ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その四 秋の日のヴィオロンのため息~ジャック・ティボー

 

……やがて窓が明るみ、二人は店を出る。

―雨は降り止まず、街全体が中国の水墨画のように霞んでいた。リュクサンブール庭園にさしかかった時、不意に、彼は庭園の木々を差し示した。よく見ると、その指差す先にぽつんと一点、秋には珍しい小枝の緑である。それは清々しく私の心を打った。

「あの小さな緑を御覧……。世の中は、あたかもこの雨や風のように灰色だが、我々は、必ず、あの緑でなければいけないね……」

その時、その人、ヴェルレーヌの口から零れたこの呟きは、そのまま飄然と霧雨の彼方へ消えて行った寒々とした後姿とともに、今なお、私の胸に耐え難い郷愁を疼かせる。

それから三月ほど経った一八九六年一月九日、新聞は僅か十行ほどで、この詩人の訃を報じたのであった。

(ジャック・ティボー『ヴァイオリンは語る』)

 

詩人の眼にこの人の世は、蒼然たる暮色であった。そしてその灰色の光景に、一点仄かに光る緑があれば、彼はそれに執着した。十七歳のランボオは、まずヴェルレーヌによって見出されたのである。この二人の愛の彷徨は、ブリュッセルでのとある日、撃鉄の音とともに突然終わった。もっともヴェルレーヌの放蕩は止まず、その後の学校教師時代にも、教え子の美少年と出奔している。が、六年に及んだその漂泊も友の死によって終わり、自ら破壊した家庭との和解は果たされず、その転落の晩年は、パリの娼婦に救済されるようにして、辛うじて露命をつないでいたのである。

ティボーは、この時十五歳。パリ音楽院マルタン・マルシック教授のクラスに入って二年が過ぎようとしていた。が、いま一つ結果を出せずにいた。ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキは入学して六ヵ月でプルミエ・プリを獲得し卒業したのだ……まさかそんな神話的な列伝に自らの名を連ねようと思っていたわけではなかったにせよ、八歳にしてシャルル・ド・ベリオとアンリ・ヴュータンの曲で最初の演奏会を成功させ、さらには巨匠ウジェーヌ・イザイにその才能を保証された身としては、出世に少々手間取りすぎていはしないか、このままでは市井の凡庸な一ヴァイオリン奏者として終る他ないのではあるまいか、つまりは自分には特に秀でた芸術家たるの資格などなかったのではないか……街のカフェでアルバイトの演奏を済ませた後、驟雨に遭って店先に佇んでいたティボーの胸中に、そんな不安はなかっただろうか。たぶんそんな気分のところに、先ほどまで客席にあって演奏を聴いていた一人の詩人―ヴェルレーヌがやって来たのである。ティボーは誘われるままに近くの酒場に赴き、そこで語り明かしたのであった。ティボーもまたなかなかの美少年であったから、詩人はそこに眼をつけたのであったかも知れない。いずれにせよ、文学、芸術、分けても音楽……話題は尽きなかったことであろう。ひょっとしたら、ヴェルレーヌは、持てる最後の情熱を、この美少年の芸術家に、その芸術家の魂に注いだのであったかも知れない。事実、ほどなくティボーは一等賞を得てパリ音楽院を卒業するのだから、この夜の思いがけない邂逅こそが、少年ヴァイオリニストの人生をその閉塞から救ったという、その可能性もないとはいえないわけだ。

さて、驟雨の中の緑。それが芸術の本性ならば、ティボーの音楽はまさにそういうものであった。故郷のボルドーからパリにやって来たばかりのティボーに、よく知られた伝説がある。パリでは当初叔父のアパルトマンに居候した。その叔父は、人生に意欲を失った無気力な人であった。ところがある時、ティボーがヴァイオリンを取りあげて一曲奏でると―それはバッハ「G線上のアリア」であった―叔父はにわかに陽気になり仕事に励むようになった。またアパルトマンの他の住人たちも、廊下を渡り階段を伝って響いてくるその音を聴いて、離婚の危機を忘れて仲直りをしたり、自殺を思いとどまったり、つまりは悉く救済され、皆、幸福を指して生き始めたのであった……。

「澆季の世に枯渇した尊い夢を私たちへ齎すためにこの地上に現れた人こそ、ヴェルレーヌだった」とはティボーの述懐だが、ティボー自身もまた、その混濁の時代にささやかな「夢」を齎すべく、大衆の前に現れた人であったのだ。

 

「ビクター洋楽愛好家協会」と銘打たれた戦前日本のレコード・コレクションがある。これは志の高い企画だ。全八巻。1935年に始まる第1巻から1940年の第6巻までは、毎年10月から月一枚ずつ、一年をかけて各巻十二枚、予約制で頒布された。艶やかなその盤面から、質のよいシェラックであることが見てとれる。もっとも途中から盤質が劣化しはじめるが、レコードなどは戦費調達のための課税政策の恰好の標的であったから、それもやむを得ないことであったろう。続く第7巻と第8巻はそれぞれ六枚頒布となって企画も縮小し、1942年、計八十四枚をもって完結した。

第1巻の最初の一枚RL-1はヤッシャ・ハイフェッツだ。これは、当時の日本において、クラシック音楽の主役が、まさにヴァイオリンであったことを示唆している。ヴァイオリンを携えた旅芸人とその末裔たち……村の辻に立っていたヴァイオリニストが、街に出、カフェで弾き、やがて国境を越えてとうとう海を渡った……彼らは、少なくとも二十世紀の半ばまでは、漂泊者の魂を受け継いでいたように思われる。そのお陰で極東のこの国も、1921年のエルマンを皮切りとして、以後続々とその第一級の奏者を迎えることができたわけだ。

もとよりこの企画、ヴァイオリンだけでは無論ない。RL-7はあのシャリアピンだ。その十八番というべき「ヴォルガの舟歌」と「蚤の歌」の熱唱は、コレクター志望の青年が古いレコードを聴き始める頃、その道の先輩たちに、「マスト・アイテム」だと念を押されることになる一枚である。シャリアピンは、1936年2月、来日公演の折にこれを録音し、その年の暮れに亡くなった。つまりこの日本盤が、不世出のバスの、最後のレコーディングになったのだった。

しかしながら、やはり、今でもひと際人気の高いのは、ヴァイオリン独奏のRL-11であるらしい。曲はヴェラチーニのソナタ。ジャック・ティボーがたった一曲、日本の音楽好きの大衆のために遺してくれた貴重な日本録音、もとより「マスト」である。

この「ビクター洋楽愛好家協会」盤はよほど売れたようで、今でも、たとえば神田あたりの老舗のSPレコード店を訪ねれば容易に見つかるし、よほど都会から隔たった寒村の旧家の蔵に眠っていたりもする。第1巻から3巻までは専用の豚革のアルバムがあるが、「そのせいで日本中から豚がいなくなってしまったのよ」とは、某レコード店の偉大なるおかみさんである。

私の郷里の実家にも、その第1巻はあった。たぶん今でも、探せば家の何処かに見つかるであろう。

 

それを蔵の奥から掘り出したのは、受験勉強最中の夏であった。私はそこに籠って勉強漬けを装っていた。蔵の中はいつも涼しいのである。少しは勉強もしたけれど、古い漆器をくるんだ戦前の新聞紙だの早逝した祖父が遺した本だの書簡だの、そちらの方が面白いのは当たり前で、そんなものを不思議な情熱をもって読み耽ったり、漸くそれに飽く頃には気持のよい午睡に身を任せたり。そんな、後になれば苦しい後悔に襲われるとわかっていて、しかしどうにもならないという、焦燥を内包した安逸のある日、驚くほどの存在感をもってそいつは出現した。如何にも重厚なアルバムである。もとより開いてみてはじめてレコード・アルバムと知れたので、最初はなんだかわからなかった。アルバムの一頁一頁がレコードのスリーヴになっている。ハイフェッツ、フィッシャー、そしてシャリアピン……その時分の私はクラシック音楽など聴いてはいなかったが、聞き覚えのある名前ではあったから、一枚ずつ捲っては、順番にレーベルの文字を読んでいった。ところが、それがおおむね終わろうという最後の方の一頁、そこだけが空になっている。裏表紙の一覧表で確認すると、それはジャック・ティボーの盤、ヴェラチーニのソナタであった。

「ビクターのレコード、一枚なくなってるね」

晩酌を始めた父に私は言ってみた。そのいきさつに興味があったわけではない。珍しく親父と話す話題がある、それだけのことだった。父は私を見た。

「ビクターのレコード?」

「蔵の中のだよ。昔の」

「ああ、あれはもう聴きようがないやつだ。捨ててしまえばいい」

「そう?聴けないのか。一枚だけなかったよ」

父の眼は宙を彷徨うようだ。

「……ベラチーニ、だな。チボー」

「そうそう、そう書いてあった」

「べラチーニのソナタ、あれは俺が学生の頃好きだったんだ」

「……」

「それで海軍に持って行った」

「……戦争に」

「そう。聴くことなんかないのだけれど」

「……」

「でも一回だけ聴けた。昼飯にレコードをかける習慣で、そのときにかけてもらったんだ」

「案外さばけているもんだね」

「海軍はな」

 

ジャック・ティボーは戦前に二度来日している。一回目は1928年のことだ。1921年エルマン、22年ジンバリスト、23年クライスラーとハイフェッツ……続々とやって来た一流ヴァイオリニストは、そのほとんどがユダヤ系の、秀でたメカニックをもつ腕利きだ。エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツはロシア系ユダヤで、サンクトペテルブルクからアメリカに移ったレオポルト・アウアー門下、クライスラーは言わずと知れたウィーン派だが、その出自はポーランド系ユダヤである。そうした文脈のなか、ユダヤ系以外の、フランス派のヴァイオリニストとして初めてやって来たのが、ティボーだった。

 

「本日世界的大提琴家ティボー氏入京す! 欧米に赴かずかくの大芸術家の神技に接し得るは日本現代人の幸福なり。妄りに料金額の高きを責むるは愚かなり。芸術の真価と来演の諸費とを考へれば、寧ろ二円、五円、七円は廉なり。廿六日よりの開演を御期待あれ」

(『読売新聞』昭和3年5月23日付 帝国劇場広告)

「……彼の演奏は実に繊細と典雅の二字に尽きる。……ウイーンの古謡やそこの優雅な舞曲を何人もウインナ人のようには弾く事が出来ないように、フランクやフォーレやサン=サーンスの作品は正に彼のために書かれたものの感がある。……」

(「ティボーを迎えて」近衛秀麿)

「……久しぶりで本当の芸術家の芸術に接したという感じがいたします。たしかにそれはクライスラーと並び称せらるべき第一流のヴァイオリニストです。宣伝沢山で来る旅芸人達と一緒にしてはいけません。ティボー氏の演奏が=その風采までが=全く予期した通り精錬し切った「フランセ―」そのものであった事は、うわさで聞いた通り、レコードを通してあこがれていた人達にとって、どんなに親しさと満足とを感じさせたでしょう。アウアー門下の人達の派手な技巧や、強大な音になれた日本人にティボー氏の粋な、むしろ渋過ぎる演奏が本当に受容れられるものであろうかという事は、在留フランス人をはじめ、ティボーを知る程の人達が心配していた事のようでした。が、実際ティボー氏の演奏に接して見ると、それは全くき憂で、今更ながら、日本人ほどフランス趣味のわかる国民はないという事をつくづく感じさせます。……」

(「ティボー氏を聴く」野村胡堂あらえびす)

 

「日本人ほどフランス趣味のわかる国民」云々はともかく、ジャック・ティボーの抒情性は、たしかに日本の民衆の裡にある感受性に深いところで共鳴する、親和的な性格のものであった。

二回目の訪日は1936年、この年は先述のシャリアピンの他に、チャップリン等も来日した。また16歳の諏訪根自子が単身渡欧した年でもある。他方、二二六事件も日独防共協定締結もこの年で、どうやら得体の知れないエネルギーが充満した、華やかで危機的な、そんな季節だったようだ。

その最中にティボーはやって来た。批評家たちは悉く絶賛、ことにフランクのヴァイオリン・ソナタを称える文面が目立つが、これは第一回来日公演のときと同じである。ティボーといえばフランス気質、パリ気質なのである。もとよりティボー自身はフランス南西部ボルドーの出身であるから、彼のパリ気質は、彼自身のパリへの憧れによる創造物であるかも知れない。

 

「……従来エルマン、ジンバリストはもとよりあの完璧な巨匠クライスラーに至るまで、来朝した世界的ヴァイオリニストの中に私はいわば芸の切売りの如きものだけしか見出せない淋しさを感じていた。しかしティボーが来て初めて私は、一人の人間がヴァイオリンを弾くのに接したのであった。音楽家がヴァイオリンを弾くのですらない。人間がヴァイオリンを弾くのだ。……」

(「ティボー」河上徹太郎)

「……其の後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない。それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラヂオも、私の渇を癒してはくれなかった。……」

(「ヴァイオリニスト」小林秀雄)

 

実はティボーは「最後」ではない。翌1937年にも、エルマンが二回目の来日を果たしている。しかし、小林秀雄にとって「最後」は「チボー」だったのだろう。後にふり返れば、それはやはり「最後」というべき光景だった。

フランスからやって来たヴァイオリニストが、身体としてこそ実存する人間として、工匠の肉体が確かに作り出し、二百年の時間を超えて持続するヴァイオリンを、今まさに混沌の世を生きつつある自分の、その目の前で奏でている。このような偶然の邂逅が、一回性の切実な邂逅への愛惜こそが、信じるに値するヒューマニズムというものがもしあるとするならば、その唯一の根拠なのではないか。

 

ところで、私の父が海軍応召に際して持参したレコードというのは、この1936年5月27日に録音されたものである。ヴェラチーニ作曲ソナタホ短調、ピアノ伴奏タッソ・ヤノプロ。ヴェラチーニなどという作曲家は、ロックばかり聴いている青年には全く無名であるから、蔵の一件の時には、どんな曲かもわからなかった。

それから十年も経った頃、私は大学を終え、かといって次の人生の展望も定まらぬまま、まことに頼りなく生きていたのだが、そんなところに親父が上京して私の下宿に泊まるということがあった。あの時は弱った。大学だか海軍だかの集まりで、引っ込んでいた東北の郷里からいそいそと上京なさったわけだが、狭い部屋で面突き合わせても、「おう、どうだ」「どうって、まあ元気にやってますよ」「そうか」「……」、まことに気まずいことであって、つまりコミュニケーションというものが、ない。もっとも親父と息子というのは、いつの世もそんな感じなのに違いない。せがれどもを見ていても、私と何かのはずみで二人きりになったときなど、たしかに困惑している。もっとも私の場合、親父がその胸の裡に帝国海軍という青春の誇りを温存していたから、それを焦点にただ対決していれば格好はついた。戦争だの封建主義だのと言って侮蔑し拒絶するという態度をとることで、自分の位置を定めることができたわけである。それに対して我が家の諸君は、その親父が帝国海軍でも企業戦士でさえもないから、対決するにもしようがないらしい。頑固親父というのは、息子を困惑させぬための配慮であるかも知れない。

その頃の私は、親父と対決する時期はむろんとうに過ぎていたから、それなりに友好的にやってやろうと思っていた。それでちょっと悪戯心を起こした。あのヴェラチーニの盤を親父に聴かせてやろうか。その少し前に、私は小さな蓄音機を手に入れていて、ジャズやロックの古いレコードを聴いたりし始めていたのである。私は自分の思い付きに心が弾んだ。どんな顔をするだろう。親父はあの出征の時を最後に、学生時代に好きだったという「チボー」など、一度も聴く機会のないままに生きて来たに違いない。そう考えると、もう躊躇などない、早速神保町に出かけたのであった。すると目的の盤はすぐ見つかった。試聴させてもらうと、いかにも甘く感傷的な旋律である。びっくりした。あの親父が、如何に青年時代とはいえ、こんなものを好むだろうか。それも死を覚悟した出征の時に。

親父がやって来た日は、朝から雨で、彼は近所の史跡の木立を散策する予定を立てていたのだが、結局のところ億劫がって、寒い部屋で煙草を吸ってばかりいた。

「……なんだ、それは……蓄音機か」

「そう」

「そんなものを持ってるのか」

「なにか聴いてみますか」

「いや、いい。俺には珍しくもない。しかし、そんなもの、今でも売ってるのか」

「売ってるんだよ。いい音がするもんだね」

「いい音がするって、ステレオみたいなのに比べたらダメだろう」

「そんなことはないよ。こっちの方がいい」

「懐古趣味だ」

「御冗談。そんな過去はオレにはないよ。歴史との邂逅です」

私はレコード棚から件の盤を取り出してターンテーブルに置いた。クランクを回して発条を溜め、サウンドボックスを慎重におろした。シェラックに刻まれた溝を鉄針が滑る。そのノイズがしばらく続いた後、優しく微笑ましい、舞曲風の誘うような旋律がぱっと輝く。親父は顔をあげた。遠くに森でも見るような、そんな眼をして、凍結した。演奏はメヌエットから活気あるガヴォットへと移り、やがて片面が終わった。私はレコードを取りあげ、裏返し、針を付け替えて後半の演奏に取りかかる……。

「もういい」

「……」

「もういい、ありがとう」

親父は、ほとんど灰になった煙草を指に挟んだまま、しばらくは、ターンテーブルに回り続ける「べラチーニ」の盤を見ていた。

 

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ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 三度目の来日を行程に含む演奏旅行に発って間もなく、搭乗機エール・フランス・コンステレーションがフランスアルプスのモン・スメ峰に激突。妻から贈られて以来、手許から放すことがなかったストラディヴァリウス「バイヨー」とともに不帰となった。1953年9月1日。パリでは音楽葬が、日本でも追悼演奏会が行われた。

ヴェルレーヌ……Paul Marie Verlaine 1844-1896
秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの/ひたぶるに/身にしみて/うら悲し

ランボオ……Jean Nicolas Arthur Rimbaud 1854-1891 フランス、アルデンヌ出身の詩人。

マルタン・マルシック……Martin Marsick 1848-1924 ベルギー出身のパリ音楽院教授。

ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。

プルミエ・プリ……一等賞。

シャルル・ド・ベリオ……Charles de Beriot 1802-1870 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps 1820-1881 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

ウジェーヌ・イザイ……Eugene Ysaye 1858-1931 ベルギー出身のヴァイオリニスト。

大衆の前に現れた人……たとえば「国際大芸術家協会」というティボーのプロジェクトがある。1935年に設立されたその組織は、シネフォニーと称する音楽短編映画を構想し、一般大衆に音楽芸術を普及するために聴覚に視覚を加えた音楽鑑賞の場を作り出した。ティボー自身も、タッソ・ヤノプロの伴奏でシマノウスキの「アレトゥーズの泉」やアルベニスの「マラゲーニャ」を収録、他にニノン・ヴァランやコルトーらも参加している。

シェラック……二十世紀前半のレコードの原料で、カイガラムシの分泌物から精製する樹脂状の物質。

それで終了となった……シャリアピンやティボーの盤等、人気のあったものは、戦後再発されている。なお「ビクター洋楽愛好家協会」については、神田富士レコード社のSさんに教えていただきました。

シャリアピン……Fyodor Chaliapin 1873-1936 ロシアのオペラ歌手。

ヴェラチーニ……Francesco Veracini 1690-1768 イタリアのヴァイオリニスト。

SPレコード……二十世紀前半に普及したレコード。スタンダード・プレイング。この呼称は日本独特のものだ。二十世紀後半に普及したLPレコードが一分間に約33回転であるのに対して、これはおおむね78回転である。78rpm。

アルバム……レコード複数枚にわたる組み物を収納する冊子状のもの。78回転時代のレコードは片面四分強の演奏時間であったから、交響曲などは一曲が数枚に及ぶことになる。それを収めるのがアルバムである。LPレコード一枚をアルバムと呼ぶのはその名残である。

フランク……Cesar Franck 1822-1890 フランクのソナタはティボーの代名詞で、アルフレッド・コルトーとの二度の録音があるし、この来日直前のモスクワ公演では、聴衆が客席にいたコルトーを歓声と拍手で促して、急遽このデュオによるフランク・ソナタのライヴが実現したそうだ。

アルフレッド・コルトー……Alfred Cortot 1877-1962 ティボーとのデュオ、それにカザルスを加えたトリオは一種の伝説になっている。大戦中、ヴィシー政権やナチスとの関りから絶縁状態となった。戦後、ティボーは関係の修復を望んでコルトーを訪ねたが、拒まれたようだ。しかしながら、ティボー遭難の報に接して、コルトーは悲痛なコメントを寄せている。「近いうちに、友よ、あの世で!」

 

(了)