ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その十五 パッセージ

 

きみ、茂吉なんか読む? きみもあっちのほうだろ?

「あっちのほう」とは出身地のこと。たしかに「あっちのほう」で、私の郷里は米沢街道、大峠という難所の南側の麓である。越えれば米沢。斎藤茂吉のふるさと上山はその先である。もっとも、問われた先生は四国のご出身であったから、山形もその南の福島も、「道の奥」ということでは「いっしょくた」だったかも知れない。

茂吉はもう人麻呂だよ、迂闊だった、この歳まで……。

酔って、こんなふうに慨嘆されていた。「迂闊」という言葉が新鮮だった。もっともこちらは茂吉も人麻呂もよく知らなかった。だから「慨嘆」の内容もよくわからなかった。こんどお会いする時までに読んでおきます、くらいの返事をしたばかりで、その折の貴重な会話はおしまいになってしまった。

貴重な会話であった。ドイツ文学者であり文芸批評家でもあった先生だが、一年に一度ご一緒させていただく酒席で、「文学」に触れられたのはこの時がはじめてであった。そして最後になってしまった。不勉強な私は「こんどお会いする時」を期するほかなかったが、先生の急逝で、それは果たされなかった。

先生は茂吉に何を思われたのだろう。相変わらず、茂吉も人麻呂もロクに読みもせぬ怠惰だが、茂吉の歌を目にするたびに、先生の慨嘆を思い出す。思い出すだけで何もしないのだけれど、そんなことが積み重なったせいか、茂吉のいくつかの歌は頭に刻まれることになった。

 

たとえば「死にたまふ母」の連作では、次の三首が心にのこる。

 

みちのくの 母のいのちを ひと見ん 一目みんとぞ いそぐなりけれ

 

死に近き 母にそひの しんしんと とおのかはづ てんきこゆる

 

のど赤き 玄鳥つばくらめふたつ 屋梁はりにゐて 足乳たらちねの母は 死にたまふなり

 

「みちのくの」の歌は、私などにもたいへんわかりやすい。母の「いのち」を一目見よう、せめて一目、それだけのことだ。生きてください、というのではない。過剰な願望などはない、母の死は受け入れる。ただ最後に一目、その「いのち」を……。他家の養子となるべく、早く郷里を離れた茂吉であるから、実母への思いはひとしおであったかも知れない。切迫した心情がひしひしと迫る。結句は後に「ただにいそげる」と改められた。私が最初に記憶したのも、その、いわば同時性の強調されたかたちで、そのせいか「ただにいそげる」の方がはるかに生々しく、自然に入ってくるように感じられる。こちらの息もあがってくる。

「遠田のかはづ」になるとそれが落ち着いている。「いのち」を見、「添寝」できる安堵かも知れない。そのときあたりをすっかり領しているのが、夜の蛙声だ。その最中に包まれて、やがて時空の分節が曖昧になってくる。「しんしんと」という副詞も妙だ。読むうちに、それが下の七七につながるのか。あるいは上の五七から来ているのか、よくわからなくなってくる。そしてその不分明が、ここでの雰囲気を、地上が天上に結ばれていく気配を醸している。

そして「玄鳥」の歌である。冬を越して還ってくる「のど赤き玄鳥」、それはあたかも人の暮らしに寄り添うかのように語られるが、そんなものは感傷に過ぎず、その本質は、むしろ、人間的な情など超越したところに実存する宇宙の、その止むことのない節奏の象徴である。もとより、ここで根本にあるのは母の死であり、無常の悲しみだ。が、それも、その永遠のうちに処を得てこそ乗り越えられるだろう。「死にたまふ母」全五十九首、『赤光』所収の連作のなかでもその数の多さが目立っている。もとよりそれは感傷にたゆたう徒な時間の長さではない。感傷を超えんとする格闘の時間なのである。

 

「ヴァイオリニストの系譜」として十数人の紹介を試みるうちに、その演奏に対して偏狭になっていく自分を感じていた。むろん、つくりものの感傷を演じただけの演奏というものは、ジャンルを問わず、若い頃から切って捨てていたが、そうではなく、やむを得ない感傷というものもあり、しかしその克服に赴かずそこに留まるかのような「悲しき玩具」としての音楽というのが別にあって、そういうものには寛容であるべきだと思いながら、ここにきて少しく過敏になっているというわけなのだ(しかもそこにうっすらと自己嫌悪の気配も漂う)。そして、そうなって来た起点に、どうやら「茂吉」のことがあるらしい、そう思い至ったのである。まさしく迂闊なことであった。私は自分の「出自」に気づかぬまま来たわけである。それは、私のようなものには、あまりに厳しい芸術観であるからだろう。

あの過酷な時代に、過酷な境遇におかれた群衆のなかから、際立ったヴァイオリニストが出現したということ、これは容易に予想できたことであった。その典型的な一名がヴァーサ・プシホダである。それは私の、現時点での確信である。次回、彼についてもう少し考えてみたいと思う。

 

(了)