「しっかり納得できればよい」

荻野 徹

若い男女、小林秀雄「本居宣長」を学ぶ仲間だ。普段やたら元気のいい娘が何やら所在なげだ。気弱な男子がおずおずと話しかける。

―今度の自問自答、どうするの?

うん、まだ全然。でも、気になるトコは、あるにはある。熟視対象かな。「本居宣長」16章の終わりの方なんだけど、次のところ。

……式部が、創作の為に、昔物語の「しどけなく書ける」形式を選んだのは、無論「わざとの事」だった。彼女は、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたのだが、恐らくこの名優は、観客の為に、古女房になり切って演じつつ、演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった。物語とは「神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」という言葉は、其処から発言されている、言わば、この名優の科白なのであって、これを動機づけているものは、「史記」という大事実談が居坐った、当時の知識人の教養などとは何の関係もない。式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる。……(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集180頁。以下引用は同作品集から)

―気になるって、どの辺?

古女房の語り口を「演じる」とか、「この名優」とか、「演技の意味」とか、繰り返し出て来る。「演じる」って、文章を「書く」のとは、違うよね。まず、相手が目の前にいる。その人に向かって、自分で声を出す。声だけじゃなくて、顔つきとか、身振り手振りとか、なんとなくの雰囲気とかで、全然違ってくるよね。

―話し言葉と書き言葉の違いかな?

そうだね。もともと文字なんかなかったんだし。それに、文字で書けば同じ言葉でも、どういう場面で、誰が誰に、どんなふうに言うのかで、全然意味が違う。

―話し言葉の方が、多義的で、曖昧だということ?

そういうことじゃないよ。人と人の間で、何かが伝わるというのは、話す人がいて、その話に耳を傾ける人がいて、お互いを信じる気持ちになって、初めて成り立つ。「話し合う」こと、「かたらふ」ことが、そもそもの始まりだよ。

―ああ、そうか。小林秀雄先生も、すぐあとの箇所で、「『かたる』とは『かたらふ』事だ」(第27集181頁)として、その辺りのことを論じているね。

見聞きした出来事とか、自分たちの喜怒哀楽とか、まずは相手に語りかける。それに聞き手が耳を傾ける。互いに想像力を働かせ、それはそうだと信じる。こんなふうにして、人びとが心を通わせ、何かが伝わる。そこで伝わった何かが、多くの人びとに共有され、伝承されることで、物語が生まれた、ということだと思う。

―それが、「演技」につながるの?

式部ちゃんとしては、光の君の物語を「かたらふ」ことに集中してたんじゃないかな。人々との「かたらひ」が成立しないと伝わらないから、語り口に工夫を凝らした。

―そのため、「昔物語の『しどけなく書ける』形式を選んだ」ということだね、

うん。式部ちゃんという名優が、観客のために、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたというわけ。そうすることで、書き手と読み手とが、「かたらふ」ことになり、物語に出て来る様々な事柄の意味合や価値が伝わっていくということかな。

―それは、式部の独創なの?

そうじゃない。そういう物事の伝え方というか、伝わり方というか、神々の物語以来の、「国ぶりの物語の伝統」なんだろうね。それを見事に演じた式部ちゃんは、「物語の生命を、その源泉で飲んでいる」。激ヤバだよね。

―物語の内容ではなく、語り口に注力したということ?

てゆーかあ。小林先生も「(元来物語というものは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、ただ、かたそばかし。これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」という「蛍の巻」の源氏の言葉を引いているよね。朝廷の正史は、あくまで公式の歴史書で、政府の公式見解が書いてあるにすぎない。人々の暮らしや気持ちは、神々の物語以来の物語に記され、伝えられている。「源氏物語」も、正史には書かれようのない複雑な人間関係や多様な恋愛感情などあれこれを、「そらごと」に仕立て、しどけなく語ることで、人のこころの「まこと」を書こうとした。この点からも、日本古来の物語の魂を受け継いだってことかな。

―小林先生は、さらに、式部は「演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった」とも書いているね。

ここヤバイよねえ。名演技をしつつ失わなかった自己って、なんだろう。

―次の17章に入ると、古女房の話が出て来るね。「式部は、古女房に成りすまして語りかける」とか、「宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる」とか。

チョーむずかしい。「ははきぎ」冒頭の「光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたまふ咎おほかなるに、……(例えば)交野の少将(の如き昔物語の好色家)には、笑はれ給ひけんかし」という一節から、式部の「下心」や「心ばへ」を読み取るなんて、宣長さんだからできることだよね。

―宣長さんには分かっていた。

そう。宣長さんは、「源氏」の研究者である以前に「源氏」の愛読者で、だから、式部と「共作者」であるくらいの気持ちになっていた。すごくない? 式部ちゃんが、なぜ、こういう内容のお話をこんな風に語ったのか。宣長さんは、そういう式部ちゃんの心の中にまで分け入り、理解しようとしたんだね。

―式部の心の中?

それが、演技の意味であり、演技しつつも失わなかった深い自己なんじゃないかな。そして、小林先生は、こう書かれているね。「源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうというのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。」(第27集183頁)

―聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作る……

スゴスギ!「おーい、ノリナガ、何処まで行くんだ~」って叫びたくなるよね。宣長さんは、古女房に成りすました式部ちゃんと、直接「かたらふ」ことができるというんだから。

―創作の動機といえば、キミが熟視対象とした箇所の直前に、「宣長の視点が、作者の創作動機のうちにあった事」という小林先生の指摘があるね。これ、忘れてない?

そうなんだ。「創作の動機」というのが、あまりに普通の言い方で、読み流してしまっていたけど、宣長さんから見た式部の創作動機は、とても広がりがあるんじゃないかな。

―広がり?

たとえば、「昔物語の『しどけなく書ける』形式を選んだ」というのも、単に書き方の問題ではないんだよ。あくまで、「創作の為」に、「わざとの事」として選択しているんだね。

―どのように「わざと」なのさ?

しどけない語り口で「かたらふ」ことによってこそ、物語が生まれるのだという表現に関わる動機が一つ。それと、神々の物語以来、人々が体験し実感してきたことがらや、世の中に生起する様々な物ごとを記すものが物語であるという内容に関わることがもう一つの動機じゃないかな。

―さっきは、ずいぶん「演技」にこだわっていたね。

古女房の語り口を「演じる」というのも、式部ちゃんの創作動機の一つの現れなんだね。だからさ、演技というところだけに引っかかってはだめなんだ。「演技の意味を自覚した深い自己」を掘り下げ、式部ちゃんの創作動機の中身を考えなければならないってコトか。

―ずいぶんハードルは高そうだね。

そうだね。宣長さんは、「源氏」を愛読し、式部ちゃんと動機を共有しようとした。宣長さんの学問がそういう視点から出発していることを、小林先生は見抜いている。その小林先生を勉強するボクは……いけてないね。

―先生は、「ここでは、宣長の視点が、作者の創作動機のうちにあった事が、しっかり納得出来ればよい」と書いてくださっているね。

宣長さんは式部ちゃんの創作動機をどう考えたのか、もう一度じっくり読んでみるよ。「しっかり納得」には程遠いけど。

 

(了)