宣長の人

村上 哲

本居宣長という人について知るほどに、この人が学問に向かう態度、そしておそらく、生活に向かう態度にも、余人には解き明かしがたい妙があることを、感じずにはいられない。このあやしさが宣長の業績を支えたものである、などと、短絡的に言うつもりはない。むしろ、この妙を生涯損なうことのなかった本居宣長という人を、私は知りたいらしい。

この点について、小林秀雄という力強い目が見定めた言葉を、まずは聞いてもらいたい。

 

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。(新潮社刊、『小林秀雄全作品』第27集p.46)

 

思想と生活のわきまえ、と言えば、珍しい話とも見えまいが、宣長ほど、両者の微妙な関係を忍耐強く保ち続けた人は、そう多くないだろう。宣長が、思想と実生活を無関係と断じ空理に遊ぶ学者でないことは論を待つまでもないが、しかし、生活に思想を屈服させることもなければ、思想に沿わぬ生活を拒絶することもなかった。宣長は、やってくる事態をそのまま迎え、よく吟味して事に当たり続けた。

でなければ、賀茂真淵や世の学者達がつまずいた「人代を尽て、神代をうかゞふ」解法を避け、「いにしへの てぶりことゝひ」をながめる穏やかな目で古事のふみをよむことなど、出来なかっただろう。とはいえ、この言い方は先回りが過ぎる。話を戻そう。

では、この弁えを保ち続けた宣長において、この、思想と生活の結合点は、どこにあったのか。それはもちろん、本居宣長その人だ。と言うより、自分以外のところで生活と結びつくような思想など、彼には無用であった。おそらくここにおいて、本居宣長という学問の文体が綴られている。

 

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。(同第27集p.39)

 

なるほど、「知的に構成」されなければ、学問は残るまい。だが、知性の、才学の求めるまま、構成するために誂えられた言葉から生活に向かう道はあるまいし、強いてその道を通せば、それは才学のために誂えられた生活にしかなるまい。

生活の中で芽吹き、育った思想が、やがて自足し、ついに生活を照らすに至る。お仕着せの学識ではなく、自得された学問を開く上で、宣長のこの困難は、必須のものであった。いや、この困難を避けなかったところにこそ、宣長の学問がある、そう言った方がいいだろう。詠歌を好む宣長にとって、学問の上とはいえ、表現の困難を避けることは、そのまま、学問を避けることだったのかもしれない。

そんな、いうなれば本居宣長という個性そのものと結びついた宿命的困難と共に、宣長という学問はいかにして歩んで行ったのか。それを、まさに宣長とともに歩み続けたのが、小林秀雄の『本居宣長』という大著であるが、その中で、特に、私の眼に強く残った宣長の姿が、ひとつある。

 

宣長という人は、学問の上で、人をたずね続けた人だ。

 

例えば、当時の学問の代名詞とも言える儒学においても、宣長は、先王の祖述を貫いた孔子という人に会いに行くことを求めていたように見える。「論語」に残された孔子の弟子達の筆録にすら飽き足らず、その向こうにいる孔子の姿を見ることこそが、宣長にとって儒学を学ぶということだった。

 

―宣長にとって、所謂「聖人のたぐひ」と、自分が見て取った「孔子といふよき人」とは、別々のものであった。彼は、当時の儒学の通念を攻撃して止まなかったが、孔子という人間に、文句をつける理由は、見附からなかったであろう。(同第27集p.63)

―彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。(同第27集p.65)

 

「源氏物語」においても、宣長は紫式部に出会うことを、それも、「史実」と呼ばれるような実証的に構築された「紫式部」ではなく、「源氏物語」の奥に座し、物語る式部の声を聞きにいった。むろんそれは、一人の愛読者として当然の姿勢であろうが、どれほど意識的に「源氏物語」を読み解く時も、常に、この、愛読者としての姿勢を崩さなかったことが、宣長という「源氏」注釈者の、最大の特徴をなしている。

 

―彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」(中略)宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。彼の心のうちで、作者の天才が目覚める、そういう風に読んだ。(同第27集p.138)

 

当然、「古事記伝」という大旅行においても、宣長のこの姿勢が変わることはなかった。むしろ、編纂者はいても明瞭な作者と呼べる人はいない「古事記」のなかで、今代から見れば独特な、しかしその本来の姿でもある、「物語り」というモノをよみがえらせる道行きにおいて、宣長はこの姿勢を崩さぬよう努めた、とすら、言っていいだろう。遠き代の、語り合うだけで足らぬことなどなかった言葉が、外来の文字と未だまったくなじんでいなかった、そんな時代に編まれた難解な文体を、比類なき知性とこの上ない実証性をもって丁寧に解き明かしながら、一人の愛読者として、いや、一人の聞き手として、語り部から眼を滑らせぬよう、全霊を傾けて努めた。

 

―「古事記伝」が完成した寛政十年、「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題、披書視古、―古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿」詠稿十八)。これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。(同第27集p.349)

 

そして、人と人が語らうのは、生活感情に根を下ろし、生き生きと動く言葉であり、才学のうちに篭り、整理されることを期待して固定化した定義を示す言葉でないことは、私達が常日頃から知るところだろう。もっとも、どれほど誤解を恐れ固定化された言葉であっても、ひとたび人々の語らいの中に投げ込まれれば、その命を吹き返し、固定化に抵抗する命の根源的性質が、定義の枠から逃れんと画策を始めてしまうものだ。

誤解の余地のない言葉などと言うものは、宣長にとってはまったく考えられないものだっただろう。「生活感情に染められた文体」とは、ただ、実生活の中で使われる言葉や言い回しを使った文体ということではあるまい。およそ、言葉の命というものを感じ、そこに身を任せ、時にままならぬ言葉と格闘する、そんな、日々行われる言葉とのやり取りから逃げない、いや、逃れ得ないということを自覚した姿だ。生きた言葉とのやり取りが結ぶ「ふみの姿」だ。

どれほど知的に構成され、厳密に組み上げられた思想であっても、それを表現しようとすれば、この困難を逃れることはできない。いや、この困難を逃れてしまえるならば、それはただの空理に過ぎまい。まして、古書に残された文を通さねば知ることもできない古の人々の心を明らめんとするなら、それは、彼らの持っていたこの困難をこそ、知らねばならない。

宣長のこの困難は、本来、宣長だけが持ちえたものではない。むしろ、誰もが持つこの困難から、とうとう眼を背けなかったところに、人をたずね、人に学び、人と語らい続けた、本居宣長という学問が開けているのだろう。

 

―古人のココロのうちに居て、その意を通して口を利いてみなければ、どうして古語の義などが解けようか。古人にとって、「高天原たかまのはら」という言葉を正しく使う事と、「高天原」という物を正しく知る事とが、どうして区別出来ようか。言葉の使い方は、物の見方に、どう仕様もなく見合うものだ。「見る」「知る」「語る」という私達の働きは、特に意識して離そうとしない限り、一体をなしている。このように考える宣長と、「朴陋ぼくろうの俗」を批判し、観察して古人を知ろうとした白石とは、事ごとに話が食違う事になる。(同第27集p.357)

 

―宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「情」を、しっくりと取り巻いている、「物の意、事の意」を知る働きでもあったからだ。(同第28集p.209)

 

(了)