二十八 歌の事から道の事へ
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「本居宣長」の思想劇は、第十九章に至って舞台が移る、大きく移る。冒頭に、宣長の随筆集『玉勝間』の二の巻から引かれる。
――宣長三十あまりなりしほど、県居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのこと、うしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。……
「県居ノ大人」は、賀茂真淵である。宝暦十三年(一七六三)五月、主君、田安宗武の命により、江戸を発って伊勢、大和、山城を経巡ったが、その旅の途次、松坂の旅宿「新上屋」に泊った。当初、そのことを知らずにいた宣長は、真淵は松坂から伊勢に向ったと聞いて残念がったが、幸い真淵は伊勢参宮の帰途にも「新上屋」に一泊した、その機をとらえて宣長は真淵を訪ね、面識を得、同年十二月、門下に連なることを許された。
この間の次第は、やはり『玉勝間』に宣長自身が記し、七の巻の「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」ではこう言っている。
――おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ、其家の伝へごととては、うけつたへたること、さらになければ、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし……
「道の事も歌の事も」と言っていることに注意しよう。先に私が「本居宣長」の舞台が移ると言ったのはこのことである。『玉勝間』二の巻ではこう言っている。
――さて又道の学びは、まづはじめより、神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてて、わざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇国のいにしへの意をおもふに、世に神道者といふものの説おもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬれば、師と頼むべき人もなかりしほどに、われいかで古ヘのまことのむねを、かむがへ出む、と思ふこゝろざし、深かりしにあはせて、かの冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへて、せちなりしに、一年此うし、田安の殿の仰セ事をうけ給はり給ひて、此いせの国より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へりしを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみじくくちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎ、やどりにまうでて、はじめて、見え奉りたりき。さてつひに、名簿を奉りて、教ヘをうけ給はることにはなりたりきかし……
ここに「田安の殿」と言われているのが田安宗武である。八代将軍、吉宗の次男で、享保十六年(一七三一)田安家を創立したが、和歌と国学を好んで初めは荷田在満に学び、延享三年(一七四六)、賀茂真淵を召し抱えた。『新潮日本文学辞典』によれば、宗武は「萬葉集」の歌人、柿本人麻呂、山部赤人を敬し、作歌も人麻呂、赤人に倣っていたことから真淵は宗武に刺激され、古代研究に本腰を入れるようになったという。
こうして真淵と初めて会った宝暦十三年五月二十五日、宣長は三十四歳だったが、医者になるための京都遊学から松坂へ帰り、真淵の『冠辞考』を見て古学の志を固めたのは六年前で、「新上屋」に真淵を訪ねた翌月の六月七日には『紫文要領』上下二巻を書き上げ、同年のうちに『石上私淑言』巻一・巻二・巻三も書き上げて、翌明和元年、『古事記伝』の準備にかかった。説によってはこの明和元年を『古事記伝』起稿の年とする。
いっぽう真淵は、六十七歳だった。七年前の宝暦六年、畢生の『萬葉考』に着手し、翌七年、『冠辞考』を書き上げていた。『冠辞考』は全十巻、一口で言えば枕詞の辞書である。『古事記』『日本書紀』、『萬葉集』に見られる枕詞三二六語を五十音順に配列し、それらの語義、用法などを詳細に考察した。冠辞とは何かについては後ほど精しく見る。
宣長は、そうとはっきり書いているわけではないが、第十九章の冒頭に小林氏が引いている真淵の言葉は、「新上屋」でも語られたと解していいだろう。真淵がこのような話をしなかったとは言えないと小林氏も言っている。
真淵は、続けてこう諭した。
――然るに、そのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ。さる故に、吾は、まづもはら万葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ学びなば、其心ざしとぐること有べし。……
真淵は『萬葉考』に着手した年、六十歳だった。自分にはもう時間がない、だが貴君は若い、今から怠ることなく学べば古学の志を遂げられるだろう……、
――たゞし、世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を経ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだに、うることあたはず。まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり。此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ。わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ。ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、……
「ひがこと」は、事実や道理に合わないこと、である。
――此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ万葉集に、心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみ説る趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける。……
「から意」は「漢意」、中国から来た理詰めのものの考え方で、宣長が最も嫌った「さかしら」である。
ここまで引いて、小林氏は言う。
――右は、晩年の宣長が、「あがたゐのうしの御さとし言」として回想したところである。その通りだったであろう。ただ、こういう事は言える。学問の要は、「古言を得る」という「低き所」を固めるにある、これを怠って、「高き所」を求めんとしても徒事である、そう真淵から言われただけで、宣長が感服したわけはない。その事なら、宣長は早くから契沖に教えられていたのだし、真淵にしても、この考えを、自家の発明と思っていたわけではない。この晩成の大学者が、壮年期、郷里を去って身を投じた江戸の学問界は、徂徠学の盛時に当っていた。「心法理窟の沙汰」の高き所に心を奪われてはならぬ、「今日の学問はひきくひらたく只文章を会得する事に止り候」(「徂徠先生答問書」下)と思え。これが、古文辞学の学則であった。だが、学則の真意は、これを実行した人にしか現れはしないし、「低き所をかためる」為に、全人格を働かせてみて、其処に現れて来る意味が、どんなに豊かなものかを悟るには、大才を要するであろう。真淵が「万葉」について行ったのはそれである。……
ではその「低き所」は、どのように「かため」られたか。
――ここに彼の経験談を引いて置く。読者は、仁斎の使った「体翫」という言葉を、そっくりそのまま真淵の「万葉」体翫と使ってよい事を、納得されるであろう。……
小林氏はそう言って、真淵の「万葉解通釈并釈例」から引く。
――万葉を読んには、今の点本を以て、意をば求めずして、五行よむべし。其時、大既訓例も語例も、前後に相照されて、おのづから覚ゆべし。さて後に、意を大かたに吟味する事一行して、其後、活本に今本を以て、字の異を傍書し置て、無点にて読べし。初はいと心得がたく、又はおもひの外に、先訓を思ひ出られて、よまるゝ事有べし。極めてよまれぬ所々をば、又点本を見るべし。実によくよみけりとおもはるゝも、其時に多かるべし。かくする事数篇に及で後、古事記以下和名抄までの古書を、何となく見るべし。其古事記、日本紀或は式の祝詞ノ部、代々の宣命の文などを見て、又万葉の無点本を取て見ば、独大半明らかなるべし。それにつきては、今の訓点かく有まじきか、又はいとよく訓ぜし、又は決て誤れりといふ事を知、且文字の誤、衍字、脱字ならんといふ事をも、疑出来べし。疑ありとも、意におもひ得んとすれば、また僻事出来るなり。千万の疑を心に記し置時は、書は勿論、今時の諸国の方言俗語までも、見る度聞ごとに得る事あり。さて後ぞ、案をめぐらすに、おもひの外の所に、定説を得るものなり。然る時は、点本はかつて見んもうるさくなるべし、其心を得る人も、傍訓にめうつりして、心づくべき所も、よみ過さるゝ故に、後には訓あるは害なり」(「万葉解通釈并釈例」)……
「点本」とは仮名や返り点などの訓点、すなわち訓み方が付してある本である。「意をば求めずして、五行よむべし」は、最初は意味をとろうとせずに繰り返して五回読め、である。すると、同じ言葉が何度か出てくるうち、その使われ方が互いに作用しあっておのずと訓み方や意味が会得されてくる、と言う。「無点」は訓点の付されていない状態である。「和名抄」は、平安時代中期に成った日本最初の漢和辞書、「日本紀」は『日本書紀』、「式」は平安期の律(刑法)と令(民法に相当)に関する施行細則で、一般には延喜五年(九〇五)、醍醐天皇の勅によって撰進された「延喜式」をさす。「祝詞」は神道で神に対して奏上する言葉、「宣命」は天皇の勅を伝える文書の一つであるが、こうして真淵が「万葉解通釈并釈例」で言っていることも「新上屋」で宣長に言われたと想像してみて差支えなく、
――形は教えだが、内容は告白である。宣長は、「源氏」体翫の、自身の経験から、真淵の教えの内容が直知出来なかった筈はない。それが、「此御さとし言の、いとたふとくおぼえける」と言う言葉の意味なのである。……
しかし、そのあたりの機微は宣長自身の言葉から聞き分けるよりないとして、小林氏は第四章にも引いた『玉勝間』二の巻の「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」の件を再び引き、これに続く件を掲げる。
――さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考といふ物を見せたるにぞ、県居ノ大人の御名をも、始めてしりける。かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしも、いできければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに、信ずる心の出来つゝ、つひに、いにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に、思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける。おのが歌まなびの有リしやう、大かたかくのごとくなりき。……
「いにしへぶりのこゝろことば」の「いにしへぶり」は、古代の様式、習慣であるが、では『冠辞考』の「冠辞」とは何か。
――真淵の呼ぶ冠辞とは、言うまでもなく、今日普通枕詞と言われているもので、「記紀」「万葉」等から、枕詞三百四十余りを取り出し、これを五十音順に排列集成して、その語義を説いたのが「冠辞考」である。既に長流も契沖もこの特殊な措辞を枕詞と呼んで、その研究に手を染めてはいたが、真淵の仕事は、長年の苦心経営に成る綿密な組織的なもので、この研究に期を劃した。板行とともに、早速松坂に居た宣長が、これを読んだと言うのだから、余程評判の新刊書だったに相違ない。事実、語義考証の是非について、いろいろな議論が、学界を賑わしたのである。……
たとえば、『古事記』の允恭天皇の条に出る軽太子の歌に、
――阿志比紀能、夜痲陀袁豆久理、夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾……
(あしびきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下娉ひに……)
『日本書紀』の顕宗天皇の条に、
――脚日木此傍山、牡鹿之角挙而吾儛者……
(脚日木の此の傍山に、牡鹿の角を挙げて吾が儛すれば……)
『萬葉集』巻二に、
――足日木乃 山之四付二 妹待跡……
(あしびきの 山のしづくに 妹待つと……)
等々とあり、ここに見られる「あしびきの」が冠辞、枕詞と言われるもので、今日ではこの「あしびきの」は「山」にかかる枕詞と説明されているのだが、やや先へ行って小林氏は言う。
――冠が頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。……
こうした冠辞、枕詞の実際を、いますこし広げて見ておこう。たとえば柿本人麻呂が『萬葉集』に初めて登場する歌は、「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」と題詞がある巻一の次の長歌だが、
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きてあをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも
この歌に見えている「玉たすき」「栂の木の」「そらにみつ」「あをによし」「天離る」「石走る」「霞立つ」「ももしきの」が冠辞、枕詞である。新潮日本古典集成の『萬葉集』には、それぞれ、次にきている「畝傍」「継ぎ継ぎ」「大和」「奈良」「鄙」「近江」「春日」「大宮ところ」にかかる、とある。
だが、こういう冠辞、枕詞は、それぞれどういう意味なのか、歌意や歌体にどう関わっているのかなど、多くは久しく不分明とされがちだった。そこを真淵は精査し、考究したのである。
「あしびきの」については、「やま いは あらし」にかかるとまず示し、次のように言っている。( )内は割注もしくは傍注である。
――古事記に、(允恭の条)阿志比紀能、夜痲陀袁豆久理、顕宗紀に、(室寿の御詞)脚日木、此傍山、万葉巻二に、(大津皇子)足日木乃、山之四付二云云、(集中に此冠辞いと多く、字もさまざまに書たれど皆借字にて、且山に冠らせし意の異なる事なければ、畧てかつかつあぐ) こはいとおもひ定めかねてさまざまの意をいふ也、先私記には、山行之時引足歩也といひたれど、何のよしもなく、一わたりおもひていへる説と聞ゆれはとるにたらず、此冠辞はことに上つ代よりいひ伝へこし物なれば、大かたにて意得へくもあらず、既いへる如く足を引の、足いたむのと様に、用の語より之の辞をいふは、上つ代にはなし、然れは此あしびきのきは、必ず体の語にして、木てふ事ならん、こを以て思ふに神代紀に、軻遇突智命を五きだに斬給へば、その首、身中、腰、手、足、おのおのそれにつけたる、高山、短山、奥山、葉山となれるが中に、足は䨄山祇となりぬといへり、此䨄は借字にて繁木山てふ意也、然れば安志妣木の志妣木は繁木の謂也、さて山はさまざまあれど木繁きをめづれは、怱て山の冠辞とはせしならん、(志美と志妣と、清濁の通ふは例也) 且その繁木の上の阿てふ語には、あまたの説あり、其一つには、本このしぎ山は天にての事也、それがうへに上つ代に物をほめては、香山を天香山、平瓮を天平瓮など様にいひつるなれば、こをもあめの繁木の山といふ意なる歟、天をば、あはれ(天晴)、あをむく(天向)などあとのみいふ事多し、ことに語をつづめて冠辞とせる例なれば也、二つには山をば紀にも集にも青山、青垣山、青菅山などいふが中に、巻二に、青香具山者、畧春山跡、之美佐備立有とよみて、之美は即繁也、これらに依るときは、青繁木の山てふ意なるを、あをのをを畧きしにや、青をあとのみいへる例は、暫おもひ定めぬこと有て挙ねども、語を畧きて冠辞とするは、右にいふが如くなれは、是も強ごとにはあらじかし、三つには、かの足ゆなりつるしぎ山なれは、足繁木之山といふか、かかる上ツ代の哥ことばは、専ら神代のふることをもてよみたりけるをおもへば也、足をあとのみいふは、駒のあおと(足音)、あがき(足掻)てふ類ひ数へがたし、これらいかがあらんや人ただし給へ、思ひ泥みてみづから弁へがたし。……
さらに、
――〇巻三に、(家持)足日木能、石根許其思美、こは奈良の朝となりていといひなれて、あしびきをやがて山のことにいひすゑて、石につづけたる也、〇巻八に、足引乃、許(木)乃間立八十一、霍公鳥、巻十一に、足檜乃、下風吹夜者、〇巻十七に、安之比奇能、乎底母許之毛爾(彼面此面)、等奈美波里などつづけしも、皆今少しあとの事也、(菅原贈太政大臣も、あし引の此方彼方と詠給へり)……
さらに、「後考」とことわって、
――万葉巻十四に、於布之毛等、許乃母登夜麻乃、麻之波爾毛、能良奴伊毛我名、可多爾伊氐牟可母、この上三句は、生る繁本の此本山の真柴の如くにもと云也、本とは木だちをいへり、孝徳天皇紀に、摸謄渠登爾、播那波左該謄摸とよめり、しかれば此生繁本の山てふ言をもて、阿志備木の山といひて冠辞とせし也けり、何ぞといはば、かの之母等は繁木なり、阿之備木の之備木も繁木にて、備の濁ると美と通ふ例も既いへるが如し、かくて阿と於は五十音の始の阿と終の於と隅違に通はし云は譬は母を阿毛とも於毛ともいひ、於多伎を阿多期と云類也、その於布の布を籠てあとのみ云は、生るを於布るといふを、又阿禮ますともいふが如し、此本文はいまだしき考へなれは今改む、……
以上が、『冠辞考』の、「あしびきの」の項の全文である。ここにこの長文を敢えて引用したのは、真淵の精査と考究がどれほどのものであったかを多少なりとも覗ってみたかったこともちろんだが、宣長が『玉勝間』に記した「はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど……」と、当初の疑念から徐々に説得され、ついには信服に至った心の経路を万分の一なりと推察しておきたかったからである。
ただし、こういう枕詞の考察・考究は、真淵が先覚者ではない。小林氏も言っているとおり、下河辺長流と契沖も、真淵に先立つこと六十年ないし七十年前、すでに手を着けていた。長流は『枕詞燭明抄』を残し、契沖は、『萬葉代匠記』の巻頭に「惣釈」を据え、そこに「枕詞」の項を立て、初稿本では長流の『燭明抄』に拠りつつ計三十二語、精選本では本文中で詳説する語も含めると三五〇語近くに考察を巡らしている。ゆえに精選本での語数は真淵の『冠辞考』を上回ると言っていいほどであり、考究の手堅さもけっして真淵に引けをとるものではないのだが、精選本の自筆稿本は水戸光圀に献上されたあと、水戸藩独自の『釈萬葉集』を編むための基礎資料として彰考館に秘蔵され、写本としても版本としても出回ることがなかった、そのため、初稿本しか見ることができなかったのみならず、精撰本についてはそれが存在することすら知る由もなかったと思われる宣長の目には、「契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」と映ったのも無理はないのである。
したがって、現代から見れば、真淵は必ずしも冠辞研究の孤高とは言えないのだが、宣長が「後に、思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」というような言い方をしたのは、かねて宣長には、「いかで古ヘのまことのむねを、かむがへ出む、と思ふこゝろざし」が深かったからであり、下世話に言えば、志という欲が深かったからであり、そこへ「冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなり」、「つひに、いにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事」を悟ったと思えたからである。すなわち、真淵の『冠辞考』は、宣長に「いにしへぶりのこゝろことばのまことに然る事」を悟ったと思わせ、それによって「古へのまことのむね」、すなわち「道の事」へと分け入る入口を示した、『冠辞考』が『玉勝間』で特筆されたのは、そういう含みによってであると思われるのだが、そこをなお先回りして言えば、真淵の『冠辞考』は精査の規模や密度においてのみでなく、言葉の構造論、機能論とも言うべき側面で宣長を刮目させたと小林氏は言うのである。
2
――宝暦十三年という年は、宣長の仕事の上で一転機を劃した年だとは、誰も言うところである。宣長は、「源氏」による「歌まなび」の仕事が完了すると、直ちに「古事記伝」を起草し、「道のまなび」の仕事に没入する。「源氏」をはじめとして、文学の古典に関する、終生続けられた彼の講義は、京都留学を終え、松坂に還って、早々始められているのだが、「日記」によれば、「神代紀開講」とあるのは、真淵の許への入門と殆ど同時である。まるで真淵が、宣長の志を一変させたようにも見える。だが、慎重に準備して、機の熟するのを待っていなかった者に、好機が到来する筈はなかったであろう。……
ここで今一度、「影響」という言葉を想起し、そしてただちに忘れよう。宣長の古学は、真淵の影響によったのではない、宣長の内側での自発によった。この自発ということについて、小林氏は第四章に、やはり『玉勝間』の二の巻から引いてこう言っていた。
――ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……
この、宣長の思想から得ていた「自発性の感触」が、第十九章では小林氏にこう言わせるのである。
――彼の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。……
しかし、後世の学問界、思想界といった外の眼は、これを「自然」とは見なかった。「源氏物語」の読みではあれほど明晰、実証的だった宣長が、「古事記」では迷妄、独断に走ったと見た。そこを小林氏は、宣長の学問の「内的必然の律動」を聴き取って言う。
――「歌まなび」と「道のまなび」との二つの観念の間に、宣長にとって飛躍や矛盾は考えられていなかった。「物のあはれ」を論ずる筋の通った実証家と、「神ながらの道」を説く混乱した独断家が、宣長のうちに対立していたわけではない。だが、私達の持っている学問に関する、特にその実証性、合理性、進歩性に関する通念は、まことに頑固なものであり、宣長の仕事のうちに、どうしても折合のつかぬ美点と弱点との混在を見附け、様々な条件から未熟たらざるを得なかった学問の組織として、これを性急に理解したがる。それと言うのも、元はと言えば、観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描く事が、大変困難になったところから来ている。……
学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、小林氏がここで言っていることを裏側から読めば、当節の学者は学者ですらないが、思想家などではさらさらない、ということになるだろう。小林氏は、かつて「イデオロギイの問題」(『小林秀雄全作品』第12集所収)で言っていた、
――僕はマルクシストではないが、彼の著書から、いかにも自己というものを確実に捉えている彼の精神の強さは学んだ。これは何もマルクスに限らぬが、そういうしっかりと自分になり切った強い精神の動きが、本当の意味で思想と呼ぶべきものだと考える。だから出来上った形となったイデオロギイの方は模倣し得ても、その内的な源泉は模倣し得ない。マルクスが晩年、自分はマルクシストではない、と言ったという有名な逸話は、本当であろうと思う。……
思想とは、自己というものを確実に捉え、しっかりと自分になりきった強い精神の動きだと小林氏は言う。その「僕の精神」は、日々、
――何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても思想とはそういうものであろうと思う。……
そしてここから小林氏は、「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言ったのである、
――思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の目覚めた表現である。中途半端な理想論を笑うことは出来るが、徹底した理想を誰も笑うことは出来ない。はっきり見るだけでは足らず、はっきり欲しようとしなければ、あるいは外部の保証だけでは足らず、自分の個性的な命の保証を求めようとしなければ、思想というものはあり得ない。……
こういう、日常生活においては誰もが行っている思想活動により身を入れ、より確かな「現実を超えようとする精神の目覚めた表現」を得ようと邁進して初めて思想家と呼ばれ得るのだが、現代の学問界で絶対的テーゼとされている実証性、合理性、進歩性等々に縛られていては、「しっかりと自分になりきった強い精神の動き」も「現実を超えようとする精神の目覚めた表現」も望めまい。
だが、宣長は、学者であると同時に思想家であった、「外部の保証だけでは足らず、自分の個性的な命の保証を求め」てやまなかった。「古事記の注釈を物せむのこゝろざし」という早くからの宣長自身の自発性に駆られ、「はっきり見るだけでは足らず、はっきり欲しようとし」て『冠辞考』を読んだ。
ところが、その「欲しようとし」たものには、なかなか手が届かなかった。
――宣長が回想文で、われ知らず追っているものは、言わば書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性であり、その動きの中で、真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。……
――宣長の回想によると、彼のこの書の受取り方には、この書の評判の外にある、何か孤独なものが感じられる。彼は、これを一読して、「さらに思ひもかけぬ」「あまりこととほく、あやしき」ものと見たが、この「さらに信ずる心はあらざりし」という著作が、次第に信じられ、遂に、かの契沖の「万葉」研究も、「なほいまだしきこと」と言えるようになるまで、長い間の熟読を要したと言うのは、どういう意味であろう。……
――恐らく、宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった、と語っていると解する他はないように思う。「冠辞考」には、専門家の調査によると、例えば、延約略通の音韻変化というような、大変無理な法則が用いられていて、「冠辞考」を信じた宣長は、その為に、後日、多くの失考を「古事記伝」の中に持ち込む事となったという(大野晋氏、「古事記伝解題」)。そうには違いないとしても、私の興味は、無理を信じさせた真淵の根本思想の方に向く。仕事の企図を説いてはいるが、直観と情熱とに駆られて、走るが如き難解な、真淵の序文を、くり返し読みながら、私は、そういう事をしきりに思った。……
――真淵が、この古い措辞を、改めて吟味しようとした頃には、この言葉は既に殆ど死語と化して、歌人等により、意味不明のままに、歌の本意とは関係なく、ただ古来伝世の用例として踏襲されていた。死語は生前どんな風に生きていたか。例えば、冠辞の発明、活用にかけて、人麿は「万葉」随一の達人ではあったが、彼が独力でこれに成功したわけはなかろう。彼が歌ったように「言霊の佐くる国」に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼が、この大歌人の才を保証していたであろう。真淵がひたすら想い描こうとしたのはそれである。……
「『言霊の佐くる国』に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼」、真淵は、ひたすら柿本人麻呂を頂点とする萬葉歌人たちの言葉の現れ方を思い描こうとした。小林氏が、「宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった」と言った「真淵の強い精神」とは、ひとつにはこれであろう。
では真淵は、人麻呂たちが寄せていた「長い言語伝統への全幅の信頼」を、どういうふうに思い描いたか。「言語伝統への信頼」ということは、歌語という歌語すべてについて言えることだが、その「信頼」が最も自然に、必然的に託されているのが冠辞、枕詞であると真淵は見た。ゆえに、
――「万葉」の世界で、豊かに強く生きていたこの措辞の意味を、後世のさかしら心に得ようとしてもかなわぬ。強いて定義しようとすれば、その生態が逃げて了うであろう。この言葉の姿をひたぶるに感ずる他はない。真淵はそう言いたいのである。彼は感じたところを言うだけだ、冠辞とは、「たゞ歌の調べのたらはぬを、とゝのへるより起て、かたへは、詞を飾るもの」であると。事は、歌の調べ、詞の飾りの感じ方に関わる。真淵は言う、「いとしもかみつ世には、人の心しなほかりければ、言語も少なく、かたち、よそひも、かりそめになん有けらし」。それが、やがて「身に冠りあり、衣あり、沓あり、心にうれしみあり、悲しみあり、こひしみあり、にくしみあり」という事になる。詞の飾りに慣れ、これを弄ぶ後世人は、詞の飾りの発生が、身のよそおいと同じく、いかに自然であり、生活の上で必要であったかを忘れている。……
――冠辞が普通五音から成っているのも、わが国の歌が五七調を基調としているからであり、詞の飾りも、真淵に言わせれば、「おのづから天つちのしらべ」に乗らざるを得なかった。歌が短歌の形に整備された「万葉」の頃となっても、「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という状態は依然として続いていたのであって、この状態を土台として、歌人等にあって、冠辞という一種の修辞の盛行を見たというのが真淵の考えだ。時代は下ったが、「心は上つ世の片歌にことならず、ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れゝば也、譬ば貴人のよき冠りのうへに、うるはしき花挿らんが如し」。……
――真淵の基本的な考えは、「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という言葉にあると言ってよいと思う。(中略)彼は又こうも言っている、「心ひたぶるに、言のすくなきをおもへば、名は後にして、事はさきにし有べし」――冠辞という名が生れて来る必然性は、「心ひたぶるに、言のすくなき」という歌人の健全な、緊張した内的経験に由来するのである。冠辞は、勿論理論にも実用にも無関係な措辞だが、思い附きの贅語でもない。ひたすら言語の表現力を信ずる歌人の純粋な喜び、尋常な努力の産物である。……
――「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、仇し語を本に冠ら」す、――調べを命とする歌の世界では、そういう事が極く自然に起る。適切な表現が見つからず、而も表現を求めて止まぬ「ひたぶるなる思ひ」が、何よりも先ず、その不安から脱れようとするのは当り前の事だ。自身の調べを整えるのが先決であり、思う事を言うのは末である。この必要に応ずる言葉が見附かるなら、「仇し語」であっても差支えあるまい。或はこの何処からとは知れず、調べに送られて現れて来る言葉は、なるほど「仇し語」に違いあるまいとも言えよう。それで歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事になろう。いずれにせよ、言語の表現性に鋭敏な歌人等は、「言霊の佐くる国」「言霊の幸ふ国」を一歩も出られはしない。冠辞とは、「かりそめなる冠」を、「いつとなく身にそへ来たれるがごと」く用いられた措辞であり、歌人は冠辞について、新たな工夫は出来たであろうが、冠辞という「よそほひ」の発生が必至である言語構造自体は、彼にとっては、絶対的な与件であろう。……
――真淵が抱いていた基本的な直観は、今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーアの価値に関して働いていたと言ってよいであろう。どこの国の文学史にも、詩が散文に先行するのが見られるが、一般に言語活動の上から言っても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸をとり集めて成っている。これは言語学の常識だ。……
「メタフォーア」とは、「隠喩法」である。『日本国語大辞典』には、「メタファー」と見出し語を立て、「ある名辞の元の概念から、よく似てはいるが別の概念に代えて、その名辞を使う比喩的表現」とあり、「隠喩法」の項では「修辞法の一つ。たとえを引いて表現するのに『のごとし』『のようだ』などの語句を用いない方法」と言って「人生は旅だ」「名を流す」等を例に挙げ、この隠喩という修辞法は、「文勢をひきしめ、印象を強める効果をもつ」と言っている。だが、小林氏が真淵の冠辞体験から連想した「メタフォーア」は、それだけではないようだ、氏の念頭には、孔子が言った「興の功」があったと思われる。小林氏は続けて言う。
――素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性を覆うわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう。「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を、そう解してもよいだろう。……
――この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗な傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙を埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。……
3
小林氏は、いま私が当面している第十九章からではかなり先になるが、宣長の学問が荻生徂徠の影響下にあったことに言及する第三十二章で、こう言っている。
――ここで、真淵の「冠辞考」について書いたところを、思い出して貰ってもいいと思う。「冠辞考」は、宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究であった。宣長の思想に大きく影響したものであった。真淵の文から浮び上って来るものは、やはり徂徠の言語観である。真淵が冠辞の名の下に直面したのは、徂徠の言う、詩に於ける「興之功」に他ならなかった。……
――孔子は、詩の特色として、興、観、羣、怨の四つをあげているが、肝腎なのは、興と観である、本文を古言通りに読むなら、そう考えざるを得ない、と徂徠は言う。……
徂徠の主著に、『論語徴』がある。宣長は京都遊学中にこれを書き写していた。
――宣長が書写した「論語徴」の全文は、「詩之用」は、「興之功」「観之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。……
ではその、物の意味に関する語の用法、「興之功」とは何か。
――徂徠が、「引譬連類」(譬へを引きて類を連ぬ/池田注記)という興の古註を是とする時に、考えているのは、言わば、言語の本能としての、比喩の働きであって、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。言葉の意味は、「其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテ已マズ」と、彼は言っているが、そういう言語の意味の発展の動力として、本来、言語に備っている比喩の働きが考えられている。この働きは、――「典常ヲ為サズ、類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、愈出デテ愈新タナリ。辟ヘバ繭ノ緒ヲ抽クガ如ク、諸ヲ燧ノ薪ニ傅クニ比ス」と徂徠は言っている。……
先に、「メタファー」の訳語として『日本国語大辞典』から「隠喩法」を引き、「隠喩法」とは比喩的表現のひとつである、という意味のことを言ったが、小林氏がここで言っているところからより精密に言えば、「メタファー」の「比喩」は私たちがふだん口にしたり目にしたりしている人為的な「比喩」ではない、言語というものにもともと備わっている機能としての「比喩」である、私たちに比較的なじみの深い言い方で言えば、「言葉が言葉を呼ぶ」という現象である。そういう言葉の働きを、徂徠は、言葉は同類の語とすぐに結びついて連なり、新たな意味の世界を次々と生み出す、それはまさに繭から糸を紡ぐようにであり、火打石の火が薪につくようにである、したがって、言葉は常に同じではない、これが言葉の「興之功」ということである、と言った。
小林氏が、宣長の『玉勝間』に、
――真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。……
と言った自問、その自問に対する自答は、
――恐らく、宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった、と語っていると解する他はないように思う。……
であるが、「紙背に感じられた真淵の精神」とは、詩人、歌人の精神とともに言語学者の精神であった。小林氏に導かれてここまで辿ってきてみると、宣長が「思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」と言った「思ひくらぶれば」は、真淵が冠辞に即して示唆した「メタフォーア」に関してであったと解することもできるのだが、しかし宣長は、真淵の紙背に徂徠の精神をも感じていた。宣長は京都で徂徠の『論語徴』を写していたが、言葉は「類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、愈出デテ愈新タナリ」という徂徠の言も、自らの詠歌の経験に照らして得心していただろう。しかし、それでもやはり、これは孔子が残した「言葉の興の功」に対する注解文として受け止めるに留まっていたかも知れない。ところが、松坂へ帰り、『冠辞考』と出会い、そこに続々と現れた、徂徠が言ったとおりの言葉の躍動を目の当たりにして、断然奮い立つものがあったのではあるまいか。
これが、『冠辞考』が宣長に、「歌まなび」から「道のまなび」に転ずる切っかけを作った、ということのようなのだ、が、そこには、「切っかけ」という以上のものがあった。宣長自身、『玉勝間』二の巻でこう言っていた。
――さて又道の学びは、(中略)はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてて、わざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、(中略)かの冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへて、せちなりしに、……
ここからすれば、すでに宣長には二十歳の頃から「道の学び」の素志があり、その素志が三十歳を過ぎたころ、『冠辞考』と出会った、この出会いによって「道の学び」の素志がいっそう固まったのだが、その『冠辞考』との出会いは、とりもなおさず「古言の興之功」との出会いであった。こうして宣長は、「道の学び」の「ひきゝところ」(低きところ)は「古言の興之功」にあり、「学び」の要諦はその体翫にあると自得し、そう自得すると同時に「言葉のふり」に目覚めた、これが、小林氏の言う、『冠辞考』が「歌まなび」から「道のまなび」に転ずる切っかけを作った、ということなのではあるまいか。
そこをひとまず、急ぎ足で言ってしまえば、宣長は「歌まなび」、すなわち「源氏物語」の愛読では言葉の文を味わい尽そうとした、しかし「道のまなび」、すなわち「古事記」の註釈にあたっては、言葉の「ふり」を感じ尽す、そこに気づいた。爾後宣長は『古事記』の言葉の「ふり」に一心不乱となり、その「ふり」を感得し尽したよろこびが、『古事記伝』を書き上げて詠んだ歌、
古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし
となった。
さらには、こうも言えるだろう。定家、契沖に言われて「源氏物語」で実践した「詞花言葉を翫ぶべし」を、『古事記』でも実践する、そうすれば必ずや『古事記』にも『古事記』の「もののあはれを知る道」が見えてくるはずだ、その『古事記』の「もののあはれを知る道」は、古言の「ふり」に映っているはずだ……、宣長の胸中には、そういう思いが自ずと浮んでいただろう。
小林氏は、第二十八章で言っている、
――宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに摑んだが、その素早い端的な摑み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。……
(第二十八回 了)