小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

杉本 圭司

トルストイは、ベエトオヴェンのクロイツェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言う。トルストイは、やがて「クロイツェル・ソナタ」を書いて、この奇怪な音楽家に徹底した復讐を行ったが、ゲエテは、ベエトオヴェンに関して、とうとう頑固な沈黙を守り通した。有名になって逸話なみに扱われるのは、ちと気味の悪すぎる話である。底の知れない穴が、ポッカリと口を開けていて、そこから天才の独断と想像力とが覗いている。

 

もし小林秀雄が「ベエトオヴェン」を「モオツァルト」流に書いたとしたら、彼はここから書き出したに違いない。というのは、「モオツァルト」劈頭で提示された「悪魔が発明した音楽」を、ベートーヴェンに置き換えてみればこうなるという意味だが、この「モオツァルト」第二段楽から第三段落にかけての、モーツァルトという「悪魔の罠」がベートーヴェンという「悪魔の罠」にすり替わるかのような転調(いや、移調というべきか)は実に巧妙です。それこそ「悪魔の罠」と呼びたいほどだ。二つの「悪魔」は、共に晩年のゲーテの心を乱したそれであったという点で相通じているが、「悪魔」の意味合いは決定的に異なっていた、あるいは、「悪魔」が発明したその音楽の意味合いが決定的に異なっていた、そこが巧妙なのです。

続いて小林秀雄は、「ベエトオヴェンの音楽に対するゲエテの無理解或は無関心」についてのロマン・ロランの「意外なほど凡庸な結論」を一蹴した上で、「Goethe et Beethoven」に引用された一八三〇年のゲーテの「異常な昂奮」を再現します。それはすでに紹介しました。そして彼は、メンデルスゾーンがゲーテに弾いて聞かせた第五シンフォニーの第一楽章に対して、ゲーテが不快を表明したことよりも、その後、この老作家が何やら口の中でぶつぶつと自問自答していた事のほうが大事だったのであると言い、次のように語ります。もう一つの「悪魔」は、ここにさりげなく登場します。

 

今はもう死に切ったと信じたSturm und Drangの亡霊が、又々新しい意匠を凝して蘇り、抗し難い魅惑で現れて来るのを、彼は見なかったであろうか。大袈裟な音楽、無論、そんな呪文で悪魔は消えはしなかった。何はともあれ、これは他人事ではなかったからである。震駭したのはゲーテという不安な魂であって、彼の耳でもなければ頭でもない。(略)恐らくゲエテは何も彼も感じ取ったのである。少くとも、ベエトオヴェンの和声的器楽の斬新で強烈な展開に熱狂し喝采していたベルリンの聴衆の耳より、遥かに深いものを聞き分けていた様に思える。妙な言い方をする様だが、聞いてはいけないものまで聞いて了った様に思える。

 

ゲーテのエピソードを紹介するにあたって、ロマン・ロランもまた、「この場面は、老人の不安を、また、六十年後『クロイツェル・ソナタ』によって老トルストイを驚倒せしめたあの野蛮な悪魔共を彼が怒りっぽい身振りで押しやってこれを閉じ籠めようとした努力をわれわれに見せている」と前置きしていることはすでに述べました。小林秀雄がここに忍び込ませた「悪魔」は、そのロランの「悪魔共」にいざなわれて現れたものであったことは間違いないでしょう。ちなみにロランが書いた「悪魔共」の「悪魔」の語も、「サタン」の意味の「diable」ではなく、ゲーテの「デーモン」と同じ「démon」が使われています。

しかし小林秀雄が「モオツァルト」第六段落に登場させたこの「悪魔」は、ベートーヴェンの第五シンフォニーという「誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった」音楽を発明することによってゲーテをからかったわけではありませんでした。もう一つの「悪魔」は、かつて「Sturm und Drang」の文学運動の嵐の中で若きゲーテを駆り立て、しかし今はもう死に切ったと自ら信じながら未だこの作家の内部に棲み続けた或る存在を覚醒めさせ、自覚させるものとして現れるのです。それはすなわち、ゲーテ自身の「不安な魂」を映し出す鏡なのであり、第五シンフォニーは、ゲーテを外部からからかう音楽としてよりも、むしろゲーテその人の音楽として聞かれている。小林秀雄はゲーテの「異常な昂奮」をそう解した。もしもこのとき「悪魔」がゲーテをからかったとすれば、その所以は、メンデルスゾーンがゲーテの目の前で弾いて聞かせた音楽が、他ならぬであったというところにあったはずだ。「これは他人事ではなかった」とはそういう意味でしょう。そしてそのゲーテに、小林秀雄がニーチェとのアナロジーを見るというのも、この哲学者にとって、ワーグナーの音楽とは、ニーチェ自身の「不安な魂」を映し出す鏡としての「悪魔」でもあったからです。

 

ワグネルの「無限旋律」に慄然としたニイチェが、発狂の前年、「ニイチェ対ワグネル」を書いて最後の自虐の機会を捉えたのは周知の事だが、それとゲエテの場合との間には、何か深いアナロジイがある様に思えてならぬ。それに、「ファウスト」の完成を、自分に納得させる為に、八重の封印の必要を感じていたゲエテが、発狂の前年になかったと誰が言えようか。二人とも鑑賞家の限度を超えて聞いた。もはや音楽なぞ鳴ってはいなかった。めいめいがわれとわが心に問い、苛立ったのであった。

 

「ニーチェ対ワーグナー」は、なぜニーチェにとって「自虐」なのか。それは、ニーチェが批判し、呪詛し、葬り去ろうとした音楽が、ニーチェその人の音楽でもあったからです。続けて小林秀雄は、ニーチェはワーグナーのうちに「ワグネリアンの頽廃」を聞き分けたと書いているが、「ワグネリアン」とは誰よりも、かつてこの作曲家に心酔した若きニーチェのことであり、その「頽廃」はまた、ニーチェ自身の内部に巣食っていたものでもありました。ニーチェは、「私もワーグナーと同様この時代の子である、言ってよいなら、デカダンである」とはっきり書いています(「ワーグナーの場合」)。その自らの内なる「ワーグナー的傾向」に対して、この哲学者ははげしく抗い、その脱出を試み、これを超克しようとした。しかもそれを執拗に何度も繰り返し行った。その最後の抵抗、すなわち「最後の自虐の機会」が、「ニーチェ対ワーグナー」でありました。ニーチェが発狂したのは、その原稿が脱稿した翌月です。

一方、ゲーテがベートーヴェンの第五シンフォニーに聞き分けたもの―当時のベルリンの聴衆が聞き分けたものより「遥かに深いもの」、「聞いてはいけないもの」とは何であったのか。それを小林秀雄は、「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」ではなかったかと示唆します。「人間的な余りに人間的」とは、ニーチェの「の自虐」の書のタイトルです。その続篇を一冊にして刊行するにあたり、ニーチェはこの著述を「ひとつの精神治療」、すなわち「ロマン主義の最も危険な形式の一時的な罹患に抵抗する私の常に健康な本能が自ら工夫し、自ら処方したところの自己療法」(中島義生訳/以下同)であると書いている。このときニーチェが断行したのは、「一切のロマン主義的な音楽を徹底的に、根本的に自分に禁じたこと」であった。それは「精神の厳しさと愉しさを奪い、あらゆる種類の不明瞭な憧憬とふわふわした欲望をはびこらせる、この曖昧で、ほら吹きで、うっとうしい芸術をこと」であった。すなわちリヒャルト・ワーグナーという「腐朽した、絶望的なロマン主義者」に訣別することでありました。そしてゲーテという文学者もまた、ニーチェ同様「ロマン主義」というものを疑い、これを危険視し、批判した人であったのです。

その「ニーチェ対ワーグナー」と「ゲーテ対ベートーヴェン」との間に、小林秀雄はアナロジーを見出した。ということは、ゲーテが第五シンフォニーに聞き分けたと彼が示唆する「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」とは、一言で言えば、ベートーヴェンの音楽が内に孕む「ロマン主義」であったということになるはずです。それは彼自身、これに続けて、「ベエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽家達のどの様な花園を予感したか想像に難くない」と付け加えているとおりです。さらに言えば、アナロジーは、ニーチェが嫌悪した「ロマン主義」とゲーテが批判した「ロマン主義」との間にもあったはずだ。少なくともそこに、ニーチェのゲーテへの共感があったことは確かです。ニーチェにとって、ゲーテは「私が畏敬をはらう最後のドイツ人」(「偶像の薄明」)であり、そのゲーテがロマン主義の危険と、ロマン主義者の宿業について問うた結論は、ワーグナーの「パルジファル」―このワーグナー最後の作品が、ニーチェのこの作曲家への訣別を決定的なものにしました―にそのまま当て嵌まると、ニーチェは「ワーグナーの場合」の中で述べています。ただしそのニーチェにとって、ベートーヴェンの音楽は、決して「ロマン主義」ではなかった。それどころか、ワーグナーとベートーヴェンを引き比べるということは、ニーチェにとっては「冒涜」でさえあったということは付記しておきましょう。

ところで小林秀雄は、「ベエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽家達のどの様な花園を予感したか想像に難くない」と語りながら、その直後に、「尤も、浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題を、僕は、ここで応用する気にはなれぬ」とも書いています。第五シンフォニーを聞いたゲーテのあの「異常な昂奮」は、無論、一つの「命題」に還元して片付けてしまえるようなものではなかったでしょう。またゲーテを動揺させ、苛立たせた「悪魔」は、ゲーテ自身の内部に眠っていた「Sturm und Drangの亡霊」でもあったとするならば、このエピソードを単に「古典主義者ゲエテ」が「浪漫主義者ベエトオヴェン」を嫌ったと結論することはできなかったはずです。そのことは、その少し後に書かれた「ベエトオヴェンを嫌い又愛したゲエテ」という彼の言葉にも表れています。しかしまた、「浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題」とは如何なるものであったのかは、「」を読み解く上で、ぜひとも知っておかなければなりません。「周知」のことではあるかもしれないが、ゲーテの言葉をいくつか拾ってみましょう。

まず、ゲーテのこの「命題」を一行で尽くせば、「クラシックは健康であり、ロマンティックは病気である」ということになります。これはゲーテの「箴言と省察」の中にある言葉だが、エッカーマンの「ゲーテとの対話」の中では、ゲーテは次のようにも語っています。

 

「私は新しい表現を思いついたのだが、」とゲーテはいった、「両者の関係を表すものとしては悪くはあるまい。私は健全なものをクラシック、病的なものをロマンティックと呼びたい。そうすると、ニーベルンゲンもホメロスもクラシックということになる。なぜなら、二つとも健康で力強いからだ。近代のたいていのものがロマンティックであるというのは、それが新しいからではなく、弱々しくて病的で虚弱だからだ。古代のものがクラシックであるのは、それが古いからではなく、力強く、新鮮で、明るく、健康だからだよ。このような性質をもとにして、古典的なものと浪漫的なものとを区別すれば、すぐその実相を明らかにできるだろう」(一八二九年四月二日 山下肇訳/以下同)

 

これはゲーテが七十九歳の時の言葉です。ちなみに「ロマン主義的な音楽」について語る四十一歳のニーチェの言葉を続けて読んでみましょう。

 

こういう音楽は、われわれの気力をそぎ、柔弱にし、女々しくする。その「永遠の女性」がかれらをひきずり―おとすのだ! ……当時私の最初の猜疑、私の最も身近な用心は、ロマン主義的な音楽に対して向けられた。そして、私がおよそなお音楽について何らかの希望を持ったとすれば、それは、ああいう音楽に対して不滅の仕方でことのできる、大胆で、繊細で、意地悪く、南方的で、あふれるばかりに健康な一人の音楽家が現われてほしいという期待であった―(「人間的、あまりに人間的」序文)

 

「『永遠の女性』がかれらをひきずり―おとすのだ!」という表現は、「ファウスト」第二部終結部の「神秘な合唱」で歌われる「永遠の女性がわれらを高きへ導く」をもじったもので、ロマン主義的な音楽の力は、ニーチェが畏敬するとは真逆の方向に働くことを言ったものです。やがてニーチェは、ビゼーの「カルメン」という「南方的で、あふれるばかりに健康な」音楽によってワーグナーに「復讐」を果たすことになるのですが、ということはまた、ニーチェにとっての「クラシック」とは「カルメン」であったということにもなるのだが、それはさておき、今はゲーテの言った「ロマンティック」と、ニーチェが禁じた「ロマン主義的な音楽」との間にあるアナロジーを感じてもらえればよいのです。

さてゲーテは、「クラシック」は「力強く、新鮮で、明るく、健康」で、「ロマンティック」は「弱々しくて、病的で、虚弱」だと言うのだが、問題は、ゲーテのいう「健康」とは何か、「病的」とは何かということです。しかしそれについては、ゲーテはこの日の対話では何も語りませんでした。一方、ニーチェが「ロマン主義」の何を「病的」としたかについては(ニーチェは「ワーグナーとは一つの病気である」と明言しています)、「人間的、あまりに人間的」以降幾度も語り続けました。それを一言で言うなら、「デカダンス」ということになる。その衰退の特徴とは、「貧困化した生」であり、「終末への意思」であり、「大きな疲労」であった。音楽的には、それはリズムの衰退と明確なカデンツを回避するワーグナーのいわゆる「無限旋律」として現れた。そしてその「デカダンス」は、「残忍なもの」「技巧的なもの」「無邪気(白痴的)なもの」をもっとも必要とする「近代性」そのものの表現であると、ニーチェは考えるのです。

次に、「ゲーテとの対話」からもう一つ読んでみましょう。これもゲーテの「周知の命題」といっていいものだ。

 

「君に打ち明けておきたいことがある。君もいずれこれからの人生でいろいろと思いあたるふしがあるにちがいないが、後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している。現代はどう見ても後退の時代だ。というのも、現代は主観的だからさ。このことは、文学だけではなく、絵画やほかの分野においても見られるものだ。それに対して、有意義な努力というものは、すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう。そういう時代は、現実に努力と前進をつづけて、すべて客観的な性格をそなえていたのだよ。」(一八二六年一月二九日)

 

この話題をエッカーマンに切り出す前、ゲーテは、その前の日にヴォルフというハンブルクの即興詩人がゲーテのもとを訪れたときのことを語っています。ゲーテに言わせれば、ヴォルフは素晴らしい才能の持ち主だが、「主観主義という現代病」に犯されている。それを自分は治してやりたいと思った。そこでゲーテは、この前途有望な詩人に一つの課題を与えます。「君がハンブルクへ帰るところを描いてみたまえ」と。するとヴォルフはすぐに想を練り上げ、ただちに響きのいい詩句を語り始めた。それにはゲーテも感嘆しないわけにはいかなかったが、かといって褒めるわけにもいかなかった。ヴォルフが描いたのは、「ハンブルクへの帰郷」ではなく、ある一人の息子が身内や友人の許へ帰るときの感じしかあらわれていなかったからです。それは、「メルゼブルクへの帰郷」とか「イエーナへの帰郷」とかいっても通用するものであった。しかしゲーテに言わせれば、ハンブルクというところは実に際立った特徴のある街で、詩人たるものその対象を的確に捉え、読者が自分の目で見ているのではないかと錯覚するほど生き生きと描き出してみせなければならない。そういう話をした後で、先ほど読んだ「客観的と主観的」という話がエッカーマンに打ち明けられるのです。つまりゲーテは、ひたすら自己の内面の出来事に興味が集中するような芸術傾向を「主観的」と呼び、その逆に、自己の外部に存在する美しさや偉大さに関心が向かうような傾向、ゲーテの言い方で言えば、「自己から出発して世界へ向かう」傾向を「客観的」と呼んだのでした。

そのあと、話題は「十五、六世紀の偉大な時代」へと移り、一方、最近の演劇作品に見られる「弱々しく感傷的で陰鬱」な傾向について語られます。もうお分かりでしょうが、この日ゲーテが語った「客観的と主観的」という対概念は、そのままゲーテのいう「クラシックとロマンティック」という対概念に置き換えてもよいものなのです。つまりゲーテは、古代のものが「力強く、新鮮で、明るく、健康」であるのは、それが「客観的」だからだ、一方、近代の多くのものが「弱々しくて病的で虚弱」なのは、それが「主観的」だからである、自分は前者を「クラシック」、後者を「ロマンティック」と呼びたい、とそう語ったのだと言えます。そして小林秀雄が示唆した「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」とは、ゲーテのいった「主観的」なものの「危険」を衝いた言葉なのであり、その傾向が進めば、時代は「後退と解体」に向かうとゲーテが危惧した意味で、後にニーチェが断固否定した近代の「デカダンス」へと通じるものでもあった。そうであればこそ、小林秀雄はこの哲学者の「自己療法」の書名をそこに埋め込んだのでしょう。だが誤解してはならない、それを聞き分けたのはゲーテであって、小林秀雄ではありません。

「モオツァルト」を発表した四年後、小林秀雄はこの「ロマンティック」な時代の「病気」について、あらためて筆を執りました。「表現について」という文章がそれです。これは「モオツァルト」を発表した半年後に行った講演をもとにしたもので、小林秀雄のロマン主義芸術論であり、その中心にベートーヴェンを据えているという意味で、彼が書き残した唯一のベートーヴェン論と呼んでもいいものです。そこでのロマン主義という時代に対する、そしてこの時代を音楽の世界において切り拓いたベートーヴェンという芸術家に対する彼の考えは、ゲーテが示したそれと軌を一にするものではありませんでした。

その講演の中で、小林秀雄は、ゲーテが「弱々しくて病的で虚弱」であるとしたところの時代を、「何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難しい時代」と呼びます。そして「ゲエテが早くも気付いていた『浪漫主義という病気』」に、芸術家たちはただかかったのではない、のだと語るのです。ベートーヴェンとは、言わばこの「病気」と最初に出会い、これに進んで、良心をもってかかった音楽家であった。そしてその仕事を他の追随を許さぬ驚くべき力で完成させた人であった。だがここで忘れてならぬのは―と、彼は聴衆に注意を促した上でこう付け加えます―「ベエトオヴェンは、自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であったが、自分の意志と才能との力で新しく創り出すところは、又万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱いていたという事です」。すなわちゲーテのいった「自己から出発して世界へ向かう」音楽であったというところにこそ、この音楽家を考える上で「忘れてならぬ」事実があると彼は言うのです。

小林秀雄が本当に「応用」したくなかったのは、「浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテ」という命題では実はなかった。「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」の権化としてのベートーヴェン、という自ら示唆した命題こそ、彼が自身の「ベエトオヴェン」には応用したくないものだったのです。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。