小林秀雄氏の考える「宣長問題」

松広 一良

「宣長問題」とは加藤周一氏が初めて使った言葉であり、「宣長の古代日本語研究がその緻密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは何故か」というものだった。その「宣長問題」について小林秀雄氏(以下、氏と略)は著書「本居宣長」第四十章で「宣長の皇国の古伝説崇拝は、狂信というより他はないものにまでなっているが、そういう弱点を度外視すれば、彼の学問の優秀性は疑えないという意見は、今日も通用している」としている。そして氏は「新潮CD、小林秀雄講演第三巻『本居宣長』」において「宣長にそのような二重性はない」と明言し、さらに「それをあきらかにした経緯が著書『本居宣長』には書いてある」と言っている。ここでは氏の「本居宣長」においてその経緯がどのように記されているかを追い掛け、なぜ「宣長にそのような二重性はない」といえるのかを明らかにしたい。

 

氏は宣長の人柄に魅かれ、その思想に感じ入るまでにいたっていた。それは「宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい」の表現に現れている。しかも遺言書を「信念の披瀝」とまで言っている。そして宣長を「健全な思想家」で「誠実な思想家」であると言うとともに「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものでもあった」と言いつつ、しかしながら「傍観的な、或いは一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼(=宣長)の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今も変わりはないようだ」と宣長を取り巻く風潮を指摘する。そうした風潮に関して「決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれている」村岡典嗣氏ですらも「宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しい」と氏はしたうえで、氏自身は「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は自明な事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は彼について書きたいという希いとどうやら区別し難い」と言うとともに「宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところ」と言っていた。そして「この名優(=宣長)によって演じられたのは、我が国の思想史の上での極めて高度な事件であった」と言って「彼(=宣長)の演じた思想劇」を辿っていったのだった。

 

「宣長問題」について「本居宣長」の第四十章ではまず村岡氏の見解を紹介している。村岡氏は「皇国の古へを明らめる」のを目指した宣長学について、「宣長学は、文献学たる埒外を出でて、単に古代人の意識を理解するに止まらないで、その理解したところを、やがて、自己の学説、自己の主義として唱導するに至っている」と言ったが、それに対して氏は「理解する所と唱導する所とが一体となって生きている、宣長というたった一つの個性の姿が、先ず心眼に映じているという事がなければならない」にもかかわらず、村岡氏にはそれがないと言う。それがなければ宣長が「どういう風に(自身の学問に)開眼するに至ったかという、宣長の思想の自発性には触れる事は出来まい。それを逃しているのでは、宣長の個性に推参したと見えても、やはり、これに到着せず、……」と言って村岡氏に反論するのだった。

 

その宣長の思想の自発性については「玉勝間」(二の巻)を引用して述べている。そこでは「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、……くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに……」を引き、氏は「ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう」と言う。さらに「『あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに』という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には彼自身にとって外的なものはほとんどないのである」と言うのだが、これこそは宣長の思想の自発性の実体と思われた。

 

宣長の開眼に関しては「本居宣長」において上述の村岡氏に対する反論の直後に記載があり、それは「『源氏』による開眼」に関する内容ではあるものの、重要なのは宣長が「何に開眼したか」ではなく「どういう風に開眼するに至ったか」だった。開眼そのものについては「源氏物語」論である「紫文要領」の「後記」を引用して語っており、それによれば氏は宣長が「此の物語(=源氏物語)を読み、考えさとった肝腎のところは、突如として物が見えて来た」、「決して順序を踏んだ結論というものではなかった」と言う。そして宣長にはその開眼について「非常に鋭い意識」があり、そのために「必人をもて言をすつる事なかれ」「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」という「二つの警告めいた言葉」を吐いたと言う。そして宣長は全く異なる新しさに読者に注意を促し「見む人あやしむ事なかれ」と言ったのだが、氏はその真意はむしろ充分怪しんで欲しい、自分の考えには見る人を怪しませずにはおかない本質的な新しさがある事に注目して欲しいという事だったと言う。さらに「(宣長が)ただこれはと驚く新しい発見をした」、「そういう自分の極めて自然な行為が、見る人の怪しむような姿となって、現れることになったのなら、これは致し方のない事ではないか」と言って、上述の「二つの警告めいた言葉」になったと言うのだった。以上が宣長が「どういう風に開眼するに至ったか」の全貌であり、これは「源氏物語」のみならず「宣長学」においても同様と考えてよいのだった。

 

 「源氏物語」体験が「宣長問題」の背景となる理由については宣長が70歳のころに書いた「玉勝間」(七の巻)にあり、その内容はまず「本居宣長」第四十章で述べられている。それによれば「宣長の学問は、歌の事から、道の事に進んだが、」「出来上がった彼の学問では、道の正しさと歌の美さとの間に、本質的な区別など立てられはしなかった」のであり、「同じ真実が、道となって現れもするし、歌となって現れもする、と言っても差支えない」のだった。そして「本居宣長」第十二章でも「古書を直かに味読して、その在るがままの古意を得ようと努める他に、別に仔細はない」のが宣長の学問であり、「全く無私な態度で、古書に推参すれば、古書は、誰にも納得のいく平明な真理を、向うから明かす筈」であって、宣長はその「『いかにもいかにも、世にひろくせまほし』いものが、私智を混えぬ学問上の真である事を信じていた」のであり、「そういう学問の組織なり構造なりは、『露ものこしめ』る必要のない、明らさまなものと考えていた」、つまり「源氏物語」にせよ「古事記」にせよ、明かした真理を全く隠すことなく世に広く知らしめるのが学問と心得ていたのだった。さらに「古事記」について宣長は「本居宣長」第四十三章にあるように「神の物語の呈する、分別を超えた趣を、『あはれ』と見て、この外へは、決して出ようとしなかった」のであり、そうする事によって「何事も、古書によりて、その本を考え、上代の事を、つまびらかに明らむる学問」をしたのであって、宣長も氏も古伝説が分別を超えていたことは承知の上なのだった。また「本居宣長」第五十章にあるように宣長には「古人の心をわが心としなければ、古学は、その正当な意味を失うという確信」があった。それは「古伝説の内容と考えられていたもの、宣長の言う、『神代の始メの趣』と素直に受け取られたものも、古伝説の作者達からすれば、自由に扱える素材を出ないからだ。そこまで遡って、彼らの扱い方が捕らえられなければ学問は完了しない」と考えていたからだった。加えて「本居宣長」第四十九章にあるように、宣長は「真を見分ることをばえせずして、ただ贋に欺かれざる事を、かしこげにいひなせる」学者を「なまさかしらといふ物」と難じていた。「偽を避けんとする心」ではなく「真を得んとする心」が大事と言うのだった。それは「生活の上で、真を求めて前進する人々は、真を得んとして誤る危険を、決して……恐れるものではない」と考えていたからだった。

 

以上により、宣長の古伝説崇拝は外見上狂信に見えただけであり、「宣長問題」で話題になるような二重性などないのであって、宣長本人は他人の思惑など頓着せずに信念を以て古学を進めていただけなのだった。

(了)