小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

三十 不翫詞花言葉―反面教師、賀茂真淵(二)

 

1

 

第十七章で、小林氏は、「源氏物語」をどう読むかに関して契沖が言った「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」に言及し、宣長はただちにこれを実行した、ところが、と言い、

―真淵となると大変様子が変って来る。この熱烈な万葉主義者は、はっきりと「源氏」を軽んじた。「皇朝の文は古事記也。其中に、かみつ代中つ代の文交りてあるを、其上つ代の文にしくものなし。中つ代とは、飛鳥藤原などの宮のころをいふ。さて奈良の宮に至ては劣りつ。かくて今京よりは、たゞ弱に弱みて、女ざまと成にて、いにしへの、をゝしくして、みやびたる事は、皆失たり。かくて後、承平天暦の比より、そのたをやめぶりすら、又下りて、遂に源氏の物語までを、下れる果とす。かゝれば、かの源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし。凡をかく知て、物は見るべし。その文の拙きのみかは、意も言も、ひがことのみ多く成りぬ」(「帰命本願抄言釈」上)……

「飛鳥藤原などの宮のころ」とは、先にも概観したとおり平城京より前の飛鳥京から藤原京にかけての頃で、飛鳥京時代は第三三代推古天皇の時代(五九二~六二八)を中心としてその前後が言われ、藤原京時代は第四一代持統天皇から文武、元明両天皇の時代(六九四~七一〇)、「奈良の宮」は平城京(七一〇~七八四)、「今京」は平安京(七九四~)、「承平天暦の比」の「承平」は第六一代朱雀天皇の時代(九三一~九三八)、「天暦」は第六二代村上天皇の時代(九四七~九五七)だが、

―彼の考えでは、平安期の物語にしても、「源氏」は、「伊勢」「大和」の下位に立つ。「伊勢」は勿論だが、「大和」でもまだ「古き意」を存し、人を教えようとするような小賢しいところはないが、「源氏」となると、「人の心に思はんことを、多く書きしかば、事にふれては、女房などのこまかなるかたの教がましき、たまたまなきにしもあらず。これはた世の下りはてゝ、心せばく、よこしまにのみなりにたるころの女心よりは、さる事をもいひ思へるなるべし」(「大和物語直解」序文)と言う。彼は、なるほど「源氏物語新釈」という大著を遺したが、「源氏」を「下れる果」とする彼の根本の考えは、少しも動きはしなかった。……

―彼は、「源氏」を「下れる果」と割り切ってはいたが、実際に「源氏」の註釈をやってみると、言ってみれば、「源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし」という問題に、今更のように直面せざるを得なかった。この方は、手易たやすく割り切るわけにはいかない。その真淵の不安定な気持が、「新釈」の「惣考」を読めば直知出来るのである。この物語の「文のさま」は、「温柔和平の気象にして、文体雲上に花美也」とめてはみるが、上代の気格を欠いて、弱々しいという下心は動かないのだから、文体の妙について、まともな問題は、彼に起りようがない。そこで方向を変え、「只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし」、と問題は、するりと避けられる。では、「式部が本意」を、何処に見たかというと、それは、早くも「帚木」の「品定」に現れている、と見られた。この女性論は、「実は式部の心をしるした」もので、式部は、「此心をもて一部を」書いたのであり、この品定めの文体は「一部の骨髄にして、多くの男女の品、此うちより出る也」とした。「万葉」の「ますらをの手ぶり」を深く信じた真淵には、「源氏」の如き「手弱女たわやめのすがた」をした男性の品定めは、もとより話にならない。……

―しかし、紫の上を初めとして、多くの女性を語り出した、そのこまやかに巧みな語り口には、男には出来ぬ妙があり、これらはすべて、婦徳の何たるかを現して、遺憾がない。それも、特に教えを言い、道を説くという、「漢なる所見えず、本朝の語意にうつして、よむ人をして、あかざらしむ」。要するに、人情を尽しているのだが、これを、いかにも真淵らしい言い方で言う。「私の家々の事にも、人の交らひにも、おのおのいはでおもふ事の多かるを、いはざれば、各みづからのみの様におもはれて、人心のほど、しりがほにして、しらざる物也。和漢ともに、人を教る書、丁寧に、とくといへど、むかふ人の、いはでおもふ心を、あらはしたる物なし。只、此ふみ、よく其心をいへり」と。誨淫かいいんの書というのは当らぬ。物語られているところは、「人情の分所ブンショ」なのであるから、「これをみるに、うまずしてよくみれば、そのよしあし、自然に心よりしられて、男女の用意」、或は「心おきて」ともなるものだ。……

―以上不充分な要約、それも真淵の意を汲もうとした、かなり勝手な要約だが、よわいを重ねるにつれて、いよいよ強固なものに育った真淵の古道の精神と、彼の性来の柔らかな感性との交錯を、読者にここから感じ取って貰えれば足りる。真淵の真っ正直な心が、「源氏」という大作の複雑な奥行のうちに投影される様は、想い見られるであろう。……

と、小林氏は真淵の「源氏物語」評をひととおり伝え、これを宣長はどう読んだかを言う。

―宣長は、「玉の小櫛」(寛政八年)に至って、初めて真淵の「新釈」に言及しているが、先師にこの註釈のあるのは「はやくよりきけれど、いまだ其書をえ見ず。たゞその総考といふ一巻を見たり。その趣、大かた契沖為章がいへるににたり」と言っているに過ぎない。要するに、「源氏」理解については、「いまだゆきたらはぬ」「うはべの一わたりの」「しるべのふみ」の一つ、と考えられているのであるから、「惣考」が何時読まれたかは問題ではあるまい。「新釈」の仕事が完了したのは、宝暦九年だから、大体、「あしわけ小舟」が書き上げられたのと同じ頃である。数年後に成った「紫文要領」は、「新釈」とは全く無関係な著作であった、と見ていいであろう。ただ、宣長を語る上で、無視するのが不可能な真淵である、という理由から、その「源氏」観に触れた。……

せんから私は、真淵は宣長にとって反面教師でもあったようだと言っているが、「源氏物語」に関しては無交渉であったと、ひとまずは小林氏の上文に照らして言い添える。真淵の「源氏物語新釈」が成ったのは宝暦九年(一七五九)、宣長三十歳の年だったが、その「源氏物語新釈」を宣長は読んでいない、ただ「惣考」を読んだに過ぎなかったと、寛政八年(一七九六)、六十八歳で書いた「源氏物語玉の小櫛」で言っているのみならず、ほとんど評価していない。宣長の「紫文要領」が成ったのは真淵の「新釈」の四年後、宣長三十四歳の年の宝暦十三年(一七六三)六月七日だったが、宣長が真淵を「新上屋」に訪ねたのはその約十日前、五月二十五日である、「紫文要領」は真淵と対面した日、すでに書き上げられていたも同然だったのである。

 

2

 

だが、それはそれとして、私の目には、やはり、「源氏物語」の読み方においても真淵は反面教師であったと映る。その手がかりは、小林氏が書いている真淵自身の「源氏物語」観と、真淵の「源氏物語新釈」に対する宣長の反応なのだが、小林氏は、第十八章に入ると、契沖が「源氏物語」に関して遺した教えに言及して次のように言うのである。

―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。事実、真淵のような大才にもそう見えていた。「源氏」は物語であって、和歌ではない、これを正しく理解するには、「只文華逸興をもて論」じてはならぬ、という考えから逃れ切る事が出来なかった。……

真淵には、契沖が遺した「可翫詞花言葉」は、ほんの片言としか見えていなかった、なぜなら真淵は、「源氏物語」は和歌ではない、ゆえにその文華逸興を論じただけでは足りない、という考えに縛られていたからである。

真淵は、こう言っていた、―只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし……。「文華」とは、詩文の華やかさ、美しさである、「逸興」とは、興趣の巧みさ、深さである。すなわち真淵は、詞花言葉を翫べ、とは和歌についてなら言える、だが物語はそうではない、詞花言葉を翫ぶだけでは足りない、詞花言葉によって作者が言わんとした本意を読み取る、それが大事だと信じて譲らなかった、ゆえに真淵は、契沖の言葉を、ほんの片言、というより戯言たわごととしか受け取っていなかった。

その真淵が、物語は詞花言葉を翫ぶだけでは足りない、作者が言わんとした本意を掴み取らなければならないと思いこんでいた「作者の本意」を、真淵自身、「源氏物語」ではどう掴んでいたか、それを小林氏が示している、先にも引いたが、真淵は、

―「式部が本意」を、何処に見たかというと、それは、早くも「帚木」の「品定」に現れている、と見られた。この女性論は、「実は式部の心をしるした」もので、式部は、「此心をもて一部を」書いたのであり、この品定めの文体は「一部の骨髄にして、多くの男女の品、此うちより出る也」とした。……

「一部」は、「物語全篇」の意である。

そういう真淵に反して、宣長は、

―契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。……

と、小林氏は言い、

―「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。だが、凡そ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。作品の門に入る者は、誰もそこに掲げられた「可翫詞花言葉」という文句は読むだろう。しかし詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事になれば、これは全く別の話である。……

と、同じく第十八章で言っている。

私が、真淵は宣長にとって、「源氏物語」の読み方においても反面教師であったと言うのは、真淵の「源氏物語」観もさることながら、契沖の言葉に対する無感覚と横柄によってである。宣長は、「源氏物語」についても契沖の言葉についても、「萬葉集問目」のような質疑応答を真淵と交しておらず、したがって宣長は、真淵の「源氏物語」観も契沖の言葉の処遇も直かに聞き知ることはなかったと思われるのだが、持って生まれた気質において、さらにはその気質に従って体得した「学び」の精神において、真淵はまちがいなく反面教師の位置に立っていたと言えるのである。

 

3

 

小林氏は、第十九章に入り、宣長が真淵に初めて会った日のことを回想した『玉勝間』二の巻の「あがたゐのうしの御さとし言」を引いてすぐ、こう言っている。

―彼の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。……

これが、先々から言ってきている「『歌の事』から『道の事』へ」とは、どういうことか、である。歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる……、すなわち、翫味に価する美しい歌は、そのまま「道」の正しさを表している、というのである。

「歌」は文字どおり「和歌」の意でもあるが、それ以上に「歌物語」の意である。これも第十八章に言う。

―宣長は「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには彼独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を、何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

―では彼は、この後にも先きにもない詞花の構造の上で、歌と物語が、どんな風に結び附いているのを見たか。「歌ばかりを見て、いにしへの情を知るは末也。此物語を見て、さていにしへの歌をまなぶは、其いにしへの歌のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり」(「紫文要領」巻下)、彼はそういう風に見た。……

―「源氏」は、ただ歌をちりばめ、歌詞によって洗煉せんれんされて美文となった物語ではない。情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕えられている、と宣長は見た。……

―「源氏」の内容は、歌の贈答が日常化し習慣化した人々の生活だが、作者は、これを見たままに写した風俗画家ではなかった。半ば無意識に生きられていた風俗の裡に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた人だ。其処に、宣長は作者の「心ばへ」、作品の「本意」を見たのであるが、この物語に登場する人達は、誰一人、作者の心ばえに背いて歌は詠めていないのである。歌としての趣向を凝して自足しているようなものは一つもないし、と言って、其の場限りの生活手段、或は装飾として消え去るような姿で現れているものもない。すべては作者に統制され、物語の構成要素として、生活の様々な局面を点綴するように配分されている。……

―例えば、作者が一番心をこめて描いた源氏君と紫の上との恋愛で、歌はどんな具合に贈答されるのか。まことに歌ばかり見て、恋情を知るのは末なのである。いろいろな事件が重なるにつれて、二人の内省家は、現代風に言って互に自他の心理を分析し尽す。二人の意識的な理解は行くところまで行きながら、或はまさにその故に、互の心を隔てる、言うに言われぬ溝が感じられる。孤独がどこから現れ出たのか、二人とも知る事が出来ない。出来ないままに、互に歌を詠み交わすのだが、この、二人の意識の限界で詠まれているような歌は、一体何処から現れて来るのだろう。それは、作者だけが摑んでいる、この「物語」という大きな歌から配分され、二人の心を点綴する歌の破片でなくて何であろう。そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

そしてそこから宣長は、「源氏物語」に「もののあはれを知る」という作者の信念を最も強く感じたのだが、それも、

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を翫ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

 

 

そうか、そういうことだったのか、そうであるなら私たちが歌を読み味わうときの「可翫詞花言葉」という心がけは、物語を読むときにも不可欠なのだと得心がいく。宣長が身をもって示したように、物語の作者の言わんとしていることは「可翫詞花言葉」に徹してこそ立ち現われてくる。宣長は、契沖に言われて「源氏物語」の詞花言葉に目をこらし、詞花言葉を翫ぶこと、翫味することを辛抱強く繰り返すうち、おのずと作者紫式部の本意に想到した、すなわち式部は、かくかくしかじかと手短かには言い表すことのできない「もののあはれ」ということ、そしてそれを「知る」ということ、これを人生の大事として人々に伝えたい、少なくとも式部が仕えた中宮彰子しょうしと同輩の女房たちには伝えたい、「源氏物語」はそういうねがいのもとに書かれた、宣長はそこに思い到った、小林氏はそう言うのである。

 

ところが、「源氏物語」は和歌ではない、物語であるとして詞花言葉を軽んじ、「作者の本意」を摑み取ることに一目散だった真淵は、「源氏物語」が始ってすぐの「帚木」の巻の「雨夜の品定め」の女性論、これこそが全篇を貫く作者の本意であると解した。

だが宣長は、「雨夜の品定め」も女性論が主眼とは見ていない、これも読者に「もののあはれ」ということを知らしめるための道具立てであると見、「もののあはれを知る」ということは、詞花言葉の調べや風合から、銘々が感知するほかないものだと、式部自身が「雨夜の品定め」でそう仕向けていると言っている。

小林氏は、第十四章の、「さて、この辺りで、『物のあはれ』という言葉の意味合についての、宣長の細かい分析に這入った方がよかろうと思う」と前置きして始めたくだりで「雨夜の品定め」に言及しているが、「雨夜の品定め」とは、新潮日本古典集成『源氏物語』に負えば、次のような場面である。

五月雨さみだれの一夜、物忌ものいみで宮中に籠っている光源氏の宿直とのいどころに、親友のとうの中将、左の馬のかみ、藤式部のじょうという当代きっての好色者すきものが集まり、妻にするにはどういう女性が望ましいかで話の花を咲かせる、源氏以外の三人の男性の経験談が披露され、あれこれ取り沙汰されるが結論らしいものは記されず、最後は、「いづかたにより果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、あかしたまひつ」(どういう結論になるということもなく、おしまいは要領を得ない話になって夜をお明かしになった)と結ばれる……。

この、「いづかたにより果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、あかしたまひつ」に対して、小林氏は言う。

―よくよく本文を読めば、左馬頭の言うところも曖昧なのである。「『品定』は、展転反覆して、或はまめなるをたすけて、あだなるをおとし、又は物の哀しらぬ事を、つよくいきどをり、さまざまに論じて、一決しがたきやうなれ共」、しまいには、頭中将に「いづれと、つゐに思ひさだめずなりぬるこそ世の中や」と言わせている。この遂に断定を避けているところに、式部の「極意」があるのであり、本妻を選ぶという実際の事に当り、左馬頭が「指くひの女」の「まめなる方」を取ると言うのとは話が別だ。……

だから、と、つとに宣長は言っている、

―終りに、いづれと思ひさだめずなりぬといひ、難ずべきくさはひまぜぬ人(非難すべき点のない女性/池田注記)は、いづこにかはあらむといひ、又いづかたに、よりはつ共なく、はてはて、あやしき事共になりて、あかし給つとかきとぢめたるにて、本意は物の哀にある事をしるべし」。……

 

そういう次第で、「源氏物語」の読取りにおいても、結果論ではあるが真淵は宣長の反面教師だったのである。

もっとも、「源氏物語新釈」は、真淵が自ら望んだ仕事ではなかった、主君田安宗武の命によった、よんどころない仕事だった。したがって、契沖を軽視し、「式部の詞花言葉」はそこそこにして「式部の本意」へ走りこむ、それこそが真淵の本意であっただろうとは言えるのである。

だが、そもそもからして気乗りのしなかった「源氏物語」は措くとしても、「古事記」をはじめとする「神の御典ミフミ」を解くことは真淵自身が望んだ仕事だった、単に望んだという以上に、学者人生の登頂点として仰ぎ見、満を持した大望だった。宣長を識ってすぐ、宣長に「古事記」註釈の志あるを聞かされ、「われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを」と言い、「そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず」と宣長に縷々助言したということは先に書いたが、契沖が遺した「可翫詞花言葉」、この言葉を確と座右に置いて「源氏物語」から「古事記」へ歩を進めた宣長と、契沖の言葉は上の空で聞き流し、「萬葉集」から「古事記」へ直進しようとした真淵の前に、両人それぞれの道は「古道」に通じているか、さにあらずか、の分岐が厳然と現れていたのである。

 

4

 

第二十章で、小林氏が次のように言っているくだりを先に引いた。

―真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。(中略)真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。……

ここで言われている「『万葉』の、『みやび』の『調べ』を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは『古事記』という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある」の「断絶」は、ほかでもない、真淵の言語観が将来したものだった。真淵は「源氏物語」においても「萬葉集」においても「詞花言葉を翫」ぼうとはせず、ひたすら古人の「心ことば」の洗い出しに専心した、それが真淵の「文事を尽す」ということだったのだが、「萬葉集」から「古事記」へと進展を図った真淵の前に立ち現われた「断絶」は、この「心ことば」の洗い出しに始っていた。だが宣長の「文事を尽す」は、そうではなかった、どこまでもどこまでも「詞花言葉を翫」ぶ、これに尽きていた。その真淵と宣長の文事の尽くし方の相違、そこを小林氏は、第二十三章でこう言っている。

―「うひ山ぶみ」には、学問の「しなじな」が分類されている。宣長は、当時の常識として、言語の学をその中に加えるわけにはいかなかった。が、言霊という言葉は、彼には、言霊学を指すと見えていたと言ってもよいのである。契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった。ところが宣長になると、そんな事は、どうでもよい事だと言い出す。……

宣長は、「うひ山ぶみ」でこう言っている。

―語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひがごと、多きぞかし。……

一語一語の語釈は緊要でない、緊要でないどころか無用と言っていいほどだ、大事なことは、それぞれの語がその時その場でどういうふうに用いられているか、そこに意を払うことである、同じ一つの言葉でも、場面によって、文脈によって、つどつど微妙に意味合が変る、つどつど変る意味合こそがその時その場の語意なのであり、この千変万化の語意を感得しないでは読んだことにならない、肝心要は何ひとつ読み取れない、宣長はそう言うのである。

この宣長の言語観こそ、「源氏物語」を「可翫詞花言葉」に徹して読み尽すことによって会得されたものだろう。だから宣長は、「古事記」も「可翫詞花言葉」に徹して読んだのである。だが真淵の「文事を尽くす」はそうではなかった。真淵は、一語一語の語釈に専心して「萬葉集」の「心ことば」を得ようとした。そして、「萬葉集」の延長線上で「古事記」を読もうとした、まさにそこに、宣長が見ぬいた「萬葉集」と「古事記」の間の「断絶」があったのである。

 

5

 

それにしても、これはどういうことだろう。宣長は、「源氏物語」の詞花言葉を翫ぶということに徹して「もののあはれを知る」という紫式部の信念に達したと小林氏は言ったが、では「源氏物語」の詞花言葉の何が宣長にそういう機縁をもたらしたのか、第二十章の周辺ではそこまでは言われていないが、先にも引いたとおり、第二十三章では、

―「うひ山ぶみ」には、学問の「しなじな」が分類されている。宣長は、当時の常識として、言語の学をその中に加えるわけにはいかなかった。が、言霊という言葉は、彼には、言霊学を指すと見えていたと言ってもよいのである。……

と、敢えて「言霊」という言葉に言及されている、と言うより、宣長が用いる「言霊」という言葉は「言霊学」と言うに等しく、したがって「言霊」は、宣長には古代人の一信仰形態などではなく、国語学の重要テーマとして意識されていたと強調されている。

 

「言霊」という言葉の出自は、「萬葉集」である。まずは巻第五、山上憶良の「好去好来の歌」(『国歌大観』番号八九四)である。

神代かむよより 言ひらく そらみつ 大和の国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊の さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり……

ここに見られる「言霊の さきはふ国」は、「新潮日本古典集成」の『萬葉集』では「言葉に宿る霊力がふるい立って、言葉の内容をそのとおりに実現させるよい国」と説明されている。また小学館の「日本古典文学全集」の『萬葉集』には、「ことばに宿る霊力。古代人は、言語に神秘的な力がこもっていて、それにより禍福が左右されると信じた」とある。

次いで巻第十三、柿本人麻呂の歌(同三二五四)である。

磯城島しきしまの 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ

「言霊」に対する「新潮古典集成」の説明はこの歌でも同じだが、ここではその上に、「こう歌うことで言霊の力の発動を祈念している」と言っている。また小学館の「古典全集」は、巻第五、山上憶良の「好去好来歌」を参照させたうえで、「言葉に宿ると信ぜられた精霊」とも言っている。

このように、「言霊」は、大概が古代人の信仰形態のひとつとして説明されている。『広辞苑』『日本国語大辞典』『大辞林』といった国語辞典の類いも同様である。つまりはこうした呪力的理解が定説となっているのである。

 

だが小林氏は、上に引いた第二十三章の文の前に、こう言っている。

―言語が、「おのがはらの内の物」になっているとは、どういう事か、そんな事は、あんまり解り切った事で、誰も考えてもみまい。日常生活のただ中で、日常言語をやりとりしているというその事に他ならないからだ。宣長は、生活の表現としての言語を言うより、むしろ、言語活動と呼ばれる生活を、端的に指すのである。談話を交している当人達にとっては、解り切った事だが、語のうちに含まれて変らぬ、その意味などというものはありはしないので、語り手の語りよう、聞き手の聞きようで、語の意味は変化して止まないであろう。私達の間を結んでいる、言語による表現と理解との生きた関係というものは、まさしくそういうものであり、この不安定な関係を、不都合とは誰も決して考えていないのが普通である。互に「語」という「わざ」を行う私達の談話が生きているのは、語の「いひざま、いきほひ」による、と宣長は言う。その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に飜訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語というおおきな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。……

すなわち、小林氏の透視によれば、宣長が感取していた「言霊」とは、国語という言語体系が内蔵している即応即決の伝達力である。一〇〇〇年にも二〇〇〇年にもわたって日本民族の誰も彼もが使っているうち、誰によってというのではなくおのずと組み上げられて整備された語意にも語感にも文法にも及ぶ意味構造、そういう土台に支えられた縦横無尽の伝達力である。この伝達力のおかげで私たちは、言い間違いや舌足らずでさえもそのつどそのつど補われ、以心伝心までも可能にされているのである。

そういう「言霊」の存在を、宣長は「萬葉集」によって知り、「萬葉集」によって体感していたが、契沖に言われて「源氏物語」の詞花言葉を翫び始めるや、その存在のみならず威力までもをまざまざと感じたであろう、感じさせられたであろう。なかでも強力だったのが「もののあはれ」という言葉の言霊だったはずである。

それというのも、宣長は、紀貫之の「土佐日記」に見えた「楫取り、もののあはれも知らで」という物言いに違和感を覚え、「もののあはれ」という言葉は、貫之の行文にうかがえるような歌人意識の専有語ではないはずだ、ここに引き出され、蔑まれ気味に言われている楫取りたちからも歌は生まれている、そうであるからには「もののあはれ」は、楫取りをはじめとする一般庶民にもそうとは意識せずにだが知られているにちがいない、だとすれば「もののあはれ」という言葉は、貫之以後にはどういうふうに使われているかと宣長は「もののあはれ」の用例探索を試み、その経験を携えて「源氏物語」を読んだ。すると、「源氏物語」のそこここで、自ら蒐集した「もののあはれ」ということの感触と出会った。言葉としては承知していたが、実体感にはまだまだ遠かった「もののあはれ」ということの実体が、光源氏を筆頭として登場人物の言動に如実に現れ、相次いだ。そしていつしか、「もののあはれ」という言葉の言霊が、宣長の耳に「もののあはれ」を知れと囁き続けるようになった……、私にはそう思える。

先に引用した第二十三章の文中で、「宣長は、其処に、『言霊』の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた」と言われていたが、これに続けてこう言われている。

―このような次第で、「古言を得る」という同じ言葉でも、宣長の得かたと真淵の得かたとは、余程違って来る。宣長は、「古意を得る」為の手段としての、古言の訓詁や釈義の枠を、思い切って破った。古言のうちに、ただ古意を判読するだけでは足りない。古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬと考えた。それは出来る事だ。「万葉」に現れた「言霊」という古言に含まれた、「言霊」の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかりと合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである。……

 

「言霊」の働きについては、それこそこれから「古事記伝」に即してさらに精しく看取していくことになるが、ひとまずここに、第四十九章から引いておく。

―彼(宣長/池田注記)の考えからすれば、上古の人々の生活は、自然のふところに抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状アルカタチ」を見究めようとした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きを俟たなければ、出来ない事であった。……

 

(第三十回 了)