言霊ことだまが躍る「そこゐなき」ところ

小島 由紀子

ことだまが、自力で己れを摑み直すという事が起ったのである」

小林秀雄先生は、「本居宣長」第二十七章で、この言葉とともに在原ありはらの業平なりひらの歌「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを」を再び提示されている。

先に第七章や第二十六章で、契沖が、この歌には死に臨んだ人間の「まこと」が表われていると「勢語ぜいご臆断おくだん」(「伊勢物語」の註釈書)で激賞したこと、これを読んだ宣長が「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と、深い感慨を抱いたことが述べられている。

そして、第二十七章で、小林先生はもう一つ業平の歌「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」を挙げる。

この「月やあらぬ」の歌は、「古今集」の巻第十五、「恋歌五」に見え、「伊勢物語」の第四段にも出るのだが、「古今集」には長い詞書が付されていて、その「古今集」の詞書も、「伊勢物語」の第四段も、内容はほぼ同じである。業平とされる男が、政敵である藤原良房の姪にあたる高子と恋に落ちる、しかし高子は藤原氏繁栄のため清和天皇の后となるべく住まいを移され、後に業平は高子の旧宅を一人訪れる。

「伊勢物語」では次のように描かれる。

 

「又の年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり」(「伊勢物語」第四段)

 

こうして「伊勢物語」には、「古今集」にはない、「立ちて見、居て見、見れど」という描写があり、業平が荒れ果てた板敷で立ったり坐ったりしながら、かつて高子と二人で見た梅の花と月をただ一人見続ける姿が描かれている。

「古今集」の詞書と「伊勢物語」との間のこの違いと、和歌の解釈や文法については専門的な研究が膨大にあり、到底私の理解の及ぶところではないのだが、小林先生が記された、契沖の「勢語臆断」、宣長の「古今集遠鏡」という書に魅かれ、それぞれの全集を開いた。

 

「梅のさかりなるにもよほされて、せめてはそのありし所をたに行てみんと思ひ立てゆくに、よろつ有しもにず、立て見居て見なといへるその時のさま、めのまへにかげろふやうなり」(「勢語臆断」上之上 四)

 

「今夜コヽヘ来テ居テ見レバ 月ガモトノ去年ノ月デハナイカサア 月ハヤッハリ去年ノトホリノ月ヂヤ 春ノケシキガモトノ去年ノ春ノケシキデハナイカサア 春ノケシキモ梅ノ花サイタヤウスナドモ ヤッハリモトノ去年ノトホリデ ソウタイナンニモ 去年トチガウタ事ハナイニ タヾオレガ身一ッバツカリハ 去年ノマヽノ身デアリナガラ 去年逢タ人ニアハレイデ 其ノ時トハ大キニチガウタ事ワイノ サテモサテモ去年ノ春ガ戀シイ」(「古今集遠鏡」五の巻)

 

「めのまへにかげろふやうなり」という契沖の言葉に、冷たい藍色の夜空、ほのかな梅の匂い、無情に光る月が浮かび、宣長の「今夜コヽヘ……サテモサテモ去年ノ春ガ戀シイ」という言葉の音色が重なる。さまざまな思いが湧き上がり、居ても立ってもいられない業平の姿が浮かんでくる。同時に、宣長が「石上私淑事」で、「歌」について述べた言葉が蘇る。

 

「たへがたきときは、おぼえずしらず、声をさゝげて、あらかなしや……と、長くよばゝりて……其時の詞は、をのづから、ほどよくアヤありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也……自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづからアヤある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑事」巻一)

 

「そこゐなきあはれの深さ」の「そこゐなき」は、「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第二十七集(259頁)の脚注に「底知れない、限りない。『そこゐ』はきわめて深い底」とある。

業平の心の奥底から震えるように湧き続ける言葉が歌となり、また、その歌にどれほどのものが湛えられているかが一瞬かいま見えたような気がした。

 

だが、小林先生が業平の二つの歌に見ていたものは、もっとはるかに「そこゐなき」ものであった。

 

「『つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを』――叙事でも、じょじょうでもない、反省と批評とから、歌が生れている事を、端的にうけれるなら、『古今』の肉体から、その骨組が透けて見えて来るのを感じないだろうか」(「小林秀雄全作品」第27集303頁)

 

「古今集」の時代の「反省と批評」については、池田雅延塾頭が以前の講義で次のようにご教示くださったことがある。

平安初期、唐の制度や文化が重んじられたいわゆる国風暗黒時代、和歌は宮廷の公の場で詠まれるという表舞台から追いやられてしまった。だが、唐の衰退とともに、和歌は再び才学の舞台へと上がることになる。

それは、和歌が個人の日常という楽屋裏に隠れながらも、私事を詠む表現方法、思いを交わし合う手段として人々の生活の中で生き続けたからであった。そして、その原動力となった「言霊」、つまり言葉に宿る魂は、自ずと己れを省みる「反省」と、その認識に対して判断を下す「批評」を行った。この「反省と批評」の働きが、「古今集」の和歌の軸となったのだ、と。

「言霊が、自力で己れを摑み直す」という、冒頭に引いた小林先生の言葉は、まさにこの働きを言っている。

 

さらに、小林先生は、「古今集」の編纂者である紀貫之の言葉に踏み込んでいく。

 

「このような作歌の過程に、反省、批評が入り込んでくる傾向を、貫之は、『心余る』という言い方で言った。『月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして』も業平の有名な歌だが、貫之は、これをあげて『在原業平は、その心余りて、言葉足らず、しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるが如し』(仮名序)と言った……この『月やあらぬ』の歌は、やはり、『古今』で読むより、『伊勢』で読んだ方がいいように思われる。なるほどことばがきは附いているが、歌集の中に入れられると、歌は、いかにも『言葉足らず』という姿に見えるのだが、『伊勢』のうちで同じ歌に出会うと、そうは感じないのが面白い。『心余りて』物語る、その物語の姿を追った上で、歌に出会うが為であろうか。この微妙な歌物語の手法が、『源氏』で、大きく完成するのである。読者の同感が得られるであろうか。得られるなら、そういう心の用い方で、又、あの『つひに行く』の歌を見てもらってもいい。見て『言葉足らず』とは言えまいが、『心余りて』という姿には見えるだろう。作者が、歌っているというよりむしろ物語っている、と感ずるであろう」(同303-304頁)

 

小林先生は、「伊勢物語」全編を読まれ、業平とされる男が出会いと別れを繰り返し、歌を詠む、その心の内部で起こる「反省と批評」、そこから生まれた歌の三十一文字には載せ切れない、あり余る思いを読み取りながら、やはりそれらが歌に湛えられていることを観じていかれたのではないだろうか。

さらに、先生は、「心余りて」物語ることが「源氏物語」で大きく完成することと、「つひに行く」の歌について言及される。だが、今の私には到底思い及ばないことで、ただひたすら「源氏」と「伊勢」をじっくり読んでいかねばと思うばかりである。

 

それを肝に銘じて、資料を閉じようとした時、宣長が、「月やあらぬ」の歌について述べた、「おのづからふくめたる意は聞ゆる」という強い言葉が目に飛び込んできた。そして、小林先生が第二十七章に至るまでにも、またその後も繰り返し書かれる「国語」という言葉が、大海のイメージとなって浮かんできた。

 

「国語というおおきな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来た……私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達している……宣長は、其処に、『言霊』の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた」(同268頁)

 

国語という大海はどれほど「そこゐなき」ものであるかに思いを致し、そこから生まれた「万葉集」、「古今集」、「新古今集」、「古事記」、「伊勢物語」、「源氏物語」……、これらの古典が今なお溌溂たる生命力をみなぎらせている様をまのあたりにすると、何百年以上にもわたって自力で己れを摑み直し続けてきた言霊の生命力をもまざまざと思い知らされ、私自身、国語の言霊に強く支えられていることにあらためて気づかされたのである。

(了)