宣長さんの学問を説明できないと仰ってる(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集103頁。以下引用は同作品集から)。
男 どういうことだろう。宣長さんの学問は、客観的ではないの?
青年 そんなことないよね。「古事記」の訓詁であれ、「源氏」の注釈であれ、宣長さんの業績は、後世の学者も認めざるを得ないものだ。
男 そうだね。
青年 それに、古典を解釈する際に、儒教道徳や仏教教理を持ち込むようなことをしていない。あくまで、その作品自体に向き合うというか、その作品ができた当時にさかのぼって、一つ一つの言葉の意義を探っている。そしてその結論の多くは、現代でも支持されている。
男 結局、客観的だったということじゃないの。
女 それはそうですわ。でも、小林先生は、語釈の結論がどうのこうのではなく、学問の在り方そのものの違いを問題にされているんじゃないかしら。現代の学問、現代の学者とは違うのだと。
青年 現代の学問は、自然科学が典型だけど、先行業績を踏まえて、新たな仮説を立て、正確な観察と実験により、その仮説を論証していくわけだね。観察や実験の正しさや、推論の適切さは、他の学者が検証する。こういった、反証が可能だが、反証されていないということが、その結論の正しさを保証するというわけだね。
娘 それって、当たり前の事じゃないの。
青年 そうさ。小林先生も、こういう意味での、自然科学というものを否定しているわけではないよ。
女 ただ問題は、こういった学問についての考え方は、言葉の意味、歴史の姿、そして人間の在り様について研究する場合には、そのままでは通用しないということだと思いますわ。
娘 どういうこと? 自然科学と、歴史や言葉の研究が違うというのはわかるけど。
男 でも、文系の学問だって、実証的であることは必要だよ。
娘 証拠もないのに結論を出したり、価値観を事実認定に持ち込んだりしたら、つまり、実証的でなかったら。学問とは言えないよね。
女 それはそうですわ。宣長も、そこは手堅いのだと思う。でもそれにとどまらないということかしら。現代の学問では、実証的な証拠が得られないことには言及しない。そのような禁欲が、研究者の学問的な良心だとみなされるのですわ。
男 だから、調べて得られた客観事実を羅列すれば、それが学問だということになりかねない。
女 自然の観察であれば、調べて得られた事実の羅列でとどまっても、それでいいというか、余計な推論を加えない方がいいのかもしれない。でも、そういう態度では、たとえば歴史は分からないということではなくて?
青年 放射性同位元素を用いれば、ある「物」がいつごろできたのか、その年代の測定がかなりの精度で出来る。そういう方法で、仮に、色んな史料の年代推定ができたとしても、それは考古学であって歴史ではない。そうやって観察され、実証された史料を並べても、そこに書かれた言葉の意味を知ることはできない。
女 歴史って、昔から語り継がれてきた事柄よね。ある世代の人々が語らずにいられなかったことは、次の世代の人々も聞かざるを得なかった。こうして、文字がなくても、時の流れを越えて語り継がれたものが、歴史なのですわ。
娘 語り継がれ、聞き継がれるに値するほどに、物語りが面白かったということかな。
女 そうやって歴史の語りを聞き、歴史についての文章を読むことで、かつての世の有様が、まざまざと脳裏に浮かんできますわ。そして、自分だったらどうだろうというふうに想像し、追体験してみる。こんなふうに、わが身になぞらえて歴史的事実を自分のものにするということ。直かに得た知識ですわ。
娘 どうしてこういう違いが生じるのかな。
女 学問分野による目的の違い、事実の分析記述を主とするかどうかという違いじゃないかしら。
青年 自然科学は、まさに、自然の在り様の分析と記述だよね。自然法則は、人類の誕生前にも、人類の滅亡後にも、同じように妥当する。問題は、言葉とか、歴史とかに関する学問で、自然科学と同じようなことがそもそもできるのか、ということでもあるよね。
男 そうなんだ。でも、自然科学の発展と、その知見に支えられたテクノロジーが現代文明を支えていることは、誰にも否定できないよね。だから、人間の心や言葉、歴史や世の中のあり様を調べていく学問も、「科学」を名乗ることになるんだね。
青年 学問自体が、社会的な制度になっていて、たとえば、大学の学科として認められなければ、一つの学問分野として承認されているとは言えない、そのためにも、自然科学のような装いを身に着けたい、みたいな考え方になるんだろうね。
男 いろいろな学問分野が、それぞれ、対象分野を限定し、方法論を確立し、その分野での先行研究との差分を研究業績とするようなものになる。学問が細分化され、専門化される。でも、歴史や言葉を扱う学問分野に、ニュートンの法則やアインシュタインの理論のようなものが現れるわけもないから、膨大な事実の羅列で終わるんじゃないのかな。
娘 宣長さんの学問は、どう違っていたの。
女 宣長さんは、現代の学問の方法論などとは無関係に、古言の意味を探ろうとしたのですわ。その際、宣長さんは、「古事記」や「源氏物語」のような古言をだしにして、というか、古人の心を知るのが難しいことをいいことに、勝手に自説を展開したのではありません。古言に天地とあればそのまま天地と受け取るべきだとお考えだった。そのようにして、あるがままの、というか、物に名前がつく前の、物そのものを知ろうとなさった。でも、それを客観的事実と呼ぶと、ちょっと違うのかもしれませんわ。
娘 何かを知ろうとするときの、やり方のひとつということ?
女 見方を変えて言うと、こうかしら。私達が何かを経験し、何かを知るということは、私達の個人的、主観的な心の働きでしかありえないでしょう。だからこそ、そこで知ったことは、生き生きとした切実なものになるのですわ。言葉で組み立てた理屈よりも、情で感じる体験の方が大事。そういう特定の誰かの具体的な体験から切り離された、客観的な事実とか、相互の因果関係なんかは、結局、間接的な知識ですわ。
青年 でも、そういう間接的な知識にすぎない学者の見解が、たとえば歴史観とか社会思想、あるいは新しい価値観みたいな形で、世間に流布し、人々に影響を与えていることも事実だよね。
女 それは便利ですからね。一応、客観的という装いをまとえば、どんな見解でも、一人一人の個人的、主観的体験を経るという手順を抜きにして、多くの人々に影響を及ぼしてしまう。社会生活を運営する上では、能率的で、応用が利くものですわ。
娘 あーあ、能率か。
女 結局、常套句に過ぎないのですわ。最新の常套句づくりを知的にやってみせるのが、インテリというわけ。万人向けに正しいものとして作られているから、人々も、すうっと受け入れてしまうけど、本当に腑に落ちたものかどうかわからない。だから、時を追うごとに、新たなスローガンが登場し、ひととき世間を支配し、やがて廃れていくのですわ。
男 とっかえ、ひっかえ、その時々の価値観を受け入れては忘れていく。かつては活字の論壇、次にテレビなど電波メディア、いまはネットの世界かな。饒舌で自己主張が強い人が現れ、それに心酔する人々がいるけど、どちらも心は空っぽじゃないのかな。
娘 じゃあ、どうすればいい?
女 むずかしいわね。小林先生は、『本居宣長』の連載と同時期の対談で、「持って生まれた自分の気質というものの抵抗をまるで感じ」ないで常套句に走る文士に懸念を示されている(同第26集220頁。『交友対談』)。でも、宣長さんは、そうではないでしょう。この辺りがヒントにならないかしら。
娘 よくわかんないよ。
女 でも、ひょっとすると、「個人の感想です」も馬鹿にできないのかもしれませんわ。
青年 さっき言ってたテレビショッピングのこと? 何言ってるのさ、あれは、あざといよ。
男 テレビのはそうかもしれない。でも、もし本当に自分の商品に自信があって、お客さんの為になると信じているなら、誰かにその良さを体験談として語ってもらうのが、一番いいんじゃないのかな。買う方だって、信頼できる知人の体験に基づくお薦めが、やはり一番の参考だ。
女 そうですわ。そういう、人々の日常の暮らしの中から生まれ育ってきた生活の知恵みたいなのは、意外と、馬鹿にできませんわ。
男 (娘に)お父さんも、着眼はよかったのさ。
娘 そういう主観的見解は、却下、却下!
四人の話は、とりとめもなく続いていく。
(了)