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今年(令和三年)の一月、幻冬舎から森功氏著『鬼才 伝説の編集人齋藤十一』が刊行された。
「齋藤十一」とは、「新潮社の天皇」と呼ばれて崇められ、恐れられた大編集者である。昭和十年(一九三五)九月、早稲田大学理工学部を中退して新潮社に入り、二十一年二月、三十二歳で看板雑誌『新潮』の編集を任された。以後、齋藤氏に見出され、鍛えられて出版界を賑わし、戦後の文学史に名を刻んだ作家の名は枚挙に遑がない。
しかも齋藤氏は、『新潮』で辣腕をふるいながら、二十五年には『芸術新潮』を創刊、三十一年には『週刊新潮』を、五十六年には写真週刊誌『FOCUS』を出した。出版社系初の週刊誌『週刊新潮』はたちまち週刊誌ブームを巻き起し、『FOCUS』の五十九年一月六日号は二〇〇万六五〇部という週刊誌史上最高の発行部数を記録した。
こうして齋藤氏は、「新潮社の天皇」と言うに留まらず、戦後日本の出版文化の構築者、さらには精神文化の牽引者として巨大な足跡を残し、平成十二年十二月二十八日、八十六年の生涯を閉じた。
齋藤氏の死から六年、平成十八年の秋、美和夫人の手で追悼文集『編集者 齋藤十一』が編まれ、夫人の指名を受けて私も一文を草した。以下、その小文である。
微妙という事
池 田 雅 延
小林秀雄先生は、昼間はきわめて寡黙だった。お宅に参上するのは午後の三時が多かったが、その日の相談事が数分ですんでしまうと、部屋はたちまち静寂に領された。ぽつりとこちらが何かを切りだせば、さっと応じて下さるのだが、それもすぐに途切れて静寂がもどった。
だが時に、そういう空気を切り裂くように、いきなり先生が話しだされることがあった。あの日もそうだった。
「君、文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ」
そのまましばらく口をとざされ、そして続けられた。
「齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな」
私は、次を待った。しかし、一息いれて先生が私に向けられた質問は、まったく別の話題だった。私は二十代の終りだった。
不幸にして私は、齋藤十一さんの直属の部下であったことが一度もない。長く単行本の編集を任とする出版部にいて、菅原國隆さんや坂本忠雄さん、山田彦弥さんといった先輩たちから齋藤さんとの日々について聞かされるたび、烈しい羨望に駆られるのが常だった。とはいえ私は、幸いだった。『本居宣長』をはじめとして、小林先生の本を造らせていただいたおかげで、少なくとも三度、齋藤さんの謦咳に接したからである。
昭和五十二年の春先であった。新潮社に入ってようやく七年になろうかという頃で、私は出版部の席で仕事をしていた。昼すこし前だった。不意に右手に、のしかかってくるかのような影を感じた。齋藤さんだった。
それまで、齋藤さんとは言葉を交したことがなかった。社内の廊下で黙礼はしていたが、うなずいてもらったことすらなかった。私の後ろの椅子を引き寄せ、ほとんど真横に坐って齋藤さんは言われた。
「本居宣長な、全集の第一回配本にしようや」
「本居宣長」とは、言うまでもなく小林先生のライフワークで、昭和四十年から続いた『新潮』の連載が前年十二月に終了し、その年十月の刊行を期して編集作業が進んでいた。「全集」とは後に「新訂小林秀雄全集」と銘打った第四次全集で、これも刊行準備が進んでいた。
前年の秋、まだ「本居宣長」が終るとは誰も予想していなかった頃だ、佐藤亮一社長に呼ばれた。
「先生の全集を、また新しく造れないかと思ってね。今の全集は高くなって、簡単には買えない。大げさにいえば、いま日本人は小林秀雄が読めない。これでは出版社として怠慢ではないか」
昭和四十二年から出た第三次の全集は、背が本革であるなどのため製作費が嵩み、五十一年秋からの増刷各巻は定価三千円、今日でいえば五、六千円にも相当する本になっていた。だが新たに編集し、新たに本文を組めば、第三次全集とほとんど差のない定価になってしまう。当時の出版部長、新田敞さんと相談し、第四次全集は第三次の改訂・新装版とする、本文も紙型を流用する、それによって定価を抑えるという方針を固めた。小林先生の同意も得ていた。
一方「本居宣長」は、小林先生畢生の大業である。先生がその文章に精魂をこめられたように、新潮社は本づくりに精魂をこめる、本づくりの粋を結集する、それが決まって仕事はもう始まっていた。新刊『本居宣長』と第四次『小林秀雄全集』とは、本づくりにおいて両極端の理念を負っていたのだ。
しかし、これだけの経緯を、とっさには説明できない。
「『宣長』は、いい本にしますと、先生にお約束していますが……。全集は、普及版です」
言えたのはそれだけだった。齋藤さんはじっとしばらく私を見つめ、
「そうか。しっかりやってくれ」
ゆっくりとそう言って、腰を上げられた。
昭和五十八年三月一日、小林先生が亡くなられ、齋藤さんはただちに『新潮』の臨時増刊「小林秀雄追悼記念号」を出すと言われて、菅原さん、坂本さんを中心に各部署から十人ほどが召集された。私も呼ばれた一人だった。
第一回の編集会議が開かれることになっていた日、齋藤さんに来てくれと言われた。二十八号室にうかがうと、
「君も忙しいだろうがな、がんばってくれな」
出版部の席で聞いて以来の、直々に聞く齋藤さんの声だった。
最後にお会いしたのは、鎌倉の「なか川」だった。平成十二年の晩秋で、齋藤さんが新潮社を退かれて、そろそろ四年になろうかという時期だった。
平成十四年が小林先生の生誕百年にあたり、それを記念する第五次全集を十三年の四月から刊行することにして、その打合せで先生のご長女、白洲明子さんを訪ねた帰途のことだ。先生が亡くなられてからというもの、「なか川」にもご無沙汰がちになっていることにふと気づき、まだ日が高いがいいだろうかと電話で訊いた。
すると女将は、いらっしゃい早く、早くいらっしゃいと意外なほどの歓迎ぶりだ。店に行き着き、引き戸の前でふと予感が走った。入ってすぐ、カウンターのとっつきに、齋藤さんがいらっしゃった。ここが齋藤さんの指定席だ。いつものように夫人もご一緒だった。
挨拶しかけた私を制し、齋藤さんは言われた。
「僕に気を遣わずにな、勝手にやってくれ。僕はもう辞めた人間だからな」
はい、わかりました、と答えるや、
「できるだけ離れてやってくれ。あの辺でやってくれ」
そう言って、カウンターのいちばん奥を指さされた。
気がつくと、いつのまにか店は混んでいた。奥でひとりで飲んでいた私の前へ、これ、齋藤さんから、と言って女将が熱燗徳利を置いた。すぐに立ってお礼をというのも憚られ、こちらを向かれる瞬間を待って頭を下げた。
その熱燗がなくなりかけた頃、こんどは女将が、齋藤さんがこっちへいらっしゃいって、と呼びにきた。
「亮一君は、元気か」
次いで坂本君は、××君は、××君は、と訊かれ、あれはどうだと、齋藤さんが退かれた後に出た本について訊かれた。一瞬口ごもり、数字を見ないとわかりませんが、と応じた刹那だった。
「君、自分をごまかすのはよせ。数字など見なくても、何だって一目でわかるだろう、君はわかっているだろう」
そして、ぽつ、ぽつと、最近の雑誌や本を論評され、やがて、声を落して言われた。
「僕は、新潮社が心配でならんのだよ。社にいたときも心配だった、いまも心配だ……」
昨年の夏、第六次の全集『小林秀雄全作品』を出し終えた頃、小林先生の熱心な読者という青年の訪問を受けた。親しくなって飲んだ時、微妙ということの話をした。彼は活字を通じてだが齋藤さんのこともよく知っていた。高校時代、「モオツァルト」を読んで以来、小林先生を読み続けている、音楽を聴き続けているという青年は、しばらく視線をテーブルに落していたが、顔をあげて言った。
「『年齢』という文章で、耳順について書かれていますね……」
耳順とは孔子の言葉で、六十歳をいうが、これは孔子が音楽家であったことと大いに関係があるだろう、美術に夢中になった人なら目順といったかも知れないと前置きして、先生はこう書かれている。
――自分は長年の間、思索の上で苦労して来たが、それと同時に感覚の修練にも努めて来た。六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分の様に耳の鍛錬を重ねて来た者には、人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す……。
感覚の修練は、小林先生終生のテーマだった。微妙ということを言われたあの日も、ずっと考えられていたのだろう。前夜、東京からかゴルフ場からか、先生と齋藤さんは一緒の車で帰られていたのだろうか。あるいはさらに、齋藤さんが私の席へ来られた前夜も、お二人は一緒の車だったのだろうか。
(了)
私の追悼文は、以上である。文中、最後の場面で私を訪ねてきた青年は杉本圭司さんで、杉本さんが口にした「年齢」は、『小林秀雄全作品』の第18集に入っている。
幻冬舎から出た森さんの本は、齋藤さんの死から二十年という節目に著された聞き書き評伝である。齋藤さんの後を託された元『新潮』編集長の坂本忠雄さんをはじめ、長年にわたって齋藤さんに仕えた社員、役員たちから齋藤さんの思い出を聞いて綴ったものだ。
だが、そのうちの一人として、主に齋藤さんと小林先生の親交について聞かれた私は、実は当惑している。約三〇〇頁の本の何ヵ所かに私の名が出て、池田はこう言った、こう話したと書かれているのだが、いずれも私の談話がきちんと再現されていないばかりか著者の一方的な解釈が加えられ、小林先生の思想も人柄も、凡庸凡俗に落ちてしまっているのである。
この本が刊行されてから約一ㇳ月、私はどうしたものかと悩んだが、事実と違うと表立って抗議したり、即刻修整を求めたりはしなかった。私がそういう挙に出て、私以外の人たちの談話も私の談話箇所と同じように見られるようになったとしたら、まずもってその人たちに迷惑がかかる、それより何より、齋藤さんの生涯が、何らかの留保つきで受け取られるようにさえなってしまいかねない、そこは避けたかった。しかも森さんは、かつて『週刊新潮』の記者だった、そういう履歴を利して、私がこれまでまったく知らなかった齋藤さんの齋藤さんたる所以をいくつも聞き出していた、これだけのことを聞いて記録に残した森さんの労を多とする気持ちも強かった。
しかし、このまま放置してはおけなかった。新潮社に入って二年目の夏、昭和四十六年八月に、私は小林先生の本を造る係を命ぜられ、五十八年三月、先生が亡くなるまでの十一年余り、先生の身近で『本居宣長』や『新訂小林秀雄全集』などを造らせてもらったが、先生が亡くなった後も第五次『小林秀雄全集』と、これからの日本を背負う若者たちに読んでもらうためにと脚注を附けた第六次全集『小林秀雄全作品』を造らせてもらうなどしたことによって、私は小林先生の作品だけではなく、人柄や生き方までも後世に語り伝える役割に恵まれることになった。平成二十四年の初め、茂木健一郎さんに頼まれて始めた「小林秀雄に学ぶ塾」は、幸いにも弟塾、妹塾が次々生まれて今では計九塾、塾生数は百数十人に達している。どこかひとつの塾に籍をおき、そのうえさらに二つも三つもの塾に顔を見せ続ける塾生も数多くいる。図らずもとは言え人生の第二ステージでこういう役割を課せられた私は、今回の森さんの勇み足を看過することはできないのである。
このまま森さんの記述に異議を唱えず、看過したとすると、私は森さんの記述を認めたことになり、小林先生の実像とは似もつかぬ凡庸凡俗な小林秀雄像を私が後世に残すことになるのである。そうなっては立つ瀬がない。まず誰よりも小林先生に対して申訳が立たないが、さらには先生のご遺族にも、また私に先生の係としての心得を授けて下さった社の先輩、菅原國隆さん、坂本忠雄さんにも顔向けができず、ひいては齋藤さんにも恩を仇で返すことになるのである。
かと言って、私は森さんを一方的に批難するつもりはない。フィクションであれノンフィクションであれ、人間の書く文章には思いもよらない錯覚や独断が忍びこむものだし、完全無欠な本などはどんなに手を尽くしても神経を張り巡らしても人間技では不可能に近いとさえ私は身に染みて思っている。だから私は、五十年に及んだ編集者生活を通して、『論語』の学而篇にある孔子の言葉、「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」、同じく衛霊公にある孔子の言葉、「過って改めざる、是れを過ちと謂う」を拳拳服膺してきた。そこで今回も、森さんには私の言わんとしたところを確とわかってもらい、幸いにして増刷や文庫化の機会がめぐってきたときには該当箇所を修整して下さるようにと三度にわたって手紙を書いた、二度目の手紙にはこうも書いた、
――小生は森さんの経歴をほとんど知りません、が、森さんは週刊誌の記者としての経験は豊富におもちでしょうけれど、小生のような文芸編集者としての経験はおもちではないのではありませんか。文芸畑の著者、すなわち優れた小説家や批評家の言動には、大なり小なり「人生いかに生きるべきか」に関わる独自の含蓄があります。その哲学的な含蓄は、ちょっとした逸話や片言隻句からも感じられますから、文芸畑の編集者はその含蓄を刻々感じ取って著者の人生観に応じていくのです。しかしその含蓄は、私たちの日常生活次元の言葉、たとえば「受話器をガチャンと置いた」とか「照れ屋だった」といった言葉ではとらえきれないどころか、そういう言葉で括ってしまうとたちまち雲散霧消してしまう「微妙な哲学」です。こうした著者と編集者の間を結ぶのは、世に言う「阿吽の呼吸」です、文芸編集者はこの著者との間の「阿吽の呼吸」をおのずと身につけるのですが、小生は、小林先生の逸話や寸言を通して、小林先生と齋藤さんとの間に、また小林先生と菅原さんとの間にあった「阿吽の呼吸」をお話ししたのです。……
これに対して、森さんからは二度、詫び状をもらい、幻冬舎からも、増刷時、および文庫化の際には該当箇所が私の希望に沿って修整される旨の書面をもらったが、将来、当該書の二刷本と文庫版とで私が望むとおりに修整されるとしても、今すでに世に出てしまっている初版の記述は後世に伝わる。これは如何ともしがたいが、せめて「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生諸君と本誌『好・信・楽』の読者諸氏には、池田は森さんの記述を認めていない、認めるわけにはいかない、という意思表示だけはしておきたいと思った。
本来であれば、本誌にこういう部外の出来事の経緯などは書きたくない。しかし、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌である以上、小林先生を世間に誤解させるような情報や伝聞を聞き込んだときは修正する、修正を促す、これも大事な存在意義である。今号のこの小文は、そういう間に立っての決断であったが、そう決断するにあたっては、今回の森さんの本は、あるいは『好・信・楽』に恰好のケーススタディと言えるかも知れない、という思いも伴った。
「本居宣長」の第十章で、小林先生は次のように言っている。
――伊藤仁斎の「古義学」は、荻生徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
「今言」とは現代語、通用語であり、「古言」とは古代語、古語である。荻生徂徠は、古代の言葉や文章を現代の言葉で解釈するな、古代の言葉は古代の言葉のままで何が言われているかを汲み取ろうとせよ、古文、古言から直接に古義を得ようとせよと言ったのだが、私がここで、今回の森さんの本は『好・信・楽』に恰好のケーススタディと言えるかも知れないと思ったと言うのは、私が森さんに語った小林先生の言葉は「古言」である、私は先生の「古言」を「古言」のまま森さんに伝えたのである。ところが森さんは、それを「今言」で受取り、「今言」で解釈し、「今言」で記述したのである。具体的には、以下に掲げる「現状」と「修整」とによって推し量られたいが、概して言えば「現状」が「今言」である、「修整」が「古言」である。
しかし、このような、「古言」の「今言」への移し替え、「古言」の「今言」による解釈は、森さんに限らず私たちの誰もが常日頃、そうとは意識せずに行っているのではあるまいか。小林先生の「本居宣長」を十二年かけて読むという「楽」でさえ、「古言」を「古言」のままに楽しむのではなく、「古言」を「今言」に移して楽しんだつもりになっている、ということはないだろうか。
☆
◆「鬼才 伝説の編集人齋藤十一」(森功著 幻冬舎刊)要修整箇所一覧
●印は特記を要する修整理由である。
六六頁一七行目
現 状
創元社は現在、ミステリー出版の東京創元社に分かれていますけど、
↓
修 整
創元社は今はミステリー出版で知られる東京創元社となっていますが、
六九頁一四行目~一五行目
現 状
……とおっしゃっていました。トルストイが描く人間の業がおもしろい。齋藤さんは……
↓
修 整
……とおっしゃっていました。<削除→トルストイが描く人間の業がおもしろい。←削除>齋藤さんは……
●池田は、「トルストイが描く人間の業がおもしろい」などとは言っていない。池田が承知している小林先生のトルストイ評価の端的な表現は、同じ頁に引用されている「トルストイを読み給え」(『小林秀雄全作品』第19集所収)の中の「途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性」だけである。
八五頁一八行目~八六頁七行目
現 状
小林の担当編集者池田雅延によれば、小林は齋藤が音楽や美術に関する広く深い知見に脱帽して心酔し、最も親しくしてきた文士の一人だ。池田は担当編集者として小林との付き合い方が難しかった、と話した。
「担当としては、用事がなくても、月にいっぺんぐらいは小林先生のお宅へご機嫌うかがいで行かなければなりません。最初のうちはまず電話をかけていました。お手伝いさんにつないでもらうと、『僕はいま忙しいんだ。だからキミと話す暇なんかない』と電話をガチャンと切られる。それで、新潮社で先生を担当してきた先輩の菅原さんに相談しました。すると『電話口に出てくれるだけましだよ、俺なんかだと出もしない。だから直に訪ねるしかないんだよ』とアドバイスしてくれました。それを実践することにしたのです」
↓
修 整
小林の書籍編集担当者池田雅延によれば、小林は、齋藤が音楽や美術に関する広く深い知見にも感服して最も親しくしてきた文士の一人だ。池田が小林の本を造る係を命じられた頃、小林はもう六年にもわたって『新潮』に「本居宣長」を連載していた。
「出版社の編集者は皆そうですが、大事な著者のもとへは少なくとも月に一度、いわゆる『ご機嫌伺い』に行きます。『新潮』編集部の坂本忠雄さんに連れられてご挨拶に伺った一ㇳ月後、お宅へ電話をしました、先生は、いきなり『何か用か』と訊かれ、私が「特にお話があってというわけではないのですが」と答えるや、『僕は毎日、宣長さんと話してるんだ、君と話している時間はないんだよ、来るのは用のあるときだけにしてくれたまえ』と言われてそれきりでした。何日かして、先輩の菅原國隆さんにこの話をしました。すると菅原さんは、さもありなんという顔で笑い、『君なんか、電話に出てくれただけましだよ、僕の若い頃は先生も若かったから電話にすら出てくれないなんてこともしょっちゅうだった。だから直に行くしかなかったんだよ』と言いました」
●池田は「小林先生との付き合い方が難しかった」などとは言っていない。そもそも池田に「小林先生とつきあう」などという不遜な感覚はなかったし、小林先生との接し方を、一般世間で言うような意味合いで難しいと思ったことは一度もない。
●小林先生は、「僕はいま忙しいんだ。だからキミと話す暇なんかない」というような言い方をされたのではない、「僕は毎日、宣長さんと話している、だから君と話している時間はないんだ」と言われたのである。「宣長さんと話している」は、「本居宣長を読んでいる。宣長のことを考え続けている」の謂である。また池田は、「電話をガチャンと切られた」などと世間一般並みの言い方はしていない。小林先生は、池田がかけた電話を「ガチャンと切る」などということは一度もされていない。
八六頁一五行目~一八行目
現 状
菅原さんが激務のために心筋梗塞で倒れてしまったときは、小林先生から『この大馬鹿野郎、てめえの身体が持たねえっていうことは、身体がてめえに教えてたはずだろ』と怒鳴られたそうです。先生は照れ屋ですからストレートには言いませんが、心から心配していたのでしょう
●池田は「先生は照れ屋ですからストレートには言いませんが」などと言っていない。小林先生は照れ屋どころか率直無比の人であった。
↓
修 整
その菅原さんは、後に齋藤さんに呼ばれて新潮から週刊新潮に移りましたが、激務のために心筋梗塞で倒れて長期欠勤し、やっと現場復帰が叶ったとき、一番に小林先生を訪ねて安心してもらおうとしました。ところが小林先生は、玄関で菅原さんの顔を見るなり、「この大馬鹿野郎! お前の身体がもう保たないとはお前の身体がお前に言っていたはずだ、その声を聞こうともせず生意気にぶっ倒れたりしやがって、大馬鹿野郎だ、お前は!」と雷を落としたそうです。小林先生は菅原さんの容体が心配でならなかった、その心配が安心に変るや雷となって落ちた、この雷こそは小林先生がどれほど菅原さんを大事に思い、頼りにしていたかを示すものでした
八六頁一九行目~八七頁一行目
現 状
鎌倉には小林をはじめ、永井龍男や林房雄、川端康成など錚々たる文士が住んだ。みなそれぞれ個性が強いだけに編集者は付き合いに苦労してきたのだろう。
↓
修 整
<削除→鎌倉には小林をはじめ、永井龍男や林房雄、川端康成など錚々たる文士が住んだ。みなそれぞれ個性が強いだけに編集者は付き合いに苦労してきたのだろう。←削除>
●この前後の菅原さんに関わる話は、池田はすべて「苦労話」として話したのではない、小林先生の人柄と、菅原さんとの間にあった阿吽の呼吸を伝えようとしたのである。
八七頁二行目~八七頁七行目
現 状
さらに池田が言葉を足す。「私は菅原さんに言われた通り、アポも取らずに直接小林先生の住む鎌倉のお宅へ行って玄関のチャイムを鳴らしました。小林先生がいらっしゃるのはわかっています。だから五回、六回としつこくピンポンすると、奥の方からドタドタと大きな足音が聞こえてくる。そして玄関の扉がガラーッと開いた。そこに立っていたのはお手伝いさんではなく、先生本人でした。『いま小林はいませんっ』と言う。唖然とするばかりでしたが、『本人がいないというのだから、間違いない』とピシャリと扉を閉じてしまうのです」
●この件は池田の経験談になっているが、すべて菅原さんの経験である。菅原さんは、先に八五頁一八行目~八六頁七行目の「修整」に示した「僕の若い頃は先生も若かったから電話にすら出てくれないなんてこともしょっちゅうだった。だから直に行くしかなかったんだよ」に続けて次のように語ってくれたのである。なお、菅原さんも池田も、著者に面会、面談を申し入れるとき、「アポを取る」などとはどんな場合も言わなかった。
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修 整
「ところが、鎌倉の先生の家へ行って玄関のチャイムを鳴らす、何度ボタンを押しても返事がない、そのうちドタドタドタっと床を踏む音がし、玄関のドアが荒々しく開いて先生が顔を出し、『小林はいません!』と言うなりバタン、こういうことが何べんもあった」
そのとき、菅原さんはどうしたのですか、と訊いた池田に、菅原は「本人がいないと言っているんだ、こんなにたしかなことはない、そのまま会社へ帰ったよ」と言って愉快そうにまた笑い、「小林先生は、原稿を書いているときはもちろん、何かを考えているときは自分に集中する、集中してしまう、他人の都合など頓着しない、そこにも先生の天才ぶりが表われている」と言ったという。
八七頁八行目
現 状
それが小林流の原稿催促の断り方なのだそうだ。
↓
修 整
<削除→それが小林流の原稿催促の断り方なのだそうだ。←削除>
●池田は「それが小林流の原稿催促の断り方」などとは言っていない。小林先生は律儀で、池田の頼んだ原稿が二、三日、遅れそうになったとき、どれだけ待てるかと電話で問い合わされたことさえある。
八八頁一一行目~一二行目
現 状
それとともに、人間のパノラマをつくっているんだ、ともおっしゃっていました。
↓
修 整
それとともに齋藤さんは、人間のパノラマをつくっているんだ、とも言っていました。
八九頁一三行目
現 状
小林や齋藤は孔子に習ったのだろう、と池田は推察した。たとえば……
↓
修 整
小林や齋藤には孔子に通ずるものがあったのだろう、と池田は推察した。たとえば……
二〇五頁六行目~一二行目
現 状
斎藤さんにとっては、週刊新潮もトルストイが根本にあるのだと思います。でもそれだけではなく、齋藤さんは音を聴いて、物事を感じ取る訓練をしてきたのでしょうね。うまく説明できないけど、小林(秀雄)先生は『齋藤は音楽を聴いているから、こいつはイケる、こいつはダメだ、ということを感じ取っているに違いない』と言うんです。殺人事件報道の文字面を見ても、その裏に何があるか、という勘が働く。その微妙を嗅ぎ分ける力があると言っていました。それは文学を読んでいるだけでは無理で、音から判断するっていうようなことを言っていました
↓
修 整
斎藤さんの作る週刊新潮には、その根本に小林先生に言われたトルストイがずっとあったと思います、が、それに加えて、音楽があったと思います。ある日、小林先生が私にこう言われました、「君、文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ。齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな」。先生が言われたのはこれだけでしたが、この先生の言葉を折々思い出しては反芻するうち、おぼろげながら私にもこういうことなのかなと思えるようになりました。そこを敢えて齋藤さんの場合で言いますと、齋藤さんは何年にもわたって音楽を聴き続けている、それによって人間界の出来事の微妙なトーンまでも感じ取り嗅ぎ分ける感性が磨かれ、その感性であらゆる物事の本質を直観している、ということのようなのです
二〇五頁一三行目
現 状
まさに微妙で難解な話である。
↓
修 整
まさに微妙<削除→で難解←削除>な話である。
以 上
◆ひとまず、以上とする。まだ何ヵ所か、私としては不本意に思う件があるが、それらは小林先生の思想や人柄に直接抵触しないかぎり許容範囲の内としておく。
(了)