『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ

石川 則夫

1 不思議な読書

 

教員として担当している大学院の演習授業では、6年前から小林秀雄『本居宣長』を扱って来た。この令和2年度は『本居宣長補記』へ進んだので、『本居宣長』は5年間かけて精読したことになる。もちろん院生たちは年度ごとに入れ代わる者の方が多いのだが、教員は不変なわけで、私自身はその年月『本居宣長』と向き合って来た。1年間に10章ずつのペースだったから、本当にゆっくり精読、熟読した5年間だったはずである。そのはず、なのであるが、しかし、今もって不思議なことには、どこに何が書かれていたかどうもハッキリしないのだ。まあ、漠然と、近世儒学のこと、源氏物語のこと、古事記のこと、神話理解のしかたのことなどだいたいのトピックスは数えられるが、全体の構造、構成、各章の論の指向性が、どう展開し、どのような形で組み上がっているかとなると、また本文をあれこれめくりながら思い出さねばならないという次第で、1週間に1度の授業のたびにその前後関係を読み直すということを性懲りもなく反復して来たのであった。今にして思えばどうも我ながら情けなく、頭の出来か、年齢のせいかと狼狽えるばかり。本誌の読者の皆さんならば、『本居宣長』もかなり読み込まれている方が多いと思うので、皆さんはどうですか、と尋ねてみたいと常々思っていたのである。

これは、なんとも不思議な読書体験であり、まことに奇妙な読後感と言うしかないように、折に触れて考えていたのだが、最近になって、これはどうもこっちの問題ではなく、あっちの問題かもしれないという気が、ちょっとして来た。というのは、小林秀雄の『本居宣長』という文章は、もともとそういう読後感を抱かせるように書かれているのではないのか、ということ。そう思い始めたのは、これまで本誌で書いてきた柳田国男の著作の幾つかを読んでいて、ほとんど同じ読後感に襲われたためである。前々稿(2020年5・6月号)に柳田国男『先祖の話』の重要性について触れて置いたが、この『先祖の話』という著作を読み込みながら、本当に『本居宣長』と同じような読後感、何遍読んでも何が書いてあったのか、その記憶の保持が難しいという感覚を味わったからである。また、それより以前、柳田の『山宮考』について書いた際にも、この著作独特の難解さを指摘しておいたが、それは『先祖の話』と共通する性質のものだったと改めて気づかされたのである。

それを一言で言うなら、この2人は、ある時、ある場所において確定している出来事や物事、経験を、明らかにすべき対象として書いているのではないということ。つまり、「ことがら」を書いているのではないのだ。だから、そこで何が書かれていたのかを記憶すること、書かれているはずの何かを意識的に保持することが難しいのであって、逆に言えば、そうではない書き方自体に注意を向けるように書いているとも言えようか。だから、『本居宣長』も『先祖の話』も、ページを繰るごとに一つ一つの理解を階段状に積み重ねていき、最終ページで全体を俯瞰するような読書行為の達成感がはなはだ乏しいのである。いわば、ページの進行方向に沿って知見が開かれていくのではなく、開いているページの垂直方向へ、紙面からその深みへ向かって沈み込むような思考を促していく、そういう文体が創られているのではないか。

読んでいて、時折、ハッと気づくと、同じページを開いたままかなりの時間が過ぎ去っている。その間、我を忘れてどこかに彷徨っていた感覚だけがうっすらと残るような読書体験。そこで一瞬ちらついたかと思われる光景を、どう言葉にするか。そういう読後感を繰り返して来たように思うのだ。

そうは思うものの、一方で、柳田国男の学問は日本民俗学という学的体系を整えた知的営為を身上としているはずであり、この国の地域に根付いた民間伝承、基層文化の発掘と体系化を、厖大な調査研究に基づいて達成してきたと評価されている。したがって、そうした社会文化の分析考察も客観的事実の報告が肝心と考えられているわけだが、しかし、どうもそうではないのではないか。少なくとも小林秀雄が「柳田さんの学問の秘密」と看破したもの、それは「含みのある文章」でないと書けないものだったと言うのは、確たる事柄を知らせるための文章では書くことが出来ないことがあるということ、そこに本当の柳田国男の学問があるのだということではなかったか。

柳田国男の『先祖の話』には、難解な学術用語などは少しも見あたらない。もちろん民俗学的考察の基盤となる民間伝承の事例は豊富に示されているが、それらの報告を集成して結論を付け加えた論考では全くないのである。しかし、そのために難解であり、何度も繰り返し読まなければそのことに気づけない。で、それはどういうことなのか。そこから稿を起こしたい。

 

2 承前

 

1974(昭49)年の夏から1977(昭52)年の秋にかけて小林秀雄は「本居宣長」を執筆しながら柳田国男の著作を次々に読み込んでいった。その圧巻と言えるのが1976(昭51)年3月の三越三百人劇場での講演であったことは前稿(2020年秋号)に記した通りである。そしてまた、連載時にはなかった柳田国男の学説が『本居宣長』(1977(昭52)年10月刊)において加筆され、刊行に向けた推敲過程で新たに組み込まれていたことも想起しておきたい。つまり、「本居宣長」の終結、完成にむけての数年間に、柳田国男の学問が小林秀雄の文章に流れ込んでくる、その動きの追跡を試みたのだが、では、その現れがどのような姿=文体を取っているのか。それを描くことが私の取り組むべき課題であり、願いでもある。柳田の『山宮考』に惹きつけられた時からの想いをさらに展開してみたい。

さて、柳田国男『先祖の話』の簡単な紹介程度は前々稿(2020年5・6月号)で済ませたものの、その核心部については触れないままだったので、まずはそこから考察しておかなければならない。この論考が日本人の祖霊観、死生観を浮き彫りにした画期的な考察であったことは周知のことであるが、先述したように、それはどうも通り一遍の評価に過ぎないように思われる。また、民俗学の研究者間では1960年代から本格的な検討が加えられてもいたようだが、この論考で柳田が採集して取り上げた民俗や行事の実態への再考や、それらで組み上げられた思想、イデオロギー批判(国家主義、全体主義批判)が目に付くようである。しかし、小林秀雄が強く言い切った柳田国男の学問の秘密、その核心部を捉えようとする読みが、すなわち「文章の含み」を感受するという言葉で示そうとしている思考の針路は、いわゆる学術的批判の展開とはまた微妙に異なるように思うのだ。ともあれ、まずは『先祖の話』の文体が読者をどこへ促そうとしているのか、それを考えていこう。

 

3 なぜ「話」なのか

 

柳田国男の著作のいくつかに触れたことのある人なら、ああそう言えばと思い当たるだろう。柳田は自らの著作や論考のタイトルに「~論」とはせず、圧倒的に「~の話」という語を使う。それは『先祖の話』という著作にも端的に示されているわけだが、それがなにを意味するか。もちろん柳田が開拓していった民俗学の対象領域が文字の蓄積として残されて来た文献類ではなく、口頭伝承に基づいた資料類であったことに関わることは間違いないが、柳田は、たとえば『遠野物語』がそうであったように、ある昔話の語り手から聴き取った物語、話を自らの手で筆記し、その文体に載せて世に送り出していった。だから、公表された文章や刊行された著作は文字を介して読み取られる、黙読される文章に他ならない。にもかかわらず、柳田はそれらを「話」と題することが多かった。どうもこれはある種の確信めいた想いを潜めていたものではなかったか。私の、一つの結論を先に言ってしまえば、柳田国男は自分の文章や著作を、実は聴いて欲しかった、眼で読むよりも耳を傾けてしっかりと聴き取る読者を想定していたのではなかったか。私にはそう思われてならないのである。この『先祖の話』という著作の画期的な意味あいは、あるいはこのことだけに気づけばよいと言ってもかまわない。柳田が残した多くの文章は聴くように読むことを読者に促していて、その先に、話し、聴くという行為によって開かれる人生の真相が示唆されているのではないか。では、そこにはいかなる生が、生き方、考え方が展開されているのだろうか。それを掴み取ることこそが『先祖の話』の核心だと思うのである。

では、その縁取り、この「話」のもっとも外に張り巡らされた「聴く」という縁取りの切片を確かめてみよう。以降、引用文の丸括弧内は『先祖の話』内の各回の見出しである。

先祖とは、ある家、家族の起こりとしての最初の人間、いわゆる初代の人間、家系図の筆頭者の意味だというのは、「文字によってこの語を知った者」のとらえ方で、

 

耳で小さい時からこの言葉を聴いて、古い人たちの心持ちを汲み取っている者は、後に文字をり、その用法を学ぶようになっても、決してそういう風には先祖という語を解してはいない……(略)……一ばん大きな違いは、こちらの人たちは、先祖はまつるべきもの、そうして自分の家で祀るのでなければ、どこも他では祀る者の無い人の霊、すなわち先祖は必ず各家々に伴うものと思っている。(一、二通りの解釈)

 

と柳田は記す。この文字で学んだ者と、耳で聴いて知っている者の差異は、『先祖の話』の見逃せないところであって、この対立は随所に現れてくる。そしてこの第一回から、「文字の教育」がもたらした「新しく単純な」方ではなく、

 

いつの世からともなく昔からそうきめ込んでいて、しかもはっきりとそれを表示せず、従って世の中が変わっていくと共に、知らず知らずのうちに誤ってしまうかも知れない古い無学者の解釈の方に、力を入れて説いてみようとするのである。

 

と、この論考の取るべき針路を示している。その道筋を追うことは、はっきりそれと指さすことも困難な、「耳で聴いて」体得している所作や振る舞い、習俗など、この列島に暮らして来た人々の、長すぎるような歴史において我々の身体に馴染んで来ているがゆえに、その奥底にすっかり隠れてしまっている文化の姿を想いみるという思考へ誘っていくのである。また、「門松の由来」について説明する箇所で、信州などで松飾りの注連縄に付ける藁でつくられた壺や皿について紹介しつつ、「オヤス」とか「ヤスノゴキ」と呼ばれるそれらは、「すなわち神に供物をさし上げる食器」であり、

 

年男は年越しの晩と三箇日、また六日・十四日の夕祭などにも、必ず供物を持ってまわって、この松の木の藁皿の中に少しずつ上げる。これを親養いというのを見ると、オヤスという語の語源は明らかである。(二〇、神の御やしない)

 

と説き、そうしたことが「書物で学問をする人からは見落とされている」とはっきり批判する言葉も見える。さらに、正月になると家々を訪れて幸いをもたらすいわゆる年神の姿に言い及ぶ箇所では、「春の初めにきの方から、我々の家を一つ一つ、訪れ寄りたまう年の神の性質」を、「我が国の固有信仰の系統の外にあるものででもあるような、やや奇抜に過ぎた想像をしているが」と暗に宗教学者等の説を批判しつつ、

 

もともとこういうことを考えかつ守っているのは、学問や講義と最も縁の遠かった、平凡通俗の人々が主であって、しかも彼らのすることには地方や階級を超えた一致があり……(二二、歳徳神の御姿)

 

と指摘する箇所もあり、同じ二二回にはさらに続けて、

 

春毎に来る我々の年の神を、商家では福の神、農家ではまた御田の神だと思っている人の多いのは、書物の知識からは解釈の出来ぬことだが、たとえ間違いにしても何か隠れた原因のあることであろう。一つの想像はこの神をねんごろに祀れば、家が安泰に富み栄え、ことに家督の田や畠が十分にその生産力を発揮するものと信じられ、かつその感応を各家が実験していたらしいことで、これほど数多くまた利害の必ずしも一致しない家々のために、一つ一つの庇護支援を与え得る神といえば、先祖の霊をほかにしては、そう沢山あり得なかったろうと思う。

 

御霊、精霊、生霊など宗教史から見ればそれぞれに異なる意味を持ち、その祭りの意味も異なっているのは現代における各神社の年中行事に明らかだが、祖霊を広く表していた「みたま」を漢字表記「御霊」としてから、音読み「ゴリョウ」が平安初期の祟る神専用の語となり、それとの区別で「精霊(ショウリョウ)」や「聖霊」も使われたが、「精」と「聖」の意味するものが異なると唱える説に対しても「耳でこの語を知った者にはその説は通用せぬ」と退け、経験の本質を表現する言葉がそれに当てられた文字、漢語によって歪められてしまう弊害を鋭く指弾する。

 

精霊とみたまと、二つどちらが古いかは言わずとも判っている。それよりもどうしてこのような古いい国語があるのにすき好んで発音のかなり面倒な漢語なんかを採用したのかが問題になるのだが……(略)……漢語の輸入が我々の言葉の意義を混乱させる原因となっていることは、もちろんこれが最もはなはだしい一例でもあるまいが、ここでもやはり言葉の変わってきた道筋を明らかにしておかぬと、死んでどこへ行くかという大切な問題を、考えてみることが出来ぬのである。(三七、精霊とみたま)

 

今日ならば「みたま」が歴史ある最も良い単語だと決すれば、たとえ平仮名で書いてもこれを続けて使おうと言うべきところだが、以前の有識層は気の毒なもので、何かこれに該当する男文字が見つからぬとなると、文書にはもうこの語を使うことが出来なかったのみか、晴れの場合にはこれを口にすることも躊躇したのである。先祖という漢語がややまた限られた意味に用いられた原因も、あるいはこの「みたま」という語の代わりにしたためかも知れない。幽霊や亡霊という語なども、最初はその欠を補うために、考え付かれたものかと思われ、それをただ亡くなった故人の霊という意味に使っていた例はいくらもある。しかも結果は御承知のごとく、その幽霊の特に浮かばれぬもの、出れば必ず人をきゃっと言わせるものに限られ、まるで妖怪の仲間か隣人かのごとき、非凡のものに限られるようになった。つまりは適切な対訳もないのに、なお是非とも漢字で表現しようとした弊害、すなわち私などのいわゆる節用せつよう(注1)なるものであった。(三八、幽霊と亡魂)

 

さらに、もう一例を挙げると「盆の祭」に言及するところでも、

 

我々が書物の通説と学者の放送をさしおいて、是非ともまず年寄や女児供の中に伝わるものを求めようとするのも、尋ねるのが痕跡であり、また無意識の伝承だからである。そうして今日の普通教育によって、最も早く消えてしまうものも、こういう方面に散乱した、文字と縁の薄い資料だからである。(五八、無意識の伝承)

 

というように、柳田国男が遥かに見通そうとしたところはこの「無意識の伝承」の姿であり、その全体像に迫ろうとして努めたところが、これまで引用して来た通り、話を聴くという姿勢の保持であり、文字、漢字を介さない人生の中、すなわち音声と所作という行為において育まれてきた文化なのだ。したがって、文字として、漢語として、文章として残された事柄、出来事、祭礼、年中行事の手続きや由来書などの鍵となる用語や概念を、その表記のまま信頼するのではなく、それらの起源へ、耳で聴き、身体に刷り込んで来た道筋を遡って行こうとする、いわば耳の想像力を働かせようと極めて繊細かつ大胆な文体を編み出していったのである。

 

4 先祖への想い

 

耳に関わる想像力を喚起していくこと、それが最も重要なことなのだが、その輪郭くらいは示したこととして、次に『先祖の話』の要点だけには触れておかねばならない。

『先祖の話』は先に引用したところで分かるように、ほぼ3~4ページ分と短い章立てで81回がまとまっている体裁である。その1回ごとに柳田が採集した話、見聞した物事が配され、そこから捉え得た実相が記述されていくのだが、小さな事例を次々と解き明かしながら、突然、それまで足下を注視していた視線を高く上げ、遙かに遠景を見通そうとするような記述が起ち上がって来る。

 

「先祖の話」において、自分のまず考えてみようとすることは二つ、その一つは毎年の年頭作法、次には先祖祭の日の集会慣習だが、両者はもと同じ行事の、二つの側面を示すものではなかったろうか(一四、まきの結合力)

 

つまり正月行事を家々や、ここでいう「まき」(一定の土地に居住する同族集団)の中ではどのように行われたか、そして、祖霊をどのように扱っているのかを確認しようという企図を述べるのだが、「両者はもと同じ行事の、二つの側面を示す」という言い方がそれで、これは、この回の前文、またこの一四回までの論述の流れからは理解できない語句なのである。

第一回からここまでは「家」がどのように存続して来たか、分家が如何にして派生し、一族集団がどう変化していったのかが、社会状況や生業のありかたも含めて歴史的、社会学的に考察されて来たところであって、ここで初めて「まき」内の年頭作法、先祖祭などを考えるのだな、と分かるものの、即座に「両者はもと同じ行事」と言われても戸惑うばかりであって、次の一五回には「めでたい日」という見出しで「いわい」という語の用法など説明し、終わりに「もとは正月も盆と同じように、家へ先祖の霊の戻ってくる嬉しい再会の日であった。そのことをやや詳しく話してみたいのである」と記していく。つまり、このように細かい事例分析を示しながら、時折、この考察がどこへ向かおうとしているのか、行き着くべき遠い目的地を一瞬垣間見せるわけで、この示された映像、風景とでも呼びたいものをその都度保持して先に読み進んでいかないと、単なる民間習俗、儀礼の事例研究だけを読み取り、その真偽を論じるような反応を呼び起こすことに終始してしまうのである。

さて、先の引用文に見えること、正月と盆の行事がもとは同じものであったこと、そのどちらもが家々の先祖が訪れてくる日、「嬉しい再会の日」であったことを柳田は全国に分布する正月行事の実態、年取り行事や作法、また正月とは別にその前後の日時に行われる先祖祭りの例、そして、盆行事においても同様な事例を発掘していく。これらの実証的な分析考察においても、もっとも重視されるのは、各々の行事の際に唱えられる言葉、人々の中で交わされる言葉の数々である。「みたま」と「精霊(ショウロウ)」、「御霊(ゴリョウ)」の検討から始まり、「荒御霊(アラミタマ)」、「外精霊(ホカジョウロ)」なども言うに及ばず、「仏」をなぜ「ホトケ」というか、それは「大仏」を「オサラキ」と読む理由とつながっており、「ホトケ」、「サラキ」、「ホトキ」、「ホカイ」という言葉に共通する意味が、いずれも霊に捧げる供物を入れる器を示していることを解き明かしていく。また、「マツリ」(祭)と「ホカイ」の違いなどおよそ古い日本の葬送儀礼に関わる言葉を一つ一つ点検していくが、そこに貫かれている姿勢は、先に述べた通りの、漢語、文字として表現された語彙を、再び、話し、聴く言語行為において育まれてきた言葉へ戻していこうという方法であり、その発生史を想像した上での意味を探っていくということであった。

そして、柳田の想像力は、暦というものがまだ行き届かない昔へ、日本全国どこへ行っても1月1日の元旦という特別な日を迎えて年が改まる、という共通認識に至っていなかった暮らしの中の人間へと舵を切っていく。暦の制定と普及とは極めて政治的なしくみの中で強制される最たるもので、これが人々の生きる時間を意識的に制御し、支配していく社会構造をもたらす始原であることも明瞭である。この時間の観念を制度化した暦の下で、何々時代、何世紀、何年のどの地域ではこうした葬送儀礼や年中行事が行われており、それがどのような過程によってこう変化したとか、こう改まったなどと、歴史的時間のそこここに民間習俗を印しづける、そういう歴史的考察を柳田は行ってはいない。したがって、取り上げられたある習俗や祭りの形式が日本全国の時間的な水平方向に必ずしも並んでいるわけではない。多くの事例に垣間見られる幾つかの切片が組み合わされることで、その先に浮かび上がる人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在が、柳田国男の考える歴史なのではなかろうか。

もちろん『先祖の話』が始原として出発するのは稲作をしている人間たちの暮らしである。生活上の実態としても、文化的な象徴としても特権的な食料として、米が担ってきた役割を踏まえた上で、あまりにも長い時間この列島に生きてきた人々、その思想が、柳田の言う〈民俗〉であるはずなのだ。

やや先走ったものの言い方になったので、もう少し『先祖の話』の要点を探っていこう。暦以前の先祖祭りの日について、その多くが4月15日前後に分布していることを踏まえて、

 

私の想像はやや進み過ぎるかも知れぬが、年と稲作との関聯かんれんは日本では特に深い。以前公の暦本のまだ隅々まで頒布せられなかった時代には、民間ではあるいは初夏の満月の日をもって、年の初めと見ていたので、これも新年に先祖を祀っていた古い慣行が、公の正月と分離独立して、保存せられている例ではないかというのである。(二九、四月の先祖祭)

 

1年の節目としての正月と盆は、暦の強いる印しでしかなく、公に従う暮らしが続いていけば正月に新年を祝う習慣が固定していくが、稲作を生活の中心部に据えていた暦前の暮らしを想いを致せば、年の規準は春と秋であり、そこから時間の羅針盤は動いていくのである。そして、稲を実らせてくれるのは、「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終わりにはまた田から上って、山に還って山の神となる」(三〇、田の神と山の神)という稲作の神であり、その祭りだけは元の年の時間に置かれていることになる。そして冬の間だけ山におられる神は、その田を開き、子孫に残して来た先祖以外には考えられないと柳田は言う。

 

我々の先祖の霊が、極楽などへ往ってしまわずに、子孫が年々の祭祀を絶やさぬ限り、永くこの国土の最も閑寂なるところに静遊し、時を定めて故郷の家に往来せられるという考えがもしあったとしたら、その時期は初秋の稲の花の漸く咲こうとする季節よりも、むしろ苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか。(同)

 

政治的な、文化的な様々な要因が関わって、この先祖を祀るべき時を指し示す羅針盤は公の正月と盆を軸に、あちらこちらと彷徨いながら、その痕跡だけを習俗として残していく。やがては、先祖を敬う日はもっぱら盆の行事に集約され、正月に祀るお供えは、年神様、歳徳神への祭りとだけしか分からなくなっていく。

 

5 「山宮」の霊魂から<時間論>へ

 

『先祖の話』の終盤にさしかかると、そこには『山宮考』への発想が具体的に現れていることに気づく。そこまで記されてきた年頭作法、先祖祭り、葬送儀礼に関わる供物等の確認などの考察はすべて「山宮」の思想へ収斂していくように思われる。この死出の旅路はどう考えられてきたのか。各地に今も残る「さいの川原」の「さい」について次のように説いている。

 

赤城山中の賽の川原という話を知ってから、私は改めて今までの旅行の途次に、または書物や人の話で聴いた諸国の賽の川原を、数えかつ考えてみている。最初に言うべきことはこの地名には漢字が無い。すなわち生まれからの日本思想で、仏法はただこれを地獄の説明に借用したに過ぎぬということである。……(略)……言葉の起こりは道祖神のサエと一つであるべきことは、古い頃からこれを説いた人も一人ならずある。これが多くの霊山の登り路に、同じ言い伝えを持って今も残っているのは、むしろ仏教を離れた深い意味のある、一つの現象だと私は思っている。(六八、さいの川原)

 

そして、柳田国男の確信が吐露される文章が目立つようになってくる。

 

そこでまた一つの自分の想像を述べると、生と死との隔絶は古今文野(注2)の差を問わず、これを認めない者は無いのだけれども、その境目については今日のものと、異なる考え方がもとはあったろうかということである。簡単に言ってしまうならば、亡骸をあの世のものとは認めず、それもこの世の側に属せしめていたのではあるまいか。霊の存在を確実に信じた人ならば、それが肉体を立ち退く瞬間から、あの世は始まるものと思うのは当然である。(七〇、ほうりの目的)

 

では、霊魂が離れた後、この世に残された遺体、「現世生活の最後の名残」はどうしたか。

人のあまり行かない山の奥や野の末に、ただ送って置いて来ればよかったのである。(同)

もう少し『先祖の話』について書かなければならない。まとめ上げるのが非常に困難な著作であることは最初に断っておいたが、この『話』への私の確信の、せめて輪郭くらいは描ききらなければ、小林秀雄『本居宣長』の<時間論>に接続が出来ないからである。

(つづく)

 

(注1) 節用禍……『節用集』、室町時代に成立した国語辞書。日常語の用字、語釈などをイロハ順に記載した。つまり、言葉の漢字表記を求めるのに便利であったことから、ここで柳田は、話し言葉を漢字、漢語に置き直すことが禍いとなったとするのである。

(注2) 文野……「文」は雅びな階層で学のある人々、「野」は俗人、庶民階層。