「わからぬもの」との邂逅

大江 公樹

昨年の四月から半年間、都内の大学で非常勤講師として週に一度、文学作品を読む講義を担当することになつた。短編小説一編を教材にして、とのことであつたため、自分が研究してゐる作家D・H・ロレンスが書いた「薔薇園の影」といふ作品を扱ふことにした。大学院で英文学を専攻する自分にとつて、文学講義が出来ることは、普段からの学びを活かせるため嬉しい。その一方で、講義が上手く行くかどうかは心許無かつた。講義は一つの短編を読むのに、半年を費やす。一方で受講する学生たちは皆、効率ばかりを追ひ求める時代に生きてゐる。地道に精読をする講義に面白さを見出すとは思へなかつた。加へて、講義はコロナ禍を受けてリモートで行はなければならず、学生たちに面と向かつて訴へかけることも出来ない。私の目には、講義に退屈して学生が一人、また一人と減つてゆく(このご時世の場合、教室に見える顔ではなく、教師のパソコンに表示される学生の名前が減つてゆく)様が、ありありと浮かんできた。

どうすれば学生たちが精読に興味を持つてくれるだらうか。思案の末に私は、十五回講義をやるうちの最初の一、二回は「薔薇園の影」の精読へと入らないことにした。そしてその一、二回で本をじつくり読むといふことについて考へる講義をしてみようと考へた。講義の構想を練つてゐる最中、ふと小林秀雄先生の「美を求める心」がヒントになるかもしれないと思ひ、『小林秀雄全作品』(新潮社刊)を開いてみた。

「美を求める心」は、小林先生が最近若い人たちからよく質問を受けるといふ話から始まる。その質問とは、「近頃の繪や音樂は難しくてよく判らぬ、あゝいふものが解るやうになるには、どういふ勉强をしたらいゝか、どういふ本を讀んだらいゝか」といふものである。それに対する自分の答へはいつも決まつて「何も考へずに、澤山見たり聽いたりする事が第一だ」と先生は書く。そしてこの「見たり聽いたりする事」について小林先生は次のやうに述べてゐる。

 

見るとか聽くとかいふ事を、簡單に考へてはいけない。……(中略)……頭で考へる事は難かしいかも知れないし、考へるのには努力が要るが、見たり聽いたりすることに、何の努力が要らうか。そんなふうに、考へがちなものですが、それは間違ひです。見ることも聽くことも、考へることと同じやうに、難かしい、努力を要する仕事なのです。

 

ここで先生が話題にしてゐるのは、音楽や絵画のことである。しかし引用の最後にある「努力を要する仕事」といふのは、小説を読むことにも当てはまるのではないか。小説を読む時に、筋だけを追ふやうに読んでゆけば、あまり労を要さない。私が講義で扱ふ「薔薇園の影」も筋のみを辿れば、結婚したばかりの男女がとある事件をきつかけとして、互ひの間に大きな断絶があることを悟る、といふだけの物語である。しかし丁寧に読んでゆけば、平穏な場面に見え隠れしてゐる後々の断絶の萌芽や、台詞の裏に潜む登場人物自身も気が付いてゐない意識が浮かび上がつてくる。この読みこそが小説を読む上での「努力を要する仕事」であらう。まづはこの努力を学生に知つて貰いたい。そのためにはどうすれば良いのだらうか。

「美を求める心」には小林先生がロンドンのダンヒルの店で買つた、「なんの特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をした」ライターの話が出て来る。これまで小林先生の家に来た来客が何人もそれで火をつけてきたが、誰一人としてそれをよく見て、美しいと言つた人はゐない。小林先生はかう呼びかける。「諸君は試みに默つてライターの形を一分間眺めて見るといい。一分間にどれ程澤山なものが眼に見えて來るかに驚くでせう」。池田雅延塾頭は講座でこのあたりの解説をする際、受講者に財布から十円玉を取り出させ、それを各々が一分間見つめるやうにする。眺め続けると受講者は、それまで何とも思つてこなかつた十円玉に、新たな一面を発見するのである。私は池田塾頭のひそみに倣ひ、学生に同じことをやつて貰はうと思つた。さうすれば、じつくり見つめることで見えてくるものがあるといふことを実感できる。そして同じ様に本を読んで貰へば良いのである。

このやうにして、だんだんと授業の道筋がついてきた時、私はあることに気がついた。それは「わかること」についての考へ方が、ロレンスと小林先生とで似てゐるといふことである。「美を求める心」で小林先生は、わかることとは何かを探究してゐる。しかしその探究の前提には、逆説的であるが、対象を安易に「わかる」ことへの強い警戒がある。例へば小林先生は以下のやうに書いてゐる。

 

……諸君が野原を歩いてゐて一輪の美しい花の咲いてゐるのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思つた瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでせう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花といふ言葉が、諸君の心のうちに這入つて來れば、諸君は、もう眼を閉ぢるのです。

 

花を見て、それを「菫の花」といふ名前で以て「わかつた」時、我々はそれ以上眼の前の花に何も見出さなくなつてしまふ。花の形も色も、「菫の花」といふ一言で片づけられる。「菫の花」と「わかる」ことは、自分から菫の花を遠ざけることだと先生は考へる。

一方でロレンスは書物について『黙示録論』の中で、以下のやうに論じてゐる。

 

ところで、書物はうちに究めつくせぬものを藏してゐる間は、かならず生き續けるものである。ひとたび測りつくされるや、ただちに生命を失ふ。(福田恆存訳)

 

書物は物であるから、それが「生き續ける」、「生命を失ふ」と言はれても、すぐには腑に落ちないかもしれない。しかし、それを人に置き換へてみればたちどころに了解できる筈である。批評家松原正の言葉を引きたい。

 

だが、二人の人間がどんなに烈しく愛し合つてゐても、二人の肉體は二つの獨立した有機體であり續けて、二つの肉體が一つになる事は決して無い。だが、肉體が獨立してゐるといふ事は他者の心中を完全には讀み取れないといふ事である。そこで人は何とかして他者の心中を知らうとする。理解せずには愛せないと思ふからである。そして、さうして他者を知らうと努めるうちに、やがて吾々は完全に知り盡したとて高を括るやうになる。他者を知り盡したと思ひ込んで、吾々は他者を物體として扱ふ事になる。或る女について知り盡し、もはや謎は何も無いと思へば、例へば「あいつは要するに單純な女でね」などと吾々は言ふ。

 

ある人間を「要するに」といふ言葉で括る時、我々の理解の中で相手は、周りからの言動に対して一定の反応を返すだけの、まるで機械のやうな存在になる。同じことが書物にも言へる。ある書物を「測りつくした」と思ふ時、その書物は我々の読みに対して固定化された意味のみを与へる存在になる。書物は読み手の理解とは異なる意味を提示する可能性、即ち「生命」を失ふのである。この時我々は喩へば、蒸気機関車を静止させた状態で切り取つた写真を見て蒸気機関車とは何たるかを理解したつもりになる人間のやうに、何か根本的な誤解をしてゐるであらう。以上の事情は対象が美しい菫の花でも同じ筈だ。小林先生もロレンスも(そして松原も)論じる対象は違へど、ある対象について「わかつた」と思ふ時、対象は生命を失ひ我々は根本的な誤解をすることになるのだ、といふことを明らかにしてゐるのである。

その一方で小林先生もロレンスも、対象について「わからない」と思ふことには、肯定的な意味を与へてゐる。ロレンスは先に見たやうに、書物は「究めつくせぬものを藏してゐる間」は「生き續ける」と述べる。小林先生も「美を求める心」の中で「歌や詩は、ものなのか。さうです。ものなのです」と断じてゐる。「わからぬ」と思つてゐる時、我々の前にはそれ以上に「わかる」道が開けてゐるのである。私は「わからぬもの」を尊重する小林先生とロレンスの共通点を面白く思ふと同時に、その相似もまた学生が本を読む上でのヒントになるだらうと考へた。

以上考へたことを、第一、二回目の講義で話したが、多くの学生が面白がつてくれたやうであつた。十円玉を一分間見るといふ試みについては、見慣れたものでも見つめ直すと発見があることがわかつた、と言ふ学生が何人もゐた。小林先生、ロレンス、松原を引用して「わかる」とは何だらうかといふ話をした後は、「今までわからないことがあるのはよくないことだと思つてゐたが、わからないことはわからないままに頭に置いておき、わからなくてもわかる努力をすれば良いのだと知ることができた」といふ優れた感想を授業後に貰ひ、嬉しかつた。今の世の中では概して「わかる」ことがもてはやされる。しかし、「わからぬ」ことは良いことであり、むしろ対象への敬意の表れでさへある、といふことを小林先生、ロレンス、そして松原の文章は我々に教へてくれるのだと、私は感想を読みながら思つた。

本を読むことに興味を持つてくれたのか、当初の予想に反して殆どの学生がその後の講義にも残り続けた。学期末にはわからないことと向き合つたと判るレポートを、何枚も読んだ。今時の学生も案外わからぬものかもしれないと私は思つた。

(了)