編集後記

坂口 慶樹

2022年の第1号、通巻第31号となった今号も、まずは荻野徹さんによる「巻頭劇場」からお愉しみいただきたい。いつもの四人の男女による、おしゃべりのテーマは、「おしゃべり」についてである。小林秀雄先生や宣長さんの考えを現代口語によって表現する、荻野さんが発明した、この対話劇は「古今集の歌どもを、ことごとく、今の世の俗言サトビゴトウツせる」ことを成した本居宣長の「古今集遠鏡とおかがみ」を彷彿とさせる域にある。

わけても今号では「『本居宣長』自問自答」において、「生きた言葉」が生まれる源泉まで遡行している入田丈司さんのエッセイと合わせて、両稿のマリアージュ(共鳴する味わい)の妙も含めて愉しんでいただければと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、吉田宏さん、冨部久さん、入田丈司さん、小島由紀子さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。

吉田さんが立てた自問は、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ」、そう悟るに至った、という小林秀雄先生の含意についてである。暗中模索するなか、「悟る」という言葉に目を付けた。すると、その反面として「議論」という言葉が目に入る。本文からけっして目をそらさず考え続けていくと、「みづからも歌をよむ」ことを推奨し続けた宣長の姿が目に浮かんできた……

冨部さんは、今般の自問自答にあたり、先述の「古今集遠鏡」をひも解いてみた。古言を自由奔放に現代語訳しているのかと思いきや、訳出法を仔細に記している宣長の気質に直かに触れることができた。さらに、宣長が十代後半で詠んだ歌を辿っていくと、歌と学問が、宣長のなかで共存している様が見えてきた。「古事記」註解という難行のなかでこそ、歌を詠み「遠鏡」を記した、彼の心持ちがまざまざと実感できた。

小島由紀子さんは、「伊勢物語」と「古今集」の両方に収められている在原業平ありはらのなりひらの一首に眼を付けた。そこで、契沖による「伊勢」の注釈書「勢語ぜいご臆断おくだん」と、冨部さん同様に「古今集遠鏡」の原文をひもとき、同じ歌について記されたくだりを読み込んだ。リアルな業平の姿が眼前に浮かぶところ、小島さんが、宣長の言う「そこゐなきあはれの深さ」の「そこゐなき」さまに直観したものは何か?

入田さんは、特に何かの目的があるわけではなく、ただ「心にこめがたい」という理由で人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来るという認識に、なぜ宣長は達することができたのか、という自問を立てている。自身の実体験も踏まえながら、小林先生の文章を丹念に辿っていくと、「生きた言葉」が生まれるためには、が必要であることが見えてきた……

溝口さんが長年抱き続けてきている自問は、本居宣長の言う「シルシとしての言葉」とはどういうことか、である。そこを今回は、声として発せられた言葉ということに留意して本文中の用例分析を行っている。「古事記」に身交むかう宣長のすがたも思い浮かべてみた…… そこはかとなく、文字なき時代に古人が発していた声が聞こえてくる。古言に証せられた宣長さんの喜びの肉声もまた、聞こえてきたようだ。

 

 

「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんは、さる大学の教壇に立って、Ⅾ・H・ロレンスの短編小説を精読することにした。しかし、時短や効率重視の世に生きる学生は、短編物を半年かけて精読するという講義に興味を持ってくれるのだろうか……? 活路へのヒントは、小林先生の「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)にあった。そこには「対象を安易に『わかる』ことへの強い戒め」があった。学生諸氏の反応やいかに?

 

 

新春早々の金曜夜、わけもなく音楽が、わけてもモーツァルトの曲が聴きたくなり、埼玉の演奏会場まで足を運んだ。メインの交響曲もさることながら、「フルートとハーブのための協奏曲」(ハ長調、K.299)が、とりわけ美しく印象的だった。この曲は、パリに滞在中のモーツァルトが音楽の家庭教師をしていた貴族からの依頼で、父がフルート、娘はハープを、各自がソリスト(独奏者)として演奏する趣向で作曲したものだ。その日はちょうど、世界的に活躍中のベテランの男性フルーティストと、若き女性のハープ奏者による共演であり、往時に演奏した父と娘と、その作曲家の心持ちにも思いを致しながら、ソリスト二人とオーケストラの円熟した演奏とアンサンブル、そのマリアージュの妙に感じ入ってしまった。

本誌今号のなかでも同様に、作品が共鳴し合うさまを感じ取り、味わっていただければ幸いである。

 

さて、円熟と言えば、小林秀雄先生に「還暦」という文章があり(同第24集所収)、先生は、円熟するには「忍耐」が必要で、円熟は固く肉体という地盤に根を下している、と述べ、このように続けている。

「忍耐とは、癇癪持かんしゃくもち向きの一徳目ではない。私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間というものだと言っても差支えはないなら、忍耐とは、この時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である」。

これらの言葉の含意は深い。大江公樹さんのエッセイにあるように、安易にわかったようなふりをしない方がよいのであろう。

 

ともかくも2020年が明け、「小林秀雄に学ぶ塾」の「本居宣長」精読熟読12年という宿願成就まで、ほぼ3年となった。小林先生が「時間に関する慎重な経験の仕方」と言うところの「忍耐」をさらに重ね、通巻40号へと歩む本誌も円熟という信頼をその「忍耐」に寄せていきたい。

本年は、小林秀雄先生の生誕120年の年である。

読者諸賢の無病息災をお祈りしつつ、変わらぬご指導とご鞭撻を切にお願いする。

 

 

なお、三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんの都合によってやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、三浦さんとともに心からお詫びをし、次号からまた引き続いてのご愛読をお願いします。

 

(了)