小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

杉本 圭司

ところがまた、ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオは、ソクラテスが語った「不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子」を響かせただけではなかった。作曲家の死後三年、この調べに震撼し、異常な動揺と苛立ちを露わにした大文学者がいた。ゲーテです。小林秀雄は、メンデルスゾーンが伝えるそのエピソードを、「モオツァルト」の冒頭章で取り上げました。ここでは当時、彼が目を通したロマン・ロランの「ゲーテとベートーヴェン」から直接引用しましょう。

 

ひる前、私はこれまでの大作曲家達を歴史の順に従って、小一時彼に弾いて聞かせねばなりませんでした。……彼は暗い片隅に雷神ユピテルのように座っていました。そしてその老いた眼はぴかりぴかりと射るように光っていました。彼はベートーヴェンの噂を聞くのを好みませんでした。ですが私は、それはどうにも仕様のないことだと彼に言いました。そして、ハ短調交響曲の第一樂章を弾いて聞かせました。それは彼を異常に動揺させました。彼は先ずこう言いました。「この曲は一向に感動させはしない。ただ驚かすだけだ。実に大仰な曲だ!」 彼はしばらくの間、ぶつぶつ口の中で呟いていました。それから、長い沈黙ののちに、再び口を開いてから言いました。「大変なものだ。まったく気ちがいじみたものだ! まるで家が崩れそうだ…… もし今、皆が一緒に演奏したらどうだろう!」 それから食卓についた時もまた、ほかの会話の間にぶつぶつ呟きはじめました……(新庄嘉章訳)

 

後に「ゴッホの手紙」で回想されたように、「モオツァルト」執筆の直接の動機は、小林秀雄が四十歳に達した昭和十七年五月のある朝のこと、青山二郎の疎開先で聞いたK.593のニ長調弦楽クインテットの感動にありました。ここに引用した新庄嘉章の翻訳による「ゲーテとベートーヴェン」は、その翌月に刊行されたものです(二見書房)。当時、「モオツァルト」をどう書き出そうかと思いあぐねていた小林秀雄のもとに、この新刊の「興味ある研究」が届き、「そこに集められた豊富な文献から、いろいろと空想をする」(「モオツァルト」)なかで、このメンデルスゾーンの回想に最初の糸口を見出したと想像してみるのは興味深いことです。さらに言えば、「モオツァルト」の劈頭に置かれたゲーテのあのエピソード―モーツァルトの音楽とは、人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だという、一八二九年十二月六日のエッカーマンとの対話は、その翌年、同じ文学者をからかったベートーヴェンというもう一人の「悪魔」に導かれて小林秀雄が取り上げたものとも考えられるのです。

順序は逆だったのかもしれない。「モオツァルト」という音楽論は、その執筆構想の順からいえば、第一段落の「エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである」から書き出されたのではなく、第三段落の「トルストイは、ベエトオヴェンのクロイツェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言う」から開始されたのかもしれない。そして第二段落に描かれた、「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」という画は、「ベートーヴェンのハ短調シンフォニーに悪魔の罠を感じて心乱れた異様な老人」の倒影であったのかもしれません。メンデルスゾーンの回想を紹介するにあたって、ロマン・ロランもまた、「この場面は、老人の不安を、また、六十年後『クロイツェル・ソナタ』によって老トルストイを驚倒せしめたあの野蛮な共を彼が怒りっぽい身振りで押しやってこれを閉じ籠めようとした努力をわれわれに見せている」(傍点筆者)と前置きしています。

もっともこの一八三〇年の「ゲーテとベートーヴェン」を紹介するにあたって、小林秀雄は「Goethe et Beethoven」という原題を付していますから、彼は昭和十七年六月刊行の翻訳書ではなく、ロランの原書にあたっていたのかもしれません。またそもそも、四年の歳月をかけて書き下ろされ、かつ戦前に書かれた草稿は破棄して戦後新たに稿を起こした(吉田凞生)とも言われるこの作品の執筆経緯を辿ることは不可能です。ただここで言えることは、「モオツァルト」という作品の書き出しは、あるいは「ベエトオヴェン」として書き出されたのではないかと読者に錯覚させるほど、あのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べが濃厚に立ち籠めているということ、しかもその調べにゲーテが聞き分けた(と小林秀雄が想像した)のは、「不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子」ではなく、ゲーテが嫌悪した浪漫主義芸術の「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」であり、同時にまた、それは老ゲーテの内に眠っていた「Sturm und Drangの亡霊」でもあったということ、そして何より、小林秀雄自身は、その「異常な自己主張」の調べを「壮年期のベートーヴェンの音楽」と位置づけ、この作曲家は、とはっきり書いていたということです。

しかし結論を急ぎすぎたようです。「モオツァルト」の冒頭段落をまずは読んでみましょう。

 

エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。ゲエテは決して冗談を言う積りではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」―一八二九年)

 

すでにお話ししたように、このゲーテの言葉は「ゲーテとの対話」の一八二九年十二月六日の項に記されているものです。ゲーテは八十歳、この日のエッカーマンの記録は、執筆中の「ファウスト」第二部第二幕第一場をゲーテがエッカーマンに読んできかせるところからはじまります。

場面はファウストの書斎―この大戯曲の幕開けでメフィストフェレスが一匹のむく犬として忍び込み、ファウストと契約を結んで彼を外の世界へと連れ出す、あの「高い丸天井をもつゴシック風の狭い部屋」に、ファウストとメフィストフェレスがふたたび舞い戻る場面です。戯曲の中では、二人がその部屋を飛び出したのは二、三年前のことですが、ゲーテが初稿「ファウスト」を書き上げたのは二十代の半ば頃、すでに半世紀以上の歳月が経っていました。書斎の一切のものは昔と変わらずそこにあるが、メフィストフェレスがファウストの着古した書斎着を掛釘から外すと、無数の紙魚や虫けらがぱたぱたと飛び立ちます。そこに、かつてその書斎に登場した学士が現れる。彼は、以前は臆病な若い学生で、ファウストの上着を着たメフィストフェレスにからかわれたものだが、その男もいつのまにか大人になり、ひどく高慢な学士となって、さすがのメフィストフェレスももてあまし、たじたじと椅子ごと後退って、ついには平土間の方へと向き直ってしまう

この場面をゲーテが朗読した後、エッカーマンは、ここに登場する学士の役柄について尋ねます。するとゲーテは、あれは若い者に特有の自惚れを擬人化したものだと答える。そして、「若いときには、だれにしても、世界は自分とともに始まり、一切はそもそも自分のために存在するのだ、と思いこみがちのものだ」と言い、「ファウスト」をめぐってエッカーマンと語り合うのですが、その後ゲーテはしばらくの間黙考し、やがて次のように語り出すのです。

 

「年をとると、」と彼はいった、「若いころとはちがったふうに世の中のことを考えるようになるものだ。そこで私は、デーモンというものは、人間をからかったり馬鹿にしたりするために、誰もが努力目標にするほど魅力に富んでいてしかも誰にも到達できないほど偉大な人物を時たま作ってみせるのだ、という風に考えざるをえないのだよ。こうして、デーモンは、思想も行為も同じように完壁なラファエロをつくりあげた。少数のすぐれた後継者たちが彼に接近はしたが、彼に追いついた者は一人もなかった。同様に、音楽における到達不可能なものとして、モーツァルトをつくりあげた。文学においては、シェークスピアがそれだ。君はシェークスピアには反対するかもしれないと思うが、私はただ天分について、偉大な生得の天性について、言っているのだよ。ナポレオンも到達不可能な存在だ。」(山下肇訳、以下同)

 

小林秀雄は、「ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていた」と書いていましたが、ゲーテが「一風変った考え方をしていた」のは、モーツァルトについてだけではありませんでした。「ゲーテとの対話」を通読すればわかるように、ここに挙げられた四人はしばしば連名で語られる人物で、ゲーテにとって「偉大な生得の天性」の異名であり、「到達不可能な存在」の代名詞のようなものでした。ゲーテ自身、彼らのような優れた才能が世に存在したという事実を今くらいはっきりと思い知っていれば、自分は一行も書かずに何か他の仕事をしていただろうという意味のことを何度か語っています。

しかしこれは、偉大な天分に対する自身の才能への嘆きでも謙遜でもありませんでした。「年をとると、若いころとはちがったふうに世の中のことを考えるようになる」とは、単に自惚れがなくなるという意味ではない。「到達不可能な存在」というその事実そのものについて、「若いころとはちがったふうに」考えるようになるということなのです。晩年のゲーテにとって、真に「到達不可能」と思われたのは、実はラファエロでもモーツァルトでもシェークスピアでもナポレオンでもなかった。それら偉大な人物たちを作ってみせながら、人間どもをからかい、馬鹿にするかに見える「デーモン」の存在であった。そしてゲーテは、その「デーモン」の存在について、確かに「冗談を言う積り」ではありませんでした。

第二段落、「モオツァルト」は次のように続きます。

 

ここで、美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人を想像してみるのは悪くあるまい。この意見は全く音楽美学という様なものではないのだから。それに、「ファウスト」の第二部を苦吟していたこの八十歳の大自意識家が、どんな悩みを、人知れず抱いていたか知れたものではあるまい。

 

「悪魔の罠」とは、「デーモンの罠」のことである。そしてここで誤解してはならないのは、ゲーテが語った「デーモン(Dämon)」あるいは「デモーニッシュ(dämonisch)」とは、キリスト教における「悪魔」―神に敵対する存在としての「サタン」(英語のDevil、ドイツ語ではTeufel)のことではないということです。それはキリスト教の文脈に支配される以前の、古代ギリシアの人々が信じていた霊的存在としての「悪魔」―ソクラテスにつきまとい、常に「禁止の声」を囁き続けたというあの「ダイモーン(Daimon)」に近い存在としてゲーテが名指したものでした。しかもソクラテスの「ダイモーン」は、常にソクラテスの味方であったが、ゲーテの「デーモン」は、敵や味方に分類できるようなものではありませんでした。ゲーテの考えでは、それは人間の悟性や理性では計り知ることのできない、現世の力の一切を超越した力であり、人間を思うままにひきまわし、自発的に行動していると見せながら、実は知らず識らずのうちにそれに身を捧げているような、偉大な生産力にしておそるべき破壊力でもあった。そしてその力は、とりわけ優れた人物の上に強く現れると言い、その代表が、ラファエロでありモーツァルトでありシェークスピアでありナポレオンであったのです。

したがって、ゲーテの言う「デーモン」がからかったのは、モーツァルトの音楽を真似ようとした作曲家たちだけではありませんでした。モーツァルトその人も、「デーモン」に我知らず身を捧げた人間の一人であり、そして遂には「デーモン」によって滅ぼされた存在であった。前述の対話の前の年、一八二八年三月十一日の「ゲーテとの対話」では、「デーモン」がこの世にもたらす「最高級の生産力、あらゆる偉大な創意、あらゆる発明、実を結び成果を上げるあらゆる偉大な思想」について存分に語られ、そこにも同じくモーツァルトが、ラファエロが、シェークスピアが、ナポレオンが登場するのですが、その最後の最後で、ゲーテはエッカーマンに次のように語り、「デーモン」の話題を締め括るのです。

 

「だが、君は、私の考えていることがわかるかね? ―人間というものは、ふたたび無に帰するよりほかないのさ! ―並みはずれた人間なら誰でも、使命をにない、その遂行を天職としているのだ。彼はそれを遂行してしまうと、もはやその姿のままでこの地上にいる必要はないわけだよ。そして、彼は神の摂理によって、ふたたび別のことに使われる。しかし、この地上では、何事も自然の運行のとおりに起るから、悪魔ども(die Dämonen ※筆者注)がひっきりなしに彼の足を引っぱり、ついには彼を倒してしまう。ナポレオンやそのほか多くの人々もそうだった。モーツァルトが死んだのは三十六歳、ラファエロもほぼ同じ年齢だったし、バイロンだってほんの少し長生きしただけだ。しかし、みんな自分の使命をきわめて完璧に果し、逝くべき時に逝ったといえよう。それはこの永続きすると予定されている世界で、ほかの人たちにもなすべき仕事を残しておくためなのだよ。」

 

晩年のゲーテの運命観、宿命観の最重要部を成すこの「デーモン」は、「ゲーテとの対話」の中に数え切れないくらい登場します。しかしゲーテにとっても、それは明確に定義できるような存在ではなかったようで、エッカーマンへの説明はときに曖昧、ときに相矛盾するものでもありました。ただ、亡くなる前年に完成させ、死後出版された自叙伝「詩と真実」の最終章で、ゲーテは、少なくともそれがについては、はっきりと定義し、この世を去りました。そのくだりを読んでみます。

 

読者は、この自伝的叙述を読みすすむにつれて、子供が、少年が、青年が、さまざまな道をたどって、超感覚的なものに近づこうと努めた様子を子細に見られた。彼は、最初は心ひかれるままに自然宗教に目を向け、ついで愛をもってヘルンフート派に固く結ばれ、さらに自己に沈潜することによって自分の力を試し、そしてついに一般的な信仰に喜んで身を捧げたのである。彼はこれらの領域の間隙を、あちらこちらさまよい歩き、求め、たずねまわっているうちに、それらのいずれにも属していないように思える多くのものに出会った。そして彼はしだいに、恐ろしいものや不可知なものについての思考は避けたほうがよい、ということを悟ったように思った。彼は自然のうちに、生命あるもののうちにも生命なきもののうちにも、魂あるもののうちにも魂なきもののうちにも、矛盾のうちにのみ現れ、それゆえに、いかなる概念によっても、ましてや、いかなる言葉によっても、とらえることのできないものが見出されると思った。それは神的なものではなかった。それは非理性的であるように思えたからである。それは人間的ではなかった。それは悟性をもたなかったからである。それは悪魔的(teuflisch ※著者注)ではなかった。それは善意をもっていたからである。それは天使的ではなかった。それはしばしば悪意の喜びを気づかせたからである。それは偶然に似ていた。それはなんらの連続をも示していなかったからである。それは摂理に似ていた。それは因果関係を暗示していたからである。われわれを局限づけているいっさいのものを、それは貫き通すことができるように思えた。それは、われわれの存在を構成しているさまざまな必然的要因を、思うままにあやつるように思えた。それは時間を収縮し、空間を拡大した。それは不可能なもののみを喜び、可能なものは嫌悪の念をもって自分から遠ざけるように思えた。他のあらゆるもののあいだに入りこみ、それらを分離し、それらを結合するように思えるこの存在を、私は、古代人の例にならって、また、私のそれと似たようなことを認めた人たちの例にならって魔神的デモーニッシュ(dämonisch ※筆者注)と名づけた。私は、私の従来のやり方に従って、形象の背後にのがれることによって、この恐ろしい存在から自分を教い出そうと努めた。(山崎章甫訳)

 

小林秀雄が「モオツァルト」を書き始めたとき、彼もまたモーツァルトの音楽の「到達不可能」という問題に衝突し、「心乱れた」に違いありません。小林秀雄にとって、モーツァルトの「到達不可能」とは、モーツァルトの音楽を模倣することの不可能ではなく、モーツァルトの音楽を言語化することの不可能であったが、その「到達不可能」の恐ろしくも苦しい認識が、彼にモーツァルトについて書かせた最大の動機であったとも言えるでしょう。いや確かに、彼自身、そう回想しております(「酔漢」)。デーモンにからかわれ、「一人として成功しなかった」のは、モーツァルトの後に続こうとした作曲家たちだけではなかったのです。それはモーツァルト論を企図したあらゆる学者たち、哲学者たち、作家たち、そして批評家たちでもあった。美しいモーツァルトの音楽を聞く毎に、デーモンの罠を感じて、心乱れたの大自意識家―ところが、この第二段落が終わったところで、「モオツァルト」という作品は、突如「ベエトオヴェン」へと転調するのです。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。